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美咲と結婚
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「本当は、江口さんについての事情聴取が終わった後、こちらから警察に連絡を入れて、あの事について伝えられれば、何事にもすっきりとして良かったのでしょうが、こんな事を言ってはあれですけど、私達は少なからず彼らから嫌疑を掛けられた訳でしょう? ですから、何だかこちらからって言うのも気が引けてしまって、私一人どうしようこうしようと考えあぐねている内に、テレビでは江口さんの自殺が報道されてしまっていましたし、これ以上な情報を警察に提供するのも、要らぬ口出しになるのかなあと思いまして、結局そのまま然らぬ体で今に至っている訳です」
わたくしは、指に挟んだ煙草が根本まで灰になっている事に気が付き、慌てて灰皿に灰を落とした。
「あのう、差支えがないようでしたら、『あの事』について、私にお聞かせ願えないでしょうか?」
「え?」
久慈は何度も瞬きをした。
「ええ、まあ、構いはしませんけど」
「ああ、そうですよね。なぜ警察でもない私に、江口サダユキの情報を言わなければならないのか、当然不思議に思いますよね」
わたくしは人差し指で頬を掻いた。
「宗村さんは、江口さんの自殺について、興味がおありなんですか?」
わたくしはうーんと唸って、選択に迫られた人の顔をした。
「興味ですか。まあ、ないと言えば全くの嘘になります。しかしそれは決して、有名人の自殺を好奇の目で見ている訳ではないのです。つまり私は、まあ何て言いましょうか、ここのオーナーである岸本から、或る心中事件について相談を受けて、その真相を調べている途中なのです」
「心中事件、ですか?」
ソファーの左端で、理穂は少し顔を上げた。
「はい、その心中事件とは、四週間前にこの地で起きた、不可解な惨劇なんですが、当時このペンションでバイトをしていた天道葵という女性と、木原正樹という宿泊者の男性が、カップルで引き起こした事件なんです」
「天道さん?」
久慈は煙草を指に挟んだまま、その手で口を覆った。
「久慈さんは、天道葵について何かご存じでしたか?」
わたくしは一つ身を乗り出して、両膝の上に手を組み合わせた。
「まあ、微かに名前を覚えている程度です。私が前回ここへ宿泊をしたのが、昨年のちょうど今頃の事ですから、その時に、今食堂にいらっしゃる米元さんと、ここで一緒にバイトをしていた女性が、確か天道さんって名前だったかと」
久慈は、生前の天道葵と一年前に会っていた。これは予想外の収穫ではないだろうか。
「そうでしたか。でしたら、彼女はどんな女性だったのか、何か記憶に残っていますか?」
久慈は灰皿に煙草をすり潰しながら、
「そう言われましても、あの時は確か、天道さんから食事を運んでもらったり、支払の際にちょっと対応してもらったり、した程度の事ですから、何とも」
静かな食堂のガラス戸が開いて、除菌モップを手にしたあずさが現れた。少しこちらへ視線を向けた後、彼女はそのままモップを引いて廊下の奥へと消えた。
「そうですよね、一年前の話ですからね」
「あ」
「どうしました? 何かを思い出しましたか?」
わたくしの視線に気が付いて、久慈は恥ずかしそうに首の後ろに手を当てた。
「いやあ、別に大した事ではないんです。本当に大した事ではないんですけど、宗村さんにそうやって言われてみて、改めてあの日の出来事を思い返してみると、今まで全く気にしていなかった出来事が、何だか急に気になってしまって」
「気になる?」
