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うしろ
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わたくしは、シャウボーグの腕時計を上げて、スペード針の位置を確認した。この文字盤には、南アフリカから採掘された、本物の隕石が使用されている。ムーンフェイズという、月の満ち欠けを教える窓が、その月相から、現在が新月である事を表示している。新月とは、植物の生育速度が速くなり、その日に植えた植物は、良く育つなどの研究結果も報告されていて、願い事をするとよく叶うとも言われる。新月の夜に願う事、それは、今のわたくしにとって一つしかないと言って良い。時刻は、午後八時三十九分。美咲が首吊り死体となるまで、あと十三分。
「とにかく時間がない。率直に言う、りお。この石扉は、どうやって開ければいい?」
言ってから、五秒の沈黙。そこから、当惑したりおの表情が浮かんだ。
『すいません。おじさん。わたしはいま、透視が使えないのです。石扉の開ける方法は、透視の力なくしては、お伝えできません』
わたくしは、不満そうにゆっくりと、腕を組んだ。言いたい事は、何とか飲み込んだ。
「そうか。そうだよな。別に謝らなくてもいいよ。何たって怪しい影がうろついているのだからな。それは、仕方が無いよな」
適当に、目的もなく、石垣を照らした。平らな石の表面が、びしょびしょに濡れて、黒光りした。このどれかが、どうにかすると、重い石の擦れる音を立てて、秘密の祠への入口を作るのだろうか。
『あ、そうだ、おじさん』
「ん?」
『美咲さんの透視で、一つだけ言い忘れた事がありました』
「何だ」
『ペンダントです』
「ペンダント?」
わたくしは、拍子抜けをした、変な声を出した。
『はい。透視した光景の一つに、美咲さんが、背中から銃口を押し当てられるように、脅されて、無理やり晦冥会の祠の中へ連れて行かれる、というのがありました。その時に、ペンダントを見ていた可能性があります。それが、美咲さんの記憶に深く刻まれているようです。そのペンダントとは、チャームが開閉式になっていて、中に写真が入った、ロケットペンダントと呼ばれる種類のものです』
わたくしはそれを聞いて、ハッとした。
あずさは昼間、ペンションの厨房で、月の紋章の掘られた純金のペンダントを、わたくしの目の前へ突き出した。
〝このペンダントは、晦冥会の統主の一族のみが所有できる、不破家の紋章の入った家宝です〟
ずしっと来る純金の重い感触。半透明のギロッシュ・エナメルの中央に、月長石が埋め込まれていた。
〝中を開けてみて下さい〟
チャームが開閉式になっていて、開けると、不破昂佑と思われる老人のエマーユが入っていた。
「あれか」
言って、大きく目を見開いた。目の前は乱層雲、その広い雲の腹が、気持ちが悪いほど低く、速く、山の向こうへ流れていた。
『そのペンダントとは、夕方、おじさんが米元さんから受け取った、あのペンダントの事だと思います。もしかしたら美咲さんは、晦冥会の祠へ通ずる石扉の、その開錠の方法を見て、そのペンダントの使い方をよく覚えていたのかも知れません』
わたくしは、取り乱すように慌てて、岸本から借りた防寒ジャケットのポケットから、りおの透視画を出して、また仕舞い、今度は、防寒パンツの前後のポケットをまさぐった。そうした結果、探し物の感触は、意外にも胸元にあった。
「なんで」
黄金のチェーンを回して、指の感触だけで、ホックを外した。そのままチェーンを握って、月長石の埋め込まれたロケットペンダントを、闇の中に浮かべた。ライトの光を当てると、内部の二種の長石が、青い閃光を放った。晦冥会の統主の肖像画が入ったロケットペンダント。これは、彼の末裔しか与えられないもの。
「そうか、そういう事か。不破昂佑の末裔しか入れないという意味は、そういう事だったんだ。こいつを使って、石扉を開けるんだな」
