108 / 131
愚か者の死
しおりを挟む
「ウソです、そんなの」
美咲の旗色が悪くなった。
「証拠が、江口が殺害されたという証拠が、これだけ揃っているのです。彼が首を吊ったリフト、そこには短いロープが結ばれていました。彼の着用していたウェアのフードには、破損が見られたそうです。犯行現場となったリフトの真下、最もリフトに接近する倒木の枝には、鉄の爪の傷痕が残っていました。証拠は十分です。時間的にも、吹雪のゲレンデで、あなたとわたしが衝突した時刻と合っています。さらに、久慈さんの娘、理穂ちゃんも、あなたと江口が一緒にいる所を目撃しています」
思いつくままに反論する美咲。その取り乱した姿は、お世辞にも論敵を辯駁できたとは言い難かった。それは、打合せにない批判を浴びて、あたふたと演壇に立つ大臣を見た気分だった。加藤と羽賀も、傍聴席で腕を組んだ国会議員のように、お互いの顔を見合わせている。
確かに、美咲の説明は理に適っている。最新技術による犯行当時のコンピュータ・シミレーション、その映像を最後まで見たわたくしは、江口殺害のプロセスに異論はなかった。〇・二%の成功率というのが、現実的かどうかは別として、ピンクのモデルの通りに行動を起こせば、理屈上、江口を殺害する事が可能だ。
ところが、事件の真相を知る者に、それは違う、と明言されれば、いともあっさりとその信憑性が失われる、という、少年雑誌にありがちな浅学の匂いも、同時に感じた。理に適っている、のに、いともあっされとくつがえされる理論、それは一体どこから来るのか。
それは、不知火の態度から来ているのだ。彼女は、余裕のある腕組みをして、何事にも動じず、湛然不動にほほ笑んでいる。こいつは、我々には知り得ない〝何か〟を知っている、そんな、一段上の立場から話しているのだ。
「証拠? 証拠って、こうやれば江口を殺せるって、示しただけ。それをご丁寧にもCGで説明しただけじゃない。しかも、どれもこれも、主要事実を推認させるだけの事実、いわゆる間接証拠ばかり」
美咲は汗を飛ばして、
「だって、そんな、それだって証拠がありません。いま言ったこと全て、あなたがウソをついていれば、それまでの話です。根も葉もないハッタリ、それで相手を気圧して、真相を陽動する、それがあなたの目的です。あなたが、江口サダユキを殺したのです」
敷島がゆっくりと前へ出た。
「そしてあなたは、宮國さんまで!」
宮國?
敷島は、美咲の肩に手を置いて、
「落ち着け、美咲。君が主張したのは、あくまで仮想空間での検証実験だ。事実ではない。君は〝推理〟をしたのだ」
吠えかかって首輪を引かれた犬のように、美咲は、
「しかしこれが、物理的に可能な理論的なアプローチです。これによって、江口殺害のプロセスが明らかになっています。コンピュータ・シミレーションのデータには、間違った数値は確認されていません。カオティックな個々の振る舞いに対して、単純計算を膨大に繰り返すコンピュータの演算能力には、プロセッサもレジスタも十分なスペックがあります」
敷島は、美咲の肩を揺すった。
「美咲、もういい。もう、いいのだ。君は、その職務を全うした。君が現地で収集した膨大な測定データ、それによって構築され演算された犯行のコンピュータ・シミレーション、これが我々に及ぼした影響力は多大だ。不知火はこれを見て、君の主張に対して大筋に犯行を認めたのだ。この成果は極めて大きい」
わたくしも、同意見。不知火は、美咲のコンピュータ・シミレーションを見てから、発言や態度が変わった。変に悪びれて、無駄な白を切らなくなった。
「まあ、君の言いたい事は分かる。気持ちが高ぶるのも分かる。コツコツとデータを積み上げて、AIによって導き出した理想的な検証結果。江口殺害に至るプロセスの大発見。恐らく君は、PCの前でガッツポーズをとった事だろう。警察でも解けなかった難解事件を、君一人の力で解き明かしたのだからな。それを、いとも簡単に否定されて、それでは君も黙ってはいられまい。
しかし、君が証明したのは、仮想現実の世界、あくまで空想の世界での事だ。それは現実ではない。こんな事を英国の作家が言っていた。〝もしも事実と理論が合っていないとしたら、捨てるのは理論の方だ〟と。我々が理論を展開して、それに対して不知火が否定した、それは事実ではない、と。そうしたら、我々が捨てるのは理論の方だ、違うか?」
敷島は、タブレットを内ポケットへ仕舞いながら、
「欲を言えば、君がデータを取り扱う中で、モデル人物のAIに、様々なパラメーターを振ったと思う。しかし、ブルーのモデルに対して、何らかのデータの不足は無かったか? 君は、江口サダユキのモデルに対して、一般人のデータをプロットして、そのままにしていなかったか?」
こう問い質されて、美咲はハッと顔を上げた。その表情にはもう、先程のようなトゲトゲしさが無くなっていた。
不知火は、銃口を天井へ向けて、ベレッタを肩に載せた。
〝どうして江口は、こんな厄介な物を愛用して、暗殺を続けたがったのかしら〟
このベレッタ、確か江口の銃だと不知火は言っていた。では、犯行時に江口がリフトから落とした拳銃、それがこれなのか?