「はい。いえ、本当に大した事ではないんですけど、うちの娘の理穂がですね、昨年ここへの宿泊に限って、チェックインの直後には、すぐに他の宿に泊まりたがったんです。毎年恒例のようにここへ宿泊していながら、そして、大雪の悪路をやっとの事で辿り着いた宿泊先で、理穂は何だか急に青い顔をして、私の服を引っ張ったんですよ」
「ほう」
「うちの娘は、まあ見た通りの状態ですから、またいつもの症状が悪化したのかなあと、その時私はあまり気にもしないで、とりあえずは自室に荷物を置いたのですが、娘の方では真剣に宿を変えたかったと見えて、結局あの日の理穂と来たら、一歩も部屋から出ようともせず、布団に包まってテレビを見て過ごすだけの、つまらないスキー旅行となってしまったんです。それをちょうど今思い出しまして」
一年前、すぐ目の前の受付に立って、父親の袖を引っ張る娘の青い顔を想像した。
「ふん。確かに、気になる出来事には違いありませんね」
久慈は声のトーンを落とした。
「そして今にして思えば、理穂はあの時、チェックインの対応をしてくれた天道さんを見て、何やら様子がおかしくなったようにも思えるんです」
「天道葵を見て?」
「ええ、私は娘の事をよく理解しているつもりですが、理穂は、自分を傷つけそうな人の目を、決して見ようとはしない傾向があるんです」
突然ヘルムレのフロアークロックが鐘を打ち鳴らした。午前九時の鐘を打っているようだった。久慈は少し我に返るように、
「そうですか、そんな天道さんは先日、恋人と一緒に心中自殺をなさったんですか。それは何ともご愁傷様です。歳は確かまだ若かったと記憶しています。情事に纏わる悲劇は、自分にも多少経験はありますが、本当に嘆かわしいものですね。しかし、そんな心中事件を調べている宗村さんが、どうして江口さんの自殺に興味を持たれているんですか?」
わたくしも声のトーンを低くした。
「それは、つまりこう言う事です。江口サダユキは、スキー場で自殺する前夜、今の私と同じように、天道葵の心中事件について調べていたと、ある人から聞いたからです」
「江口さんが?」
久慈は囁き声で聞き返した。
「はい。彼は、天道葵と一緒に心中した木原正樹とも、どうやら面識があるような話しぶりだったそうです。それを聞いて私は、次には江口サダユキの自殺についても、当然調べる必要があるのではないかと、二人の関係について疑いを持つようになった訳です。そういう意味で、先ほど久慈さんのお話にあった、あの事について教えて欲しいと、こう言った次第なんです」
久慈は深く唸って、前のめりの姿勢を取った。
「なるほど、そういう経緯があったんですか。まあ、私が警察に伝えようとした話ですから、別に宗村さんに話てはいけない事もないのですが」
理穂は漫画本をパラパラと捲って、体を上下に揺すって痙攣を見せた。
「では、改めてもう一度聞きますが、久慈さんが警察に伝えようと迷っていたあの事とは、一体何の事だったんですか?」
久慈は煙草を一本抜き出して、しかし一向にくわえる様子もなく、いつまでも指の間に煙草を転がしていた。
「はい。あの事とはつまり、自殺する直前の江口さんの姿を、偶然うちの娘が目撃したというものです」
わたくしは目を大きくした。
「詳しい話はこういう事です。昨日、ゲレンデレストランで昼食を取った私達は、猛吹雪の中をまっすぐに麓のレストハウスまで滑り降りたんです。あまりにひどい悪天候に私達は、そのまま施設内で天候の回復を待つ事にしたんです」
そのレストハウスとは、美咲がスノーボーダーと接触事故を起こして、救急搬送された救護室のある施設だ。
「理穂はトイレと言って、中地下一階の下の階へ階段を下りていきました。そして、トイレ待ちの列に並んで用を足した娘は、ハンカチで手を拭きながら、ふと目に付いたゲームコーナーへと、何気なく入って行ったそうなんです。そして、クレーンゲームの景品を一つ一つ物色して回るなどしていると、大型筐体の向こうに偶然、江口さんがある女性と話をしているのを見かけたと言うのです」