爽快な閃き。高い壁の、その先へ進める興奮が、体内から立ち昇って、上空の広い空間へと舞い上がった。その後、体からは興奮が覚めて、寒空にも色が薄れて、感情の失われていく感覚を味わった。すぐに訪れる不安。訳もなく、独り言を言っている気分になった。
「りお?」
わたくしは、雲の動きの至る所をライトで照らした。
「りお!」
思った以上に遠くから、声が返った。
『おじさん、ごめんなさい。もう時間いっぱいです。怪しい影が、山の方角へ動き出しました。なんとかわたしに注意を引きつけてみます。おじさん、頑張って。きっと、美咲さんを救出して下さい。どうかご無事で』
「お、おい! ちょっと待ってくれ、これからが大事な所なんだ!」
一等三角点百名山の巨大な山に、わたくし一人が取り残されたような、恐ろしい孤独を味わった。
「一体これをどうやって使うってんだ!」
陳容が描いた九龍図巻、その龍が如意宝珠を持って出て来そうな、不穏な曇り空に向かって、わたくしは声の限り叫んだ。森閑とした山。そうした所で別段、りおの返事は、もう返って来る事はなかった。すなわち、わたくしの精神感応は、もう終わっていた。
「くそ! こうなったらヤケクソだ! このペンダントを使って、石扉が開くと分かったんだ。それだけでもありがたいと思おう! きっとこのお堂のどこかに、こいつが鍵のように、すっぽりと嵌る穴のようなものがあるはずだ」
雪を蹴散らして、わたくしは、わたくしの背丈より少し大きいお堂の前に立った。赤い前掛を付けた石の地蔵。その、そこかしこに、強烈なライトの光を照らした。黒い異形な影が、気味悪い悪魔のように、堂内に動いた。お堂の木造部分、根太や垂木には、石扉を開ける仕掛けがあるようには思えない。また、地蔵菩薩にしても、前掛を捲ったり、背中に手を回してみたり、してみた所が、やはり、ただの石の彫刻だった。
「どう見ても、この地蔵は怪しい。これだけの雪を解かす、地熱を受けているという点も、実に怪しい」
お堂を一周。縁束から、大島石らしい土台まで、執拗にライトで照らして回った。やはり、なんの変哲もない。ただ、地蔵菩薩を雨風から守る為に、棟梁が建てた小さなお堂だ。その足で、再び地蔵の正面へ帰った。
「やっぱり、何にもない。どう見ても、その辺にあるただの地蔵だ」
戦意を失い、尾っぽを巻いた犬のように、わたくしはその場にしゃがみ込んだ。
「俺なんかでは、ダメだ。何ら芸も無い、平凡な男、俗人も俗人。敷島や、美咲のような、ちゃんとしたプロの探偵じゃなきゃ、どうにもならない。晦冥会の謎なんて、俺には解けっこない」
時計の針は、午後八時四十六分。美咲が殺されるまで、あと、六分。
〝宗村さんったら、わたしが本当に、キスをするとでも思ったんですか?〟
美咲はあきれた目をして、クスクスと笑っていた。
その、いつまでも楽しそうに笑っている横顔が、一転、苦悶に満ちた死顔に変わって行く恐怖に、わたくしは、頭を抱えて雪の上へ倒れた。子供のように大の字に寝そべって、両手両足をバタつかせた。
「ああ畜生! 俺はこの十年間、何もやってこなかったんだ。本当に、何もやってこなかった。やったとしても、それは何の情熱も無かった。分かっているんだ、敷島。君が言いたい事は、そこなんだろう⁉ 俺はクズだ、意志の弱いクズな男だ。君が探偵会社の取締役になって、大出世したのも知っていた。岸本がペンション経営を立派に続けているのも知っていた。それなのに俺は、俺は、ただ暗い部屋の中で酒をあおって、レナを失った失意から、立ち直れなかったんだ! 立ち直ろうとしなかったんだ! そのツケが、これなんだ!」
こう叫んだ夜空から、ひらり、ひらりと、粉雪の集団が舞い降りて来た。それはわたくしの全身に降り立って、その一つが、まつげの上に乗った。そんな事が可能かどうかは分からないが、肉眼が近すぎて、顕微鏡のような世界が広がった。幾何学模様を広げる、精妙な雪の結晶。美しき雪の妖精たち。それはクスクスと楽し気に笑いながら、わたくしの体の周りを遊ぶような錯覚を覚えた。
直後に来る、頭痛。
「痛っ!」
ラジオのチューニングを合わせるような、チュィィンという、耳障りなノイズ。
『……じ……さ…ん』