「もう、いい」
凶器の動きに合わせて、石動と加藤が反射的に射撃姿勢を取る。
「いつまでも白を切った所で、所詮は時間の無駄」
不知火の姿に注目が集まる中、羽賀は、体をやや斜めにして、パンツのポケットへ左手を忍ばせた。その不審な動き、不知火が見逃すはずはなかった。
「私は江口を殺そうと思った。これは、間違いない事実」
不知火は薄目をして、羽賀の方へ早足で近づいた。石動と加藤が銃口を動かす。
「リフトの背もたれにロープを結び、その位置を頭に入れて、変装して、リフトスタッフのクレームをつけて、江口が一人でリフトに乗ったように見せかけて、奴を首吊り自殺に仕立てようとした」
眼前に迫る不知火に対して、羽賀は面食らって、右手の拳銃を胸の位置へ上げる。
「動くな!」
加藤は目の前を横切る不知火へ叫ぶ。風が吹き抜けるような速さで、不知火は羽賀の左腕を掴み上げた。その左手には車のリモートキーのような、黒い物体が握られていて、小型の、恐らくはボイスレコーダーが、不知火の手に渡った。羽賀は左腕を引き抜かれた影響で、上体の態勢が左後ろへ崩れ、反動で回って来た右の上体の先にある、右手の拳銃が、不知火の胸に向かった。
「ダメだ!」
石動は青ざめて叫ぶ。
羽賀は、自身の生命に凶悪が迫った恐怖から、引き攣った表情を見せた。拳銃を発砲した経緯、それが、そもそも正常な判断のもとに行われたのか、否か、それは定かではない。羽賀の拳銃は、その薬莢内にある火薬が引火して、火薬が爆発、銃口から銃弾が発射された。弾丸のその先にあるもの、それは不知火の胸部。
美咲は両手で口を覆う。加藤がとっさに羽賀の右手を掴んで下へおろす。硝煙の向こうには羽賀の怯え切った顔。
「う、撃った」
わたくしは、羽賀と不知火の二人を交互に見た。キーンと耳鳴りがするほどのガンパウダーの爆発音、その後で何がどうなっていてもおかしくはない、この中で誰が死んでもおかしくはない、それほど拳銃の殺傷能力は恐ろしく、羽賀の誤射は我々を凍り付かせた。
不知火は、無事か? 硝煙に煙った彼女の姿は、左肩を後ろへ倒して、上体を横に向けていた。手にしたボイスレコーダーを顔の前まで上げて、
「危ないじゃない」
わたくしは眉を寄せて、瞬きを繰り返した。よけた? よけたのか? あの至近距離から拳銃を発砲されて、時速一三〇〇キロメートルとも言われる銃弾を?
