プルートーの胤裔

ゆさひろみ

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二人のカタチ

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 カタコトいう物音で、目を覚ます。頭の芯が、ボーッとして、意識があるのか無いのか、ハッキリとしない。ベッドライトに照らされて、天井の形がほのかに浮かぶ。朝? それとも夜? 布団の中はぬくぬくと温かく、いい感じで、いつまでもこうしていたい。
 ブー、ブー、携帯電話のバイブレーションの音、ハッとして、もう一度目を覚ます。携帯電話のバイブレーションの音というのは、いつでも突然で、ドキッとする。
「はい、もしもし、椎名です」
 会議中こっそりと電話に出るような、ヒソヒソ声。
「お疲れ様です、はい、はい、パスワードは、はい、初期化してあります」
 ゆっくりと肺に空気を入れて、深呼吸。目の前の布団が上下する。
「コード名は6230です。照合しました、問題ありません。そうですね、今から向かえば昼イチには着けます」
 電話を切って、美咲、その後もタッチスクリーンを操作する。
「仕事?」
 ガラつく声。咳払いをして、ゆっくりと唾を飲む。のどの奥がちくりと痛む。
「美咲?」
 ハッとした表情を上げ、顔にかかった髪を耳にかける。
「すいません、起こしちゃいました?」
 携帯電話を胸に当て、下唇をあまく噛む、美咲。ケーブル編みのピンクのセーターに、タータンチェックのキルトスカートを履いて、いかにも娘らしい、横座りを見せる。
「うん、起きちゃった」
 ボストンバッグの口を開けて、ヘアアイロンだの、メイクポーチだの、それらをきれいに並べて、いかにも帰り支度といった感じ。
「いま、何時だろう」
 枕もとへ手を伸ばして、携帯電話の時計を読み取る。五時五十分? 外はまだ真っ暗だ。
「宗村さん、まだ寝ていて下さい。昨日は色々とありましたから、しっかりと体を温めて、今日は休息をとって下さい。事件はもう、解決したのですから」
 そう言って美咲、テキパキと荷物をまとめて行く。
「君は?」
 腕を上げて、下ろして、額の上に乗せる。ちょっと微熱があるかな?
「わたしはこのへんで失礼して、次の仕事へ向かいます。東北で、なにやらとんでもない依頼があったらしく、人員が削られ、本部は対応に追われ、代わりの依頼が(わたしに)入りました。ですからわたし、これから急いで出発します。あ、だけど心配はいりません、今回の件、後は敷島さんが引き継ぐそうですから」
 布団をはぐって、むっくりと起き出すわたくし、寝ぐせの頭をなでながら、
「もう、行っちゃうんだ」
 手を休めずに、次から次へと荷物をしまい、ブーウとチャックを閉める。
「はい。本当はあと一日、もう少しだけここに残って、みなさんに挨拶をして回りたかったのですが、これも仕事ですから」
 二日前、このペンションに到着して初めて美咲と会った、あの夜、二人が同じベッドに寝る事について、その常識を疑うと、
〝仕事ですから〟
 それがなにか? と言いたげな、あの場面を思い出してわたくし、にやりと口許をゆるめる。
「そっか、そうだったな。ここに君がいるのは、全部、探偵業務だった。君は、天道葵の死の真相を調査するため、そのために派遣されて来た、STGの社員。そんな事すらもう忘れてしまった。昔の仲間の悩みを聞きに、小旅行気分でやって来た俺とは、そもそも立場が違う。事件は解決したのだし、二日間の業務は完了、君はもう、ここに残る必要はない」
 このとき美咲は、そうだとも、そうでないとも、はっきりとした態度は避け、無心に手を動かしている内に、出立の準備が整った。忘れ物がないか、いま一度クローゼットや洗面室に顔を出して、そうしてから、山と積まれた荷物に手をつける。
「えーっと、どうしようかな」
 それこそ、二回にわたって運ぶような、思わず手を貸したくなるような、大荷物を前に、美咲はあれこれ運び方を考えている。こちらも見かねて、一番大きな荷物に手を伸ばした。
「あー、いいですいいです、毎回の事ですから」
