プルートーの胤裔

ゆさひろみ

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沈黙の十年

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「宗村さんは、もう誰かと結婚の約束をしていて、その女性と婚約しているのではないですか?」
 美咲はとても険のある言い方をした。そして再び手を握り直すように、今度はわたくしの指の間に自分の指を絡ませてきた。
「なんで急に、そんな事を」
 わたくしの激しい鼓動が、繋いだ手の平を通して、美咲に悟られてしまいそうだった。
「今の宗村さんを見ていて、わたしはとても不安なんです。約束の女性がいるにもかかわらず、あずさのような若い娘にほいほいついて行って、食堂でもお風呂場でも、所構わず二人でイチャついたり、そうかと思うと、人前でわたしにいきなりキスを迫って来たり」
 美咲のこれらの言葉が、わたくしの心臓を次々に突き刺した。
「あれは、行きがかり上、仕方なく」
「わたしはこの婚約指輪を嵌めている限り、他の男性とキスをしようだなんて、考えた事さえありません。そういう常識的な気持ちは、宗村さんにはないんですか?」
 これは大変女性らしい意見だと思った。
「婚約指輪を嵌めて、浮気をするな、そういう事だね。返す言葉もないが、でも、君だってこうやって、他の男と枕を並べているじゃないか」
 繋いだ手をぎゅっと握り返した。
「これは、仕事上の都合ですから、仕方がないです。あなたとは今回、恋人役を演じている訳ですからね。別々に寝ている所を誰かに見られでもしたら、わたしたちの関係や、わたしたちがここにいる目的が、大変怪しまれてしまいます。ほんのわずかな不注意から大きな失敗に至る、千丈の堤も蟻の一穴から、という諺をご存知ですか?」
 いま手を繋いでいるこの行為は、仕事上の都合なのだろうか?
「でもさあ。いくら天道の死の真相を調査する為だとは言え、俺たち二人が恋人同士の演技を必要とするとは言え、俺みたいな寂しい独身男性がだよ? こんな身を寄せ合うようなセミダブルの布団に、君のような美人と一緒に寝るだなんて、やっぱり間違いの元だよ。もしもこの俺が、君の色香に血迷って、急に変な気を起こしてしまったら、一体君はどうするつもりなの?」
 今度は美咲が繋いだ手を握り返した。
「宗村はそんな男ではない、敷島さんがそう断言していました」
 迷いのない美咲の二つの目が、わたくしを捉えて放さなかった。
「へえ。あの敷島がねえ。でも、現に俺は君にキスを迫ってしまった」
 くすくすっと笑い声が聞こえた。
「キスくらいは迫って来るかも知れないから、その時は思いっきり引っ叩いて、奴の目を覚ましてやってくれ、そう指示を受けています」
 呆れた頭を天井に向けて、枕に頭を落した。
「見透かされているな」
 まったく敷島の奴、一体俺をどれだけ根性なしのちんけな男だと思っているんだ。
「宗村さん、もう一度質問します」
 わたくしは再び美咲に顔を戻した。
「この指輪は、一体誰の為のものなんですか?」
 美咲は右肩を下にして、少し身を乗り出した。
「それを聞いて、どうするの?」
「そのお相手の名前によっては、わたし、考えを改めなければなりません」
「考えを改める? 何それ?」
「宗村さんには関係のない話です」
 美咲の顔から笑顔が消えて、真剣な表情だけが薄闇に残った。
「不思議なものだ」
「?」
「これと同じような質問を、今日君の兄にも受けた」
「兄に?」
 美咲は枕から顔を浮けた。
「そう。石動刑事は、降車する俺を呼び止めて、こう言ったんだ。敷島レナにはその昔、宗村賢治という婚約者がいた、これは本当の話か? とね」
「えっ⁉」
 美咲のおさげのにした左の髪の毛が、鎖骨の辺りから滑り落ちた。
「もう十年も前の話だけどね」
「敷島さんと、宗村さんが? それって、冗談ですよね? わたしをからかう為の、作り話ですよね?」
 わたくしはしばらく美咲の顔を眺めた。
「からかっているか。やっぱり、君にはそう聞こえるんだね。それが、まあ普通の人のリアクションだと思うよ。俺だってもしも君の立場なら、そんな馬鹿馬鹿しい話、一笑に付して終わりにするだろう。もっとましな嘘を吐けと。だけど君の兄は、本当だと言った俺の回答に、大変納得がいった様子だった」