「かわいい顔をして、男よりも大胆。今の、私じゃなかったら死んでいる」
不知火の体、ブラック柄のスノージャケットには、どこからも出血が見られない。激痛にうずくまる事もない。一体、どうなっている。
〝おじさんは何も分かっていません。忍さんに銃なんて通用しません。もちろん他の武器も同じ事です。返り討ちに遭ったバイフーの二人を思い出して下さい〟
これはりおの警告。まさか、人が銃弾をよけるなんて、そんなの絶対にありえない。何か、きっと仕掛けがあるに違いない。防弾チョッキ? 思わず敷島の顔を見た。頭の良い敷島なら、今の不知火の動きに、何かしらの答えを持っているはずだ。案の定、敷島は全く表情を変えずに腕を組んでいる。やはり何か仕掛けがあるのだ。
「刑事さんが盗聴なんて、どうかと思う」
ボイスレコーダーを床へ落として、ブーツの底で踏みつぶす。
「そんな姑息なマネ、しなくても、後でちゃんとしゃべってあげるわ。警察が私を取り押さえる事が叶うのなら、ね」
羽賀は拳銃を床へ落とした。震えた右手を左手で押さえている。ひょっとして、我々の中で一番、彼女が驚いているのではないだろうか、不知火が銃弾を避けたと言う、過激な事実に。
「でも、私は江口を殺していない。これだけが、コンピュータ・シミレーションで唯一そぐわない点。どうして最新のコンピュータ・シミュレーション技術で、江口の死の真相までたどり着けなかったのか、それは、さっき敷島レナが言った通り、江口のAIが一般男性のパラメーターでプロットされているから」
不知火は、石動と加藤の銃口に追われながら、楽々と背中を見せた。
「腐っても鯛。ああ見えて江口は、晦冥会の現役の暗殺者、チンロン。氷室様は、バイフーとチンロンに対して、血を吐くような地獄の訓練を与えた。その、人間の限界を超越した暗殺の術までは、AIのパラメーターにプロットされていない。江口がサークルフックに引っ張られて、座席の後ろへ投げ出されても、まんまとリフトから転落するはずはなかった。すんでの所で、座席の背もたれを左手で掴み、そのまま釣り針はフードを破って切れた。これが、敷島レナの言う真実。だけど、こんなのは想定内の出来事。子供だましの小細工で、そう簡単に江口を殺れるとは思っていない。江口は左手で座席に掴まり、右手で私に銃口を向けた。私に、そんな物は通用しない」
不知火は横顔を見せて、二つの銃口を見た。
「そんな事は、江口も分かっていた。分が悪い。そう口にして、あいつは左手を放した。数メートル下のゲレンデへ飛び下りようとした。馬鹿な奴。首にはロープが巻かれている。その長いロープの先端は、すでにリフトの手摺りに結んである。
結局、江口はそのまま首を吊った状態になって、死んだ。なんて間抜けな男、そう言ってしまえば、それまで。でも今にして思えば、あの時の江口は何かがおかしかった。終始落ち着かなかった。他のバイフーたち、私を消しに来た彼女らとは、全く様子が違った。もはやチンロンとしての威厳や風格がなかった。奴に何があったかは分からない。ひょっとしたら奴の主君、不破巽の絶大なる信用を失ったのかも知れない。自分が所属する巽派の派閥の形勢が悪くなり、後ろ盾を失ったかして、私を討って大手柄をあげたいと、大胆な行動に打って出たのかも知れない」
晦冥会の、派閥争い。
「まあとにかく、江口は私に敵わないと判断して、その場から逃走しようとした、その矢先に自ら命を絶つ事になった。これが現実。最新のコンピュータを駆使した所で、こんな馬鹿げた人間の愚行について、再現性もクソもない」
不知火は、青二才でも見る目で、美咲の顔を見届けてから、祠の奥へと進んだ。
「いい? こんな所で。無駄な時間は使いたくない。江口は勝手に死んだ。自殺ではなく、他殺でもなく、その場から逃れようとして判断を誤った、事故死。実際、刑事告訴されれば、私は実刑判決を受けるだろうけど。でも、そんなのどうでもいい」
祠の正面の壁、黒錆の入った、明治か大正を思わせる古いダイヤルの付いた、コンクリートの壁。そこへ向かって、不知火は立ち止まった。
「ここからが本題。敷島レナ、あなたが一番知りたいのは、そんな事ではない。あなたがいま最も知りたいのは、宮國のこと」
敷島の顔に、険悪な何かが出現した。
「あなたが狂おしいほど可愛がっていた、宮國瑞希のこと。知りたいんでしょう? 彼女がどうやって、ここで死んだのか」
美咲の旗色が悪くなった。
「証拠が、江口が殺害されたという証拠が、これだけ揃っているのです。彼が首を吊ったリフト、そこには短いロープが結ばれていました。彼の着用していたウェアのフードには、破損が見られたそうです。犯行現場となったリフトの真下、最もリフトに接近する倒木の枝には、鉄の爪の傷痕が残っていました。証拠は十分です。時間的にも、吹雪のゲレンデで、あなたとわたしが衝突した時刻と合っています。さらに、久慈さんの娘、理穂ちゃんも、あなたと江口が一緒にいる所を目撃しています」
