プルートーの胤裔

ゆさひろみ

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瓦解

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「あれ? 美咲さん、まだお風呂に入ってなかったんですね」
 あずさはわたくしの胸から顔を上げた。
「ええ、お楽しみの所をごめんなさい」
 美咲は顔を背けるように、一番奥の洗い場へ歩いて行った。わたくしはあずさの両肩に手を置いて、力いっぱい押し返した。
「ちょっと、これは誤解だ。あずさが勝手に」
 美咲は洗い場のシャワーを全開にした。
「ごめんなさい? ちょっと聞こえなかったんですけど」
 あずさはお湯を割って進み、美咲に一番近い岩の上に両手を突いた。
「美咲さん、なんで水着なんて着ているんですか?」
 美咲は黙々と体を洗っていた。
「ねえ、美咲さんってば」
 ボディーソープを両手で泡立てながら、美咲は鏡の向こうで目を上げた。それはあずさを見たのではなく、彼女の背後にいるわたくしを見たのだった。わたくしはゆっくりと鏡の中からフェードアウトした。
「あなただって、水着を着ているでしょう?」
「あたしは、だって、こんな所をオーナーに見つかったら、きっと大目玉をくらうじゃないですか。だから、宗村さんとは混浴中という事で、アレンジをしたんです。美咲さんは、宗村さんとお付き合いをしているんですから、そんな水着なんて、必要ないんじゃないですか?」
 あずさは、絵本で見た人魚のように、上半身を岩の上に乗せた。前のめりの姿勢が動く度に、水着のお尻がぷるんぷるんとよく揺れた。わたくしは謹慎顔を作りながら、横目でそれを見ていた。
「わたしが温泉に入るのに水着を着ていようがいまいが、それはあなたには関係がないでしょう?」
 美咲は左腕を前に出して、ソープの泡を肌に伸ばした。
「それは、そうですけど。でも、お二人を見ていると、何だか付き合っているようには思えないんです」
 あずさは岩の上に頬杖を突いた。
「他人の恋愛にケチをつけるな」
「だあって、見ていて余所余所しいんですよ。二年前、美咲さんと太古さんが付き合っていた時は、美咲さん、今よりもっとイチャイチャしていましたよね? 彼を見つめる目も、今とは全然違いましたし、とにかくとっても幸せそうでした」
 美咲は長い髪をほどいて、紫色の髪留めを手首に嵌めた。
「あずさちゃん、あなたはまだ若いから分からないでしょうけど、大人になると、恋愛もそう簡単な話ではなくなるのよ?」
 遠くから見ても分かるくらい、あずさは頬を膨らませた。
「それ、どういう意味ですか? あたしにはさっぱり分かりません。宗村さんの事が好きなら好きで、それでいいじゃないですか? その他に何があるんですか?」
 美咲は髪を洗い流す手を止めた。
「彼の遺体、まだ見つかっていないの。この意味があなたに分かる?」
 あずさは多弁なその口を閉ざした。そして「よいしょ」と更に高い岩の上に腰を下して、爪先でお湯を蹴った。わたくしはあずさの未成年と変わらない早熟な水着姿から顔を背けた。
 あずさを黙らせた美咲の言葉が、仕事上の設定に則ったものなのか、それとも、あずさにちょっかいを出されて、心の奥底から発せられたものなのか、第三者のわたくしには測りかねた。太古の遺体が未だ見つかっていない、その逃れようのない事実が、美咲の心を拘束する足枷になっているという事なのだろうか。つまり彼女は、太古の遺体が発見されるまで、婚約者の死をいつまでも受け入れられない、そういう事になるのだろうか。
 美咲は洗い場を離れて、わたくしから最も遠い湯に爪先を入れた。痛む腰をいたわりながら、ゆっくりと体を湯に沈めた。
「やっぱり、おかしいですよお二人は。どう見てもお付き合いしているようには見えません。何ていうのかな、何かの目的の為にそうやって恋人の役を演じているだけのように思えます」
 江口の携帯電話の件と言い、今回の件と言い、この娘は勘が鋭い所がある。わたくしは美咲の次の言葉を待った。
「お互いが付き合っていると認めている所を、なぜそうあなたが否定してくるのか、その方がわたしにはおかしいと思うけど」
 綺麗な二重を上げて、あずさを見据えた。
「じゃあ、証拠を見せて下さい。あたしの見ている目の前で、宗村さんとキスをして下さい。お付き合いをしているんでしたら、きっと簡単な事ですよね?」
 あずさは鼻先を高くして、挑発的な態度を見せた。