「それは、何時頃の話でしょうか?」
煙草に火を点けて、彼はゆっくりと煙を吸い込んだ。
「娘の帰りの遅い事から、私は頻りに腕時計を見ていましたから、よく覚えているんですが、それはちょうど一時五〇分の事でした」
江口の死亡推定時刻は午後二時、どんぴしゃだ。
「本当にその男は、江口サダユキ本人だったんでしょうか? 普通芸能人と言えば、大きなサングラスを掛けたり、キャップを目深に被ってみたりと、一般人にバレないような工夫を試みると思うのですが」
少なくとも江口サダユキは、連日テレビに出演しているのだから、女子高校生などに素性を見抜かれれば、一瞬で取り巻きが出来そうに思われた。
「私もその辺りは娘に確認をしました。有名人のそっくりさんとか、世の中には結構いますからね。しかし娘の話では、江口さんは特に顔を隠す様子もなく、堂々と女性と話をしていたそうなんです。朝も食堂でお見かけていますし、第一ロクハチの青いスキーウェアが特徴的で、娘はすぐに分かったと言っていました」
「なるほど」
わたくしは頭の後ろで手を組んで、口を尖らせた。
「娘はその後も、クレーンゲームのショーケース越しに、息を潜めて二人の様子を見守っていましたが、二人はすぐにどこかへ消えてしまったとの事です」
わたくしの頭には、バイフーという言葉が浮かんで消えなかった。
「その直後、江口サダユキは一人リフトに乗って、首吊り自殺をした」
「娘の話が正しければ、そうなります」
突風が建物に衝突して、玄関のドアベルが微かに鳴った。
「いま聞いた話の全ては、とても重要な目撃証言だと思います。久慈さん、あなたはやはりこの事を警察に伝えるべきだと私は思います。娘さんが偶然目撃した女性は、江口の自殺と深い関わりのある人物だと、私は強くそう考えます」
久慈は複雑な表情をして、煙草の火を見つめた。
「理穂は、まあご覧の通りこの様子です。トゥレット障害。遺伝的要因とか、神経の過活動が原因とか、精神的ストレスで悪化するとか、色々に言われていますが、とにかく娘の神経精神疾患の様子を見て、警察の方がどれほど娘の話を相手にしてくれるのか、そこを考えると、私はこのまま黙っていた方が良いのかと、いつもそこを考えてしまいます」
「しかし」
この時外から車の雪を踏む音が聞こえて来た。わたくしは背後の窓を振り返って、美咲のSUV車が駐車場でハンドルを切っているのを認めた。
「すいませんね、何だか長話になってしまったようで。宗村さんは、今回は恋人とご一緒にここへ宿泊されているのでしょうか。とても綺麗な方ですね。本当に羨ましい限りです。もしもこの先にお二人がご結婚なさるような事がありましたら、それはきっといつまでも彼女の事を大切にしてあげて下さい」
笑顔を顔に留めたまま、久慈は遠い目をした。
「私はですね、今は亡き妻とは、同じ製薬会社の職場で出会い、大変な恋愛の末に結婚までしてしまったんです。当時私と妻の同じ職場には、私と火花を散らして睨み合うような、最大の恋のライバルが勤務していたんです。その彼は、私なんかよりも断然背が高くて、大学時代から運動が得意で、それはもうもう私とは勝負にならない位の恋敵でして、彼と妻は既に二人でデートにまで出掛ける位の関係でしたから、ああもう私は駄目なのだなと頭を抱えていた所を、何をどう取り違えたのか、妻は突然毅然とした態度で私の事を夫に選んで、なんと結婚までしてしまったのです。とても信じられない展開に、私はおろおろと結婚式場に立っていましたっけ。しかしその後の結婚生活と言えば、まあお互い忙しい忙しいの一点張りで、私なんかは当時東南アジアの海外工場の立ち上げで、現地に単身赴任をせざるを得なくなって、生前の妻には何もしてあげられない状況が何年も続きました。そんな苦い苦い経験がありますから、宗村さんには同じ轍を踏んで欲しくない、あの方を末永く大切にしてあげて欲しいと、そう私は勝手に願うのです。これはあなたより少し先輩のお節介までに」
