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夜明け前
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公園の電灯に羽虫が飛んでいるみたいに、ペンションの外壁に雪の影が動いていた。羽賀の車から降りると同時に、ポーチライトが自動点灯したのだった。
まだ明るい内だと思って、ログハウスらしい深い軒の空を見上げると、スキー場のナイターの照明で夜空が柑子色に染まっていた。
「宗村さん、今日はどうもありがとうございました。また日を置いて、きちんとお礼をしたいと思います。とりあえず今日の所はこれで」
助手席のパワーウインドウが下りて、羽賀の顔がヘッドライトの照り返しに浮かんだ。
「こちらこそ。捜査の役に立てなかったばかりか、皆さんに大変心配を掛けてしまって、面目ない。まあ尤も、不知火忍の身柄が拘束できなかった以上、羽田さんの言うウマいモンは、一時お預けと言った所でしょう」
吹き出しそうな羽賀の白い顔が、ゆっくりと上がったパワーウインドウに隠されると、車は総合病院の方角へと走り出した。
わたくしは、靴の中に雪が入らないよう垂直に足を踏みながら、ペンションの駐車場へ顔を出した。
『何かとても思い詰めた顔をして、スノーボードのウェアを着て、とにかく車に乗ってどこかへ行ってしまったんです。あたし、美咲さんの背中から必死に呼び掛けたんですけど』
水銀灯の白い光に照らされた駐車場には、雪に覆われた軽自動車が一台、ぽつんと駐車されていた。
「戻って、いないか」
M大橋の真下で女性の遺体が発見された。その連絡が羽賀に入ってから間もなくの事、同じ連絡が加藤からも入った。彼は遺体発見現場からこちらへ直接電話を掛けていた。加藤は、避難中に煙を吸って気分が悪くなったと言う羽田に付き添う形で総合病院の待合室にいた。そこを遺体発見の連絡が署から入り、羽田の臨床症状とCOHb濃度の結果に問題がないのを確認した後に、M大橋へ急行したと言う。
「瓜二つ?」
「はい。本日発見された二人の自殺遺体は、双子ではないかと加藤は言っていました」
実際に遺体と対面した加藤の話では、発見された遺体は、高さ三〇メートル以上はある橋桁から転落し、巨大なかんらん岩に頭部を強打して即死の状態だった。死後硬直が全身に見られる事や、角膜の濁りによって瞳が殆ど見えない状況から、死後十二時間以上は経過しているとの検死結果だった。
加藤は更に、遺体の顔を見てハッとしたと言う。それは、半分血に染まった遺体の顔が、ネットカフェの一室で服毒自殺していた例の女性と、瓜二つだったからだ。本格的な身元の確認はこれからになるだろうが、彼は、同じ日に遺体として発見された二人は、双子である可能性が高いと指摘した。
カランコロンと真鍮のドアベルを鳴らして、わたくしはラウンドノッチの丸太組みの玄関へ入った。パタパタとスリッパの打つ音が聞こえたかと思うと、ハートドットのスリーピンで額髪を留めた、そこいらの中学生と変わらないあずさが、右手の食堂のガラス戸から顔を出した。
「あ、宗村さん。良かった、ご無事でしたね」
わたくしは黒い革靴を脱いで、湿った靴下でスノコを踏んだ。足の指の間が気持ち悪く、思い切って靴下を脱ぎ、丸めてズボンのポケットへ押し込んだ。
あずさは飛んで来てスノコに両膝を突くと、まめまめしくわたくしの革靴を掴んで、流木を組んだ下駄箱の中へ入れようとして、靴の湿り気に気が付くと、そのまま靴を持って乾燥室へ消えた。
「そこまでしなくても」
戻って来たあずさは、左右からわたくしの頭を覗き込んだ。
「あれ? 髪の毛の先端が、ちりちりです」
「火炎瓶を投げられたからね」
わたくしは裸足でぺたぺたと赤松の床を歩くと、ただただ美咲の安否が気掛かりで、脇目も振らずに二階へ向かった。その階段の踊り場で、背後から追って来たあずさに右腕を取られた。
「宗村さん、お話が」
「後にしてくれ。俺は今急いでいる」