砂嵐の向こうから、断片的な声が届く。頭を抱えながら、上半身を起こした。
「なんだ!」
『……お…じ……さ』
「りお、か? りおなのか」
『…う………ろ』
「え?」
『う………し…ろ……』
りおの言葉を理解したのと、背後に人の気配を感じたのが、同時だった。りお自ら固く禁じた精神感応。その禁を破って、彼女が力を使ったのは、わたくしの身に緊急事態が発生したからだ。背中に注意しろ! 火事や水害などの緊急を知らせるため、激しく鐘を乱打する、あれだ。わたくしの背筋は、凍り付いた。今の今まで誰もいないと疑わなかったわたくしの背後に、忽然と、誰かが立っている、恐怖。
〝解剖の結果から分かった事と言えば、彼女たちの胃や腸と言った臓器の位置が、通常では考えられないめちゃくちゃな位置になっていたとの事でした〟
それはもちろん、人ではない、禍々しい何か。
わたくしは、ヤバいとしか形容できない極限の恐怖の中で、うしろを振り返った。そして、ソレが何であるのか、人であるのか動物であるのか、確認する間もなく、情けない、わたくしの方で腰が抜けた。咄嗟の左肘で上体を支え、何とか持ちこたえ、振り返った頭上に、この世界の風景から、人形をくり抜いて、別の世界へ通じる風穴が空いたような、真っ黒い影があった。
「うううう」
逃げろ! 逃げろ! わたくしの本能は、声の限り叫んだ。その恐怖の刺激が、急性ストレス反応を引き起こし、アドレナリンとコルチゾールが放出され、心拍数の上昇、血圧の上昇、呼吸数の上昇、全身の血管収縮、瞳孔散大、聴覚の喪失、周辺視野の喪失、ふるえ、などが、わたくしの体内で一度に起こった。這って、這って、とにかく、交互に両肘を動かして、わたくしはその場から逃れようと、闇雲に体を動かした。が、実際は大して動いてはいなかった。仰向けに起き直って、お堂を目の底に据えた。黒い人影は立っていた。体内に、ぐるぐると激しい渦を巻きながら、お堂の下を指で差した。しかも、人の視覚で分かる物なのか、黒い影は、黒いながらに、こちらの方へ顔をねじ向けて、表情などあるはずもないのだが、不思議と、何か強い思いでも訴えるかのように、より激しく、ぐるぐると黒い渦を巻いて、パッと消えた。瞬きの瞬間に、跡形もなく消えた。
「はあ。はあ。」
一難去って、狭窄した視野が、じんわりと戻った。雪がちらついている。吐く息が白い。しばらくは呆然と、わたくしは肩で息をしていた。
「今のは、一体」
現実の世界、わたくしが生きている世界が、静かにあらわになって、もう、何も起きない。恐る恐る膝を突き、手放したライトを手探りで拾って、光を試すと、お堂の周囲にはもちろん、猫の姿さえなかった。恐ろしい気配は既に感じられない。
「ひょっとして、悪魔の世界から来たっていう怪しい影というのは、今の黒い影だったのではないか?」
そうだとすると、別の世界の怪しい奴は、やはり、先程のわたくしとりおの精神感応、その時の波長の流れを敏感に読み取って、ここまで来たのだろうか。そして、精神感応を使ったのが、悪魔の世界へ忍び込んで、悪魔の力を使った少女、りおではない事を確認して、舌打ちをするように立ち去ったのだろうか。
「にしても」
大島石らしいお堂の土台に、光の輪を置いた。
「あの影は、指でここを差していたように見えたが」
しばらくして、眉を顰めた。お堂の土台は、天然の石を谷積みにして、裾を広げるように、雪の中へと足を突っ込んでいる。その、ライトで照らした雪の質に、微かな違和感があった。さらに近くから、LEDライトを照射した。周囲の雪は、ふわふわと新雪の丸みがあった。ところが、黒い影の指を差した雪は、降った雪が日中解け、夜間に凍った、ざらめ雪だった。
周囲の警戒を怠らないように、心して立ち上がって、その雪の塊に左手を差し込み、右へと転がした。やはり、氷を手にしたような重さと、硬さがあった。雪の下に現れた、長方形のざらついた天然石、その中央に、小さな窪みがあった。
「あ」
