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第二章 セレスティアの伝承
第二十八話 『セレスティアの伝承』
しおりを挟む夜も更け、王城はすっかり静まり返っていた。
ベッドに入っても、今日一日の出来事が胸の内にふわふわと残り、頭の片隅をくすぐってくる。
花飾り。仕立て屋でのあのやりとり。殿下の手、声、視線……すべてが優しくて、でも熱くて。思い出すたびに、顔が熱くなる。
シーツに顔を埋めて転がっていたけれど、とても、眠れそうになかった。
(……眠れないなら、いっそ、会いに行ってしまえばいいのでは?)
「………………っ」
自分の考えに呆れながらも、気づけば廊下に出ていた。回廊を歩き、殿下の私室の前に立つ。手を握りしめ、小さくノックすると、すぐに「どうぞ」と返事があった。
「……夜分に、すみません」
扉をそっと開けると、殿下が読書の手を止めて椅子から立ち上がるところだった。ゆるく開いたシャツの襟元に、どきんと心臓が跳ねる。
「ルイス。何かあったのか?」
「あ、あのっ……その……」
言葉がうまく出てこない。けれど、ここまで来て逃げるのも違う気がして、勇気を手繰り寄せた。
「……あの、一緒に……ね、寝ちゃだめですか……?」
小さく絞り出すように言った瞬間、顔がかあっと熱くなる。殿下は一瞬きょとんとして、すぐにふっと目を細めて微笑んだ。
「もちろん。一緒に寝よう」
「ほ、ほんとに……?」
「……ただし。君のその顔を見ていると、理性の保持に全力を尽くす必要がありそうだな」
さらりと言われ、更に赤くなる。けれど殿下は、何も言わずそっと手を取って、寝室の奥へ導いた。
広い天蓋つきの寝台は、優しい香りが鼻をくすぐる。並んで横たわると、殿下がブランケットを掛けてくれた。
「……もっと近づいてもいいですか……?」
「……どうぞ」
そっと身を滑らせ、リアム殿下の隣に身体を寄せる。リアム殿下の体温がすぐそこにあって。互いの鼓動が、布越しに伝わってくる。
「……どきどきしてる」
「……君もだろう?」
ぴたりとくっついた肩に、殿下の手が優しく添えられた。あたたかくて安心するのに、でもどこか、落ち着かなかった。
「ルイス」
「はい……」
「……君が自分から甘えてきてくれるのが、私は嬉しい」
「っ……」
心を撫でられるような言葉に、思わず顔を伏せる。
「……でも、今夜は、眠るだけだ」
「……っ」
こくりと頷く。俺の頭を撫でるだけの殿下は、静かに理性を保ってくれている。それがわかるからこそ、俺も、安心して身を委ねられた。
(……でも、もう少しだけ、甘えたい)
そっとリアム殿下のシャツの袖を引く。
「……殿下」
「……ん」
「こっち、向いてもらっても……いいですか……?」
ぼそりと呟くように言うと、翠の瞳がこちらを見つめた。カーテン越しに月の光が落ちる寝室で、互いの顔がこんなにも近くて、胸が高鳴る。
吸い寄せられるように、殿下の胸元に額を預けた。心音が、耳元に響く。リアム殿下の腕が、そっと背に回された。
「……ルイス」
「……はい」
「……好きだ」
「…………っ」
胸がぎゅっと締めつけられる。顔を上げると、殿下の唇がすぐそこにあって。俺は唇を求めようと目を閉じた。
唇が触れる、ほんの手前で、リアム殿下の呼吸がぴたりと止まった。
「……ルイス」
「……だめ、ですか……?」
「……駄目じゃない。私の理性の問題だ」
唇が触れそうな距離で、殿下が掠れた声で囁く。
「君が望めば、私はきっと……理性を失ってしまう」
その響きに、背筋がぞくりと震えた。殿下の指が頬に触れ、優しく撫でる。でもその指先は、微かに震えていた。
「……君に触れたい。奪ってしまいたいほど、愛おしい」
「……俺は……大丈夫ですよ……?」
「……それでも、今は駄目だ」
抱き寄せられ、額をくっつけられる。熱のこもった吐息が頬に触れた。
「……ちゃんと婚儀が終わってからにしよう」