「遠慮しないで、車まで、ついでだから」
「いいですって。宗村さんはゆっくりと休んでいて下さい。体、大丈夫ですか? いくらなんでも、あんな寒い所で長時間立ち話をして、風邪ひきますよホント」
 そう言って美咲、化粧品の広告にあるような、女優っぽいクールな笑顔を見せる。それがいかにも都会的で、距離感のようなものがあって、こちらは調子が狂う。
〝あなたは人前ではわたしを美咲と呼んで、他人行儀な言葉使いは避けて下さい。わたしたち、恋人役なんですから〟
 ちょっぴり怒ったふうの美咲、あの甘くてクスぐったいやり取りが、実際にあった出来事なのか、それとも単に自分の妄想だったのか、どちらも自信が無くなるくらい、冷たくあしらわれて、いかんともしがたい。
「すみません、じゃあ、それだけお願いします」
 妙にしょげちゃって、わたくし、一番大きな荷物を持って、二人で客室を退室する。静かな館内、そこに響く二人のスリッパ、廊下の電気がやけに明るく感じる。玄関のスノコに荷物を置き、そのまま食堂へ入った美咲、どうしたのかとついて行くと、厨房に顔を出して挨拶をしている。
「え、もうお帰り? 朝食は」
 コックコート姿の岸本、寝る間も惜しんで、朝食の仕込みに余念がない。
「すいません、ちょっと急用が入ったもので。あの、朝食のことでしたら、敷島さんが(わたしの分を)頂くそうです」
 味見の小皿を手に、そうしたまま岸本、後ろのわたくしを見る。
「あいつも、ここに泊まっているんだっけ? そうだったっけ? もう、何が何やらさっぱりわからん。昨夜だって、警察の連中が押し寄せて、勝手に食堂を占拠するし、そのうちの一人、加藤という刑事だって、客室の一つを工面してほしいだなんて、急に無茶を言ってくるし、挙句の果てには、これからしばらくの間このペンションは貸し切りの状態にしたいと、とんでもない要求を突き付けて来る。まったく、こんな騒動は、『アルプホルン』創業以来初めての事だ」
 ガスレンジに置いた寸胴鍋、その一つがふきこぼれそうになり、走る岸本、トップバーナの火を弱めて鍋蓋を取る。
「これからだよ、これから大変な騒ぎになる。なんたって君の家のすぐ裏庭には、とてつもないモノが眠っていたのだから、覚悟することだ。重大な局面。人だって、全国から集まって来るだろうし、電話だって鳴りっぱなしだ。とにかく気の休まる事がないだろう」
 岸本は、自慢の厨房を背にして、お金を表すジェスチャーを見せた。
「儲かるのか?」
 苦笑するわたくし、ゆっくりと首の後ろを掻いて、
「せいぜい、いっぱい稼いでおけ。なんたってもう、晦冥会からの月謝は途絶えるのだからな」
 しーっと岸本、怖い顔を見せて、人差し指を口に当てる。
「本当に、いま考えてみると、信じられない話ですね」
 寝ている人に気を配り、物音を立てないよう、ドアベルのクラッパーを押さえる美咲。
「このペンションに、あの伝説のバイフー、不知火忍がバイトをしていたのですから。いま思えば、そんなの恐ろしくって、命はいくらあっても足りない気がします。それこそ、久慈さんの話の中にもあった通り、その事に気がついていた理穂ちゃん、彼女のその時の様子のように、一歩も部屋から出られなくなります」
 コソコソと表へ出る二人。空は明けて、足もとは暗い、夜明け前のペンション・ビレッジ。あれから雪は降らなかったようで、除雪車は一台も出ていない。
「そこへ来て、岸本さん、知らないって本当に怖い、あの暗殺者に恋愛感情をもってしまったというのですから」
 玄関から駐車場へと向かう美咲、その足もとには、スノーモービルのキャタピラーの跡が、生々しい氷の凹凸となって、足もとを悪くした。
「そうだね、まったく恐ろしい話だ。好きになった相手、不倫したと思った相手が、ひと晩で八〇人も殺すバケモノというのでは。こんなのを、見ぬが仏、聞かぬが花、というのではないだろうか」
 ちょっと話しただけで、ぐんと明るくなった。駐車場に停まった三台の乗用車、そのどのフロントガラスも、みごとな窓霜が降りて、真っ白。そのうちの一台へ向かって、スマートキーを押す美咲。寒くて、バッテリーも弱って、セルモーターがうまく働かず、ひゅんひゅんとへんな音が鳴る。