振り返りざま、吹き抜けの談話室が目下に入った。そこには、中学生の久慈の娘が、一人ソファーに腰掛けていた。少し驚いて大きくした目が、わたくしとあずさのやり取りを見上げていた。雑誌や漫画本を開くでもなく、ぴたりと両膝を閉じて、出仕の神主のように背筋を伸ばした姿勢で座っていた。
「ポストの下に貼ったバイフーへの手紙、さっき見たら無くなっていました」
「なに」
あずさを振り切って行き掛けたわたくしの足はぴたりと止まった。
「あたしが不破昂佑の実の孫だと言う身分を明かした上で、美咲さんには絶対に手出しをしないように頼んだ手紙、それはきっと今、不知火忍の手中にあります」
ピンクのグロスで艶めいた唇が動いた。
「不知火は、ネットカフェで放火を繰り返した後、その足でここへ立ち寄ったという事か?早いな、一体どうやってここまで。車の音とか、タイヤの跡とか、なかったか?」
あずさは左右に髪の毛を振った。
「とにかく、あたしの手紙さえ読んでくれれば、彼女はきっと美咲さんには手出ししないはずです」
わたくしは人差し指で眉間の皺を触った。
「だと良いのだが。彼女は今日だけでも少なくとも二人は暗殺している。出火したネットカフェの部屋で発見された服毒死の女と、M大橋から転落死した女。二人は瓜二つの顔からして双子だと言う話だから、不知火忍を追って来た晦冥会のバイフーだったのだろう」
「そんな、警察署に易々と忍び込んで高田さんを暗殺するような凄腕の暗殺者が、同じ日に二人も返り討ちに遭ったという事ですか?」
『相手は無類の殺し屋だ。君みたいなずぶの素人など、ひとたまりもないからな』
敷島が警鐘を鳴らしたその意味が、今では真摯に受け止められる。晦冥会の殺し屋同士の抗争、その中で我々一般人は成す術がない。
「そうだな、今は晦冥会の末裔である君の手紙だけが頼りだ」
ボルドーカラーのアイシャドウで、奥二重の目許が強調された、ガールズクラッシュ系の可愛さが、わたくしの上着の裾を掴んだ。
その時、吹き抜けとなった玄関に、一人の老人が立っているのが視界に入った。その白髪の男は、黒檀のステッキで革靴に付いた雪を払いながら、こちらへ眇目を上げた。はて、ドアベルが鳴った記憶がない。
あずさはゆっくりとわたくしの視線を追って、右肩に顎を当てた。
「あずさ様」
低く迫るような声が階段まで届いた。
「氷室さん、どうしてこんな所に」
「え」
わたくしは、口許に右手を当てたあずさと、堅気には見えない老人とを、必死に見比べた。氷室、氷室、氷室理事長? 短髪に眉毛ともみあげまで白髪交じりのこの老人が、晦冥会の最高権力者の右腕? わたくしは知らず知らずの内に、ログウォールのセトリングの隙間に背中をつけた。
「あずさ様、お久し振りでございます。大変大きくなられました」
氷室は銀メッキのグリップに、白手袋の両手を重ねた。
「何しに来たの?」
あずさはわたくしの上着の裾を放さなかった。
「あずさ様、お迎えに上がりました。どうかこれより、私と御同行下さいませ」
「え」
あずさは表情を失った。
「今宵より、我が晦冥会にとって、一大変革の時勢を迎えます。つきましては、あずさ様の御英断が必要なのでございます」
氷室は小柄な男だが、伝統武術の奥義を究めた総師範のように、尋常でない威風が漂っていた。
「嫌よ、あたしは晦冥会とは関わりたくないの。今まで通り普通に生活して、この人と一緒になるの」
「こ、こら」
氷室の鋭い眼光がわたくしを捉えた。薄く瞑った片目が白く濁っていた。
「貴殿は、何処かで見掛けた顔だな。あずさ様を誑かす輩か」
懐から銃口を向けられたような、命の危うさを感じた。
「そんな、ボクは全然、この子とは、全然そんな」
「ちょっと宗村さん! あたしを抱いてくれたじゃないですか!」
「コ、コラ!」
手の平であずさの口を押さえた。
「あずさ様、しかとこの耳が聞き届けましたぞ。そこの宗村とやら、何れ時を置いて落とし前をつけねばなるまいな」
「落とし前!」
その時、強風でドアベルが鳴って、もう一人誰かがペンション内に入って来た。手首にファーの付いた皮手袋で、ムートンコートの肩の雪を払う、ソフィスティケートな六〇くらいの女性だった。
「お祖母様」
あずさの顔色が変わった。お祖母様とは、この高貴な貴婦人こそ、不破昂佑の前妻である白鳥明日香と言う事か?
