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太古の闇
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『宗村さん、大丈夫でした⁉ 通話の途中でいきなり雑音だらけになって、あたし何度も折返し電話を掛けたんですけど』
わたくしは、羽賀の運転する車の助手席に座って、携帯電話の画面を見た所、ペンションからの着信履歴が五件もあり、そのまま折返しの電話を掛けたのだった。
「すまない、全く気が付かなかった」
左手で濡れた髪を掻き上げて、どさんとシートに背中を預けた。そして、わたくしとあずさの通話が途切れてから、不知火忍の隠れ家で発生した、途轍もない放火の惨劇を手短に伝えた。
『火を放ったのは不知火忍本人とみて間違いないです。宗村さん、晦冥会の元暗殺者と出くわして、よくご無事で戻って来られましたね』
「生きた心地はしなかったけど」
首の後ろに手を当てて、そこの皮膚がヒリヒリと痛んだのに気が付いた。いつこんな所、火に炙られていたのだろうか。
『それで、不知火忍はそのまま姿が見えなくなってしまったんですね?』
「ああ、火の海と化したホールへ出た時には、既に誰の姿もなかった」
羽賀の運転する車は、昼に、黄色いダウンジャケットを着た女が大声で歌っていた、例の緩やかにカーブに差し掛かった。今にして思えば、ここは民家すら無い雪山のど真ん中だった。
『あたしが思うに、彼女の放火の理由には二つの意味があったと思います』
「理由か。そこまで考えなかったな」
『一つは警察の捜査網を攪乱させて、彼女が犯行現場の中で動きやすくする目的、もう一つは、犯罪の証拠隠滅が目的だと思います』
「なるほどな」
『不知火忍は自分の隠れ家に火を放った。彼女の生活を支えた(と思われる)リュックや寝袋まで炎に包まれたのですから、彼女にとってその場所は、もう既に用が無くなったものと考えて良いと思います』
羽賀が突然小さなくしゃみをした。そしてもう一つ、慌ててフロアコンソールのティッシュ箱へ手を伸ばした。
「用が無くなった、か。不知火はもう、やるべき事が済んだという事か?」
『その反対です。彼女のやるべき事はもう最終段階に入ったのだと思います。最終段階、不知火忍はもう身を潜める必要がなくなった。警察からも、晦冥会からも』
わたくしは何となく羽賀の横顔を見た。彼女はこちらの視線に気が付いて、丸めたティッシュを紙袋の中へ入れた。
「最終段階って、一体なんだ。晦冥会から命掛けで脱走し、一年半もの間ペンションの従業員として逃亡生活を続け、今から四週間前に自分を死んだように見せかけながら、完全犯罪で江口サダユキを暗殺、次には不正アクセスを繰り返して、自分の暗殺が目的のバイフーを返り討ちにした後、今度はネットカフェのあちらこちらで放火。挙句の果てに不知火は、一体どんな悪事を企んでいると言うんだ?」
羽賀の出したウインカーの音がやけに大きく聞こえた。あずさの返事は中なか返らなかった。
「おい」
『ああ、はい。宗村さん、地図です。不知火忍の隠れ家に、印の入った地図があったと言いましたよね?』
「地図? ああ、あった」
『赤マジックで印がつけられた場所があったって、宗村さんはそうも言いましたよね?』
「ああ言った」
『その場所って、大体どの辺りか覚えていません?』
「ゲレンデの地図か、んーっと」
わたくしは左手の手の平を額に当てて、あの時見たゲレンデマップの記憶を必死に探した。しかし、ここの土地勘の全く無いわたくしは、いつまでも頭をひねるでしかなかった。
「宗村さん、グローブボックスの中に、スキー場の地図が入っています」
羽賀は小声を使った。
「え? あ、申し訳ない」
ダッシュボード下部の収納スペースに、アンテナショップなどで置かれるような、蛇腹折りのゲレンデマップが入っていた。松明を持って夜のゲレンデを滑走するパンフレットの表紙を確認して、マップのページをべらべらと両手で開くと、不知火の部屋にあったゲレンデマップと、多分同じ原画の雪山が掲載されていた。わたくしは肩と耳の間に携帯電話を挟んで、人差し指を地図の上に置いた。
「ああやっぱり、同じものを見ればすぐに分かる。マップ右上のジャイアントコースから大きく山岳地帯へ入った所だった。間違いない、そこに赤マジックで印がされていた」
『ジャイアントコースとホテルAコースの非圧雪の更に東側ですね?』
