アパートの一室

服部ユタカ

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二章 二○三・二○四号室

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    ニ. 二〇三・二〇四号室

 ネットを禁止してしばらく経つ。
 理由は色々あったが、一番の理由は「いたずらに悪意が多すぎるから」だった。

 実践してみて、心が健全になる気がしたにはしたが、その実どうなのかは自分たちでは分からない。

 そういえば、ガラケーで通話メインのプランに切り替えると言った時の店員の顔は忘れることができない。今のネット社会に真っ向から逆らう俺たちはさぞ奇特な人間に映ったのだろう。

 PCはデジカメの写真データ保存庫になった。ヒカルと出かけた場所で、人が写らないように気を付けて撮った写真が、少なからず蓄えられた。概ね近所の公園とか、河川敷とか、なんてことのない写真だ。俺ら自身も写り込んではいない。

 さらに、新聞を取るようになった。ネットを禁止するのと情報を制限するのは別だったからだ。そうやって契約を交わした新聞に掲載されていた連載小説を楽しみにすることになるとはまったく思わなかった。記事のスクラップもまた、楽しみながら行うことになるとは。

 ヒカルが新聞に挟まれていたスーパーの広告を広げ、卵の値段を読み上げる。俺はなんとはなしに「安いな」と言った。

「親子丼が食べたいね」

 ヒカルがそう言うと、俺の口の中にやや甘い味付けの、ふわふわとした卵の幻覚が発生した。この幻覚のクォリティたるや。

 さて。この共同生活の中では、俺が料理をすることが多かった。なにぶん、友人に刃物を持たせると危なっかしいのだ。何かを調理する場合は俺がついていないといけなかった。猫の手、猫の手、と繰り返し言わないと野菜を切らせるのも恐ろしかったのだ。

 俺たちの間には取り決めがいくつかあった。その中でもできないことを無理してやらない、という事項が最重要であった。それの最たるものが今回のこれ。つまるところ、料理は俺が担当するということだった。ほら、無理して作った料理が美味しくないとかで気分が沈むのも、よくないからな。

 すっと、耳に入ってきたテレビの音声で、レンタルショップが旧作全品百円セールをする、との情報を得る。俺たちは顔を見合わせて、好みのB級作品を思い出しに思い出した。互いに頷いて、レンタルビデオショップへと足を運ぶことが決定された。

 自室での映画鑑賞はネットがない俺たちの大切な娯楽のひとつだ。ここは行かないでどうする、といった具合だった。

 して、人気作品は本数があっても貸し出されてしまう。だからセールの初日が勝負となる。俺らの求めるジャンルのタイトルは元より一本しか陳列されていないことが常であったからな。