「なんて事を言い出すんだ!」
「おかしな事でしょうか? それでお二人の疑いが晴れるんですから、簡単な事ではないでしょうか?」
 美咲は冷静な態度を崩さず、肩で一つ息をした。
「あずさちゃん、ちょっとは頭を冷やしたらどう? この人は太古秀勝ではないの。顔は似ているけれど、東京でフリーライターをしている宗村賢治さんよ? 全くの別人じゃない。どうしてそこまで突っかかってくるの」
 あずさは「よっ」と言って、岩の上から湯の中へ飛び込んだ。わたくしは水しぶきに顔を背けた。
「あたし、宗村さんの事が好きになっちゃったんです。初めは、宗村さんと太古さんがそっくりだったんで、あたしの胸がキュンと高鳴りましたけど、でも、二人きりで話をしている内に、宗村さんは太古さんよりもっとずっと素敵な男性だという事に気が付いたんです。宗村さんは、あたしの話をちゃんと聞いてくれますし、太古さんとは違って、あたしと真剣に向き合ってくれます」
「向き合ってないぞ」
「あずさちゃん。それだったら宗村さんに限らず、いくらでもあなたの話を聞いてくれる男性はいるんじゃないの? あなたゲレンデでも結構目立っていたし、よく若い男にナンパされていたじゃない」
 美咲はタオルで額汗を拭った。
「いません。あたしの胸がこんなに高鳴る男性は、地元にはいません。太古さんにしたって、本当はあたし、あの人に意地になって付きまとっていたんです。今だから言いますけど、当時あの人にあんまりにひどい事を言われたんで、頭にきてそうしていたんです。でも、宗村さんは、なんていうか、とにかく一緒に居て心が落ち着くんです。ずっと一緒に居たい。だから、もしも美咲さんが何らかの事情があって宗村さんと付き合っている振りをしているんでしたら、あたしの恋路の邪魔をしないで欲しいんです」
 あずさはぱしゃんとお湯を叩いた。わたくしはまた水しぶきに顔を背けた。
「邪魔? わたしが邪魔?」
 美咲はあきれて天井を見上げた。
「とにかく、あたしのこの恋を諦めさせたいのでしたら、今すぐここで宗村さんとキスをして下さい」
 わたくしは湯船に顔だけ出して、あずさと美咲を交互に見た。あずさは真っ直ぐに美咲を見つめ、美咲は静かに目を閉じた。
「できないんですか? 好きな人とキスが」
 美咲は目を開けなかった。額に溜まった汗の一すじが頬を伝った。わたくしが何か言おうと口を開けると、
「できないわ。わたしはあなたの目の前で、宗村さんとキスはできない。これがわたしの答えよ」
 あずさは得意そうな顔を作って、大きく腕を組んだ。
「なあんだ。じゃあ、お二人はお付き合いをしていないんですね? だったら、美咲さんはあたしと宗村さんの恋路を邪魔する権利はなんいですね?」
「初めから邪魔なんかしていないわ」
 二人のやり取りをそばで聞いていて、この図太い神経の持ち主であるあずさを黙らせるには、熱烈なキスの一つや二つ、盛大に見せつけてやった方が良いのではないかと、わたくしは思った。それ位な事をしなければ、この先わたくしは、この破天荒な娘からとんでもない迷惑をこうむる事は、ほとんど間違いのない事実だった。
「美咲」
 静かに湯を揺らして、わたくしは美咲の所まで移動した。
「?」
 美咲はぱちぱちと瞬きをして、わたくしの行動を見守った。少々強引ではあったが、わたくしは彼女の小さな肩に両手を置いて、顔を近付けて行った。
「ちょっ、ちょっと、宗村さん」
 美咲はびくっと肩をすくめた。あずさの強い視線を背中に感じた。
「こうなったら、仕方がないじゃないか」
 予想外の展開に戸惑う美咲の表情は、正直可愛いとしか言いようがなかった。その顔がどんどん間近に迫って、あと一歩という所で、
「宗村さん!」
 ぱん、と風呂場に大きな音が響いた。目の前の美咲の顔が左に消えた。脳天を突き抜ける頬の痛み。美咲は左手で胸を隠すような恰好で、右手を天井へ向けていた。つまりわたくしは、強引なキスの寸でで、美咲の強烈な平手打ちを浴びたのだった。
「調子に乗らないで下さい宗村さん! こんなの最低です!」
 ぷいと顔を背けたかと思うと、美咲は一人水しぶきを上げて湯から上がって行った。
 事の顛末を見守っていたあずさが、そっと背後から寄って来て、わたくしを下から覗き込んだ。
「宗村さん、痛かったですか?」
「痛いよ!」
 美咲がぴしゃんと戸を閉めると、山と積まれた手桶が一斉に崩れ、がらんごろんと床一面に広がった。
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