返事の遅れから、電話の向こうでも地図を開いているようだった。
「そうそう。うん、間違いない、そこだ」
電話の向こう側が静かになった。
「どうした? これで何かが分かるのか?」
『宗村さん』
「なんだ」
大きく息を吸い込む音が聞こえた。
『あたしの記憶に間違いが無ければ、不知火忍が地図上に印をつけたその場所は、二年前に美咲さんと太古さんが雪崩に遭った場所と同じです』
空は低く曇りながら、その灰色は案外明るく、そこから舞い散る粉雪は、海底に漂う何億というプランクトンのように、遠くはゆっくり、近くは早くに動いて見えた。
わたくしは電話を切って、右手に携帯電話を持ったまま、窓の外へ視線を投げていた。
美咲の婚約者の太古秀勝は、腕利きの刑事だった。晦冥会の闇の部分について、彼は単独で捜査を進めていた。
『秀勝がファイルに収拾していた資料とは、晦冥会に関するありとあらゆる調査記録だったのです』
今から二年前の冬、スキー場から外れた立入禁止区域で、太古秀勝は表層雪崩に遭った。しかも、婚約者である美咲を巻き添えにした形で。その後で彼は、安全な場所へ美咲を移動させると、山岳救助隊に救援を要請する為、自力での下山を決意した。しかしそれが、彼の最期の姿となって、現在に至るも行方が分かっていない。
『もう一枚の手書きの地図は、地名こそ記されてはいませんでしたが、ゲレンデの配置と特徴的な山の地形から、わたしと秀勝が雪崩に遭った場所の、登山地図を手書きで写したものと見て間違いありませんでした』
美咲は、今は亡き彼の部屋で、晦冥会に関するありとあらゆる調査記録と、不可解な手書きの登山地図を見つけた。その地図とはどういう訳か、二人が雪崩に遭った悲劇の現場だった。その上あずさは、二人が雪崩に遭った雪山の位置と、不知火忍が地図に印を付けた山中は、一致していると言う。
羽賀は、黙りこくるわたくしに対して、言葉を掛けていいものか、ひどく当惑している様子だった。わたくしはそれには構わずに、太古秀勝について真剣に考え始めた、彼の行方不明の本当の理由について。
こう考えてみてはどうだろうか。今から二年前に、太古秀勝が雪崩に巻き込まれたのは、雪崩の起きやすいその危険な区域に、晦冥会のやばい秘密が隠されている事を知っていたと。その立入禁止区域に入って、晦冥会の秘密を暴こうとして、彼と美咲は、その身にとんでもない災いを被った。無論、被災した当時の美咲は、今言ったような晦冥会の秘密などは知る由もなく、婚約者の破天荒な行動が、スキー場関係者に多大なる迷惑を掛けてしまったと、自分たちの迂闊な行動を恥かしく思う程度だったに違いない。
突然羽賀の携帯電話が鳴った。彼女は携帯電話と取り出して、着信者の名前を確認すると、車を路肩へ停車させて、お疲れ様です羽賀です、と言って電話に出た。
わたくしは更に太古についての想像を膨らませた。当時の彼は晦冥会の裏の顔について必死に手掛かりを追い求めていた。それは今の石動刑事のように、不審な自殺者の謎の解明が目的だったか、もしくは田舎の警察署で大手柄を上げて、警視庁捜査一課へ推薦されたいが為だろうか、とにかくそんな彼の元に、突然の幸運が舞い込んだ。それは、どういった経緯かで、晦冥会の犯罪の決定的な情報が、予期せず彼の耳に入ったのだ。それはきっと正式なルートの情報ではないだろう、晦冥会時代の美咲に情報を持ち掛けて来た不審な男のように、非公式な場でのタレコミだったのかも知れない。
それが故に、晦冥会の存在をも揺るがすそのやばい秘密には、曖昧で不完全な情報が数多く、彼はその裏を取るべく足繁くスキー場へやって来ては、雪山の隅々まで調べて回った。
『まあ俺に言わせればあいつはただのスノボバカだったけどね。週末になれば美咲ちゃんを連れて一日中ずっとゲレンデにいたね。仕事の俺たちだってあんなに滑らないよ』
羽深はマグカップの水気を切って、呆れた声を聞かせた。彼はスノボバカと呼ばれる程、SAJのインストラクターを巻き込む形で、この雪山を捜査の拠点としていたのではないだろうか。そして、晦冥会の秘密の場所がある程度特定でき、最終的に登山地図まで手書きに残した。後は実際にその場所へ行って、晦冥会の秘密を暴くまでと、彼はそう意気込んだ矢先に、悲運にも雪崩に遭ってしまった。
雪道で二車線を確保できない停車中の車に対して、後続車が二、三台渋滞する程、羽賀の電話は長かった。通話時間の殆どを聞き手に回っていた。