 そのまま美咲は後方へと回り込んで、ハッチバックに荷物を積み込み、話を続ける。
「いまにして思えば、昨夜遅くのひと悶着、不知火忍が救出された場面に、岸本さんも呼んであげれば良かったでしょうか。岸本さんは、天道葵が心中自殺をしたと思って、それが納得いかなくて、思い悩んで、そうしていたのですから、それは奇蹟の再会になったはずです。そしてそれは、民話にある鶴の恩返しの、鶴女房の姿を見てしまった後のように、不知火忍とは、もう二度と会えない事でしょうから、何か最後の会話でもあれば、岸本さんにとっては良かったのではないでしょうか」
 思わず笑って下を向いた。
「ダメだよ。不知火は昨夜、晦冥会の祠の奥へ向かって、そのまま帰らぬ人となった。STGはそういう調査報告書を出すんだろう? だったら、一貫して、そうしておいた方がいい。だってあいつ、不知火の諜報活動、いわゆるハニートラップに引っ掛かって、それを本気で悩んでいるのだから、男としては情けない限り、このままそっとしておいて、彼の汚点には触れないでおいて、それこそ聞かぬが花だ」
 バン、とハッチを閉めて、運転席まで移動する美咲。
「そういうものでしょうか? 不知火忍は、一年半もこのペンションで住み込みのバイトをしていたというのですから、そのお別れに、という意味も込めて、最後に一言と思ったのですが」
 暖機運転の車、エンジンが冷えて、油圧の立ち上がりが遅く、カラカラという金属音が鳴る。
「それを言うなら君だって、最後に一言と言うのなら、君だって、同じじゃないか?」
「え?」
 コートのポケットに両手を突っ込む、わたくし。
「まる二日間、生死をかけての大事件に立ち向かって、ともに奮闘したパートナーに、なにか一言、最後にあってもいいんじゃないの?」
 運転席に座って、ドアを閉める美咲、間もなくパワーウィンドウを下げて、きょとんとした顔。
「冷たいって、言っているの」とわたくし、下唇を突き出して、
「このまま何事もなかったかのように、帰って、平気な顔をして次の仕事へ行く。そんなのやっぱりさみしいよ。そりゃ、さ、仕事の関係上、俺たちは恋人役を演じただけで、それ以上の事はなにもなかったけどさ」
 まゆ毛が下がって、真顔になる美咲。
「宗村さん」
 そのまま目元を指さして、
「目ヤニ、ついていますよ」
「え、どこ」
 とっさに手を出して、目頭に指を当てるわたくし、その指の間、そこに妙な感触があって、不思議に思って眺めると、右手の中指に何かが絡まっている。
「げっ」
 コートのポケットの中、そこにずっとあって、このとき偶然出て来た物、それは女性用のブラジャーだった。
 美咲の眉間にきれいな縦じわが寄る。
「待って、これは」
「宗村さーん」
「ご、誤解しないで、これは、ほら、あれだよ、あれ、どこまで話したっけ? 俺が昨日、不知火の潜伏先の部屋、つまりバイフーのアジトに入って、彼女の犯行の物的証拠を持ち帰ろうとして、その時に、たまたまこれを手にした所で、彼女と鉢合わせて、もう命からがら、なりふり構わず、こいつを持って出て来てしまったんだ」
 言い訳をして、大いに言い訳をして、ブラジャーを指で差すわたくし。
「たまたまって、普通そんなの手にします?」
 いぶかしそうに、美咲は大きく腕を組む。
「しまった、昨夜のうちに、彼女が救出された時に、こいつを返しておくべきだった。すっかり忘れていた。もう会いたくはないけど、会わないというのなら、そうだな、きれいに洗濯をして、こっそり晦冥会へ郵送しよう」
 フラワーレースのブラジャーを手に、困り果てるわたくしを見て、美咲、両手で口許を覆って、へんに顔を隠して、クスクスと笑い出したかと思うと、おや、と思うくらい、腹を抱えて笑い出した。
「あー可笑しい。宗村さんって、ホント可笑しい。あなたはまじめな人なのか、不まじめな人なのか、ホントよく分かりません」
 そんなに笑う所ではない、何がそんなに可笑しいのか、わたくしはなんだかへんに思って、寒空の下に立たされていた。しかし考えようによっては、下着ドロボーと間違われて、二度と口を利いてくれなくなるよりも、こんなふうにすっかり笑われた方が、よっぽどマシな気がして、なんだかホッと胸をなでおろす。