思いつくままに反論する美咲。その取り乱した姿は、お世辞にも論敵を辯駁できたとは言い難かった。それは、打合せにない批判を浴びて、あたふたと演壇に立つ大臣を見た気分だった。加藤と羽賀も、傍聴席で腕を組んだ国会議員のように、お互いの顔を見合わせている。
確かに、美咲の説明は理に適っている。最新技術による犯行当時のコンピュータ・シミレーション、その映像を最後まで見たわたくしは、江口殺害のプロセスに異論はなかった。〇・二%の成功率というのが、現実的かどうかは別として、ピンクのモデルの通りに行動を起こせば、理屈上、江口を殺害する事が可能だ。
ところが、事件の真相を知る者に、それは違う、と明言されれば、いともあっさりとその信憑性が失われる、という、少年雑誌にありがちな浅学の匂いも、同時に感じた。理に適っている、のに、いともあっされとくつがえされる理論、それは一体どこから来るのか。
それは、不知火の態度から来ているのだ。彼女は、余裕のある腕組みをして、何事にも動じず、湛然不動にほほ笑んでいる。こいつは、我々には知り得ない〝何か〟を知っている、そんな、一段上の立場から話しているのだ。
「証拠? 証拠って、こうやれば江口を殺せるって、示しただけ。それをご丁寧にもCGで説明しただけじゃない。しかも、どれもこれも、主要事実を推認させるだけの事実、いわゆる間接証拠ばかり」
美咲は汗を飛ばして、
「だって、そんな、それだって証拠がありません。いま言ったこと全て、あなたがウソをついていれば、それまでの話です。根も葉もないハッタリ、それで相手を気圧して、真相を陽動する、それがあなたの目的です。あなたが、江口サダユキを殺したのです」
敷島がゆっくりと前へ出た。
「そしてあなたは、宮國さんまで!」
宮國?
敷島は、美咲の肩に手を置いて、
「落ち着け、美咲。君が主張したのは、あくまで仮想空間での検証実験だ。事実ではない。君は〝推理〟をしたのだ」
吠えかかって首輪を引かれた犬のように、美咲は、
「しかしこれが、物理的に可能な理論的なアプローチです。これによって、江口殺害のプロセスが明らかになっています。コンピュータ・シミレーションのデータには、間違った数値は確認されていません。カオティックな個々の振る舞いに対して、単純計算を膨大に繰り返すコンピュータの演算能力には、プロセッサもレジスタも十分なスペックがあります」
敷島は、美咲の肩を揺すった。
「美咲、もういい。もう、いいのだ。君は、その職務を全うした。君が現地で収集した膨大な測定データ、それによって構築され演算された犯行のコンピュータ・シミレーション、これが我々に及ぼした影響力は多大だ。不知火はこれを見て、君の主張に対して大筋に犯行を認めたのだ。この成果は極めて大きい」
わたくしも、同意見。不知火は、美咲のコンピュータ・シミレーションを見てから、発言や態度が変わった。変に悪びれて、無駄な白を切らなくなった。
「まあ、君の言いたい事は分かる。気持ちが高ぶるのも分かる。コツコツとデータを積み上げて、AIによって導き出した理想的な検証結果。江口殺害に至るプロセスの大発見。恐らく君は、PCの前でガッツポーズをとった事だろう。警察でも解けなかった難解事件を、君一人の力で解き明かしたのだからな。それを、いとも簡単に否定されて、それでは君も黙ってはいられまい。
しかし、君が証明したのは、仮想現実の世界、あくまで空想の世界での事だ。それは現実ではない。こんな事を英国の作家が言っていた。〝もしも事実と理論が合っていないとしたら、捨てるのは理論の方だ〟と。我々が理論を展開して、それに対して不知火が否定した、それは事実ではない、と。そうしたら、我々が捨てるのは理論の方だ、違うか?」
敷島は、タブレットを内ポケットへ仕舞いながら、
「欲を言えば、君がデータを取り扱う中で、モデル人物のAIに、様々なパラメーターを振ったと思う。しかし、ブルーのモデルに対して、何らかのデータの不足は無かったか? 君は、江口サダユキのモデルに対して、一般人のデータをプロットして、そのままにしていなかったか?」
こう問い質されて、美咲はハッと顔を上げた。その表情にはもう、先程のようなトゲトゲしさが無くなっていた。
不知火は、銃口を天井へ向けて、ベレッタを肩に載せた。
〝どうして江口は、こんな厄介な物を愛用して、暗殺を続けたがったのかしら〟
このベレッタ、確か江口の銃だと不知火は言っていた。では、犯行時に江口がリフトから落とした拳銃、それがこれなのか?