わたくしの想像は更に、二人が雪崩に遭った後について膨らんで行った。雪崩に遭って奇跡的に無事だった太古は、負傷した美咲を安全な場所に待機させて、救援の要請をする為に、単独の下山を決意した。しかしそれは、負傷した美咲の救助の為ではなく、その後の彼の捜索の口実に過ぎなかったのではないだろうか。彼はひょっとして、それからも晦冥会の闇に憑りつかれたように、雪崩の現場の周辺を捜査していたのではないだろうか。婚約者である美咲の安全よりも、自分の手柄を優先してしまったのではないだろうか。
『わたし、もう少し宗村さんの事を信じてみたいと思います。わたしの人生は人に裏切られる事の連続でしたので、多少他の人より疑い深くなっているようです。宗村さん? 信じても、大丈夫なんですよね?』
美咲が握って来た左手を眺めた。もしかして彼女は、わたくしの想像したここまでの事に、果たして気が付いてしまっているのだろうか。婚約者の生命よりも、晦冥会の闇を追い掛けてしまった、彼の恐ろしい判断について。
『そう考えるに十分な資料が、彼の部屋のファイルから出て来たのです。晦冥会という大規模な宗教団体には、どうやら秀勝が暴こうとしていた大きな秘密があって、彼はその秘密に手を出してしまったが故に、予測不可能なトラブルに巻き込まれ、そのまま行方不明となってしまった』
美咲は、自分の胸から遠く離れて行った婚約者の行方を追って、無謀にも晦冥会の懐へ飛び込んで行った。しかしその胸に抱いた深い悲しみの闇は、底知れぬものがあったと思う。
『はい? 深い事情って、何ですか? 一体どんな事情があって、あずさとあんな事をしていたんですか?』
わたくしの必死の弁明は、悲しい響きでしかなかった。
『バカ』
美咲は右手を振り上げたまま、ぼろぼろと大粒の涙を落としていた。その涙の本当の理由に、わたくしは今やっと気が付いた思いだった。
「今回の件とは無関係な可能性があると。はい、分かりました。署に戻ったら、もっと詳しい話をお願いします」
「?」
羽賀は携帯電話を切って、顎に指を置いた。すぐにわたくしの視線に気が付いた。
「どうか、したんですか?」
彼女は顔を下げたまま、しばらくは携帯電話のタッチスクリーンを操作していた。
「あの、事件がどうのって」
彼女の横顔を隠す、ショートボブの髪をわたくしは見守った。
「羽賀さん?」
羽賀は指で額を擦って、如何にも言い難そうに、
「ああ、はい。ええっと、今所轄からなんですけど、ここから数キロ先にあるM大橋の真下で、髪の長い女性の遺体が発見されたと連絡が入りました」
「!」
「身元の確認はこれからだそうですが、橋の上に靴が揃えてあったり、揉み合った形跡がない事から、投身自殺ではないかという話です」
『わたしのこと、すっかり忘れてしまったんですね?』
美咲の瞳が潤み、微かな明かりにも涙の一すじが分かった。
『バカ』
わたくしの顔から血の気が引いて行った。
わたくしは、羽賀の運転する車の助手席に座って、携帯電話の画面を見た所、ペンションからの着信履歴が五件もあり、そのまま折返しの電話を掛けたのだった。
「すまない、全く気が付かなかった」
左手で濡れた髪を掻き上げて、どさんとシートに背中を預けた。そして、わたくしとあずさの通話が途切れてから、不知火忍の隠れ家で発生した、途轍もない放火の惨劇を手短に伝えた。
『火を放ったのは不知火忍本人とみて間違いないです。宗村さん、晦冥会の元暗殺者と出くわして、よくご無事で戻って来られましたね』
「生きた心地はしなかったけど」
首の後ろに手を当てて、そこの皮膚がヒリヒリと痛んだのに気が付いた。いつこんな所、火に炙られていたのだろうか。
『それで、不知火忍はそのまま姿が見えなくなってしまったんですね?』
「ああ、火の海と化したホールへ出た時には、既に誰の姿もなかった」
羽賀の運転する車は、昼に、黄色いダウンジャケットを着た女が大声で歌っていた、例の緩やかにカーブに差し掛かった。今にして思えば、ここは民家すら無い雪山のど真ん中だった。
『あたしが思うに、彼女の放火の理由には二つの意味があったと思います』
「理由か。そこまで考えなかったな」
『一つは警察の捜査網を攪乱させて、彼女が犯行現場の中で動きやすくする目的、もう一つは、犯罪の証拠隠滅が目的だと思います』
「なるほどな」
『不知火忍は自分の隠れ家に火を放った。彼女の生活を支えた(と思われる)リュックや寝袋まで炎に包まれたのですから、彼女にとってその場所は、もう既に用が無くなったものと考えて良いと思います』
