プルートーの胤裔

ゆさひろみ

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ナット・フォー・ユー

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 その手紙は、一枚の便箋だった。中身が見えないよう、折り紙のように折って、こっそり少女たちが渡し合っている、あのやつだ。表には『賢治へ』と、わたくしの名前が書かれてあった。
「!」
 急いで敷島を見上げる。
「今回の事件をきっかけに、君ら(美咲と)二人がうまく行くような事があれば、そんなもの、即刻火にかけてしまおうと思っていた。その手紙は、本来この世に存在してはいけないもの。いま、君の手にあってはならないもの。そんな、不確かな存在でありながら、それでも、君の目にふれる事があれば、それは君の心に作用して、あるべき未来が変わってしまう。ほどけかけていた、君の〝呪縛〟というやつを、より一層、きつく、締め直してしまうかも分からない」
 フラフラと、亡霊のように立ち上がって、わたくし、
「まさか」
 相手の視線を意識して、うるさそうに顔をそむける。
「その、まさかだ。その手紙、じつは俺の妹が君に宛てて書いたものだ」
 サッカー選手が、試合中レフリーに詰め寄るように、
「レナは無事なのか⁉ レナは、今もまだ君の中に!」
「はやるな宗村。話には順序というものがある。まずはこの手紙が書かれた時期だが」
「十年前だろう、レナが正気だった」
「いや、三年前の話だ」
 思わず敷島の服を離した。
「三年前?」
 わたくしは、もう一度手紙を見た。確かに手紙はきれいだった。長年日の光にさらされて起きる、退色というものが見られなかった。
 敷島は髪の毛を手ぐしで梳いて、
「三年前、俺の妹は、病室にいた。広い、贅沢な個室、その窓には、見知らぬ街が広がっている。家に帰りたい、そう気持ちははやるのだが、思うように動く事ができず、陰鬱な病床に伏せる毎日。ゆいいつ、何かできる事があるとするならば、それは、近くに置かれた紙と鉛筆、そいつに手を伸ばして、君に手紙を書き残す事だけ」
「そんな、馬鹿な」
「三年前、俺の妹は、入院していた。どうしてそうなったのか、その経緯について、これから君に、悉皆の事実を告げようと思う。ただ、話が長くなってもあれだから、所々割愛はさせてもらう。
 とにかく三年前だ。思い起こせば、当時、我が敷島探偵グループに緊張が走っていた。グループ創立以来、初となる、死者が出ようとしていたのだ。ランデブーポイントに着陸する、ドクターヘリに乗って、緊急搬送されたその社員は、外傷性くも膜下出血という、一刻をあらそう危険な状態。高い謝礼を払った、天才脳外科医は、きびしい表情で手術室に入って、夜が明ける頃、颯爽と廊下を歩き去りながら、〝成功〟と口にした。我われはホッと胸をなでおろして、思い思いにイスに座ったのだが、これがのちに、我われ私立探偵という仕事が、犯罪に巻き込まれやすいハイリスクな業種として、悪い脚光を浴びる事となった」
 ここへ来て二日目の夜、石動刑事との会話を思い出した。
〝我われ刑事にとって、私立探偵にちょろちょろされるのは、正直あまり好ましくはない。彼らは所詮民間人、無駄に犠牲者が出る場合があります〟
 彼の言う犠牲者というのは、この事を言うのだった。
〝宗村さんは、ご存知なかったですか? 三年前、敷島レナが事件に巻き込まれて、生死をさまよった事があるのを〟
 三年前?