「もう、いい」
凶器の動きに合わせて、石動と加藤が反射的に射撃姿勢を取る。
「いつまでも白を切った所で、所詮は時間の無駄」
不知火の姿に注目が集まる中、羽賀は、体をやや斜めにして、パンツのポケットへ左手を忍ばせた。その不審な動き、不知火が見逃すはずはなかった。
「私は江口を殺そうと思った。これは、間違いない事実」
不知火は薄目をして、羽賀の方へ早足で近づいた。石動と加藤が銃口を動かす。
「リフトの背もたれにロープを結び、その位置を頭に入れて、変装して、リフトスタッフのクレームをつけて、江口が一人でリフトに乗ったように見せかけて、奴を首吊り自殺に仕立てようとした」
眼前に迫る不知火に対して、羽賀は面食らって、右手の拳銃を胸の位置へ上げる。
「動くな!」
加藤は目の前を横切る不知火へ叫ぶ。風が吹き抜けるような速さで、不知火は羽賀の左腕を掴み上げた。その左手には車のリモートキーのような、黒い物体が握られていて、小型の、恐らくはボイスレコーダーが、不知火の手に渡った。羽賀は左腕を引き抜かれた影響で、上体の態勢が左後ろへ崩れ、反動で回って来た右の上体の先にある、右手の拳銃が、不知火の胸に向かった。
「ダメだ!」
石動は青ざめて叫ぶ。
羽賀は、自身の生命に凶悪が迫った恐怖から、引き攣った表情を見せた。拳銃を発砲した経緯、それが、そもそも正常な判断のもとに行われたのか、否か、それは定かではない。羽賀の拳銃は、その薬莢内にある火薬が引火して、火薬が爆発、銃口から銃弾が発射された。弾丸のその先にあるもの、それは不知火の胸部。
美咲は両手で口を覆う。加藤がとっさに羽賀の右手を掴んで下へおろす。硝煙の向こうには羽賀の怯え切った顔。
「う、撃った」
わたくしは、羽賀と不知火の二人を交互に見た。キーンと耳鳴りがするほどのガンパウダーの爆発音、その後で何がどうなっていてもおかしくはない、この中で誰が死んでもおかしくはない、それほど拳銃の殺傷能力は恐ろしく、羽賀の誤射は我々を凍り付かせた。
不知火は、無事か? 硝煙に煙った彼女の姿は、左肩を後ろへ倒して、上体を横に向けていた。手にしたボイスレコーダーを顔の前まで上げて、
「危ないじゃない」
わたくしは眉を寄せて、瞬きを繰り返した。よけた? よけたのか? あの至近距離から拳銃を発砲されて、時速一三〇〇キロメートルとも言われる銃弾を?