「まあひどい風、どうしてこんなに吹雪くのかしら。あずさ、早く支度をしなさい。みんなあなたに会いたがっているのよ」
間違いなく歳は行っているのだが、大御所女優のような妖艶な色気と、家事や子育てに手を付けなかったと思われる透明感のある肌が、とにかく際立った。
「支度って、どういう事? あたしはこれから」
あずさは一段階段を下りて、胸に右手を当てた。
「とにかく話はあとあと、さあこちらへいらっしゃい」
「どこへ行くの?」
あずさはもう一歩、階段を踏み下ろした。
「あなたの御爺様の所。加世様もご一緒よ」
加世様だって? と言う事は、今朝部屋の窓から見たプロビデンスの目は、やはり上月加世だったのか。
「御爺様は今、あなたの顔が見たいとおっしゃっているの。あなたの顔を見て、あなたと心行くまで話をして、大切なご決断をなさりたいの。ね、だから早く支度をして、私たちと一緒に来なさい」
あずさはがくんと項垂れて、顔に掛かった髪の毛の内に表情を隠した。こちらの角度からは、唇を噛んでいる口許だけが見えた。
「あずさ様、時間に限りがございます故、どうかお早く」
あずさは両手に拳を作って、小刻みに肩を震わせた。
「そう。分かったわ。御爺様に会うのは、本当に十何年振りかな。あたしの顔、覚えていると良いのだけど」
それを聞いた玄関の二人は、きつく結んだ紐をほどく時のような、緊張した表情からの和らぎを見せた。
「御爺様は、あなたの事を片時も忘れた事がないわ。いつでもあなたの身を案じていらしたわ」
あずさは一段、二段と階段を下りかけて、気を変えたように踵を返し、そのままわたくしの所まで戻って来た。
「宗村さん」
うなじに両手を回して、黄金のチェーンのフックを外すと、月の紋章の掘られたペンダントをわたくしの前へ突き出した。
「宗村さん、これを」
わたくしにだけ聞こえる小声。
「ちょ、ちょっと」
「あたしたち、しばらくの間会えなくなるかも知れません。せめて、これをあたしだと思って、大切に預かっていて下さい」
あずさはにっこりと微笑んで、両手でわたくしの右手を取ると、その手中に晦冥会の末裔の証を握らせた。
「こ、こら、こんな大切な物を。あ、ちょっと待て」
あずさは支度も何もなく、祖母と氷室の待つ玄関へと走って行くと、そのままウェッジソールのブーツを履いた。余りの展開の早さに、わたくしは黄金のペンダントを右手に、階段の踊り場で放心状態となっていた。白鳥明日香が深く頭を下げて、三人がしてペンションを後にするその匆匆たる姿を、談話室の久慈の娘も見ていた。
走り去る車のエグゾーストノートを聞いて、わたくしは徐々に今自分が置かれた状況を思い出した。わたくしにとって今は美咲の安否が最優先だ。あずさのペンダントをぐっと握って、急いで自室へと向かった。
美咲は自室のドアに鍵を掛けていなかった。わたくしは真っ暗な室内へ押し入って、廊下からの照明に己の影を落とした。部屋の電気も点けずに、もぬけの殻となった部屋の様子を見回した。美咲が誰かと争った形跡も、何者かによって部屋が荒らされた形跡も無かった。ただ薄暗いライティングデスクの上で、ノートパソコンのディスプレイが休止状態となっていた。