「あの、ホントにこれは、そういう趣味とかじゃなくてね、分かって、もらえたかな」
「宗村さん」
「はい?」
 何かを決心するように、美咲、自分にだけ、小さくうんと頷いて、
「宗村さん。わたし、冷たかったですか? このままあなたとはさよならして、すぐに次の仕事のクライアントに会って、そして今回と同じように、また、その人の恋人役を演じる、そうならないとも限らない、これでは、確かに冷たいですよね。
 でも、そういう問題ではないのです。そういう問題では。なんて言ったらいいのでしょう。とにかく、今回の件でわたし、あなたにはとても感謝をしているんです。本当です。あなたと一緒に仕事が出来て、本当に良かった。そういうふうに取り計らってくれた敷島さんにも、いまでは感謝をしています。泣いたり笑ったり、怒ったり、ときには宗村さんの事をひっぱたいたりしましたけど、それでも、心の中ではとても感謝していたのです。今回は、あなたがそばに居てくれて、本当に良かった。仕事、仕事と、わたしが事あるごとに口にしていたのは、実はそれは、自分自身に言い聞かせているのでした。そうでなければわたし、こんなに冷静ではいられません」
 そっと、ブラジャーを元に戻す。
「このM高原という雪山は、わたしにとって、とてもつらい場所。思い出したくも無い、思い出すと、胸が張り裂けそうになる、タブーのような土地。彼が、秀勝が、いつまでも笑顔で手を振っているような、そんな悲しい、やるせない場所。ですからわたし、一人でここへ来ては、とても、とても、冷静ではいられないのでした。
 そこを宗村さん、あなたがいつもそばに居てくれて、ときに笑わせてくれて、そのお陰でわたし、なんとか自分らしくいられたような気がします。本当に、ありがとうございました。
 しかも宗村さん、昨夜わたしが、まんまとバイフーに捕まって、晦冥会の秘密の祠に連れ込まれた所を、命からがら、救出に来ていただいて、わたし、言葉にできないくらい感謝しているんです」
 話の途中、助手席のシート上で、携帯電話のバイブレーションが鳴った。結構な時間なっていたが、美咲は見向きもしないで、話を続けた。
「実を言うとわたし、あの時はもう、死んでしまっても構わないと、そう心に決めていました。二年前、わたしと秀勝は、突然の雪崩に遭って、瀕死の重傷を負った。なんとか動ける彼は、止めるのも聞かず、その場にわたしを残して、下山の道を選んだ。それが彼の最期の姿となった。だからわたしは、婚約者の助けを信じて、あのままいつまでも待ち続けて、二人とも死んでしまった方が、そういう運命だった方が、正しかった気がして、それが愛を貫く人として、潔く、美しい気がして、いつかそうなることを望んでいたのだと思います。そこへ来て、彼からEメールが届いて、それが果たして偽装されたものだとしても、今からでも遅くはない、彼の言う事を信じて、そのままの一途な姿で死んでしまいたい、そう本気で思ってしまったのです。今にして思えば、それはまったく馬鹿げた考えで、ただの無駄死に。単に周囲を危険にさらすだけの、迷惑な行動、美しくもなんともない。でもあの時は、何もかもが信じられなくなって、目の前が真っ暗になって、まわりが見えなくなってしまっていたのです」
 スカートの上に置かれた両手、それがギュッとかたく握られた。
「そんな中、宗村さんは、助けに来てくれた。晦冥会の祠の中、目の前にいるのは最強最悪のバイフー、これ以上ない絶望的な状況下で、突然現れたあなた、その顔を見てわたし、本当に信じられない思いでいっぱいでした。だって、祠の入口にある石扉は、不破家の紋章の入った家宝がなければ、ひらく事が叶いませんし、その家宝を手にした所で、どうやってそれを使うのか、素人の宗村さんに分かるはずもありません。ですから、現実にはありえない出来事に、わたしは、秀勝が助けに来てくれた、こうすんなり信じられました。二年待って、ようやく秀勝が、雪崩に遭ったわたしを助けに来てくれた、やっと、やっと、わたしは彼と再会を果たしたのだと」
