プルートーの胤裔

ゆさひろみ

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石動の誘い

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 わたくしは岸本と別れて、自室のドアの前まで戻って来た。少し頭を掻いて、音を立てないようドアノブを握った。その瞬間、平手打ちをする美咲の姿が頭に浮かんだ。
『調子に乗らないで下さい宗村さん、こんなの最低です!』
 寝静まった廊下に一人、わたくしは氷のように固まっていた。
「あずさを黙らせるためだったとは言え、無理やりキスを迫ったりして、やっぱり怒っているだろうな」
 大きな溜め息を吐いて、天井に目を上げた。もしかしたら、内側から鍵を掛けられているなんてないだろうな、などと嫌な想像していると、握ったドアノブが勝手に回った。わたくしは慌てて一歩後ろへ下がった。
「宗村さん」
 ホルバーのダウンジャケットを着込んだ美咲が、ドアの隙間から顔を出した。
「どこへ行っていたんですか? これから呼びに行こうと思っていた所です」
 美咲は小声を使って、廊下を覗き見た。それがいつもの美咲の調子だった。
「お酒、飲んでいるんですか?」
「えっと、風呂上りにちょっと、岸本と飲んでいた。色々と聞きたい事もあったし。どうしたの、そんな格好をして?」
 彼女はドアを大きく開けて、わたくしを招き入れた。
「つい今しがた、石動刑事の携帯電話から連絡があって、江口サダユキの遺体を見せられそうだから、今から来ないかって」
「え⁉」
 室内はシャンプーの良い匂が漂っていた。美咲は今まで髪を乾かしていたらしい。
「受傷状況が明確で、外表検査で死因も明らかになっている場合、通常ですと司法解剖は行われません。ですから、遅くても明日の午後には葬儀屋が到着して、江口の遺体を搬送するそうです」
「そうか。彼の死因は飽く迄自殺、なんだもんね」
 美咲はわたくしに対して怒っている気配はなかった。こんな事ならもっと早くに戻って来れば良かった。
「ですから、今夜が江口の遺体と対面できる最後のチャンスとなります。宗村さんも、わたしと一緒に行きますよね?」
「行く行く、すぐ支度する」
 わたくしは慌ててクローゼットに手をかけた。
「でもさ、なんで石動刑事は、俺たち民間人に江口の遺体を見せようと思ったんだろう?」
 あれだけわたくしの裸を見ていながら、美咲はわたくしとは反対方向へと顔を向けた。
「敷島さんです」
「敷島?」
 カチャカチャとベルトを着用しながら、顔を上げた。
「石動刑事は敷島さんに注意を受けたそうです。今回の事件の背景をあれこれ宗村さんに教えた事に対して」
 服を畳む手が止まった。
「ああ、まずかった、かな。石動刑事と会って話した事は、敷島に言うべきではなかったかも」
「それは別に構わないと思います。石動刑事だって素人じゃないんですから、自分の考えがあって宗村さんに事件の背景を伝えたのだと思います。まあ冗談交じりに注意を受けたと言った所でしょう。それと引き換えと言っては何ですが、敷島さんはわたしたちに江口の遺体を見せてくれるようお願いしたそうです」
「そこが分からない。なぜ敷島は、そうまでして俺たちに江口の遺体を見せたいんだ?」
 鏡台に顔を出して、手櫛で乱れた髪を撫で回した。控え目に酒を飲んだつもりが、目の周りが結構赤かった。
「それはきっと、わたしたちの身の回りで起きている事件が、どれだけ凄惨で、どれだけ深刻な事態なのか、この目で現実を直視して欲しいとの事だと思います」
 わたくしはコートを羽織って腕時計を回した。
「深刻な事態、か。緊張感、なかったかな」
 美咲は後ろ姿に人差し指を立てた。
「緊張感なんてなくて当然です。宗村さんは一般人です。普通江口サダユキの謎の死の真相を深刻になんて考えませんよ。彼の死を報道していたテレビの出演者だって、それを見ている視聴者だって、きっと面白半分です。敷島さんは、宗村さんにはそうなって欲しくはないと、今回石動刑事にお願いしたのだと思います。それに、もっと大切な事には、実際に死亡した人の遺体を目の前にして、その現場の事実の中から、宗村さんにも犯行の糸口をつかんで欲しいと、期待をしているんです」
『刑事の勘というやつですね。宗村さんはどうも今回の事件のキーパーソンになりそうな気がするんです』
 石動刑事の言葉を思い出した。
「期待、ねえ。もういいよ、支度ができた」