「美咲」
誰もいないと承知しながら、わたくしが今最も求めている女性の名前を口にした。かちかちと硬い雪が窓を打つ音が聞こえるのみで、誰の返事も返らない。わたくしの不吉な思いはピークに達していた。美咲のPCが置かれたデスクの前に立って、手探りでマウスを動かすと、青いディスプレイが顔を照らした。その時背後に人の気配を感じて、身の危険から半ばパニックになって振り返った。
「誰だ」
部屋の入口に立ち、廊下の照明で逆光となった、一人の少女がこちらを見ていた。わたくしは左手で廊下の明かりを隠して、薄目で目を凝らすと、先程まで談話室に座っていた久慈の娘だと分かった。
「君は、久慈さんの」
ぎゅっとコクーンスカートを掴んで、彼女は張り詰めたように立っていた。
「わたしは久慈りおです。おじさん、少しお話いいですか?」
彼女は確か、トゥレット障害とか言う神経精神疾患の少女。
「話?」
わたくしは、障害を持った少女に対してどう接したら良いのか、その経験の乏しさから戸惑った声を出した。
「おじさんの恋人、椎名美咲さんについてのお話です」
「なに」
わたくしはデスクから離れ、ベッドの横まで歩いた。
りおは怯えた様子で、斜め下の床へ視線を落とした。そして、満を持して彼女はこう言った。
「椎名美咲さんは、本日午後八時五十二分に、首吊り自殺の遺体となって発見されます。これは既に決まってしまっている運命なのです」
まだ明るい内だと思って、ログハウスらしい深い軒の空を見上げると、スキー場のナイターの照明で夜空が柑子色に染まっていた。
「宗村さん、今日はどうもありがとうございました。また日を置いて、きちんとお礼をしたいと思います。とりあえず今日の所はこれで」
助手席のパワーウインドウが下りて、羽賀の顔がヘッドライトの照り返しに浮かんだ。
「こちらこそ。捜査の役に立てなかったばかりか、皆さんに大変心配を掛けてしまって、面目ない。まあ尤も、不知火忍の身柄が拘束できなかった以上、羽田さんの言うウマいモンは、一時お預けと言った所でしょう」
吹き出しそうな羽賀の白い顔が、ゆっくりと上がったパワーウインドウに隠されると、車は総合病院の方角へと走り出した。
わたくしは、靴の中に雪が入らないよう垂直に足を踏みながら、ペンションの駐車場へ顔を出した。
『何かとても思い詰めた顔をして、スノーボードのウェアを着て、とにかく車に乗ってどこかへ行ってしまったんです。あたし、美咲さんの背中から必死に呼び掛けたんですけど』
水銀灯の白い光に照らされた駐車場には、雪に覆われた軽自動車が一台、ぽつんと駐車されていた。
「戻って、いないか」
M大橋の真下で女性の遺体が発見された。その連絡が羽賀に入ってから間もなくの事、同じ連絡が加藤からも入った。彼は遺体発見現場からこちらへ直接電話を掛けていた。加藤は、避難中に煙を吸って気分が悪くなったと言う羽田に付き添う形で総合病院の待合室にいた。そこを遺体発見の連絡が署から入り、羽田の臨床症状とCOHb濃度の結果に問題がないのを確認した後に、M大橋へ急行したと言う。