玄関のドアベルがけたたましく鳴った。わたくしは玄関の方へ顔を向けた。ホルバーのダウンジャケットを着込んだ美咲が、強風に乱れた髪を手で押さえていた。彼女は少し驚いた表情で、久慈篤と会話をするわたくしの姿を認めた。
「では、失礼します」
久慈は席を立って、わたくしの背中をポンと叩いた。次いで娘も、読んでいた漫画本をそのまま手にして、二人は階段を上がって行った。
わたくしは頬杖を突いて、ガラステーブルの上に置いた煙草をポケットに仕舞った。
「美咲と結婚、ねえ」
わたくしは、指に挟んだ煙草が根本まで灰になっている事に気が付き、慌てて灰皿に灰を落とした。
「あのう、差支えがないようでしたら、『あの事』について、私にお聞かせ願えないでしょうか?」
「え?」
久慈は何度も瞬きをした。
「ええ、まあ、構いはしませんけど」
「ああ、そうですよね。なぜ警察でもない私に、江口サダユキの情報を言わなければならないのか、当然不思議に思いますよね」
わたくしは人差し指で頬を掻いた。
「宗村さんは、江口さんの自殺について、興味がおありなんですか?」
わたくしはうーんと唸って、選択に迫られた人の顔をした。
「興味ですか。まあ、ないと言えば全くの嘘になります。しかしそれは決して、有名人の自殺を好奇の目で見ている訳ではないのです。つまり私は、まあ何て言いましょうか、ここのオーナーである岸本から、或る心中事件について相談を受けて、その真相を調べている途中なのです」
「心中事件、ですか?」
ソファーの左端で、理穂は少し顔を上げた。
「はい、その心中事件とは、四週間前にこの地で起きた、不可解な惨劇なんですが、当時このペンションでバイトをしていた天道葵という女性と、木原正樹という宿泊者の男性が、カップルで引き起こした事件なんです」
「天道さん?」
久慈は煙草を指に挟んだまま、その手で口を覆った。
「久慈さんは、天道葵について何かご存じでしたか?」
わたくしは一つ身を乗り出して、両膝の上に手を組み合わせた。
「まあ、微かに名前を覚えている程度です。私が前回ここへ宿泊をしたのが、昨年のちょうど今頃の事ですから、その時に、今食堂にいらっしゃる米元さんと、ここで一緒にバイトをしていた女性が、確か天道さんって名前だったかと」
久慈は、生前の天道葵と一年前に会っていた。これは予想外の収穫ではないだろうか。
「そうでしたか。でしたら、彼女はどんな女性だったのか、何か記憶に残っていますか?」
久慈は灰皿に煙草をすり潰しながら、
「そう言われましても、あの時は確か、天道さんから食事を運んでもらったり、支払の際にちょっと対応してもらったり、した程度の事ですから、何とも」
静かな食堂のガラス戸が開いて、除菌モップを手にしたあずさが現れた。少しこちらへ視線を向けた後、彼女はそのままモップを引いて廊下の奥へと消えた。
「そうですよね、一年前の話ですからね」
「あ」
「どうしました? 何かを思い出しましたか?」
わたくしの視線に気が付いて、久慈は恥ずかしそうに首の後ろに手を当てた。
「いやあ、別に大した事ではないんです。本当に大した事ではないんですけど、宗村さんにそうやって言われてみて、改めてあの日の出来事を思い返してみると、今まで全く気にしていなかった出来事が、何だか急に気になってしまって」
「気になる?」
「はい。いえ、本当に大した事ではないんですけど、うちの娘の理穂がですね、昨年ここへの宿泊に限って、チェックインの直後には、すぐに他の宿に泊まりたがったんです。毎年恒例のようにここへ宿泊していながら、そして、大雪の悪路をやっとの事で辿り着いた宿泊先で、理穂は何だか急に青い顔をして、私の服を引っ張ったんですよ」