わたくしは、石の窪みから目を離さずに、グローブを外した。そして、白くはない、透明で、少し凍った雪に爪を立てた。指の皮が裂けそうになるくらい、ちくちくと凍えて痛んだ。雪を剥いて現れた石の窪みは、何だか丸い物を置きたくなる、卵型の形状だった。少し大げさな言い方だが、天から閃きを授かったわたくしは、あずさのロケットペンダントを少しずつ垂らして、窪みの上に寝かせた。ペンダントと石の窪みの寸法は、ぴったりだった。お堂の横から顔を出して、奥の石垣に変化が無いか確認した。何も起きない。これと言って考えがあるのではないが、月の紋章の掘られたチャームを開いて、不破昂佑のエマーユを見た。
「?」
石臼を回すような、ゴリッという音がした。立ち上がって、地蔵菩薩と向き合った。冷たい風が吹く。ぶるっと背筋に、来た。地蔵、何かが違う。何が違うか、何かが違う。見た目ではハッキリしないが、何となく、安定していないで、ぐらついている、感じ。供え花の葉がそよぐ強風で、傾くわけでもないが、やはり何となくではあるが、手で押せば簡単に倒れそうな、感じ。
そうしたら、触るしかない。わたくしは、大地震で散乱した墓石を持った経験はあるが、地蔵を動かそうとするのは、これが初めての事だった。寒さからか恐れからか、震える指先で、地蔵の肩の辺りに手を置いた。温かい。ぬくい。雪解け地蔵と呼ばれ、テレビで紹介されただけの事はある。そのまま、掌底打ちの形で石を奥へ押す。ぴくりともしない。今度は、こちら側へと引いてみた。たわいもなく、地蔵はお辞儀をして、止まった。と同時に、お堂の裏手から、ぱらぱらと小石が落ちて来る音が聞こえた。
「これだ」
わたくしは、走り出した体を慌てて戻して、足元に置いたペンダントを回収(既に、地蔵は元の状態へ戻っていた)、その後で野面積みの石垣に対面した。布積みという石と石の継ぎ目が横一直線になった一部、その石の目地に、他とは明らかに違った、大きい隙間が出来ていた。その隙間に指を差し入れて、左右に力を加えたが、びくともせず、奥へ向かって押すことで、切り出した八義の氷が、竹のレールを滑るように、するすると石垣の一部が動いた。石扉は、そうして奥へ窪んだ事で、右手の石垣の内部に、人一人抜けられる隙間ができた。
「こんな仕掛けが。いやはや」
辺りから手ごろな石を拾って、石扉と石垣の間に置いた。完全に閉じて鍵が掛からないように、直感からそうした。時刻は八時五〇分、美咲が殺されるまで、あと二分。わたくしは、晦冥会の秘密の祠へ入る前に、背中を振り返った。先程の黒い影は、やはりどこにもいなかった。
「とにかく時間がない。率直に言う、りお。この石扉は、どうやって開ければいい?」
言ってから、五秒の沈黙。そこから、当惑したりおの表情が浮かんだ。
『すいません。おじさん。わたしはいま、透視が使えないのです。石扉の開ける方法は、透視の力なくしては、お伝えできません』
わたくしは、不満そうにゆっくりと、腕を組んだ。言いたい事は、何とか飲み込んだ。
「そうか。そうだよな。別に謝らなくてもいいよ。何たって怪しい影がうろついているのだからな。それは、仕方が無いよな」
適当に、目的もなく、石垣を照らした。平らな石の表面が、びしょびしょに濡れて、黒光りした。このどれかが、どうにかすると、重い石の擦れる音を立てて、秘密の祠への入口を作るのだろうか。
『あ、そうだ、おじさん』
「ん?」
『美咲さんの透視で、一つだけ言い忘れた事がありました』
「何だ」
『ペンダントです』
「ペンダント?」
わたくしは、拍子抜けをした、変な声を出した。
『はい。透視した光景の一つに、美咲さんが、背中から銃口を押し当てられるように、脅されて、無理やり晦冥会の祠の中へ連れて行かれる、というのがありました。その時に、ペンダントを見ていた可能性があります。それが、美咲さんの記憶に深く刻まれているようです。そのペンダントとは、チャームが開閉式になっていて、中に写真が入った、ロケットペンダントと呼ばれる種類のものです』
わたくしはそれを聞いて、ハッとした。
あずさは昼間、ペンションの厨房で、月の紋章の掘られた純金のペンダントを、わたくしの目の前へ突き出した。
〝このペンダントは、晦冥会の統主の一族のみが所有できる、不破家の紋章の入った家宝です〟