羽賀が突然小さなくしゃみをした。そしてもう一つ、慌ててフロアコンソールのティッシュ箱へ手を伸ばした。
「用が無くなった、か。不知火はもう、やるべき事が済んだという事か?」
『その反対です。彼女のやるべき事はもう最終段階に入ったのだと思います。最終段階、不知火忍はもう身を潜める必要がなくなった。警察からも、晦冥会からも』
わたくしは何となく羽賀の横顔を見た。彼女はこちらの視線に気が付いて、丸めたティッシュを紙袋の中へ入れた。
「最終段階って、一体なんだ。晦冥会から命掛けで脱走し、一年半もの間ペンションの従業員として逃亡生活を続け、今から四週間前に自分を死んだように見せかけながら、完全犯罪で江口サダユキを暗殺、次には不正アクセスを繰り返して、自分の暗殺が目的のバイフーを返り討ちにした後、今度はネットカフェのあちらこちらで放火。挙句の果てに不知火は、一体どんな悪事を企んでいると言うんだ?」
羽賀の出したウインカーの音がやけに大きく聞こえた。あずさの返事は中なか返らなかった。
「おい」
『ああ、はい。宗村さん、地図です。不知火忍の隠れ家に、印の入った地図があったと言いましたよね?』
「地図? ああ、あった」
『赤マジックで印がつけられた場所があったって、宗村さんはそうも言いましたよね?』
「ああ言った」
『その場所って、大体どの辺りか覚えていません?』
「ゲレンデの地図か、んーっと」
わたくしは左手の手の平を額に当てて、あの時見たゲレンデマップの記憶を必死に探した。しかし、ここの土地勘の全く無いわたくしは、いつまでも頭をひねるでしかなかった。
「宗村さん、グローブボックスの中に、スキー場の地図が入っています」
羽賀は小声を使った。
「え? あ、申し訳ない」
ダッシュボード下部の収納スペースに、アンテナショップなどで置かれるような、蛇腹折りのゲレンデマップが入っていた。松明を持って夜のゲレンデを滑走するパンフレットの表紙を確認して、マップのページをべらべらと両手で開くと、不知火の部屋にあったゲレンデマップと、多分同じ原画の雪山が掲載されていた。わたくしは肩と耳の間に携帯電話を挟んで、人差し指を地図の上に置いた。
「ああやっぱり、同じものを見ればすぐに分かる。マップ右上のジャイアントコースから大きく山岳地帯へ入った所だった。間違いない、そこに赤マジックで印がされていた」
『ジャイアントコースとホテルAコースの非圧雪の更に東側ですね?』
返事の遅れから、電話の向こうでも地図を開いているようだった。
「そうそう。うん、間違いない、そこだ」
電話の向こう側が静かになった。
「どうした? これで何かが分かるのか?」
『宗村さん』
「なんだ」
大きく息を吸い込む音が聞こえた。
『あたしの記憶に間違いが無ければ、不知火忍が地図上に印をつけたその場所は、二年前に美咲さんと太古さんが雪崩に遭った場所と同じです』
空は低く曇りながら、その灰色は案外明るく、そこから舞い散る粉雪は、海底に漂う何億というプランクトンのように、遠くはゆっくり、近くは早くに動いて見えた。
わたくしは電話を切って、右手に携帯電話を持ったまま、窓の外へ視線を投げていた。
美咲の婚約者の太古秀勝は、腕利きの刑事だった。晦冥会の闇の部分について、彼は単独で捜査を進めていた。
『秀勝がファイルに収拾していた資料とは、晦冥会に関するありとあらゆる調査記録だったのです』
今から二年前の冬、スキー場から外れた立入禁止区域で、太古秀勝は表層雪崩に遭った。しかも、婚約者である美咲を巻き添えにした形で。その後で彼は、安全な場所へ美咲を移動させると、山岳救助隊に救援を要請する為、自力での下山を決意した。しかしそれが、彼の最期の姿となって、現在に至るも行方が分かっていない。
『もう一枚の手書きの地図は、地名こそ記されてはいませんでしたが、ゲレンデの配置と特徴的な山の地形から、わたしと秀勝が雪崩に遭った場所の、登山地図を手書きで写したものと見て間違いありませんでした』
美咲は、今は亡き彼の部屋で、晦冥会に関するありとあらゆる調査記録と、不可解な手書きの登山地図を見つけた。その地図とはどういう訳か、二人が雪崩に遭った悲劇の現場だった。その上あずさは、二人が雪崩に遭った雪山の位置と、不知火忍が地図に印を付けた山中は、一致していると言う。
羽賀は、黙りこくるわたくしに対して、言葉を掛けていいものか、ひどく当惑している様子だった。わたくしはそれには構わずに、太古秀勝について真剣に考え始めた、彼の行方不明の本当の理由について。