「瓜二つ?」
「はい。本日発見された二人の自殺遺体は、双子ではないかと加藤は言っていました」
実際に遺体と対面した加藤の話では、発見された遺体は、高さ三〇メートル以上はある橋桁から転落し、巨大なかんらん岩に頭部を強打して即死の状態だった。死後硬直が全身に見られる事や、角膜の濁りによって瞳が殆ど見えない状況から、死後十二時間以上は経過しているとの検死結果だった。
加藤は更に、遺体の顔を見てハッとしたと言う。それは、半分血に染まった遺体の顔が、ネットカフェの一室で服毒自殺していた例の女性と、瓜二つだったからだ。本格的な身元の確認はこれからになるだろうが、彼は、同じ日に遺体として発見された二人は、双子である可能性が高いと指摘した。
カランコロンと真鍮のドアベルを鳴らして、わたくしはラウンドノッチの丸太組みの玄関へ入った。パタパタとスリッパの打つ音が聞こえたかと思うと、ハートドットのスリーピンで額髪を留めた、そこいらの中学生と変わらないあずさが、右手の食堂のガラス戸から顔を出した。
「あ、宗村さん。良かった、ご無事でしたね」
わたくしは黒い革靴を脱いで、湿った靴下でスノコを踏んだ。足の指の間が気持ち悪く、思い切って靴下を脱ぎ、丸めてズボンのポケットへ押し込んだ。
あずさは飛んで来てスノコに両膝を突くと、まめまめしくわたくしの革靴を掴んで、流木を組んだ下駄箱の中へ入れようとして、靴の湿り気に気が付くと、そのまま靴を持って乾燥室へ消えた。
「そこまでしなくても」
戻って来たあずさは、左右からわたくしの頭を覗き込んだ。
「あれ? 髪の毛の先端が、ちりちりです」
「火炎瓶を投げられたからね」
わたくしは裸足でぺたぺたと赤松の床を歩くと、ただただ美咲の安否が気掛かりで、脇目も振らずに二階へ向かった。その階段の踊り場で、背後から追って来たあずさに右腕を取られた。
「宗村さん、お話が」
「後にしてくれ。俺は今急いでいる」
振り返りざま、吹き抜けの談話室が目下に入った。そこには、中学生の久慈の娘が、一人ソファーに腰掛けていた。少し驚いて大きくした目が、わたくしとあずさのやり取りを見上げていた。雑誌や漫画本を開くでもなく、ぴたりと両膝を閉じて、出仕の神主のように背筋を伸ばした姿勢で座っていた。
「ポストの下に貼ったバイフーへの手紙、さっき見たら無くなっていました」
「なに」
あずさを振り切って行き掛けたわたくしの足はぴたりと止まった。
「あたしが不破昂佑の実の孫だと言う身分を明かした上で、美咲さんには絶対に手出しをしないように頼んだ手紙、それはきっと今、不知火忍の手中にあります」
ピンクのグロスで艶めいた唇が動いた。
「不知火は、ネットカフェで放火を繰り返した後、その足でここへ立ち寄ったという事か?早いな、一体どうやってここまで。車の音とか、タイヤの跡とか、なかったか?」
あずさは左右に髪の毛を振った。
「とにかく、あたしの手紙さえ読んでくれれば、彼女はきっと美咲さんには手出ししないはずです」
わたくしは人差し指で眉間の皺を触った。
