プルートーの胤裔

くぼう無学

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「知らん」

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「どうした宗村、浮かない顔をして」
 岸本はボウモア十二年のラベルから目を上げた。
「だいぶ長いこと風呂に入っていたが、何かあったのか?」
「別に」
 わたくしはじんじんする頬に頬杖を突いて、スコッチウィスキーを呷った。かあっと喉が熱くなった。
 あの後、わたくしはあずさの帰宅を見送った。濡れ髪をタオルに包んで、「また明日」と笑顔で彼女は玄関を出て行った。それをわたくしはぼんやりと見送った。そして二階を見上げて、何だか自室に戻るのが恐ろしい気がして、昨夜と同様に食堂の岸本の所へ足を運んだのだった。岸本はやはり一人で洋酒を傾けていた。
「江口の携帯電話について、警察は何て言っていた?」
 暖炉の炎に照らされて、岸本の長い影が床に落ちていた。
「別に何も。ただ、一つだけはっきりした事がある。それは、このペンションにいる誰もが、江口さんの携帯電話について見覚えがないと証言したことだ。刑事たちは、署に戻って携帯電話の中身を確認すると言っていた」
 わたくしはグラスの中の炎を見つめた。暖炉の前でウィスキーを嗜むというのも、案外悪くはないなと思った。
「あの携帯電話からは、有力な情報は何も出てこないだろう。何者かがわざと置いたのなら、携帯電話から不都合なデータは削除しているに決まっている」
「何者かって、誰だ?」
 岸本はパイプを手にして、火皿を覗き込んだ。
「俺たちがよく知っている誰かなんだろうな。知らない顔がこのペンション内をうろうろしていたら、間違いなく俺たちは不審に思うだろうから」
 岸本はパイプを色々に眺めた。
「このペンションの関係者か。ちょっと信じられないな。だとするとそいつはなぜ、江口さんの携帯電話を彼の部屋に置いたのだろう」
 結局パイプは吸わず、そのままテーブルの上に置いた。
「それは、そいつが江口の死に大きく関わっているからだろう。江口の携帯電話の中身を見られたら、自分が容疑者として浮上する可能性があるから、彼の携帯電話の中身を細工してから、本人の部屋に置いて誰かに発見させる、というリスキーな行動に出た」
 わたくしも海のシングルモルトを頂いた。独特なピートの香など、余市を好むわたくしによく合った。
「じゃあ、やっぱり江口さんは、自殺をしたのではなく、誰かに殺されたということになるのか?」
「俺はそう思うね。江口の死はあまりに不可解だ。今回の携帯電話の件も、あまりに不可解だ。そして、江口の死に関わった何者かは、何食わぬ顔で俺たちの近くにいる可能性が高い」
 岸本はボウモアの香を消すため、グラスに水を入れて回した。
「信じられない話だ。常識で考えれば、そんな事は有り得ない。みんなちゃんと職を持っていて、社会人としてマナーのある一般人だよ」
「そうだな。しかしこの場合、犯人は一般人を装っている可能性がある。まあこうなると、素性の知れない宿泊客が最も有力な候補となるだろう。久慈親子と江口と喧嘩していたカップルか。刑事が事情聴取を終えて帰ってから、君が部屋で携帯電話を見つけるまでの三時間、彼らは自室にいたのか?」
 わたくしは煙草をくわえて、ゆっくりと火を着けた。
「いた。いなかったのは、その煙草を買いに出たお前くらいなものだ」
 思わず煙草を見た。
「そうか。ちょうどその時間帯だったか。あ、そういえば高田さんは、どのタイミングで警察へ?」
 岸本はグラスを手にして、チェイサーに口をつけた。
「ああ、高田さんか。彼女はいち早く警察に事情聴取を受けたんだ。その直後だよ、彼女が警察の車に乗り込んだのは」
「という事は、警察による江口の部屋の捜索があったのはその後の事だから、彼女は携帯電話を彼の部屋に置く事はできないのだな」
 突然暖炉の薪がしゅーっと音を立てて煙を増やした。
「まあ、そういう事だ。その時はまだ、刑事たちは江口さんの部屋を調べていたからな」
「一応高田さんは江口の携帯電話の一件の候補から消去される。ところで、高田さんが警察に保護された理由を聞いているか?」
 わたくしは天井に向かって煙を吐いた。吐いてから、別に煙の心配をしないで良いと後から気が付いた。
「高田さんか。保護された理由なんて、俺は聞いていない。石動刑事は、とにかく事が落ち着くまでの間だけ、彼女を署で保護すると言っていた。容疑者という訳ではない事は再三強調していた」
「そうか。しかし妙な話だな。天道葵が自殺して、江口が自殺して、なぜ高田さんが警察に保護されるんだ? あたかも警察は高田さんを何者かから守っているように思えないか?」