「敷島さんは、宗村さんの事を褒めていましたよ? あなたの性格の多様性と、案外真面目な所を」
 そう言って美咲は嬉しそうに振り返った。
「案外ってのが、あいつらしいや」
 我々が自室を後にしたのが夜の十時三〇分。誰もいない廊下、階段、談話室を蛍光灯が煌々と照らしていた。フロアークロックの重い振り子の音が、やけに大きく聞こえた。
「外出の件、岸本に話を通しておくよ。帰ったらペンションから締め出されただなんて、最悪だからね」
 風呂場へと通じる廊下を親指で差した。
「わかりました。わたしは車を回しておきます」
 我々は談話室で二手に別れた。わたくしは一応食堂の無人である事を確認してから、一階受付横の廊下を奥へと進んだ。風呂場の格子戸と反対側のドアに、『オーナーの部屋』と手で掘った木目のプレートが掛かっていた。ノックをすると呑気な顔が現れた。
「なんだ宗村か。どうしたそんな格好をして、ナイターならもうとっくに」
 気分が悪いと酒の席をお開きにしたくせに、岸本は缶ビールを片手に赤い顔をしていた。
「これからちょっと出かけるから、玄関の鍵は開けておいて欲しい」
「これからぁ?」
 岸本は目を剥いた。
「すぐ戻るよ」
「お前、酔っているじゃないか」
 彼の背後でテレビが明滅した。オーナーの部屋は客室二部屋分の広さがあった。家族三人で住んでいたのだから、当然の広さだった。
「美咲が運転するから心配ない。ちょっと警察に行ってくる」
「警察だって?」
 岸本は大きなしゃっくりをした。
「こんな夜更けに何だってそんな物騒な所へ。今回の件で何か分かったのか?」
 わたくしはコートのポケットに両手を突っ込んだ。
「いや、別に何も。これは敷島の指示だ」
 岸本はそれを聞いて、やけに納得をした表情になった。
「敷島か。そうか。あいつはまだ、葵の件で調べを続けてくれているのか。そうか。お前も悪かったな。俺が妙な相談を持ち掛けたばっかりに」
 酔ったせいか妙に感傷的になって、ビールをぐいっと飲んだ。
「気にするな」
 岸本はドア枠の戸当りに肩を預けた。
「結局あいつは、今回こっちへ来られるのか? お前の所には、連絡は来ているんだろう?」
 脱ぎ捨てられた衣類、ガラステーブルに散乱した菓子のゴミ、流しには汚れた皿が山積みになっていた。嫁と娘が出て行ってしまって、岸本はやもめ暮らしのような生活を続けているのだろう。
「ああ、ちょくちょく連絡が来る。それで自分勝手に指示ばかり出してくる。そんなに気になるなら早くここへ来ればいいのにな」
 建物の外からエンジン音が聞こえてきた。
「忙しいんだろう? だって、敷島探偵グループの取締役だって話じゃないか。俺もつい最近知ったくちだが、結構大きなグループ会社のお偉いさんになっているらしいぞ」
「らしいな。俺ら同期の中であいつが一番出世している。まあじゃあ、鍵の件頼むな」
 わたくしが右手を上げて背中を見せると、岸本はわざとらしい咳払いをした。
「宗村、こんな所で聞くのもなんだが、昔の恋人の事は、もうすっぱりあきらめられたのか?」
 わたくしの歩みは止まった。
「だって、そうなんだろう? あんな美人の恋人を連れて来たんだから、昔の事は、もうあきらめられたんだろう?」
 振り返るとそこには赤い顔があった。
「酔っ払っているのか」
「うん? まあ、酔ってはいるが。でも、いつかお前に聞いてみたかったんだ。こんな中途半端な時ですまないが。どうなんだ、あれから十年、もうレナの事は」
 わたくしは鋭い目を彼に向けた。
「岸本、君は酔っているんだ。それくらいにしておけ」
 岸本は大きな目をぱちくりとさせた。
「あ? ああ、そうか、まあ、分かった。変な事を聞いて、すまなかった」
「いいさ」
 わたくしは再び右手を上げて背中を向けた。
「あんまり遅くなるなよ。一応門限は十二時としておく。それ以降は俺も起きている自信がないからな」
 自分のあまりに感情的になっている事に気が付き、それを埋め合わすように、わたくしは横顔を見せた。
「岸本、今の俺は君の質問には正確に答えられない。だけどこれだけは言える。
 俺はいつか、全てが笑い話になる日が来ればいいと思っている。笑い話、そこにはレナがいて、君と君の奥さんがいて、俺がいる。酒でも飲んで、昔話を肴に大笑いだ。そんな未来があればいいなと俺は思っている」
 ビールの缶がぺこんと凹む音がした。
「それじゃあ、お前」
 わたくしは右手を上げて廊下を歩いて行った。
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