プルートーの胤裔

くぼう無学

文字の大きさ
上 下
108 / 131

愚か者の死

しおりを挟む
「ウソです、そんなの」
 美咲の旗色が悪くなった。
「証拠が、江口が殺害されたという証拠が、これだけ揃っているのです。彼が首を吊ったリフト、そこには短いロープが結ばれていました。彼の着用していたウェアのフードには、破損が見られたそうです。犯行現場となったリフトの真下、最もリフトに接近する倒木の枝には、鉄の爪の傷痕が残っていました。証拠は十分です。時間的にも、吹雪のゲレンデで、あなたとわたしが衝突した時刻と合っています。さらに、久慈さんの娘、理穂ちゃんも、あなたと江口が一緒にいる所を目撃しています」
 思いつくままに反論する美咲。その取り乱した姿は、お世辞にも論敵を辯駁できたとは言い難かった。それは、打合せにない批判を浴びて、あたふたと演壇に立つ大臣を見た気分だった。加藤と羽賀も、傍聴席で腕を組んだ国会議員のように、お互いの顔を見合わせている。
 確かに、美咲の説明は理に適っている。最新技術による犯行当時のコンピュータ・シミレーション、その映像を最後まで見たわたくしは、江口殺害のプロセスに異論はなかった。〇・二%の成功率というのが、現実的かどうかは別として、ピンクのモデルの通りに行動を起こせば、理屈上、江口を殺害する事が可能だ。
 ところが、事件の真相を知る者に、それは違う、と明言されれば、いともあっさりとその信憑性が失われる、という、少年雑誌にありがちな浅学の匂いも、同時に感じた。理に適っている、のに、いともあっされとくつがえされる理論、それは一体どこから来るのか。
 それは、不知火の態度から来ているのだ。彼女は、余裕のある腕組みをして、何事にも動じず、湛然不動にほほ笑んでいる。こいつは、我々には知り得ない〝何か〟を知っている、そんな、一段上の立場から話しているのだ。
「証拠? 証拠って、こうやれば江口を殺せるって、示しただけ。それをご丁寧にもCGで説明しただけじゃない。しかも、どれもこれも、主要事実を推認させるだけの事実、いわゆる間接証拠ばかり」
 美咲は汗を飛ばして、
「だって、そんな、それだって証拠がありません。いま言ったこと全て、あなたがウソをついていれば、それまでの話です。根も葉もないハッタリ、それで相手を気圧して、真相を陽動する、それがあなたの目的です。あなたが、江口サダユキを殺したのです」
 敷島がゆっくりと前へ出た。
「そしてあなたは、宮國さんまで!」
 宮國?
 敷島は、美咲の肩に手を置いて、
「落ち着け、美咲。君が主張したのは、あくまで仮想空間での検証実験だ。事実ではない。君は〝推理〟をしたのだ」
 吠えかかって首輪を引かれた犬のように、美咲は、
「しかしこれが、物理的に可能な理論的なアプローチです。これによって、江口殺害のプロセスが明らかになっています。コンピュータ・シミレーションのデータには、間違った数値は確認されていません。カオティックな個々の振る舞いに対して、単純計算を膨大に繰り返すコンピュータの演算能力には、プロセッサもレジスタも十分なスペックがあります」
 敷島は、美咲の肩を揺すった。
「美咲、もういい。もう、いいのだ。君は、その職務を全うした。君が現地で収集した膨大な測定データ、それによって構築され演算された犯行のコンピュータ・シミレーション、これが我々に及ぼした影響力は多大だ。不知火はこれを見て、君の主張に対して大筋に犯行を認めたのだ。この成果は極めて大きい」
 わたくしも、同意見。不知火は、美咲のコンピュータ・シミレーションを見てから、発言や態度が変わった。変に悪びれて、無駄な白を切らなくなった。
「まあ、君の言いたい事は分かる。気持ちが高ぶるのも分かる。コツコツとデータを積み上げて、AIによって導き出した理想的な検証結果。江口殺害に至るプロセスの大発見。恐らく君は、PCの前でガッツポーズをとった事だろう。警察でも解けなかった難解事件を、君一人の力で解き明かしたのだからな。それを、いとも簡単に否定されて、それでは君も黙ってはいられまい。