 岸本は立ち上がって、ウッドストッカーから細割りの檜を拾って暖炉の火の上に置いた。
「まあ、確かにな。特に若い刑事の方がとりわけ彼女を擁護している感じがあったしな。今に思えば、高田さんは天道の心中事件から、何だか様子がおかしかった。そして、今回の江口さんの自殺。警察に保護されたのだって、手際が良かったんだ。すでに他の旅館の仲間に連絡して、俺に迷惑をかけないよう後釜を手配していたんだから」
「へえ。随分と計画的だな。後釜の米元あずさはどうやって人選されたんだ?」
 炎の舌先が檜の薪を舐め始めた。
「わからん。でも米元君はちょくちょくうちで働いていたから、もしかしたら高田さんの御指名なのかも知れないな」
「米元あずさがこのペンションに到着したのはいつ?」
「五時頃だったかな」
 岸本は暖炉の薪を素手で動かした。ぱあっと火の粉が舞って、食堂が一瞬明るくなった。
「では、彼女は江口の部屋に携帯電話を置く事ができたんだな?」
「米元君が? ちょっと待て宗村。誰彼構わずに疑うのはやめてくれ。あの娘はそんな玉じゃない。俺は米元君を中学生の頃から知っている。高校まで地元でスキージャンプをやっていてな。小さい頃から北海道で合宿して練習に打ち込んでいた。高校二年で国体まで行って、インターネットの競技記録にもその名が掲載されている。見た目に寄らず負けず嫌いの努力家でもあった。少々計算高い所はあるようだが、あの娘が江口さんを殺した犯人の協力者だなんて、逆立ちしたって信じられない」
 炎から振り返った岸本の表情は、黒い影になってよく分からなかった。
「岸本、もう信じられない事が実際に起きているんだ。俺は彼女が最も怪しむべき人物の一人だと考えている」
「俺にはそうは思えない。あの娘の父親も宿泊業界で働いていて、うちと加盟が同じだったから、協会で何度も顔を合わせている。うちの娘と米元君はジャンボリーで一緒になった事もある」
 わたくしは深く唸ってから、
「では、こう考えてみてはどうだ? 米元あずさは誰かにそそのかされて、江口の携帯電話を彼の部屋に置いた。何の悪気もなく、江口を殺した犯人に利用された」
 薪を構った手を叩いて、岸本は自分の席に戻った。
「まあ、それなら考えられなくもないが。でも、あの娘がなぜそんな事を」
「分からない。ただ米元あずさの無邪気な態度に嘘は感じられなかった。そして、江口の変死に全く興味がなさそうな口ぶりだった。という事は、江口の携帯電話を彼の部屋に届けた事の重要性に、全く気が付いていないという可能性が高い」
 グレンリベットのボトルを手に取って、岸本は火影に笑った。
「宗村、気が付いているか?」
「なんだ」
「何だかお前、とても嬉しそうに話をしているぞ? いつの間にか探偵にでもなったようだ」
「なに? 本当か? 敷島に感化されたのかな」
 岸本は酒蔵へ行って、古い客のボトルキープだと断って、カティーサークを抱えて来た。
「岸本」
「何だ」
 わたくしは氷を避けてグラスにソーダを注いだ。
「晦冥会って、知っているか?」
 岸本のマドラーを回す手が止まった。
「事情聴取の最後に信仰宗教を聞かれただろう? それから、晦冥会の信者かどうかも聞かれた」
 岸本の返事は返らなかった。
「俺は当然の事ながら、晦冥会の信者ではないと回答した。君は、どう回答した?」
 彼はグラスをテーブルに置いた。
「いきなり何を言い出すかと思えば。俺も晦冥会の信者ではないと答えたよ。俺は根っからの浄土真宗だ」
 笑顔がぎこちなかった。
「天道葵、木原正樹、江口サダユキ、この三人は皆、晦冥会の関係者だという事は知っているか?」
「知らん」
「もしかしたら、高田さんはこの質問に対して『はい』と回答したのではないか? そして、自分にも自殺した三人に共通する危険が迫っている事を恐れ、警察に助けを求めたのではないか? 岸本、高田さんの信仰宗教を知っているか?」
「知らん」
「本当か?」
 わたくしは岸本の目を見た。
「高田さんの信仰宗教なんて、俺には全く興味がない。だから、そんなの聞いた事もない」
 彼は晦冥会という言葉を聞いて、明らかな様子の変化を見せた。
「なあ岸本、このペンションには、晦冥会の信者が多く集まっているような気はしないか? 何か心当たりはないか? 密かに集会か何かが開かれているとか」
「知らん。知らんと言ったら、知らん。俺は晦冥会なんて全く関わり合いがない。すまんが宗村、ちょっと気分が悪くなってきた。今日はこれくらいにしておこう」
 岸本は散らばったボトルとグラスを集めて、さっさと席を立った。
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