 鼻をすする音。涙をこらえて、美咲、まぶしそうに上を向く。
「ごめんなさい。泣くはずじゃなかったのに、ダメですね、こういう話をすると。とにかく宗村さん、本当にありがとうございました。聞けば宗村さん、昨夜は本当に大変だったそうですね。あの後、敷島さんから聞きました。敷島さんが不知火の所へ到着するまでの間、それまでの時間稼ぎ役をやってほしいと、現地にいる宗村さんにすがりたい気持ちだったそうです。でも、無理には頼めなかったと。そもそも、どうやって晦冥会の秘密の祠に入ればいいのか、それは敷島さんが現場を観察して、解決する問題であるし、もしもそこがうまく行ったとしても、不知火がどう出るかによっては、宗村さんにも生命の危険が及ぶ。自分の誤った判断によって、古い友人まで失う事になっては、絶対にならないと、移動する車中で相当悩まれたそうです」
 空を見上げた。もう、朝焼けが始まっていた。深海のような濃い紺碧が、美しいグラデーションを描いて、全てをあかね色に染めて行く、薄明。
「もういい。もう、いいんだ。すべては終わったこと、すべてはなんとかうまく行ったんだ。君が無事に帰って来られた、それがすべてで、ハッピーエンドってやつだ。俺たちは恋人役を演じきった。その役をまっとうした。ふつう、恋人のためだったら、たとえ火のなか水のなかって、そういう事だろう? 君の彼氏がそうしたように」
 二年前、ひと組のカップルが、雪崩に遭った。そして、二人の運命は、そこで引き裂かれてしまった。その悲劇の現場である、北信五岳の高山。その方向へと顔を向けて、わたくし、峰の部分だけ朱色に染まった、深い山ひだを見つめた。
「太古秀勝は、今でも君の事を想っている。それを昨夜強く感じた。必死になって君の所へ向かっている、ちょうどその時に、何度もそれを感じた」
 りおの透視が失敗して、もう一つの世界からぬけ出して来た、禍々しい黒い影。そのむごたらしい姿は、この世のものとも思えず、間違いなく悪霊の類だった。りおは、最大限の注意を払いながら、自分を囮として、人里から離れ、どうにかやり過ごそうと、駅のホームに身をひそめた。
 だけどそいつ、実は悪霊の類ではなく、現世に強い未練を残した太古秀勝だったのではないかと、わたくしはつくづく、確信を持つようになっていた。あの時は、わたくしのあとを執拗に追って来る、恐ろしい悪魔の存在として、特に深い考えは持っていなかったが、すべてが終わったいま、改めて思い出してみるに、そいつは二度にわたってわたくしを助けてくれた。美咲の無事に間に合おうと、必死に奔走する、このわたくしを。
「どうして」
 美咲の目に大粒の涙が浮かんだ。
「まあ俺と太古は、顔は似ていて、他人とは思えないが、でも一度も会った事がない。それでもきっと、太古ってのは、いい奴だったんだろうな。正義感というものを、あのとき強く感じた。そして今でも君の事を一番に想っている」
 ハンカチを顔に押し当てて、声を押し殺して泣く、美咲。
 しんみりとした時間、ぼりぼりと頭を掻いて、わたくし、ちょっとその場の空気を変えようと、わざとくだけた感じで、
「まあとにかく、あれだね、今回は君みたいな美人が恋人役で、ホントに良かった。うん、良かった。俺ってさ、普段からホコリをかぶったような生活、というやつ? とにかく退屈な毎日を送っていたから、こんなに胸が熱くなって、躍るような体験ができて、とてもラッキーだった。いい思いをしたんだ。だから、不知火に殺されかけたって、巽に殺されかけたって、文句なしの上出来だ」
 どこからか粉雪が舞って来た。『Snow Crystals』という、雪の結晶の写真集、そこに咲いた美しい雪の妖精たち、わたくしはそれらに取り囲まれ、心を奪われ、大きく両手を広げた。空は明けきって、まつ毛に影がつくくらい、青空に白い雪山が照り輝く。
「宗村さん」
「ん?」
 呼ばれて、何気なく顔を戻した時、わたくしはドキッとした。車の中から身を乗り出して、顔を突き出す美咲、うっすら瞳を閉じてからの、キス。
「⁉」