 思い切りビールが飲めたらな、とヒカルは言う。俺もまったく同じ気持ちだったが、薬や内臓との色々の兼ね合いがあるため過度の飲酒は断念せざるを得なかった。

 その分、映画のお供は毎回、ポップコーンはコンロにかけて加熱して作る商品を用意したし、トルティーヤチップスにサルサソース、チーズソースも合わせて準備した。

 包丁を使わない調理、というか調味料の配合は友人の得意分野だった。だからソースの類は友人の担当だ。

 俺たちは一時期の味覚鈍化を乗り越えた分、食には貪欲だった。スポンジを食べているような日常はひどいものだったから、その反動だと思えた。

 まあ、とにかくそういうわけで、俺たちは出かける準備をするために寝間着から着替えた。


 そこで、俺は視界の端にゴキブリを発見する。


 止まった。次いでヒカルも同じモノを見て止まった。


 先を争うように俺たちは部屋から出た。まさに転がりでたというのが正しい。

「わっ」

 隣人の男子学生がちょうどゴミ出しを終えたところに出くわした。申し訳のないことに俺たちは挨拶がまともにできなかった。

 どうしたんですか、と男子学生が言う。

 あれが、あれが出たんです。

 ああ、と隣人。

「あったかくなりましたからね」

 俺たちはとにかくコミュニケーションを取ろうとして、両手を動かした。わたわた、と。おたおた、と。

 ダメなんだ、あれだけはダメなんだ。そもそもから俺は虫がダメで、ヒカルは北海道出身であれを見ることがなかったんだ。

「……やりましょうか?」

 ああ、神よ。神よ。神よ。

「慣れてますから」

 潰さないでください。あと一撃で仕留めてください。できるだけ早くやってください。お願いします。お願いします。

 まるで世界の終わりみたいな顔で俺たちは山ほどの注文を付けた。何様だ、と冷静な時なら自分でそう思ったことだろう。

 さて、結果だが、親愛なる隣人はその注文を全て承ってくれた。なんと、五分もしないうちにやってくれたのだ。索敵能力と殲滅能力が高いことに、俺たちは心から感謝した。

「これ、泡で固めるやつ。便利でいいですよ」

 隣人が持ち出した白い文字で商品名がデカく表示されたそのスプレーは、白い薬剤が噴出されると瞬時に泡となり、あー、いや、これ以上はただの宣伝になる。とにかく便利なものを知った。

 ヒカルは買うものリストにそれを書き加えた。どうもヒカルは三本も、そのスプレーを部屋に置くつもりらしい。

 レンタルビデオショップに行った帰りに、近所のドラッグストアでスプレー缶と噴霧タイプの駆虫剤を購入した。あれは一匹見たら十匹はいるというではないか。いや、百か千か。どうでもいいが、とにかくたくさんいるはずだ。

「……本当にこれで駆虫できるんだよな?」

 駆虫剤が噴出を始めるまで俺たちは背後にあれの気配を感じて仕方なかった。玄関口から出るまでそれは続いた。


   ***


 部屋に帰るとどことなく駆虫剤の粉っぽい香りが鼻をよぎった。まずは換気として、全ての窓を開け放ち、玄関ドアの下にサンダルを挟んで隙間を確保した。
 それから食卓などの上を拭いて清め、一息ついてからコトに当たった。言わずとも分かることだろう。虫退治の本番は、倒すことにない。倒した後の死骸を回収することにある。

 ネット環境の無い俺たちには、連中の居所を調べることもできず、アタリを引きそうな場所が皆目見当もつかなかった。そんなわけで俺たち二人は、凄まじいプレッシャーとともに戸棚などを開けていく。

 そして。

「あ、いいですよ。手伝います」

 耐えきれず助っ人を呼んだ。

 結局のところほとんどの隠れていそうなスポットを隣人に任せた。静まり返った我が家で黙々と作業に当たる隣人は頼りになりすぎた。

「いやいやいや」

 気にしないでください、と断る隣人を強く夕飯に誘った。他人の部屋の清掃にえらい時間をかけさせてしまったのだ、礼をするのが当然だろう。

 この時、初めてお互いに自己紹介した。男子学生は、リョウスケと名乗った。俺たちもそれぞれに名乗り、これでようやく、まともな隣人と言えるようになった。しかし、思えば奇妙なものだ。各々の名前より先に、「学生」と「精神疾患持ち」という肩書きのみを交換していたというのは。

 さて、そして。テレビ前のローテーブルに、親子丼。うちは俺たち二人分の食器しかない部屋なので、隣人宅から丼をひとつお借りして。

 招待しておいて簡単な丼モノかよという考えはこの際、ベランダの隅にでも置いておいた。きっとそんな思考は風にさらわれて、いつかどこかへと辿り着いてくれることだろう。

「美味い……!」

 隣人は俺の料理を絶賛してくれた。某汎用人型決戦兵器のような体格の隣人は、意外にもよく食べた。どこに入っていくのかは知らないが、食べっぷりは見物だった。作る側からすると気持ちのいいものだ。

