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第一章 本物の婚約
第七話 『キスより遠く、心より近く』
しおりを挟む衝動のまま廊下へ飛び出したものの、どこへ向かえばいいのか分からず、足が止まる。胸の鼓動だけが、やけにうるさく響いていた。
「……ルイス様?」
静かな声が、背後からそっと届く。振り返ると、書類を抱えたエリオットが立っていた。俺の姿を見るなり、ふっと安心したように微笑んだ。
「驚かせてしまいましたか?」
「あっ……い、いえ……」
思わず俯いてしまう。こんな自分が恥ずかしくて、情けなくて。とても顔を上げられなかった。
「ちょうど、お部屋へお迎えに上がるところでした。本日は、王宮内をご案内させていただきます。リアム殿下のご厚意ですので、どうかお気軽に」
リアム殿下の名前が出るたびに、胸がきゅうっと痛む。あの人の気配が、こんなところにまで滲んでいる。けれど、エリオットの声は終始やわらかくて、押しつけがましさはどこにもなかった。
俺の戸惑いを察して、そっと寄り添うように話してくれる。その距離感が、ただ嬉しかった。
「……わかりました。お願いします」
ようやく顔を上げると、エリオットはふわりと微笑んで、軽く頭を下げた。その笑みに、ほんの少しだけ、胸の痛みが和らいだ気がした。
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ーーーーーーーー
ーーーー
案内は、思っていた以上に穏やかで。
陽光をたっぷり取り込む高窓。長く続く静かな回廊。足元に広がる絨毯の柔らかな感触。通りすがるメイドたちはみな微笑み、敬意を込めて俺に会釈を返してくれる。
ーーまるで、ここが本当に『花嫁』の居場所かのように。
「ルイス様。あちらが王族専用の執務室です。リアム殿下も、よくお使いにーー」
「っ……!」
その名を聞いて、びくりと肩が跳ねる。エリオットが言葉を止め、心配そうにこちらを覗き込んだ。
「……この部屋に、なにか……?」
「ち、ちがいますっ! そ、そういうんじゃなくて!!」
慌てて首を振り、両手をぶんぶんと振る。けれど、手のひらに残る感触も、耳元に落ちた声も、消えてはくれなくて。朝の光景を思い出す。
(今はまだ……会いたくない……)
そう胸の中で呟いたとき、それが表情に出てしまったのか、エリオットの声が和らいだ。
「……では、執務室はまた後ほどに。こちらを先にご案内いたしますね」
微笑みとともに促され、次の扉へ向かう。扉が開いた瞬間、まばゆい光が一気に視界に飛び込んできた。
「……わ」
朝露に濡れた芝生が、陽を受けてきらきらと輝く。白い石畳の縁には花々が咲き誇り、やわらかな風に揺れていて。噴水の水音が、どこか懐かしい音を響かせていた。
「こちらが、中庭でございます。お気に召しましたか?」
「……はい。すごく……綺麗です……」
ふと隣を見ると、エリオットが変わらない穏やかな笑みを浮かべ、咲いている花の名前や、建築様式の由来を丁寧に教えてくれた。
穏やかな声に耳を傾けながら、歩幅を合わせて中庭を進む。さっきまで胸の奥に渦巻いていたざわめきが、少しずつ、ほどけていく。
……その時だった。
「まさか、こんなところで会えるとは思っていなかったよ。案内は楽しんでいるか? ルイス」
背後から届いた低い声に、息が止まりそうになる。振り返ると、陽光を背に立つリアム殿下が、まっすぐ俺を見つめていた。翠色の瞳が、射抜くようにこちらを捕らえ、逃がさない。
「っ……! エ、エリオット、次はどちらへ?!」
その視線に耐えきれず、エリオットの背に隠れる。目が合うたび、朝の記憶が蘇り、頬が焼けるほど熱くなった。
「ルイス様? どうなさいましたか?」