「だと良いのだが。彼女は今日だけでも少なくとも二人は暗殺している。出火したネットカフェの部屋で発見された服毒死の女と、M大橋から転落死した女。二人は瓜二つの顔からして双子だと言う話だから、不知火忍を追って来た晦冥会のバイフーだったのだろう」
「そんな、警察署に易々と忍び込んで高田さんを暗殺するような凄腕の暗殺者が、同じ日に二人も返り討ちに遭ったという事ですか?」
『相手は無類の殺し屋だ。君みたいなずぶの素人など、ひとたまりもないからな』
敷島が警鐘を鳴らしたその意味が、今では真摯に受け止められる。晦冥会の殺し屋同士の抗争、その中で我々一般人は成す術がない。
「そうだな、今は晦冥会の末裔である君の手紙だけが頼りだ」
ボルドーカラーのアイシャドウで、奥二重の目許が強調された、ガールズクラッシュ系の可愛さが、わたくしの上着の裾を掴んだ。
その時、吹き抜けとなった玄関に、一人の老人が立っているのが視界に入った。その白髪の男は、黒檀のステッキで革靴に付いた雪を払いながら、こちらへ眇目を上げた。はて、ドアベルが鳴った記憶がない。
あずさはゆっくりとわたくしの視線を追って、右肩に顎を当てた。
「あずさ様」
低く迫るような声が階段まで届いた。
「氷室さん、どうしてこんな所に」
「え」
わたくしは、口許に右手を当てたあずさと、堅気には見えない老人とを、必死に見比べた。氷室、氷室、氷室理事長? 短髪に眉毛ともみあげまで白髪交じりのこの老人が、晦冥会の最高権力者の右腕? わたくしは知らず知らずの内に、ログウォールのセトリングの隙間に背中をつけた。
「あずさ様、お久し振りでございます。大変大きくなられました」
氷室は銀メッキのグリップに、白手袋の両手を重ねた。
「何しに来たの?」
あずさはわたくしの上着の裾を放さなかった。
「あずさ様、お迎えに上がりました。どうかこれより、私と御同行下さいませ」
「え」
あずさは表情を失った。
「今宵より、我が晦冥会にとって、一大変革の時勢を迎えます。つきましては、あずさ様の御英断が必要なのでございます」
氷室は小柄な男だが、伝統武術の奥義を究めた総師範のように、尋常でない威風が漂っていた。
「嫌よ、あたしは晦冥会とは関わりたくないの。今まで通り普通に生活して、この人と一緒になるの」
「こ、こら」
氷室の鋭い眼光がわたくしを捉えた。薄く瞑った片目が白く濁っていた。
「貴殿は、何処かで見掛けた顔だな。あずさ様を誑かす輩か」
懐から銃口を向けられたような、命の危うさを感じた。
「そんな、ボクは全然、この子とは、全然そんな」
「ちょっと宗村さん! あたしを抱いてくれたじゃないですか!」
「コ、コラ!」
手の平であずさの口を押さえた。
「あずさ様、しかとこの耳が聞き届けましたぞ。そこの宗村とやら、何れ時を置いて落とし前をつけねばなるまいな」
「落とし前!」
その時、強風でドアベルが鳴って、もう一人誰かがペンション内に入って来た。手首にファーの付いた皮手袋で、ムートンコートの肩の雪を払う、ソフィスティケートな六〇くらいの女性だった。
「お祖母様」
あずさの顔色が変わった。お祖母様とは、この高貴な貴婦人こそ、不破昂佑の前妻である白鳥明日香と言う事か?