「ほう」
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一年前、すぐ目の前の受付に立って、父親の袖を引っ張る娘の青い顔を想像した。
「ふん。確かに、気になる出来事には違いありませんね」
久慈は声のトーンを落とした。
「そして今にして思えば、理穂はあの時、チェックインの対応をしてくれた天道さんを見て、何やら様子がおかしくなったようにも思えるんです」
「天道葵を見て?」
「ええ、私は娘の事をよく理解しているつもりですが、理穂は、自分を傷つけそうな人の目を、決して見ようとはしない傾向があるんです」
突然ヘルムレのフロアークロックが鐘を打ち鳴らした。午前九時の鐘を打っているようだった。久慈は少し我に返るように、
「そうですか、そんな天道さんは先日、恋人と一緒に心中自殺をなさったんですか。それは何ともご愁傷様です。歳は確かまだ若かったと記憶しています。情事に纏わる悲劇は、自分にも多少経験はありますが、本当に嘆かわしいものですね。しかし、そんな心中事件を調べている宗村さんが、どうして江口さんの自殺に興味を持たれているんですか?」
わたくしも声のトーンを低くした。
「それは、つまりこう言う事です。江口サダユキは、スキー場で自殺する前夜、今の私と同じように、天道葵の心中事件について調べていたと、ある人から聞いたからです」
「江口さんが?」
久慈は囁き声で聞き返した。
「はい。彼は、天道葵と一緒に心中した木原正樹とも、どうやら面識があるような話しぶりだったそうです。それを聞いて私は、次には江口サダユキの自殺についても、当然調べる必要があるのではないかと、二人の関係について疑いを持つようになった訳です。そういう意味で、先ほど久慈さんのお話にあった、あの事について教えて欲しいと、こう言った次第なんです」
久慈は深く唸って、前のめりの姿勢を取った。
「なるほど、そういう経緯があったんですか。まあ、私が警察に伝えようとした話ですから、別に宗村さんに話てはいけない事もないのですが」
理穂は漫画本をパラパラと捲って、体を上下に揺すって痙攣を見せた。
「では、改めてもう一度聞きますが、久慈さんが警察に伝えようと迷っていたあの事とは、一体何の事だったんですか?」
久慈は煙草を一本抜き出して、しかし一向にくわえる様子もなく、いつまでも指の間に煙草を転がしていた。
「はい。あの事とはつまり、自殺する直前の江口さんの姿を、偶然うちの娘が目撃したというものです」
わたくしは目を大きくした。
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そのレストハウスとは、美咲がスノーボーダーと接触事故を起こして、救急搬送された救護室のある施設だ。
「理穂はトイレと言って、中地下一階の下の階へ階段を下りていきました。そして、トイレ待ちの列に並んで用を足した娘は、ハンカチで手を拭きながら、ふと目に付いたゲームコーナーへと、何気なく入って行ったそうなんです。そして、クレーンゲームの景品を一つ一つ物色して回るなどしていると、大型筐体の向こうに偶然、江口さんがある女性と話をしているのを見かけたと言うのです」
「それは、何時頃の話でしょうか?」
煙草に火を点けて、彼はゆっくりと煙を吸い込んだ。
「娘の帰りの遅い事から、私は頻りに腕時計を見ていましたから、よく覚えているんですが、それはちょうど一時五〇分の事でした」
江口の死亡推定時刻は午後二時、どんぴしゃだ。
「本当にその男は、江口サダユキ本人だったんでしょうか? 普通芸能人と言えば、大きなサングラスを掛けたり、キャップを目深に被ってみたりと、一般人にバレないような工夫を試みると思うのですが」