「い、いや、べ、べつに!! つ、次行きましょう!!」
動揺を隠すように、早口で言葉を重ねる。けれど、それを見透かしたように、リアム殿下はくすっと笑った。
そして、ためらいもなく、唇が触れそうな距離まで詰め寄ってくる。頬がじわりと熱を帯びていくのが、自分でもわかった。
「……真っ赤になって、可愛いな」
「で、殿下……っ?! ち、ちがっ……!!」
「違わないだろう? ルイス。……そんな顔されると、キスしたくなるよ」
「な、なななっ……っ!!」
押し返そうとした手を、するりと掴まれる。絡め取られた指先は、驚くほどあたたかくて。その熱に、思わず動きを止めてしまう。
次の瞬間、ぐっと引き寄せられた身体を、腰に回された腕がしっかりと受け止めた。
「わあっ……!」
呼吸も浅くなるほどの距離に、動揺が止まらない。視線を泳がせていると、不意に、リアム殿下がじっと顔を覗き込んできた。
「……まつ毛も白いんだな。……綺麗だ」
低く、甘い声が耳のすぐそばで落ちる。吐息が触れ、肌がびくりと震えた。近すぎる距離に、体の奥まで熱が巡る。
「……触れてもいいか?」
「……!」
答えるより早く、指先が頬を撫でる。その柔らかくて優しい熱に、思考ごと奪われていく。
「……このまま、キスしたらどうなるんだろうね」
「~~~~っっっ!!!」
視線を交わせないまま、ただ、熱をもった唇がわずかに震える。言葉のひとつさえ出せなくて。心だけが、どうしようもなく揺れていた。
「……ふふ、冗談だよ」
そっと腕が解かれた途端、少しだけ冷たい風が頬を撫でた。ほんの一瞬前まで、本気でキスされると思っていた。
だけど、それが『冗談』だと知ったとき、胸の奥に、ぽつりと、小さな寂しさが滲んだ。
「エリオット。案内はまだ続くのか?」
「はい、殿下」
「では、私も同行するとしよう」
「えぇえええええっっ!!!」
「では僕は、ティータイムの準備をして参ります。……おふたりで、ごゆっくり」
「エ、エリオットっ?! ちょっ……待って!?」
エリオットが何かを悟ったように微笑んで、一礼する。呼び止める間もなく、その足音も気配も、すっと遠ざかっていった。ぽつんとこの場に残され、リアム殿下とふたりきりの空気に、ますます頬が熱くなる。
「……こうして会うのは、三度目になるな」
「……はい……」
「だが、君を前にすると、初めて会ったときと同じように、胸が騒ぐ」
静かに告げられた言葉に、また心臓が跳ねる。じっと見つめられ、目を逸らしたくなるのに、不思議と、逸らせなかった。
リアム殿下が、ひとつ呼吸を置いてから、一歩、近づいてくる。背筋が伸びるより早く、手が伸びてきて。俺の髪を、くしゃりと撫でた。
「……震えてる」
耳元を掠めるような声に、びくりと肩が揺れる。指先がこめかみに触れ、髪の根元を、くすぐるように這う。その動きは、ひどく穏やかで。まるで熱を引き込むような触れ方だった。
「緊張しているのか? それとも……私に触れられるのが、嫌か?」
「っ……そ、そんなこと……!」
否定しようとした声が、裏返る。それが余計に恥ずかしくて、顔を背けたくなった。けれどリアム殿下は、ふっと目を緩めると、俺の手元へ視線を落とした。
「……なら、繋いでもいいだろうか?」
囁くように言いながら、そっと俺の手に触れる。逃げようとした指先が、そのまま、やわらかく包み込まれた。指と指が、自然と絡まり、ゆるやかに重なる。手が触れ合うその感触に、胸がじんわりと熱を持った。
「君と、こうして歩けるせっかくの時間だからな。……案内の続きをしよう」
リアム殿下が微笑む。その表情が眩しすぎて、思わず目を逸らす。それでも、俺は、差し出された手を、もう振りほどくことはできなかった。
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