 大きく目を見開いて、わたくし、この世のものとも思えない、夢のようにやさしい、やわらかい唇の感触。全身が骨抜きになる。さっきまで考えていた事が、ぜんぶ吹き飛ぶ。ああ、こんな世界が、現実にあったんだ、そうだすっかり忘れていた、今まで、そんな事すら忘れて、時が止まったような日々を過ごしていた。そう思ってしまうくらい、美咲のキスはわたくしにとって強い影響力があった。けれども、その感動も、たまゆらの夢。ふと我に返ってみると、美咲はもとの通り運転席に座っている。理性ある大人の女性、つまらぬ事を気にしてじっと座っている、女性。
「ごめんなさい宗村さん、わたしたち、恋人という役は、もう終わってしまっていたんでしたね」
 ペロッと舌を出して、無邪気に笑う美咲。
「宗村さん、これから、がんばって下さい。とにかく、がんばって下さい。敷島さんとの婚約のこと、それとなく聞きました。本当の所の話も、聞きました。とても信じられない話ではありますが、でも、一夜にして婚約者を失った、その苦悩は、わたしにも分かります。いつまでもその悔しさを忘れられない、その気持ちも、よく分かります。
 でも、とにかくがんばって下さい。わたし、今回の事件を通して、一つ学んだ事かあります。それは、いつまでも過去の呪縛にとらわれてはいけない、いまを生きなくてはいけない、という事です。わたしたちは、今ここで息をして生きている。生きて、前へ進んでいる。そうしなければならないのです。なぜなら、たくさんの人たちが、わたしのすぐ隣にいて、何かあれば手を差し伸べてくれます。困ったら、困った分だけ、いつでも手を貸してくれます。そしてその人たちは、わたしが暗い過去を乗り越えて、前に向かって歩き出すその瞬間を、心待ちにしているのです」
 軽くハンドルの上に置いた、左手、その薬指には、もう、婚約指輪はなかった。美咲は、今回の事件を通して、本当に、亡き婚約者との決別を決心したようだった。
 何も言わず黙っているわたくし、美咲は、へんにそわそわして、そして、その場を誤魔化すように腕時計を見る。
「すみません宗村さん、わたし、もう行かなきゃ。新しい仕事が、新しい人たちが、わたしの事を待っていますから」
 そう言って美咲、泣き出しそうな、不安そのもののような、浮かない横顔を見せて、フロントガラスを見つめている。
「美咲」
「はい」
 思いがけなく、明るい返事。その、前向きな彼女の姿勢に、わたくし、用意しておいた言葉がこの場にそぐわない気がして、ためらって、けれども別に言う言葉も見つからず、ごにょごにょと口ごもる。
「いや、あの、そのなんだ、えーっと、こんな寒い日は、道路が凍結しているから、運転には十分に気を付けて。雪の少ない道でも、ブラックアイスバーンというのがあるから」
 初めてのデート、ひどい緊張感から、それじゃない事を言ってしまって、あーしまったと、すぐにそれに気がついて、でももうどうにもならなくて、あのもどかしさ。
「はい」
 今度は、あきらかに暗い返事。そして、機械的な速さで上がって行く、パワーウィンドウ。わたくしと美咲はぶ厚い強化ガラスに隔たれる。窓霜によって、美咲の表情が透けて、その唇が「バカ」と動いた。
〝たった一人の社員も救えない腰抜け企業に、このさき未来なんかあるかよ! 君なんかにはもう頼らない! 俺一人でも美咲を救出に行く!〟
 ゆっくりと回り出すタイヤ、圧雪に乗り上げて、ばきばき氷を砕く音。手をふって、さよならでもしようかと、車内の様子をうかがっていたが、美咲、まっすぐに前を向いたままこちらをふり返ろうともしない。そうして、とうとう。
 誰も居ない駐車場、一人ぽつんと立っているわたくし。遠い空のかすみに、大排気量のエンジン音が響いていた。遠くの木立でどささんと雪が落ちる。あわてて耳を澄ますわたくし。車のエンジン音は、もはや遠くにさえなかった。両手で顔面を覆って、しばらくそうしてから、ごしごしと強く顔をこする。
 すると突然、わたくしの背後から、あきれ果てた女の声がする。
「まったく、見ていられないじゃないか」
 ふり返ると、腕を組んだ敷島が、玄関ポーチの柱に寄りかかっていた。
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