「まあひどい風、どうしてこんなに吹雪くのかしら。あずさ、早く支度をしなさい。みんなあなたに会いたがっているのよ」
間違いなく歳は行っているのだが、大御所女優のような妖艶な色気と、家事や子育てに手を付けなかったと思われる透明感のある肌が、とにかく際立った。
「支度って、どういう事? あたしはこれから」
あずさは一段階段を下りて、胸に右手を当てた。
「とにかく話はあとあと、さあこちらへいらっしゃい」
「どこへ行くの?」
あずさはもう一歩、階段を踏み下ろした。
「あなたの御爺様の所。加世様もご一緒よ」
加世様だって? と言う事は、今朝部屋の窓から見たプロビデンスの目は、やはり上月加世だったのか。
「御爺様は今、あなたの顔が見たいとおっしゃっているの。あなたの顔を見て、あなたと心行くまで話をして、大切なご決断をなさりたいの。ね、だから早く支度をして、私たちと一緒に来なさい」
あずさはがくんと項垂れて、顔に掛かった髪の毛の内に表情を隠した。こちらの角度からは、唇を噛んでいる口許だけが見えた。
「あずさ様、時間に限りがございます故、どうかお早く」
あずさは両手に拳を作って、小刻みに肩を震わせた。
「そう。分かったわ。御爺様に会うのは、本当に十何年振りかな。あたしの顔、覚えていると良いのだけど」
それを聞いた玄関の二人は、きつく結んだ紐をほどく時のような、緊張した表情からの和らぎを見せた。
「御爺様は、あなたの事を片時も忘れた事がないわ。いつでもあなたの身を案じていらしたわ」
あずさは一段、二段と階段を下りかけて、気を変えたように踵を返し、そのままわたくしの所まで戻って来た。
「宗村さん」
うなじに両手を回して、黄金のチェーンのフックを外すと、月の紋章の掘られたペンダントをわたくしの前へ突き出した。
「宗村さん、これを」
わたくしにだけ聞こえる小声。
「ちょ、ちょっと」
「あたしたち、しばらくの間会えなくなるかも知れません。せめて、これをあたしだと思って、大切に預かっていて下さい」
あずさはにっこりと微笑んで、両手でわたくしの右手を取ると、その手中に晦冥会の末裔の証を握らせた。
「こ、こら、こんな大切な物を。あ、ちょっと待て」
あずさは支度も何もなく、祖母と氷室の待つ玄関へと走って行くと、そのままウェッジソールのブーツを履いた。余りの展開の早さに、わたくしは黄金のペンダントを右手に、階段の踊り場で放心状態となっていた。白鳥明日香が深く頭を下げて、三人がしてペンションを後にするその匆匆たる姿を、談話室の久慈の娘も見ていた。
走り去る車のエグゾーストノートを聞いて、わたくしは徐々に今自分が置かれた状況を思い出した。わたくしにとって今は美咲の安否が最優先だ。あずさのペンダントをぐっと握って、急いで自室へと向かった。
美咲は自室のドアに鍵を掛けていなかった。わたくしは真っ暗な室内へ押し入って、廊下からの照明に己の影を落とした。部屋の電気も点けずに、もぬけの殻となった部屋の様子を見回した。美咲が誰かと争った形跡も、何者かによって部屋が荒らされた形跡も無かった。ただ薄暗いライティングデスクの上で、ノートパソコンのディスプレイが休止状態となっていた。
「美咲」
誰もいないと承知しながら、わたくしが今最も求めている女性の名前を口にした。かちかちと硬い雪が窓を打つ音が聞こえるのみで、誰の返事も返らない。わたくしの不吉な思いはピークに達していた。美咲のPCが置かれたデスクの前に立って、手探りでマウスを動かすと、青いディスプレイが顔を照らした。その時背後に人の気配を感じて、身の危険から半ばパニックになって振り返った。
「誰だ」
部屋の入口に立ち、廊下の照明で逆光となった、一人の少女がこちらを見ていた。わたくしは左手で廊下の明かりを隠して、薄目で目を凝らすと、先程まで談話室に座っていた久慈の娘だと分かった。
「君は、久慈さんの」
ぎゅっとコクーンスカートを掴んで、彼女は張り詰めたように立っていた。
「わたしは久慈りおです。おじさん、少しお話いいですか?」
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「話?」
わたくしは、障害を持った少女に対してどう接したら良いのか、その経験の乏しさから戸惑った声を出した。
「おじさんの恋人、椎名美咲さんについてのお話です」
「なに」
わたくしはデスクから離れ、ベッドの横まで歩いた。
りおは怯えた様子で、斜め下の床へ視線を落とした。そして、満を持して彼女はこう言った。
「椎名美咲さんは、本日午後八時五十二分に、首吊り自殺の遺体となって発見されます。これは既に決まってしまっている運命なのです」
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