プルートーの胤裔

くぼう無学

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背中合わせの二人

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 わたくしと美咲は同時に顔を見合わせた。
「晦冥会の信者だなんて、そんな、違いますよ」
「そちらは?」
 この時初めて美咲に質問がされた。
「違います」
 石動は深いため息を吐いて、煙草を揉み消した。
「なるほど、わかりました。事情聴取はこれで終わりです」
 彼は背凭れに背中をつけて、冷めた珈琲に口をつけた。思いのほか美味しかったと見え、もう一口確かめるように飲んだ。
「お二人は、恋人ですか?」
 こちらを見もせず石動は訊いた。
「えーっと」
 テーブルの下で足を突かれた。
「恋人です」
 美咲は上目使いで石動を見つめていた。彼はわたくしから美咲へと視線を移した。
「そうですか。交際は、長いのですか?」
 石動は雪の窓辺に顔を向けた。明るく照らされた彼の横顔は、実によく整っていた。
「もう七年くらいになります」
 おいおい。君の二年前は太古秀勝と婚約していたじゃないか。わたくしは美咲の足を突き返した。
「へえ。ではご結婚の予定でもありそうですね」
「ええ。宗村さんとは、結婚を前提にお付き合いしています」
 鋭い目が石動をとらえていた。彼はしかしながら窓辺に顔を向けたまま、くわえた煙草に火を着けた。一体何本吸うんだ。
「ああ、そうですか。まあ僕には関係のない話ですけどね。妙な詮索をして申し訳なかった」
 何やら二人だけの世界がありそうで、わたくしは石動と美咲に目を動かした。
「石動さんは? ご結婚」
 美咲はピンと張った糸のように姿勢を崩さなかった。
「今はそんな暇はないですよ。こんな事を言ってはあれですけど、正直女性と会うくらいなら、少しでも休息が欲しい」
 スーツの足を組んで、両手で髪の毛を掻き上げた。
「警視総監殿は、お元気ですか?」
 警視総監? はて、彼女は警察と縁があるのか?
「ああ、そうか。まあ元気といえば元気ですよ。僕も最近ではあまり会わなくなったんで、廊下で見かけるだけですけどね」
「そうですか」
 美咲は冷ややかに笑った。その時、玄関からドアベルの音が聞こえ、男の声がした。
「おっと来た。これで失敬します」
 石動は煙草を消して席を立った。わたくしは彼が食堂から出て行くのを見届けてから、美咲の横顔に顔を戻した。
「まったく、結婚を前提だなんて、むちゃくちゃだよ。相手は手強そうな刑事だったぞ? 君がSТGの社員だっていずれ分かるだろうし、太古秀勝の件だって知っていてもおかしくないじゃないか」
 わたくしは冷めた珈琲を飲んだ。コピルアク豆はアラビカより一段と独特な味だった。
「大丈夫ですよ。バレたらバレたで、本当に付き合ってしまえばいいんです」
 珈琲を吹き出しそうになった。
「冗談ですよ。とにかく事情聴取の相手が石動信也では、江口サダユキの情報を聞き出すのは難しいようです」
 美咲は何もないテーブルの上に視線を落とした。事情聴取に江口の自殺の状況を探れ、という敷島の指示をわたくしはすっかり失念していた。
「石動信也って、本庁の刑事みたいだけど、君は彼の事を知っているの? 一体どんな関係なの?」
 美咲は一口珈琲を飲んで、眉間に縦皺を見せた。すぐにテーブルにあったグラニュー糖とミルクを加えてスプーンでかき混ぜた。
「気になりますか?」
「気になるよ。だって知り合いっぽいのに妙に牽制し合っていて、仲が良いようには見えなかったからさあ」
 美咲はスプーンを回す手を止めた。
「仲が悪そうに見えましたか?」
「見えたよ」
 わたくしは頭の後ろで指を組み合わせた。
「宗村さん、それは当たっています。わたしと石動信也は仲が悪いのです」
 スプーンの雫をよく切って、かちんと音を立ててソーサーに置いた。
「そうか。刑事と私立探偵というのは、そういう関係かも知れないな。日頃から捜査の邪魔をし合って、犬猿の仲ってやつ?」
「そうではありません」
 珈琲を飲む美咲の横顔を見た。
「石動信也は、わたしの兄です」
「え」
 後頭部で組んだ指を離した。
「まさか本庁の人間が所轄に来ているとは意外でした」
「ちょっと待ってくれ。どういう事だ一体? 君は椎名で彼は石動だ。第一名前が違うじゃないか?」
 わたくしはテーブルに肘を突いて上半身だけ美咲の方に向けた。
「離婚率の上昇に歯止めがかからない現代では、苗字の違う兄妹は決して珍しくないです」
 目を閉じて珈琲カップをソーサーに置いた。
「あ、そうだったの。これは無神経な質問をしてしまった。そうか、君の兄は刑事だったのか」
 美咲の口元にうっすら笑みが浮かんだ。
「それだけではありませんよ、宗村さん」
「?」
「現在の警視総監の名を御存じですか?」
「警視総監? 警視総監と言えば、警視庁のトップじゃないか。確か去年の九月に閣議で了承されて新警視総監として就任した、名前は何だったかな」
「石動新太郎」
「ああそうそう。石動警視総監……、石動?」
 慌てて美咲を見た。
「そうです。石動新太郎は石動信也の父です。と言う事は、わたしの父は警視総監という事になります」
「な!」
 わたくしは驚きの余り彼女から目を離せなくなった。
「驚きましたか? 普通驚きますよね。でも、実際は父と母は離婚していますから、母親に引き取られたわたしは、警視総監を父親と呼べるかどうか分かりません。でも、戸籍上は一応父となります」
 改めて美咲の様子を見た。背筋を伸ばして座っている彼女の姿に、サラブレッド的な血統の良さを感じた。しかしそれは同時に、骨折しやすいと言われガラスの脚とも形容された儚ささえ感じた。
「複雑な家庭だね」
 親が離婚したとは言え、先程の美咲と石動の不仲を見ると、普通の離婚とは考え難かった。
「複雑といえば複雑です。父と兄、母とわたしは二組に分かれて完全なる絶縁状態です。わたしと兄にしても、十年振りの再会でした」
 気が付くと美咲の肩は小刻みに震えていた。今にも泣き崩れそうな状態だったので、わたくしはこんな時大人の男としてどう対応したら良いものか頭を掻いて迷った。周囲を見渡してから、テーブルの上にあった彼女の左手にわたくしの手を重ねた。出過ぎた真似かと少し不安にはなったが、美咲はもう片方の右手をわたくしの手に甲に乗せてぎゅっと握った。
「すいません、宗村さん。わたし、本当は兄の事が好きだったんです。あんな事になってしまったけれど、もしかしたら、どこかで偶然ばったりと会って、お互いもう過去の事は水に流して、笑顔で話せるとそう今まで信じていたんです。でも、こんな」
 美咲は自分の右手の甲に額をつけた。長い髪の毛がわたくしの手に降り掛かった。
「気にしないで泣いていいよ。本当の恋人だったら、肩の一つでも抱いてやるもんだろうけどね」
 美咲はわあと声を出して泣いた。厨房のドアから岸本が顔を出した。何を泣かせているんだと非難めいた顔だった。わたくしは顎を振ってひっこめと睨めつけた。
 太古秀勝の件といい、石動信也の件といい、美咲は何て不幸な女性なのだろうとわたくしはぼんやりと考えていた。
「それにしたって、父親が警視総監とは恐れ入った」
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