〝敷島レナでさえ、犯人の報復で死にかけているのです〟
 そうか、ああなるほど、あのとき石動刑事は、これから敷島が話すだろう内容の事を言っていたのだ。
「どうした?」
 顔を上げると、大きな目があった。
「あ、いや、石動刑事がそんなような事を言っていたから」
 くびの後ろに手を当てて、あー、と言って敷島、
「そうだな、あいつも、本件の当事者だったな。俺なんかよりも、ずっと、この件には詳しいはずだ。なんたってあいつは、俺の命の恩人だ。
 まあとにかく、全ての始まりは、やはり三年前だ。場所は、そうだな、ここからそう遠くはない、日本海上に浮かぶ、岩礁の多い離島。あそこは渡り鳥の格好の休息地で、野鳥観察のメッカともなっている。非常に小さな島で、犯罪とは縁のない海女の町といった所だ。そこを観光で渡島していた、二人の女子大学生が、こつ然と姿を消した。バードウォッチングに出かけると言って、宿の人と会話を楽しんで、それ以降、彼女らの姿を見た者はいない。夜になって、夕食の時間に顔を出さない二人を、案じた宿の人たちから、季節駐在所へ通報が入った。駐在所員の警察官は、一時間で一周できるという、小さな島のすみずみにまで、懐中電灯の光をあてて、二人の捜索に当たった。すべての島民に聞いても、彼女らの姿を見た者さえいなかった。当時は、行方不明になった二人が、東京の大学生だったこともあって、全国放送のテレビでも報道され、ちょっと話題にもなった。それから間もなくして、彼女らの父親が、謝礼金を持って、娘を見つけて欲しいと、こちらへ頭を下げて来た。彼らは、一向に情報公開しようとしない、警察に、業を煮やしていた。その金額を確かめて、俺は、市議会議員の浮気調査をペンディングとして、それに当たっていた社員の一名を、島の定期連絡船に乗せ、二人の行方調査を頼んだ。
 それから二日たって、その日の夕日、誰もいない砂浜で、スキューバ器材のオクトパスが、砂の中から顔を出しているのを、うちの社員が発見、その写真を撮影していた所、背後から何者かに殴られた。オンラインのバイタルサインが、急変信号を発信、データ管理システム部から、ドクターヘリ基地病院へ、ただちに連絡が入った。上等だ。俺は警察用船舶に乗って、社長みずから離島へ出向き、仇討ちに打って出た。ひどい怪我を負った、うちの社員は、二人の行方に関わる重要な証拠、ダイビング・ギアを発見していた上に、民宿に長期滞在している、別の女子大学生が、二人の行方に関わっているとして、目星をつけていた。俺は、復路の船に乗って、島の反対側から、その女の動向に細心の注意を払って、監視を続けていたが、それと同時に、ようやく島に上陸した第二機動隊のスクーバ部隊に、夜の海を潜らせ、西岸にあるサンゴ礁の斜面、水深二〇メートルの海底に空いた、地底の入口から、水中石膏洞窟へ抜けさせて、そこで飢餓状態となった、行方不明の女子大生二人を救助させた。これはどういう事か、こういう事だ。重要参考人の女は、女子大学生二人に、自分はCカード(レクリエーション・スクーバダイビングの認定証)を持っている、せっかくだから、夏の思い出に体験ダイビングをしないか、いいや、ボランティアだから、金はとらない、などと言葉巧みに誘って、ひと気の無いビーチからエントリーして、海底に隠された洞窟まで、彼女らを誘導、水から上がって、鍾乳石群の連なる幻想的な洞中で、はしゃぐ彼女らをよそに、タンクとレギュレーターを手に、そっと一人で帰って来た。二人が異変に気が付いた頃には、もう、自力では脱出不可能な、地下水したたる地底世界に、無慈悲にも置き去りにされた後だった。
 この卑劣な行為、決して許されるものではないが、それでも我われの注目を集めた、女の動機というやつが、未だにはっきりしていない。〝月の宮〟とか〝竜神へのお供え〟とか、意味不明な言動をくり返して、今も女は服役中だ。
 かくして、行方不明だった二人が、無事に保護されたとあって、その知らせを聞いた島の住民たちは、大規模ローラー捜索から、ぞろぞろと引き揚げて来て、ほっと安堵の色を浮かべていた所、なんの因果か、突然島を大嵐が襲った。それは夜にかけて、恐ろしい勢力でもって、古民家の薄い窓に、シャワーの水を当てたような、激しい雨を吹きかけて、そんな暴風の音を聞きながら、俺は、発見された重器材を畳に並べて、行為の類型化と動機の付与作業に当たっていた。明日未明には、裁判所から逮捕状が発付される、そんな大詰めに来て、俺は、まさかまさかの奇襲を受けた。正直俺は、なに一つの身の危険を考えていなかった。なぜなら俺は、念には念を入れて、女との距離を保っていたし、二人は、まったく面識がなかった。にもかかわらず、俺は、嵐にまぎれた侵入者によって、突然刃物を突きつけられた。今にして思えば、女は、〝竜神さまのお怒り〟とかなんとか、何かに取り憑かれている様子だったから、ひょっとしたら、上月加世や久慈理穂のような、人知を超えた世界に、精通する所があって、俺の、〝ルナの回付〟という神秘の術の、ニオイみたいなものを嗅ぎ分けられてしまったのかも知れない」