 満腹です、と隣人。

 お茶を淹れて一息つくと、なんと隣人様は食器を洗おうとし始めた。それを断固阻止しつつ、俺は借りてきたDVDを目前に出し、観たいものを選んでください、と言った。

 絶妙なラインナップだと分かるや、リョウスケ氏、苦笑い。ヒカルはその間に食器洗いを済ませ、ナチョス用ソースを調合し始めた。

 B級といっしょくたにするのは製作陣に申し訳ないが、それ以外に呼称が難しい作品の数々。名作も数あれど、この中からならさあ、どれを選ぶ。


「……」と、三点リーダが三人分並んだ。

 鑑賞会は一作目から最高潮の盛り上がりを見せた。

 嘘だ。

 いや、盛り上がり? と、いうのか? うん。

「なんかすみません」

 今回借りてきたラインナップの中でも弩級のB級映画を選んだリョウスケ君が、何故か急に謝ってきた。

「いえ、これはこういう楽しみ方が正しいんだよ」

 むしろこういう微妙な空気を楽しむのが普通なんだ、とフォローを入れると、ヒカルも頷いた。

「うん、その通り」

 しかし、いつもヒカルと二人きりなら黙々と消化するだけの鑑賞会だったが、一人入るだけでこんなにも微妙な空気になるとは思わなかった。

 隣人は真面目な気質だったのだろう。だから作品の粗を笑うべきところで笑うのが憚られるのだ。

 ああ、なんだろう。言葉に詰まった状態だけれど、ナチョスが美味い。

 ここまで巻き込んでおいてあれだったが、鑑賞会にはお呼びしなかった方がよかったかもしれなかった。

 ヒカルは「空気の読めない子」のケがあるので、普通に楽しんでいたようだったが、俺が非常にリョウスケ君の心情が気になった。人の考えが何かしらのよくない傾向を持っている、と考えがちなために精神疾患を発症したのだから、さもありなん。と、いうわけで、禁じ手を使う時がきた。俺はそう思った。

「ウィスキーと焼酎どっちが好み?」

 これは俺にとっての現状打開策、奥の手も奥の手だった。アルコールを飲む前後六時間の服薬をしない代わりに微妙な空気を流す必殺技だ。

 飲酒、服薬、喫煙、布団で寝ない、電灯点けっぱなし、気付けば朝、などが重なると本気で死にたくなるので最近は自粛していた。

 だが、超がつくほど役に立ってくれた隣人様を微妙な空気のまま帰すわけにもいくまい。すると、リョウスケ君は顔を明るくして言った。

「焼酎ならうちにいいのが」

 幸運なり。イケるクチだ。

 リョウスケ君は、一旦自室に戻っていった。

 玄関まで隣人を見送ると、ヒカルは、咎めるような、呆れるような目で俺を見て言う。

「……私は飲まないよ」

 きちんと医師の指示を守る友人に健康あれ。


   ***


 隣人は酒に弱かった。手に負える範囲での暴走を始めたと思ったら、すぐに寝た。

 その前にヒカルの尻について熱弁していた。ナイス尻、と親指を立てて繰り返した。ちょうど映画が二本目の終盤に差し掛かっていた頃だ。

 そして、スタッフロールで流れる文字がぼんやりと見えてきたのを認め、俺もいい具合に酔ってきたことを実感した。同時に、映画が楽しくて仕方がなくなっていた。

 リョウスケ君は寝たし、ヒカルもマイペースに楽しんでいるしで、丸く収まっていた。俺は映画のどっちらけな、スタッフロール後の不必要なラストシーンに気分が良くなって、三本目に突入しようとした。