こう考えてみてはどうだろうか。今から二年前に、太古秀勝が雪崩に巻き込まれたのは、雪崩の起きやすいその危険な区域に、晦冥会のやばい秘密が隠されている事を知っていたと。その立入禁止区域に入って、晦冥会の秘密を暴こうとして、彼と美咲は、その身にとんでもない災いを被った。無論、被災した当時の美咲は、今言ったような晦冥会の秘密などは知る由もなく、婚約者の破天荒な行動が、スキー場関係者に多大なる迷惑を掛けてしまったと、自分たちの迂闊な行動を恥かしく思う程度だったに違いない。
突然羽賀の携帯電話が鳴った。彼女は携帯電話と取り出して、着信者の名前を確認すると、車を路肩へ停車させて、お疲れ様です羽賀です、と言って電話に出た。
わたくしは更に太古についての想像を膨らませた。当時の彼は晦冥会の裏の顔について必死に手掛かりを追い求めていた。それは今の石動刑事のように、不審な自殺者の謎の解明が目的だったか、もしくは田舎の警察署で大手柄を上げて、警視庁捜査一課へ推薦されたいが為だろうか、とにかくそんな彼の元に、突然の幸運が舞い込んだ。それは、どういった経緯かで、晦冥会の犯罪の決定的な情報が、予期せず彼の耳に入ったのだ。それはきっと正式なルートの情報ではないだろう、晦冥会時代の美咲に情報を持ち掛けて来た不審な男のように、非公式な場でのタレコミだったのかも知れない。
それが故に、晦冥会の存在をも揺るがすそのやばい秘密には、曖昧で不完全な情報が数多く、彼はその裏を取るべく足繁くスキー場へやって来ては、雪山の隅々まで調べて回った。
『まあ俺に言わせればあいつはただのスノボバカだったけどね。週末になれば美咲ちゃんを連れて一日中ずっとゲレンデにいたね。仕事の俺たちだってあんなに滑らないよ』
羽深はマグカップの水気を切って、呆れた声を聞かせた。彼はスノボバカと呼ばれる程、SAJのインストラクターを巻き込む形で、この雪山を捜査の拠点としていたのではないだろうか。そして、晦冥会の秘密の場所がある程度特定でき、最終的に登山地図まで手書きに残した。後は実際にその場所へ行って、晦冥会の秘密を暴くまでと、彼はそう意気込んだ矢先に、悲運にも雪崩に遭ってしまった。
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『わたし、もう少し宗村さんの事を信じてみたいと思います。わたしの人生は人に裏切られる事の連続でしたので、多少他の人より疑い深くなっているようです。宗村さん? 信じても、大丈夫なんですよね?』
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『そう考えるに十分な資料が、彼の部屋のファイルから出て来たのです。晦冥会という大規模な宗教団体には、どうやら秀勝が暴こうとしていた大きな秘密があって、彼はその秘密に手を出してしまったが故に、予測不可能なトラブルに巻き込まれ、そのまま行方不明となってしまった』
美咲は、自分の胸から遠く離れて行った婚約者の行方を追って、無謀にも晦冥会の懐へ飛び込んで行った。しかしその胸に抱いた深い悲しみの闇は、底知れぬものがあったと思う。
『はい? 深い事情って、何ですか? 一体どんな事情があって、あずさとあんな事をしていたんですか?』
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『バカ』
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「?」
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「あの、事件がどうのって」
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「羽賀さん?」
羽賀は指で額を擦って、如何にも言い難そうに、
「ああ、はい。ええっと、今所轄からなんですけど、ここから数キロ先にあるM大橋の真下で、髪の長い女性の遺体が発見されたと連絡が入りました」
「!」
「身元の確認はこれからだそうですが、橋の上に靴が揃えてあったり、揉み合った形跡がない事から、投身自殺ではないかという話です」
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