 それを聞いてわたくし、晦冥の荒野から、りおを追って来た、禍々しい影を連想した。
「とにかく俺は、島が揺れ動くかと思うほどの、暴風雨の中、嵐の海へと連れ出され、二人はびしょぬれ、絶海の孤島に生まれた、十メートルの断崖、その頂点に立たされて、大しけの海をまともに見た。今でもあの夜の光景を忘れない。墨汁を流したような、真っ黒い海原に、うじゃうじゃと白波が立って、あちこちで水煙が上がっている。女は、強風を受けて笑っていた。その不気味な笑顔に、激しい雨が当たって、それでもまばたき一つしていなかった。こちらが交渉をしようにも、会話にならず、急に高笑いをしたかと思うと、俺はいきなり背中を押され、大しけの高波にのまれた。
 そのとき石動は、俺の部屋を訪れていた。その不審な状況から、異変を察知し、周辺を捜索していた所、レインコートも着ないでうろついていた、重要参考人の女の身柄を拘束、事情を吐かせ、緊急でスクーバ部隊に捜索を依頼した。それから俺は、暗礁と暗礁のすき間に、溺水の状態となって、奇跡的に救出はされたものの、心肺停止状態にあり、自発呼吸もなし、まったく意識が戻らない。低体温療法の処置を施され、そこから一週間もの間、ICU(集中治療室)で人事不省を味わう事となった。これは俺の探偵生活の中で、一、二をあらそう汚点となっている。後にも先にも、己の死を意識したのは、この時だけだ。まあもっとも、いちど命を落としている俺が言うセリフではないが。
 会社の人間や、刑事らから、一刻も早い俺の回復が待たれ、やがて、昏睡状態から二週間後の朝、俺は奇跡的に目を覚ました。その後は意識障害も順調に改善、食事も取れていたのだが、しばらくすると、ボーッとしていることが多くなり、発語も減少、医師は、遅発性低酸素後脳症を疑い、頭部MRIでは、大脳半球白質に異常は見られず、しかし多発性脳梗塞も疑われ、しばらくは加療が成されたのだが、症状は増悪をたどり、歩行障害、動作緩慢、注意障害などが目立って、治療に立ち会った人たちは、その時の俺の様子を、意識はあるのだが、自分が現在置かれている状況が飲み込めず、関係者の顔や、その名前も認知できない、神経学的所見では、時間と場所に関する失見当識の状態だったそうだ。そんな状態が一週間は続き、関節の拘縮、遠位筋の筋力低下は残存するものの、短下肢装具と松葉杖使用で、自力歩行が可能となり、やっと俺は自宅退院した。その時だった、長らく世話になった病床の、小さな窓の下に、そっと手紙が置いてあったのは」
 手紙をちらと見て、敷島、
「それは、その手紙は、俺の妹が書いたものとみて間違いない。時間と場所に関する失見当識が強く、関係者の誰の顔も覚えていない、その状態にあった期間は、それは、この体にレナが戻った時間だった。言いかえれば、その期間の俺は、妹の体から完全に抜けていた時間だったとも言える。上月加世の施した〝ルナの回付〟が、一時的に効力を失ったのだ。レナは、七年もの時を越えて、突然目を覚まし、いま自分が置かれている状況が、まったく受け入れられず、だいぶ困惑したことだろう。知らいな人たちから、当時の溺水の状況や、会社の近況を説明されて、ぽかんとする中で、妹がそのとき最も知りたかった事と言えば、婚約者である君の安否だったに違いない。壁に掛かったカレンダーを見れば、兄の通夜から七年もの年月が経っている。訪れる看護師に、君の名を伝えて、その人の事をたずねようが、伝わらない事ばかりで、取り合ってはもらえず、もっとも、歩行障害があって、満足に体が動かせない、なにしろ注意障害によって、意識を保つのもままならない状態。だから、せめてこれだけはと、レナは君に手紙を書くことを決心した」
 敷島は、腕を組んで、背中を見せた。
「手紙には、なんて書いてあった?」
 背中が吹き出した。
「よく見てみろ」
 言われた通り、手紙を裏返して、『親展!』と文字に気が付く。
「今回の件で、君をここへ呼んだのは、その一つには、レナの手紙をどうにかしなければならない、そんな責任のようなものを感じていたからだ。もちろん、美咲の死んだ彼氏、太古秀勝と君が、そっくりだったという偶然もあって、絶妙なキャスティングとなったのだが、それにしても、レナが君に手紙を残したというのには、何か深い意味があるように思えて、そうせざるを得なかった」