 だがしかし、そこは友人の就寝時間厳守ということで、やむなく断念。俺は押入れから毛布だけを出して、ローテーブルの横、隣人の隣に横たわった。

 今日はここでいいや、と俺。

 分かった、とヒカル。

 電灯とテレビを消して、毛布を隣人にもかけて、あくびをした。酔いが醒める前に寝てしまおう。

 友人が歯磨きをしている音を聞きながら、俺は目を瞑った。そして、体感では次の瞬間、ぱっと目覚めた。

 何故目覚めたのか、それは全く分からなかった。アルコールで眠りが浅くなっていたのかもしれなかった。とにかく俺は覚醒した。

 リョウスケ君が隣にいない。

 気だるい体を起こすと、探し人はすぐそこにいた。隣の部屋にいた。

 ああ、なんということだろう。

 隣人氏は友人の乳を揉んでいるではないか。

 ああ、ああ。なんと、いうべきだろうか。なんというか。そう。

 ナイス尻と豪語していた隣人氏は、友人の、全く違う部位、乳を揉んでいるではないか。

 俺の起きたことには気付かず、一心不乱に、というほどではないが、優しく、そう、優しく、下から上へと程よい大きさの乳を揉んでいるではないか。


***


 曰く、ヒカルは起きていたらしい。

「あれだけ丹念に触られたら起きる。眠剤飲んでなかったし」

 しかし、そこはさすがのヒカル、オトナの対応をしたというところだろうか。元より男に興味がないというか、関心がまるでないが故の無反応だった。

 乳が異性から性的に見られることは理解しているが、全く頓着が無い。そんな友人らしい言葉が、ぽーんと飛び出す。

 言ってくれればいくらでも触らせてやるのに。

 ショートホープに火を点けて、こともなげにヒカルは言った。

 それはまずい、と俺は言った。

 分かってる、とヒカル。

 本当に分かっているのか。

 分かってるよ。

 友人は煙を換気扇の方に吹いて、繰り返した。

 分かってるって、と。

 俺はその言葉を聞いて少し疑ったが、まあ、信じることにした。

 その日の朝食はリング状のチョコシリアルにした。我が家にはいくつかシリアルがあるが、いずれもチョコレート味のものだ。

 リョウスケ君はというと朝食前に自室へと帰っていった。彼の態度がどこかしらよそよそしかったのは、乳揉みの後ろ暗さがあったからだろう。

 しばし後、思いついて二〇三号室の方の壁に耳をつけてみた。

 何かしらを力強く擦るような音がして、聞き覚えのある名前を連呼するのが聞こえた。

 あ、いや、聞こえた気がする、としておこう。あくまで、隣人の名誉のために。

 ヒカルは煙草をもみ消して、レンタルしたCDをかけた。ビートルズの白いアルバムのものだ。

 わざわざ実家から郵送してもらった古いCDコンポから飛び出す音は、まあ、悪くない。もっとも、俺の音楽に対する鑑賞力なんてたかが知れていたが。

 食器を洗っていると、ヒカルが、散歩にでも行こうか、と提案した。俺はそれに賛同した。

 支度をして、ヒカルが小さな肩掛け鞄にハンカチを収めるのを見て、俺たちは部屋を出た。外はもうすっかり春めいていて、暖かな風が頬を撫でた。

 黒い毛が真ん中分けの髪みたいに見える、日本猫が前を横切った。ハチワレ、とかいうやつだっただろうか。

 そういえば、私は猫を飼っていたんだよ、とヒカルが言った。

 初耳だ、と俺は応えると、初めて言ったからね、とヒカルが言った。

 その時、友人が口元だけニッとさせて、歯を少し見せた。笑顔を作った、という表現にふさわしい、不器用な感じの顔だった。

 その猫は? と訊くと、ヒカルは間を置いて「死んだよ。とっくの昔にね」と言った。それもまあ、過去形にしていた時点で察するべき愚問だったのかもしれない。

 狭い車線の中、車が後ろからゆっくりと迫っていた。俺は友人の肩を抱く形で塀の方に身を寄せる。

 最近、とあるトラックの製造元が何らかの危険性アリとして、リコールを始めていたことを、スクラップブックの中に留めていたのを思い出したためだ。

「危ないぞ」

「悪いね」

 それから俺たちは、どちらからともなく、何事もなく、身を離した。
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