ずしっと来る純金の重い感触。半透明のギロッシュ・エナメルの中央に、月長石が埋め込まれていた。
〝中を開けてみて下さい〟
チャームが開閉式になっていて、開けると、不破昂佑と思われる老人のエマーユが入っていた。
「あれか」
言って、大きく目を見開いた。目の前は乱層雲、その広い雲の腹が、気持ちが悪いほど低く、速く、山の向こうへ流れていた。
『そのペンダントとは、夕方、おじさんが米元さんから受け取った、あのペンダントの事だと思います。もしかしたら美咲さんは、晦冥会の祠へ通ずる石扉の、その開錠の方法を見て、そのペンダントの使い方をよく覚えていたのかも知れません』
わたくしは、取り乱すように慌てて、岸本から借りた防寒ジャケットのポケットから、りおの透視画を出して、また仕舞い、今度は、防寒パンツの前後のポケットをまさぐった。そうした結果、探し物の感触は、意外にも胸元にあった。
「なんで」
黄金のチェーンを回して、指の感触だけで、ホックを外した。そのままチェーンを握って、月長石の埋め込まれたロケットペンダントを、闇の中に浮かべた。ライトの光を当てると、内部の二種の長石が、青い閃光を放った。晦冥会の統主の肖像画が入ったロケットペンダント。これは、彼の末裔しか与えられないもの。
「そうか、そういう事か。不破昂佑の末裔しか入れないという意味は、そういう事だったんだ。こいつを使って、石扉を開けるんだな」
爽快な閃き。高い壁の、その先へ進める興奮が、体内から立ち昇って、上空の広い空間へと舞い上がった。その後、体からは興奮が覚めて、寒空にも色が薄れて、感情の失われていく感覚を味わった。すぐに訪れる不安。訳もなく、独り言を言っている気分になった。
「りお?」
わたくしは、雲の動きの至る所をライトで照らした。
「りお!」
思った以上に遠くから、声が返った。
『おじさん、ごめんなさい。もう時間いっぱいです。怪しい影が、山の方角へ動き出しました。なんとかわたしに注意を引きつけてみます。おじさん、頑張って。きっと、美咲さんを救出して下さい。どうかご無事で』
「お、おい! ちょっと待ってくれ、これからが大事な所なんだ!」
一等三角点百名山の巨大な山に、わたくし一人が取り残されたような、恐ろしい孤独を味わった。
「一体これをどうやって使うってんだ!」
陳容が描いた九龍図巻、その龍が如意宝珠を持って出て来そうな、不穏な曇り空に向かって、わたくしは声の限り叫んだ。森閑とした山。そうした所で別段、りおの返事は、もう返って来る事はなかった。すなわち、わたくしの精神感応は、もう終わっていた。
「くそ! こうなったらヤケクソだ! このペンダントを使って、石扉が開くと分かったんだ。それだけでもありがたいと思おう! きっとこのお堂のどこかに、こいつが鍵のように、すっぽりと嵌る穴のようなものがあるはずだ」
雪を蹴散らして、わたくしは、わたくしの背丈より少し大きいお堂の前に立った。赤い前掛を付けた石の地蔵。その、そこかしこに、強烈なライトの光を照らした。黒い異形な影が、気味悪い悪魔のように、堂内に動いた。お堂の木造部分、根太や垂木には、石扉を開ける仕掛けがあるようには思えない。また、地蔵菩薩にしても、前掛を捲ったり、背中に手を回してみたり、してみた所が、やはり、ただの石の彫刻だった。
「どう見ても、この地蔵は怪しい。これだけの雪を解かす、地熱を受けているという点も、実に怪しい」
お堂を一周。縁束から、大島石らしい土台まで、執拗にライトで照らして回った。やはり、なんの変哲もない。ただ、地蔵菩薩を雨風から守る為に、棟梁が建てた小さなお堂だ。その足で、再び地蔵の正面へ帰った。
「やっぱり、何にもない。どう見ても、その辺にあるただの地蔵だ」
戦意を失い、尾っぽを巻いた犬のように、わたくしはその場にしゃがみ込んだ。
「俺なんかでは、ダメだ。何ら芸も無い、平凡な男、俗人も俗人。敷島や、美咲のような、ちゃんとしたプロの探偵じゃなきゃ、どうにもならない。晦冥会の謎なんて、俺には解けっこない」
時計の針は、午後八時四十六分。美咲が殺されるまで、あと、六分。