「敷島」
 空へ向かって、空に話しかけるように、敷島、少し大きな声を出して、
「さあレナ、これでお前は、満足なのだな? この通り、手紙は届けたぞ。これで文句はなかろう。俺はいま、忙しい身なのだ。これからまた那覇へ戻って、金持ちらと交渉再開、アサーティブネスの再開だ」
 うんと背伸びをして見せて、敷島、すっかり明けた白銀の世界を見渡して、
「でもまあ、今回はいい羽伸ばしになったようだ」
「敷島」
 背中がふり返った。
「なんだ」
 わたくしは手紙を顔の高さまで上げて、
「ありがとう」
 下を向いて、目を閉じて、口の端で笑う。
「礼ならまだ早い。勘違いするな。なんたって俺は、君らの結婚は認めていない。認めていないどころか、君らの交際すら、大反対なのだからな。妹は、ああ、純真な俺の妹は、悪い男の口車に乗せられて、ぜんぶ騙されてしまったのだ。あいつは、男というものを、まったく知らない。一体こんなやつのどこが良いと言うんだ」
 冗談で言っているようには思えなかった。
「そもそも君は、俺が成仏する日まで、ずっとこんなふうに待っているつもりか? どうしても果たさなければならない使命が俺にはある。その使命をまっとうするまで、それまでの間、君はそんなふうに暮らしているつもりか? もしそのつもりなら、君は、人生というものをまったく棒に振ることになる」
 タイミングを見計らって、わたくしは相手の肩に手を置いた。
「その事についてだが、敷島、ちょっといいか?」
 じろりと肩の手をにらむ、敷島。
「君は昨夜、こう言ったはずだ。〝現世に思いを残して、いつまでも成仏しないで、妹のレナの体に憑依した〟と。さらには〝どんな形でもいいから、現世に残って始末をつけたい、そう口にして、上月加世にすがった〟とも」
 ゆっくりと顔が反って行く。
「君は何か、とても大切な事を隠しているのではないか? そうだろう? 十年前、突然君の訃報が届いた。俺と岸本、それから他の同期の学生らは、わけも分からず、狐につままれた思いで、君の通夜に参列した。それからしばらくしてからのこと、君が、何らかの事件に巻き込まれていた可能性がある、という噂を耳にしたのは。テレビや新聞では報道されなかったが、刑事たちがやたらうろついている。なんでも君は、見知らぬ女性から刃物で刺されて、その結果、出血性ショックで死に至ったと。それ以上の詳しい事情は、誰に聞いても分からなかったし、俺たちも、積極的に調べようとはしなかった。だって、誰にだって知られたくない事はあるだろうし、それが痴情のもつれだったかもしれない。死者に対する冒涜にも当たるような気がして、その先の事は、俺の良心が咎めた。だが俺は、この十年間、ずっとその事が気になっていた。なあ敷島、君はあの時、誰かに殺されたのか?」
 しんねりと、わたくしの手を払って、敷島、能弁な口を閉ざして、いつまでも背中を見せる。
「なあ敷島、そうなんだろう? だから今も、そんな姿になってでも、そいつの事を探しているんだろう?」
 大きく息を吸う音が聞こえた。
「そいつは今、那覇にいて」
「宗村」
 話をさえぎるかたちで、敷島、多少、不機嫌な口調を持ち出して、
「最後まで君には黙っておくつもりだった。君にだけは、触れられたくない、触れてほしくない、事情があったのだ。だが、ここまで俺たちと深く関わっては、そんなわけにもいないか。
 勘違いしてくれるな、宗村。俺が今、那覇は南風原町に滞在しているのは、君が言うような目的ではない、それはまったくの誤解だ。敷島探偵グループは、今や俺の頭脳を遥かに凌ぐ、宮國瑞希という天与の資を獲得し、あの、上月加世の後継者である、不破斎の協力も得られる体勢となった。そして今回、識名園で交渉をくり返しているのは、STGに莫大な資金援助を提供できるという、少し変わった資産家が出現したからだ。これは、敷島探偵グループが今、過去に例がないくらい、盤石の体制となっている事を意味する」
 そこで敷島、急に色を失って、視線を下げた。
「それでもまだ、奴には敵わない」
「奴?」
 胸の辺りをぎゅっと掴んで、
「俺を殺した男、〝K〟だ」
「K?」
 ゆっくりとした横目を使って、暗い表情をわたくしに見せて、