「かわいい顔をして、男よりも大胆。今の、私じゃなかったら死んでいる」
不知火の体、ブラック柄のスノージャケットには、どこからも出血が見られない。激痛にうずくまる事もない。一体、どうなっている。
〝おじさんは何も分かっていません。忍さんに銃なんて通用しません。もちろん他の武器も同じ事です。返り討ちに遭ったバイフーの二人を思い出して下さい〟
これはりおの警告。まさか、人が銃弾をよけるなんて、そんなの絶対にありえない。何か、きっと仕掛けがあるに違いない。防弾チョッキ? 思わず敷島の顔を見た。頭の良い敷島なら、今の不知火の動きに、何かしらの答えを持っているはずだ。案の定、敷島は全く表情を変えずに腕を組んでいる。やはり何か仕掛けがあるのだ。
「刑事さんが盗聴なんて、どうかと思う」
ボイスレコーダーを床へ落として、ブーツの底で踏みつぶす。
「そんな姑息なマネ、しなくても、後でちゃんとしゃべってあげるわ。警察が私を取り押さえる事が叶うのなら、ね」
羽賀は拳銃を床へ落とした。震えた右手を左手で押さえている。ひょっとして、我々の中で一番、彼女が驚いているのではないだろうか、不知火が銃弾を避けたと言う、過激な事実に。
「でも、私は江口を殺していない。これだけが、コンピュータ・シミレーションで唯一そぐわない点。どうして最新のコンピュータ・シミュレーション技術で、江口の死の真相までたどり着けなかったのか、それは、さっき敷島レナが言った通り、江口のAIが一般男性のパラメーターでプロットされているから」
不知火は、石動と加藤の銃口に追われながら、楽々と背中を見せた。
「腐っても鯛。ああ見えて江口は、晦冥会の現役の暗殺者、チンロン。氷室様は、バイフーとチンロンに対して、血を吐くような地獄の訓練を与えた。その、人間の限界を超越した暗殺の術までは、AIのパラメーターにプロットされていない。江口がサークルフックに引っ張られて、座席の後ろへ投げ出されても、まんまとリフトから転落するはずはなかった。すんでの所で、座席の背もたれを左手で掴み、そのまま釣り針はフードを破って切れた。これが、敷島レナの言う真実。だけど、こんなのは想定内の出来事。子供だましの小細工で、そう簡単に江口を殺れるとは思っていない。江口は左手で座席に掴まり、右手で私に銃口を向けた。私に、そんな物は通用しない」
不知火は横顔を見せて、二つの銃口を見た。
「そんな事は、江口も分かっていた。分が悪い。そう口にして、あいつは左手を放した。数メートル下のゲレンデへ飛び下りようとした。馬鹿な奴。首にはロープが巻かれている。その長いロープの先端は、すでにリフトの手摺りに結んである。
結局、江口はそのまま首を吊った状態になって、死んだ。なんて間抜けな男、そう言ってしまえば、それまで。でも今にして思えば、あの時の江口は何かがおかしかった。終始落ち着かなかった。他のバイフーたち、私を消しに来た彼女らとは、全く様子が違った。もはやチンロンとしての威厳や風格がなかった。奴に何があったかは分からない。ひょっとしたら奴の主君、不破巽の絶大なる信用を失ったのかも知れない。自分が所属する巽派の派閥の形勢が悪くなり、後ろ盾を失ったかして、私を討って大手柄をあげたいと、大胆な行動に打って出たのかも知れない」
晦冥会の、派閥争い。
「まあとにかく、江口は私に敵わないと判断して、その場から逃走しようとした、その矢先に自ら命を絶つ事になった。これが現実。最新のコンピュータを駆使した所で、こんな馬鹿げた人間の愚行について、再現性もクソもない」
不知火は、青二才でも見る目で、美咲の顔を見届けてから、祠の奥へと進んだ。
「いい? こんな所で。無駄な時間は使いたくない。江口は勝手に死んだ。自殺ではなく、他殺でもなく、その場から逃れようとして判断を誤った、事故死。実際、刑事告訴されれば、私は実刑判決を受けるだろうけど。でも、そんなのどうでもいい」
祠の正面の壁、黒錆の入った、明治か大正を思わせる古いダイヤルの付いた、コンクリートの壁。そこへ向かって、不知火は立ち止まった。
「ここからが本題。敷島レナ、あなたが一番知りたいのは、そんな事ではない。あなたがいま最も知りたいのは、宮國のこと」
敷島の顔に、険悪な何かが出現した。
「あなたが狂おしいほど可愛がっていた、宮國瑞希のこと。知りたいんでしょう? 彼女がどうやって、ここで死んだのか」
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。
「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…
なお、スピンオフもございます。
天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】
田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。
俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。
「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」
そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。
「あの...相手の人の名前は?」
「...汐崎真凛様...という方ですね」
その名前には心当たりがあった。
天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。
こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる