プルートーの胤裔

くぼう無学

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美咲の閃き

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 わたくしの目の前には今、牛フィレ肉とジャガイモのムースリーヌのパートフィロ包みが置かれていた。岸本はコックコートの上に腕を組んで、憮然とわたくしを見下ろした。
「牛テールを赤ワインでじっくり煮込んだものだ。どうだ、朝から恐れ入っただろう」
 オーバル皿に流したソースから、ポルト酒と仔牛のフォンの煮詰めた香りが、わたくしと美咲の間に広がった。
「これから、海の香りのグリーンリゾット鳥のムニエル添えも運んでやるよ。貝のエキスたっぷりだ」
「ど、どうしたんだ一体、朝からこんな豪勢なフランス料理なんて、胃がびっくりするじゃないか」
 わたくしは、本日の調査計画表をテーブルに置いて、フランス料理を指差した。
「なに、天道葵の件について、お前は今も調べを続けてくれているんだろう? 正直江口さんの件があって、俺も何だか葵の事件は有耶無耶な気分になっていたんだ。そこへ来てお前って奴は、俺の依頼を途中で投げ出す事なく、葵の事件を今なお追い続けているだなんて、はあ中々見上げた根性だ。だから、こいつはほんの俺の気持ちだ。俺の本職は料理人だから、こうするしか俺は能がないんだ。おっと安心しろ、こんなもの厨房の余り物で幾らでも拵えられるんだぜ」
 頬が緩みっぱなしの岸本の話を聞いて、わたくしはああと膝を叩いた。それは、廊下で除菌モップを掛けていたあずさの姿を思い出したからだ。あの時談話室で天道葵の話が盛り上がっているのを、彼女はちゃっかりと耳に入れていたのだ。
「泊まりだけならまだしも、こんな高級料理までサービスしてもらって、何だか済まない気がするが、取り敢えず俺は腹ペコでどうにもならないから、ありがたく頂かせてもらうよ」
 わたくしはフォークとナイフを持って見せた。
「おっと、これは他言無用だぞ。特に久慈さんにはな。あの人は大切な常連さんだから、気分を悪くさせては申し訳ない」
 岸本は親指を突き出して、天井を指差した。
「それは、そうだな。金を払って泊まっている客には、申し訳ないからな」
「東京の小料理屋でこいつを出せば、これくらいだ」
 そう言って岸本は、四本指をさっと出した。それを見た美咲の方が、わたくしよりも驚いる様子だった。
「あ、そうだそうだ、それはそうと」
 わたくしは椅子を引いて、岸本の方へ体を向けた。
「今日の宿泊の予約は、入っているのか?」
 美咲はわたくしに目を向けた。
「なんだ、藪から棒に」
 わたくしは、先程ここの駐車場に入って来た、黒塗りの高級車の女について、岸本に尋ねる事にした。
「ほう。それは、確かに珍客だな。俺の料理人としての腕前を聞きつけて、どこかの金持ちがやって来たのかも知れない。という冗談はさて置き、本日はあいにく新しい宿泊の予約は入っていない。報道関係の連中の電話なら、さっきも掛かって来たがな」
 ちょうどその時、廊下の方から電話のベルが鳴った。厨房からあずさが出て来て、廊下へと走って行った、その様子に岸本はシュラックをして見せて、
「その女性は、吹雪の雪道を間違えて、うちの駐車場までやって来たんだろう。上の新A観光ホテルへ向かう途中、左折すべき道を一本間違えて、あれよあれよとこんな家族経営のペンション街まで迷い込んで来た、そんな観光客も珍しくはないからな」
 プロビデンスの目を持つ女は、岸本でさえも心当たりがないとの事だった。彼女が単に道を誤って、ここの駐車場へ迷い込んだ観光客だったとして、それにしても、見知らぬペンションの二階に並んだ窓の、その内の一つであるわたくしの部屋の窓を、迷いもなく一目で見上げたというのは、やはり不可解としか言いようがない。
 立ち去る岸本の大きな背中を見送って、わたくしはミルクを飲む美咲へと顔を戻した。
「その高級車の女性の話、もう少し詳しく聞かせてもらえませんか?」
 美咲はテーブルに身を乗り出して、わたくしにだけ聞こえる声で言った。
「いいけど」
 わたくしは、裏の駐車場に面した自室の窓の、そこから偶然にも目撃した奇妙な光景を、事細かに美咲へ話し始めた。彼女は、こちらの話に相槌を打ちながら、隣の椅子に置いてあったボックスカーフレザーのクラッチバッグの中から、ペンを挟んだメモ帳を抜き出して、何かを書き留め始めた。そしてわたくしは、その女の事で後から気になった事を余談として付け加えた。
「わたしと衝突したスノーボーダーの女に、似ていた?」
 メモを取る手が止まった。
「いや、目がね、青紫の同じ色をしていたなって」
 わたくしはナイフとフォークで牛肉を切り分けて、添えられたセルフィユと一緒に口の中へ入れた。
「宗村さんはその時、二階の窓から駐車場を見下ろしていたんですよね? それって、その女性と結構な距離があると思うんですが。それなのに宗村さんは、眼球で色のついた部分、虹彩って言いましたっけ、そんなビー玉よりも小さな色の違いまで、はっきりと見分けられたんですか?」