〝宗村さんったら、わたしが本当に、キスをするとでも思ったんですか?〟
美咲はあきれた目をして、クスクスと笑っていた。
その、いつまでも楽しそうに笑っている横顔が、一転、苦悶に満ちた死顔に変わって行く恐怖に、わたくしは、頭を抱えて雪の上へ倒れた。子供のように大の字に寝そべって、両手両足をバタつかせた。
「ああ畜生! 俺はこの十年間、何もやってこなかったんだ。本当に、何もやってこなかった。やったとしても、それは何の情熱も無かった。分かっているんだ、敷島。君が言いたい事は、そこなんだろう⁉ 俺はクズだ、意志の弱いクズな男だ。君が探偵会社の取締役になって、大出世したのも知っていた。岸本がペンション経営を立派に続けているのも知っていた。それなのに俺は、俺は、ただ暗い部屋の中で酒をあおって、レナを失った失意から、立ち直れなかったんだ! 立ち直ろうとしなかったんだ! そのツケが、これなんだ!」
こう叫んだ夜空から、ひらり、ひらりと、粉雪の集団が舞い降りて来た。それはわたくしの全身に降り立って、その一つが、まつげの上に乗った。そんな事が可能かどうかは分からないが、肉眼が近すぎて、顕微鏡のような世界が広がった。幾何学模様を広げる、精妙な雪の結晶。美しき雪の妖精たち。それはクスクスと楽し気に笑いながら、わたくしの体の周りを遊ぶような錯覚を覚えた。
直後に来る、頭痛。
「痛っ!」
ラジオのチューニングを合わせるような、チュィィンという、耳障りなノイズ。
『……じ……さ…ん』
砂嵐の向こうから、断片的な声が届く。頭を抱えながら、上半身を起こした。
「なんだ!」
『……お…じ……さ』
「りお、か? りおなのか」
『…う………ろ』
「え?」
『う………し…ろ……』
りおの言葉を理解したのと、背後に人の気配を感じたのが、同時だった。りお自ら固く禁じた精神感応。その禁を破って、彼女が力を使ったのは、わたくしの身に緊急事態が発生したからだ。背中に注意しろ! 火事や水害などの緊急を知らせるため、激しく鐘を乱打する、あれだ。わたくしの背筋は、凍り付いた。今の今まで誰もいないと疑わなかったわたくしの背後に、忽然と、誰かが立っている、恐怖。
〝解剖の結果から分かった事と言えば、彼女たちの胃や腸と言った臓器の位置が、通常では考えられないめちゃくちゃな位置になっていたとの事でした〟
それはもちろん、人ではない、禍々しい何か。
わたくしは、ヤバいとしか形容できない極限の恐怖の中で、うしろを振り返った。そして、ソレが何であるのか、人であるのか動物であるのか、確認する間もなく、情けない、わたくしの方で腰が抜けた。咄嗟の左肘で上体を支え、何とか持ちこたえ、振り返った頭上に、この世界の風景から、人形をくり抜いて、別の世界へ通じる風穴が空いたような、真っ黒い影があった。
「うううう」
逃げろ! 逃げろ! わたくしの本能は、声の限り叫んだ。その恐怖の刺激が、急性ストレス反応を引き起こし、アドレナリンとコルチゾールが放出され、心拍数の上昇、血圧の上昇、呼吸数の上昇、全身の血管収縮、瞳孔散大、聴覚の喪失、周辺視野の喪失、ふるえ、などが、わたくしの体内で一度に起こった。這って、這って、とにかく、交互に両肘を動かして、わたくしはその場から逃れようと、闇雲に体を動かした。が、実際は大して動いてはいなかった。仰向けに起き直って、お堂を目の底に据えた。黒い人影は立っていた。体内に、ぐるぐると激しい渦を巻きながら、お堂の下を指で差した。しかも、人の視覚で分かる物なのか、黒い影は、黒いながらに、こちらの方へ顔をねじ向けて、表情などあるはずもないのだが、不思議と、何か強い思いでも訴えるかのように、より激しく、ぐるぐると黒い渦を巻いて、パッと消えた。瞬きの瞬間に、跡形もなく消えた。
「はあ。はあ。」
一難去って、狭窄した視野が、じんわりと戻った。雪がちらついている。吐く息が白い。しばらくは呆然と、わたくしは肩で息をしていた。
「今のは、一体」
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「ひょっとして、悪魔の世界から来たっていう怪しい影というのは、今の黒い影だったのではないか?」