 しかし、君が証明したのは、仮想現実の世界、あくまで空想の世界での事だ。それは現実ではない。こんな事を英国の作家が言っていた。〝もしも事実と理論が合っていないとしたら、捨てるのは理論の方だ〟と。我々が理論を展開して、それに対して不知火が否定した、それは事実ではない、と。そうしたら、我々が捨てるのは理論の方だ、違うか?」
 敷島は、タブレットを内ポケットへ仕舞いながら、
「欲を言えば、君がデータを取り扱う中で、モデル人物のAIに、様々なパラメーターを振ったと思う。しかし、ブルーのモデルに対して、何らかのデータの不足は無かったか? 君は、江口サダユキのモデルに対して、一般人のデータをプロットして、そのままにしていなかったか?」
 こう問い質されて、美咲はハッと顔を上げた。その表情にはもう、先程のようなトゲトゲしさが無くなっていた。
 不知火は、銃口を天井へ向けて、ベレッタを肩に載せた。
〝どうして江口は、こんな厄介な物を愛用して、暗殺を続けたがったのかしら〟
 このベレッタ、確か江口の銃だと不知火は言っていた。では、犯行時に江口がリフトから落とした拳銃、それがこれなのか?
「もう、いい」
 凶器の動きに合わせて、石動と加藤が反射的に射撃姿勢を取る。
「いつまでも白を切った所で、所詮は時間の無駄」
 不知火の姿に注目が集まる中、羽賀は、体をやや斜めにして、パンツのポケットへ左手を忍ばせた。その不審な動き、不知火が見逃すはずはなかった。
「私は江口を殺そうと思った。これは、間違いない事実」
 不知火は薄目をして、羽賀の方へ早足で近づいた。石動と加藤が銃口を動かす。
「リフトの背もたれにロープを結び、その位置を頭に入れて、変装して、リフトスタッフのクレームをつけて、江口が一人でリフトに乗ったように見せかけて、奴を首吊り自殺に仕立てようとした」
 眼前に迫る不知火に対して、羽賀は面食らって、右手の拳銃を胸の位置へ上げる。
「動くな!」
 加藤は目の前を横切る不知火へ叫ぶ。風が吹き抜けるような速さで、不知火は羽賀の左腕を掴み上げた。その左手には車のリモートキーのような、黒い物体が握られていて、小型の、恐らくはボイスレコーダーが、不知火の手に渡った。羽賀は左腕を引き抜かれた影響で、上体の態勢が左後ろへ崩れ、反動で回って来た右の上体の先にある、右手の拳銃が、不知火の胸に向かった。
「ダメだ!」
 石動は青ざめて叫ぶ。
 羽賀は、自身の生命に凶悪が迫った恐怖から、引き攣った表情を見せた。拳銃を発砲した経緯、それが、そもそも正常な判断のもとに行われたのか、否か、それは定かではない。羽賀の拳銃は、その薬莢内にある火薬が引火して、火薬が爆発、銃口から銃弾が発射された。弾丸のその先にあるもの、それは不知火の胸部。
 美咲は両手で口を覆う。加藤がとっさに羽賀の右手を掴んで下へおろす。硝煙の向こうには羽賀の怯え切った顔。
「う、撃った」
 わたくしは、羽賀と不知火の二人を交互に見た。キーンと耳鳴りがするほどのガンパウダーの爆発音、その後で何がどうなっていてもおかしくはない、この中で誰が死んでもおかしくはない、それほど拳銃の殺傷能力は恐ろしく、羽賀の誤射は我々を凍り付かせた。
 不知火は、無事か? 硝煙に煙った彼女の姿は、左肩を後ろへ倒して、上体を横に向けていた。手にしたボイスレコーダーを顔の前まで上げて、
「危ないじゃない」
 わたくしは眉を寄せて、瞬きを繰り返した。よけた? よけたのか? あの至近距離から拳銃を発砲されて、時速一三〇〇キロメートルとも言われる銃弾を?
「かわいい顔をして、男よりも大胆。今の、私じゃなかったら死んでいる」
 不知火の体、ブラック柄のスノージャケットには、どこからも出血が見られない。激痛にうずくまる事もない。一体、どうなっている。
〝おじさんは何も分かっていません。忍さんに銃なんて通用しません。もちろん他の武器も同じ事です。返り討ちに遭ったバイフーの二人を思い出して下さい〟