「…………っ」
優しい微笑みに、胸がきゅっとなる。視線を外せなくなって、小さく呟いた。
「……じゃあ、キスひとつだけ、ください」
リアム殿下は応えるように、そっと唇を重ねてくれた。ひとつきりの口付けなのに、甘くて、優しくて、心が咲いてしまいそうだった。
「……おやすみなさい、殿下」
「おやすみ、ルイス」
重なる吐息の中、殿下の腕の中でそっと目を閉じる。ぬくもりに包まれて、静かな夜が、ゆっくりと流れていった。
ーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーー
ーーーー
カーテンの隙間から、やわらかな朝の光が差し込んでいた。隣にあったはずの温もりはもうなくて。伸ばした手は、ひんやりと冷たいシーツを掴んだ。
「……殿下」
昨夜、あんなに優しく抱きしめてくれたのに。いつものように、今日も執務へ向かったのだろう。分かっているのに、胸がほんの少し寂しくなる。
あの最後のキスを思い出しながら、指先で唇に触れた。
(……今ごろ、忙しくしているんだろうな……)
小さく息を吐いて、ベッドから降りる。冷たい床が足裏を撫で、背筋にひやりとした感覚が走った。
ふと、鏡の中の自分と目が合う。白銀の髪に淡い紫の瞳。かつては光を宿さなかったその瞳が、いまは少しだけ、あたたかく見えた。
バルコニーの扉を開けると、朝露を含んだ風が頬を撫でた。庭に咲く花の香りが、ほんのりと甘く漂う。
「おはようございます、ルイス様」
背後から声がして、振り向く。そこに立っていたのは、殿下の専属従者、ザインだった。
「……ザインさん。おはようございます。殿下は……?」
「執務にお入りになりました。今日は会議が続くご予定だそうです」
「……そうですか」
自然と、声が小さくなる。ザインはそんな俺を見つめて、穏やかに微笑んだ。けれど、その微笑みの奥には、どこか計るような影が滲んでいた。
「殿下は、あなたに随分と心を傾けておられるようですね」
「えっ……あ、いえっ……そ、そんなこと……!」
頬が一気に熱を帯びる。俯いた俺を見ながら、ザインが一歩、静かに距離を詰めた。
「ルイス様。……『セレスティアの伝承』をご存じですか?」
「……セレスティアの、伝承……?」
聞き覚えのない言葉に首を傾げると、ザインはゆっくりと語り始めた。
「昔、この国に『死の花』と呼ばれる花生みがいたそうです。その花は、美しく咲くほどに、人の心を奪い、やがて蝕んでいった。王家の花食みがその花を口にした夜ーー王国は、一度滅びかけたと伝わっています」
「……滅び、かけた……」
「はい。死の花は咲けば咲くほど、人を壊す。だからこそ、死の花を宿す血脈は、花食みと結ばれてはならない。そう言い伝えられています」
ザインの声は淡々としていて。不思議と胸を冷たく締め付けた。彼はさらに一歩、近づき、耳元で囁くように言葉を落とした。
「伝承によれば、『死の花』は青く咲き、やがて色を失い、白く変わる……と」
その瞬間、息が止まった。俺の咲かせる花はいつも、最初は淡い青で、次第に白く染まっていくーー。
(……俺が、『死の花』?)
喉が詰まり、言葉にならない。胸に広がるのは、じわりと広がる恐怖と、痛みだった。
「……リアム殿下は次期国王です。どうか、よくお考えを」
ザインの言葉は、穏やかでありながら、突き放すように冷たかった。頬に当たる朝の光が、やけに眩しくて。涙なのか、光のせいなのか。視界が滲んでいく。
「……ありがとうございます……」
かろうじてそう返し、背を向けた瞬間、足元がふらついた。心の中で何かが崩れ落ちた気がした。
(……知らなければよかった)
胸の奥で咲きかけていた花が、音もなく、静かに散っていく。花の香りはまだ残っているのに、もう、何も感じられなかった。
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