 確かに。今になって言われてみれば、返す言葉がないくらい妥当な質問だった。美咲と衝突した謎のスノーボーダー、あの吹雪の中でわたくしと傷付いたスノーボーダーの距離は、せいぜい五メートル以内だっただろう。しかし、今回は二階の窓から駐車場と言うのだから、少なくともその倍以上の距離はありそうだ。
「言われてみれば、さもありなんだね。でもさ、今思い出してみても、とにかくあの二つの強烈な眼光が、今でも俺の脳裏に焼き付いているんだ。目と鼻の先で百獣の王に睨みつけられたような、物凄いインパクトの強い眼力だった。だから、慌てて窓から隠れてしまったのも、俺はその女の迫り来る眼光に気圧された結果なのだと思う」
 美咲は手にしたボールペンでとんとんとメモ帳を打った。
「歳は?」
「化粧で若くは見えたけど、五〇代くらい、六〇近いかな?」
 バターとにんにくの焦げた匂いが、厨房から漂って来た。気のせいか、美咲のお腹の鳴る音を聞いた気がした。
「君も、食べる?」
 温かいオーバル皿を、やや中央へ移動させた。
「あ、ええと、遠慮しておきます。とても残念な話ですが、わたし、コンビニのサンドイッチとおにぎりをパクついちゃったんです。こんな贅沢な朝食が待っているのでしたら、空腹のまま帰れば良かったです」
 赤ワインの沁み込んだ牛フィレ肉を、美咲はちらりと横目で見た。
「コンビニのおにぎりと、本格フランス料理か、運命の悪戯って感じだね」
  美咲は小さく舌を出して、また一口ミルクを飲んだ。わたくしは少し迷った挙句、パートフィロ包みをナイフで二つに切り分けて、フォークを美咲の方へ向けて置いた。
「一応恋人なんだから、こういうのも良いんじゃないの? 食べたいんでしょ?」
 美咲は小声で、すいませんと言って、恥かしそうにフォークを手に取った。
「宗村さん、話を戻しますけど、その車には誰か他に乗車している人はいませんでしたか? 金持ちそうな白髪の老人とか」
 アセゾネに焼け色の付いた牛肉を口に入れて、美咲は手の平を頬に当てた後、おいしい、と小声を漏らした。
「やけに細かく聞くね。車の窓にはフルスモークがかかっていて、運転手の姿さえ見えなかったよ。あのさ、俺の見たセレブな女に、何か心当たりでもあるの?」
 わたくしは珈琲カップに口を付けて、コピルアクの香に目を閉じて唸った。
「心当たり、という程ではないんですけど、わたしの直感とでも言いましょうか、根拠がある話でもないんですけど、本当に思いつきで質問をしているんです」
 クラッチバッグに手を入れて、美咲は自分の携帯電話を取り出した後、素早く人差し指を動かして、タッチスクリーンを操作した。
「?」
 誰かから着信でもあったのかと、わたくしはしばらくはその様子を見守ってたが、美咲は携帯電話の画面をぽんぽんと指で叩いて、
「宗村さんが駐車場で見掛けて、目と目が合ったという女性って、もしかしてこの女性でしょうか?」
 美咲は携帯電話の画面をこちらへ向けて、それを見るであろうわたくしの反応を待った。
「あ!」
 携帯電話の画面には、インターネットで画像検索された、或る女性の肩から上の姿が、画面一杯に表示されていた。
「これこれ、この女!」
 わたくしはテーブルに両手を突いて、携帯電話の画面に顔を近付けた。
「うんうん、間違いない。目の色は違うけど、雰囲気がそっくりだ。あれ? そもそもどうして君は、インターネットからこの女の顔を検索できたんだ? この女は、ひょっとして有名人?」
 ちょうどその時、リゾットを皿に載せ、その上にアツアツの鳥の手羽と揚げニンニクを添え、周りにソースをかけた料理を、岸本は運んで来た。
「お、なんだなんだ。お前の恋人まで朝食はまだだったのか、これは失礼。もう一つ作ってくるか」
 顔を赤くした美咲は、食べかけの皿をわたくしの方へ押し返した。
「あの、お構いなく、あまりに美味しそうでしたから、つい味見を」
 岸本は大きく笑って、わたくしの肩を叩いた。
「味見だなんて、遠慮しない。同じ物ではあれだから、アルザス風シュークルートでも拵えてやるよ」
「本当に、もう」
 岸本は鼻歌を歌って、厨房へ引き返して行った。
「岸本の好きなようにさせておこう。あいつ、本当は嬉しいんだぜ? 女性から料理を褒められるのが、何よりも好きなんだ。学園祭の模擬店で、女子大生に囲まれて、顔を赤くしてフライパンを握っていたのをよく覚えている」
 美咲は恥ずかしそうに、皿の上にフォークを置いた。
「それはそうと、さっきの話。いま見せてもらった女って、一体誰なの?」
 自分でももう一度、美咲は携帯電話の画面に目を落とした。
「彼女がなぜここに来ているのか、そして、彼女がなぜわたしたちが泊まっている部屋の窓を見上げたのか、そこまでは分かりませんが、彼女がいよいよ動き出したという事は、やはり晦冥会にとって、今正に大きな変革を迎えているのだと思います」
「晦冥会」
 その言葉を聞いてわたくしは、珈琲を飲む手を止めた。
「彼女は一年半もの長い間、一般的な公演の席からも、協会本部のどの会議の席からも、一切姿を晦ましていたんです。その筋に詳しい或るジャーナリストは、彼女の死亡説まで週刊誌に書いていた程です」
 美咲は、携帯電話の画面を下の方へスクロールさせて、彼女の名前と身分の記載をわたくしに向けた。
「その女性とは、晦冥会のもう一人の統主である、上月加世です」
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