少なくとも江口サダユキは、連日テレビに出演しているのだから、女子高校生などに素性を見抜かれれば、一瞬で取り巻きが出来そうに思われた。
「私もその辺りは娘に確認をしました。有名人のそっくりさんとか、世の中には結構いますからね。しかし娘の話では、江口さんは特に顔を隠す様子もなく、堂々と女性と話をしていたそうなんです。朝も食堂でお見かけていますし、第一ロクハチの青いスキーウェアが特徴的で、娘はすぐに分かったと言っていました」
「なるほど」
わたくしは頭の後ろで手を組んで、口を尖らせた。
「娘はその後も、クレーンゲームのショーケース越しに、息を潜めて二人の様子を見守っていましたが、二人はすぐにどこかへ消えてしまったとの事です」
わたくしの頭には、バイフーという言葉が浮かんで消えなかった。
「その直後、江口サダユキは一人リフトに乗って、首吊り自殺をした」
「娘の話が正しければ、そうなります」
突風が建物に衝突して、玄関のドアベルが微かに鳴った。
「いま聞いた話の全ては、とても重要な目撃証言だと思います。久慈さん、あなたはやはりこの事を警察に伝えるべきだと私は思います。娘さんが偶然目撃した女性は、江口の自殺と深い関わりのある人物だと、私は強くそう考えます」
久慈は複雑な表情をして、煙草の火を見つめた。
「理穂は、まあご覧の通りこの様子です。トゥレット障害。遺伝的要因とか、神経の過活動が原因とか、精神的ストレスで悪化するとか、色々に言われていますが、とにかく娘の神経精神疾患の様子を見て、警察の方がどれほど娘の話を相手にしてくれるのか、そこを考えると、私はこのまま黙っていた方が良いのかと、いつもそこを考えてしまいます」
「しかし」
この時外から車の雪を踏む音が聞こえて来た。わたくしは背後の窓を振り返って、美咲のSUV車が駐車場でハンドルを切っているのを認めた。
「すいませんね、何だか長話になってしまったようで。宗村さんは、今回は恋人とご一緒にここへ宿泊されているのでしょうか。とても綺麗な方ですね。本当に羨ましい限りです。もしもこの先にお二人がご結婚なさるような事がありましたら、それはきっといつまでも彼女の事を大切にしてあげて下さい」
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「私はですね、今は亡き妻とは、同じ製薬会社の職場で出会い、大変な恋愛の末に結婚までしてしまったんです。当時私と妻の同じ職場には、私と火花を散らして睨み合うような、最大の恋のライバルが勤務していたんです。その彼は、私なんかよりも断然背が高くて、大学時代から運動が得意で、それはもうもう私とは勝負にならない位の恋敵でして、彼と妻は既に二人でデートにまで出掛ける位の関係でしたから、ああもう私は駄目なのだなと頭を抱えていた所を、何をどう取り違えたのか、妻は突然毅然とした態度で私の事を夫に選んで、なんと結婚までしてしまったのです。とても信じられない展開に、私はおろおろと結婚式場に立っていましたっけ。しかしその後の結婚生活と言えば、まあお互い忙しい忙しいの一点張りで、私なんかは当時東南アジアの海外工場の立ち上げで、現地に単身赴任をせざるを得なくなって、生前の妻には何もしてあげられない状況が何年も続きました。そんな苦い苦い経験がありますから、宗村さんには同じ轍を踏んで欲しくない、あの方を末永く大切にしてあげて欲しいと、そう私は勝手に願うのです。これはあなたより少し先輩のお節介までに」
玄関のドアベルがけたたましく鳴った。わたくしは玄関の方へ顔を向けた。ホルバーのダウンジャケットを着込んだ美咲が、強風に乱れた髪を手で押さえていた。彼女は少し驚いた表情で、久慈篤と会話をするわたくしの姿を認めた。
「では、失礼します」
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