「すまん宗村、この件は、君には話せない。口が裂けても話せない。君は、敷島探偵グループの一員でもないし、ある方面のスペシャリストというものでもない、普通一般的な人間。下手に奴と関わる事があれば、君はいとも簡単に利用される。十年前、俺を殺した哀れな女のように、ガタガタと震えて、刃物を落として、どうしてこうなったのだと、泣き崩れる。そしてその後は、わけも分からずの刑務所ぐらし、そんなうす暗い人生を歩む事となる。
 今回は、史上最強の暗殺者、不知火忍が相手という事で、その危険性で言えば、〝K〟のそれと匹敵するように思えるが、しかし不知火は、洗脳されているとはいえ、人の心というものがあって、ひたむきで、一つの目的のために突っ走っていただけ、目的の以外に危害はないと、俺の判断があったから、途中から君の協力を求めた経緯があるが、奴は、〝K〟は、日本犯罪史上最悪のサイコパスだ。不知火のような、人の心は微塵もない。大義名分もない。今もどこかで、名前や年齢、職業といった素性を騙って、人の良さそうな顔をして、一般大衆に混ざり、新聞の記事によって、その人の死を知る。それは〝K〟自身が選んだ、人物の死だ。いっさい自分の手を汚す事なく、罪も無い人を利用して、人びとに死を与えている」
 わたくしは、生唾を飲み込んだ。
「わかったか宗村、この件は、忘れろ。絶対に関わるな」
 そこで敷島、もう一度こちらを横目で見て、
「君は普通の人生を送るのだ。それがいい。そして、そうだな、またいつか、どういった形になるか知らないが、もう一度美咲と二人で仕事してもらうおう。君ら二人は、本当に似た者同士だ。似たような運命を背負って、似たように生きている。だから、苦しみ合っている二人が、その苦しみを癒すのには、それを知る者同士が一番なのだと、俺は確信している」
 そこで敷島、ボリボリと頭を掻いて、
「キスもしたしな」
「あれは」
 ここへ来て、初めて敷島は、胸のボタンを外したような、服の中に風を通すような、涼しげな笑顔を見せた。それがいかにも、胸のつかえが取れて、胸が軽くなって、こちらへ笑いかけて来る感じがした。今ならば、そう、今ならば、学生時代の馬鹿話で、ひと盛り上がり出来そうな雰囲気を感じたのだが、その時すでに、タイヤが氷を踏む音がして、突然、日本ではあまりお目に掛かる事のない、英国の高級車、ベンテイガが、ペンションの駐車場に入って来た。
「もう、そんな時間か」こう言って敷島、モンクレールのダウンコートをひるがえす。
「じゃあな、宗村、俺もこの辺で失礼する。経費削減。あと始末は電子決済、全て自動で処理される。岸本に伝えておいてくれ、今回の調査費用は、特別に、追加料金なしのスタンダードプランにしておくと」
 後部座席のドアをあけて、ラグジュアリーな内装を見せてから、車に乗り込む敷島、パワーウィンドウを下ろして、ハイブランドのサングラスを掛ける。
「お、おい」
 急いで車に近づくと、運転席にいる女性が、宮國瑞希である事に気が付く。
〝一発あんたをぶん殴らないと、こっちの気がすまない〟
 平手打ちを受けた所に、わたくしは手を当てる。
「おい瑞希、宗村だぞ、挨拶くらいしろ」
 瑞希は前を向いたまま、ルームミラー越しにも、こちらを見ようともしない。
「何だまだむくれているのか? いい加減にしたらどうだ、いい加減に……、あ、そうだ、なあ瑞希、聞いて驚くなよ? さっき宗村と美咲がキスをしていたぞ」
「敷島!」
 彼女は依然として前を向いていたが、その前髪はぷるぷると揺れていた。
「ふははは。宗村、君は女の敵だ。間違いない。美咲と言い、あずさと言い、斎と言い、君はとっかえひっかえの、女ったらしだ。瑞希、こんな男にひっかかるなよ」
 ルームミラーに映っている、彼女の唇が、〝誰が〟と動いた。
「さてと、宗村、俺はこのまま帰るが、そうだな、この指輪、一応外さないでおいてやる。君の熱い想いを聞いてしまったからな」と右手の指を色々に動かして、「うん、確かにいい指輪だ。君にしては上出来。じゃあな」
 6リッター・ツインターボエンジンの、厳かなエキゾーストノートを残して、敷島を乗せたベンテイガは走り去った。
 わたくしは〝へっくしょん〟とくしゃみを吹かして、鼻をすすった。
「宮國瑞希か。ふん、なんだってんだあの子は。ちょっと頭がいいからって、お高くとまって、かわいくない。昨夜もそうだったが、一方的に俺の事を嫌って、すごく感じが悪い。まったく、俺が何をしたって言うんだ」
 わたくしは、思い出して、レナの手紙を確かめる。『賢治へ』、それは確かにレナの直筆だった。わたくしは手紙を胸に、何か温かいものを感じて、思わず青空を見上げた。
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