 一度驚いた顔を、どうやって元に戻したらいいのか、美咲は分からなくなっている様子だった。
「信じられません。あの敷島さんが、どうして宗村さんと婚約なんか。お二人の会話を聞いていると、そんな様子は一つもないじゃないですか」
「そうだな。俺と敷島の電話のやり取りは、男同士のそれと少しも変わりはしない。だから、こんな話はしたくなかったんだ。所詮君には信じられるはずがない。悪い冗談だと思って、忘れてもらっても構わない」
 布団の中で、美咲はもう一度わたくしの指輪を触った。
「じゃあ、この指輪は」
「敷島レナとの婚約指輪だ」
「!」
 がばっと上半身を起こして、美咲はわたくしを上から見下ろした。
「敷島さんは、敷島レナさんは、モデルのような美しい美貌をお持ちで、しかも名探偵として雑誌にも掲載されるくらい、SТGのグループを一手に引き受け、まとめ上げる敏腕女社長と言った感じの人です。次々と難事件を解決して行くその勇姿が、とにかくかっこ良くて、ずっとわたしの憧れの存在でした。
 でも、どうしてご結婚をなさらないのか、わたしはいつも不思議に感じていたんです。実際、各派の領袖や、清濁併せのむ有名人が、様々な祝賀会に現れて、敷島さんを奪い合うように言い寄っている光景を、わたしは遠くから眺めていました。ところが当の敷島さんはと言えば、まあけんもほろろと言った冷たい感じで、ふいっとどこかへ姿を消してしまうんです。後はただただ独身男性の溜め息が聞こえてくるばかりでした」
『宗村さん、敷島レナはあなたには渡しませんよ。彼女は誰にも渡さない』
 石動刑事も、その内の一人と言った所か。
「しかしそれはまさか、敷島レナさんには約束された男性、つまり宗村さんという婚約者がいたから、という事なのですか?」
 わたくしは頭の後ろに右手を入れて、ごろんと仰向けになった。
「それは違う。微妙に違うんだ。今の敷島は、まあ死んだって俺と結婚などはしないだろう。会話を聞いていて分かる通り、そんなのお互い反吐が出る」
 見上げた眉毛が寄った。
「あの、宗村さんのおっしゃっている意味が、全く理解できないのですが」
「君も知っての通り、今の敷島は外見は女だ」
「は、はあ」
「しかし、内面はまるで男そのものじゃないか?」
 美咲は人差し指を顎に当てた。
「まあ、男勝りな所は多々あります。口調とか、仕草とか」
 わたくしははっきりと会話を区切ってから、重い口を開いた。
「つまり彼は今、敷島レナではないんだ。十年前から今の今まで、一度だってレナではない」
「?」
「今の彼は、敷島千年なんだ」
「はあ?」
 何を馬鹿な事を、と胸の内が聞こえてきそうな素っ頓狂な声だった。
「俺や岸本、それから学生時代を供に過ごした仲間たち、その輪の中に敷島千年がいた。つまり、敷島千年とは、敷島レナの兄だよ」
 美咲はこちらを見下ろしたまま、しばらくは口をОの字に開けていた。
「一体宗村さんは何を言っているんですか? これはわたし悪い夢でも見ているのですか? 今いる敷島レナさんは、実は彼女の兄である、敷島千年さんだと言うのですか?」
 わたくしの忌まわしき過去の告白は、これが初めての事だった。今まで誰にも口にした事はなかった。
「この奇怪な現実を知っているのは、俺か岸本くらいだろうな。あんな天地の覆る程の悲劇が、この世に存在していいはずがない。どこかの偉大な物理学者が、このような馬鹿げた超常現象を、完全否定して欲しい気分だ」
 窓の外で、吹雪のうねるような音が聞こえた。
「でも、実際にはこうして、昔と何ら変わりのない敷島千年から、俺のこの携帯電話に、頻繁に電話は掛かってくる。SТGで彼は驚くような活躍を続けている。つまり、SF映画のような奇妙な超常現象は、現実として十年も継続している事になる」
 そう。敷島レナが千年になって、十年。
「あの、何て言ったらいいか、わたしの頭の中はとても混乱しています。なぜって、まさか敷島レナさんのお兄さんが、誰から見ても分からないくらい、そっくりに妹さんに成り済まして、完璧な女装をしていただなんて」
「ち・が・う!」
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