そうだとすると、別の世界の怪しい奴は、やはり、先程のわたくしとりおの精神感応、その時の波長の流れを敏感に読み取って、ここまで来たのだろうか。そして、精神感応を使ったのが、悪魔の世界へ忍び込んで、悪魔の力を使った少女、りおではない事を確認して、舌打ちをするように立ち去ったのだろうか。
「にしても」
大島石らしいお堂の土台に、光の輪を置いた。
「あの影は、指でここを差していたように見えたが」
しばらくして、眉を顰めた。お堂の土台は、天然の石を谷積みにして、裾を広げるように、雪の中へと足を突っ込んでいる。その、ライトで照らした雪の質に、微かな違和感があった。さらに近くから、LEDライトを照射した。周囲の雪は、ふわふわと新雪の丸みがあった。ところが、黒い影の指を差した雪は、降った雪が日中解け、夜間に凍った、ざらめ雪だった。
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「あ」
わたくしは、石の窪みから目を離さずに、グローブを外した。そして、白くはない、透明で、少し凍った雪に爪を立てた。指の皮が裂けそうになるくらい、ちくちくと凍えて痛んだ。雪を剥いて現れた石の窪みは、何だか丸い物を置きたくなる、卵型の形状だった。少し大げさな言い方だが、天から閃きを授かったわたくしは、あずさのロケットペンダントを少しずつ垂らして、窪みの上に寝かせた。ペンダントと石の窪みの寸法は、ぴったりだった。お堂の横から顔を出して、奥の石垣に変化が無いか確認した。何も起きない。これと言って考えがあるのではないが、月の紋章の掘られたチャームを開いて、不破昂佑のエマーユを見た。
「?」
石臼を回すような、ゴリッという音がした。立ち上がって、地蔵菩薩と向き合った。冷たい風が吹く。ぶるっと背筋に、来た。地蔵、何かが違う。何が違うか、何かが違う。見た目ではハッキリしないが、何となく、安定していないで、ぐらついている、感じ。供え花の葉がそよぐ強風で、傾くわけでもないが、やはり何となくではあるが、手で押せば簡単に倒れそうな、感じ。
そうしたら、触るしかない。わたくしは、大地震で散乱した墓石を持った経験はあるが、地蔵を動かそうとするのは、これが初めての事だった。寒さからか恐れからか、震える指先で、地蔵の肩の辺りに手を置いた。温かい。ぬくい。雪解け地蔵と呼ばれ、テレビで紹介されただけの事はある。そのまま、掌底打ちの形で石を奥へ押す。ぴくりともしない。今度は、こちら側へと引いてみた。たわいもなく、地蔵はお辞儀をして、止まった。と同時に、お堂の裏手から、ぱらぱらと小石が落ちて来る音が聞こえた。
「これだ」
わたくしは、走り出した体を慌てて戻して、足元に置いたペンダントを回収(既に、地蔵は元の状態へ戻っていた)、その後で野面積みの石垣に対面した。布積みという石と石の継ぎ目が横一直線になった一部、その石の目地に、他とは明らかに違った、大きい隙間が出来ていた。その隙間に指を差し入れて、左右に力を加えたが、びくともせず、奥へ向かって押すことで、切り出した八義の氷が、竹のレールを滑るように、するすると石垣の一部が動いた。石扉は、そうして奥へ窪んだ事で、右手の石垣の内部に、人一人抜けられる隙間ができた。
「こんな仕掛けが。いやはや」
辺りから手ごろな石を拾って、石扉と石垣の間に置いた。完全に閉じて鍵が掛からないように、直感からそうした。時刻は八時五〇分、美咲が殺されるまで、あと二分。わたくしは、晦冥会の秘密の祠へ入る前に、背中を振り返った。先程の黒い影は、やはりどこにもいなかった。
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物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
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