 これはりおの警告。まさか、人が銃弾をよけるなんて、そんなの絶対にありえない。何か、きっと仕掛けがあるに違いない。防弾チョッキ? 思わず敷島の顔を見た。頭の良い敷島なら、今の不知火の動きに、何かしらの答えを持っているはずだ。案の定、敷島は全く表情を変えずに腕を組んでいる。やはり何か仕掛けがあるのだ。
「刑事さんが盗聴なんて、どうかと思う」
 ボイスレコーダーを床へ落として、ブーツの底で踏みつぶす。
「そんな姑息なマネ、しなくても、後でちゃんとしゃべってあげるわ。警察が私を取り押さえる事が叶うのなら、ね」
 羽賀は拳銃を床へ落とした。震えた右手を左手で押さえている。ひょっとして、我々の中で一番、彼女が驚いているのではないだろうか、不知火が銃弾を避けたと言う、過激な事実に。
「でも、私は江口を殺していない。これだけが、コンピュータ・シミレーションで唯一そぐわない点。どうして最新のコンピュータ・シミュレーション技術で、江口の死の真相までたどり着けなかったのか、それは、さっき敷島レナが言った通り、江口のAIが一般男性のパラメーターでプロットされているから」
 不知火は、石動と加藤の銃口に追われながら、楽々と背中を見せた。
「腐っても鯛。ああ見えて江口は、晦冥会の現役の暗殺者、チンロン。氷室様は、バイフーとチンロンに対して、血を吐くような地獄の訓練を与えた。その、人間の限界を超越した暗殺の術までは、AIのパラメーターにプロットされていない。江口がサークルフックに引っ張られて、座席の後ろへ投げ出されても、まんまとリフトから転落するはずはなかった。すんでの所で、座席の背もたれを左手で掴み、そのまま釣り針はフードを破って切れた。これが、敷島レナの言う真実。だけど、こんなのは想定内の出来事。子供だましの小細工で、そう簡単に江口を殺れるとは思っていない。江口は左手で座席に掴まり、右手で私に銃口を向けた。私に、そんな物は通用しない」
 不知火は横顔を見せて、二つの銃口を見た。
「そんな事は、江口も分かっていた。分が悪い。そう口にして、あいつは左手を放した。数メートル下のゲレンデへ飛び下りようとした。馬鹿な奴。首にはロープが巻かれている。その長いロープの先端は、すでにリフトの手摺りに結んである。
 結局、江口はそのまま首を吊った状態になって、死んだ。なんて間抜けな男、そう言ってしまえば、それまで。でも今にして思えば、あの時の江口は何かがおかしかった。終始落ち着かなかった。他のバイフーたち、私を消しに来た彼女らとは、全く様子が違った。もはやチンロンとしての威厳や風格がなかった。奴に何があったかは分からない。ひょっとしたら奴の主君、不破巽の絶大なる信用を失ったのかも知れない。自分が所属する巽派の派閥の形勢が悪くなり、後ろ盾を失ったかして、私を討って大手柄をあげたいと、大胆な行動に打って出たのかも知れない」
 晦冥会の、派閥争い。
「まあとにかく、江口は私に敵わないと判断して、その場から逃走しようとした、その矢先に自ら命を絶つ事になった。これが現実。最新のコンピュータを駆使した所で、こんな馬鹿げた人間の愚行について、再現性もクソもない」
 不知火は、青二才でも見る目で、美咲の顔を見届けてから、祠の奥へと進んだ。
「いい? こんな所で。無駄な時間は使いたくない。江口は勝手に死んだ。自殺ではなく、他殺でもなく、その場から逃れようとして判断を誤った、事故死。実際、刑事告訴されれば、私は実刑判決を受けるだろうけど。でも、そんなのどうでもいい」
 祠の正面の壁、黒錆の入った、明治か大正を思わせる古いダイヤルの付いた、コンクリートの壁。そこへ向かって、不知火は立ち止まった。
「ここからが本題。敷島レナ、あなたが一番知りたいのは、そんな事ではない。あなたがいま最も知りたいのは、宮國のこと」
 敷島の顔に、険悪な何かが出現した。
「あなたが狂おしいほど可愛がっていた、宮國瑞希のこと。知りたいんでしょう? 彼女がどうやって、ここで死んだのか」
しおりを挟む

処理中です...