フラワー・マリッジ ― 咲かぬ花嫁は、王のために咲く ―

霜月@如月さん改稿中&バース準備中

文字の大きさ
44 / 83
第二章 セレスティアの伝承

第四十三話 『香りだけが、裏切らなかった夜』

しおりを挟む


 ーー夜。


「べつに、特に持っていきたいものもないんだけど……」


 旅の支度を始めていた。けれど、荷をまとめながらも、どこかそわそわして落ち着かない。ふと、机の上の図鑑に手を伸ばす。


 大公文書室で借りてきた、花言葉や花の特性がまとめられた一冊。旅先で花を見つけたとき、役に立つかもしれないーーそんな軽い気持ちで、ページをめくった。


「花がいっぱい咲いているところなら……この図鑑、役に立つかな……?」


 めくった先で、ある見覚えのある花の名前が目に入った。


「……『ノクティア』?」


 思わず、声が漏れる。ページ中央には、紫紺の花のスケッチとともに、こう記されていた。


『夜に咲く花。別名“夜の誓花”ーー陶酔性の香気を持ち、過剰な吸引・摂取により幻覚・記憶混濁を引き起こす。調香への使用は王国法により禁じられている』


 読み下ろすうちに、胸がきゅうっと縮こまる。


(ーーこの花、みたことがある)


 いや、それどころか、ブランシェにいた頃、自分の手で育てていた。


 命令されてやっていたことだったけれど、冷えた心が、あの、優しくて甘い香りに癒されるような気がして、ずっと、水をあげていた。


「……なんで……薬花じゃ、なかったの……?」


 震える指で、何度も花の絵をなぞる。知らず知らずのうちに毒花を育てていた……? あれが、誰かに渡ってしまっている……?


 ーー知らなかった。


 でも、知らなかったでは、済まされない。もしかして、俺の育てた花の香りで……誰かを傷つけてしまった……?


 胸がざわめく。冷たい何かが背中を這い、手のひらがじんわりと汗ばんだ。考えたくない思考が、頭で繰り返される。


(……俺の花が、枯れてしまうのは……毒を吸いすぎていたから?)


 何も知らずに育ててきたのに。心臓の鼓動が、耳の奥でやけにうるさく響く。ページを閉じることもできず、ただその場に座り込んだまま、動けなかった。


 ーーコン、コン。


「……ルイス、支度は順調か?」


 扉の向こうから、優しい声が届く。その一言に、体がびくりと跳ねた。


「っ、……はいっ、たぶん!」
「ディナーの迎えに来たのだが」
「えっ、あっ、はいっ、今……行きますっ!」


 慌てて声を返す。でも、口元がうまく動かなくて。震える声を悟られないよう、急いで図鑑を閉じ、机に戻した。


 絶対に、殿下を不安にさせたくない。息を吸って、整え、何度かまばたきをする。


 けれど、あのページに書かれていた言葉が、頭から離れなくて。楽しい旅路のはずの未来が、ほんの少しだけ遠ざかった気がした。


 ーーーーーーーーーーーー
 ーーーーーーーー
 ーーーー
 *


 ーー王都、カミュ・アルヴァ邸。


 夜の帳が静かに降りていた。分厚いカーテンが外界の光を遮り、蝋燭の灯だけが書類の山を照らす。


「……これが最後の一枚ですか?」


 指先に手袋をはめたまま、羊皮紙の端を整える。王宮の印章を模した封蝋、見慣れた筆跡。王家の命令書と同じ書式で作られた精巧な偽造文書が、静かに並べられていく。


「『王太子・リアム=アッシュフォードは、毒花の調香に関与し、その使用を黙認していた』」


 読み上げた言葉に、カミュは笑みも浮かべずワインを傾けた。グラスの中で深紅の液体が揺れ、月明かりを反射する。


「文書の差し替え場所は、どちらに?」
「王立植物調香研究局の予備文書庫がいい。半官の組織だ。『市民からの匿名提供』という名目で流しておけばいい」


 僕は小さく頷き、封筒に文書を丁寧にしまう。証拠文書、署名控え、王族印の記録簿。カミュが用意した『王太子を貶める三点セット』は、どれも本物に限りなく近かった。


「ああ。そうだ、ランス。旅に出るらしいね、王太子殿下と『咲かない花嫁』が」
「……ええ、明日出発するとか」
「でも、どうせ偽りの立場だ。身代わりだろうが何だろうが、私にとって、あの花嫁は利用価値しかない」


 カミュはグラスを机に置き、ゆっくりと立ち上がった。深い夜の中、カーテンの隙間からわずかに漏れた月光が、その頬の冷笑を照らす。


「香りと証拠で王太子を揺るがせば、あとは『婚約者に相応しくない』という空気を流せばいい。咲かない花に価値がないと信じている貴族たちの中で、『毒を宿した花嫁』という噂が広まれば、それだけで十分だ」


 その横顔を見つめながら、ふと、胸に小さな違和感を覚える。


 ーーこの人は、いったい、何を見ているのだろう、と。


「君はただ、その証明を置いてくれればいい」
「はい。……では、僕はこれで」
「ああ」


 けれどそれを問いかけることはなく、ただ一礼し、静かに部屋を後にした。


 *


 部屋に残され、沈黙が落ちる。私はゆっくりと窓辺に歩を進め、冷えた硝子越しに月を仰いだ。


(王族など、所詮は花で酔わされる愚か者だ)


 過去の幻影が、ふと脳裏に蘇る。少年だった頃、兄の影に隠され続けた日々。政略のためだけに生かされ、利用された名と血。


 母の遺した香水の香りに、唯一、救われたこと。


 ーー香りだけが、裏切らなかった。


 ふっと笑い、赤紫のワインを手に取り、一口飲む。


「……感情も、記憶も、愛も。香りひとつで操作できるなら、王も、花嫁も、例外じゃない」


 己の野心を否定も誤魔化しもせず、ただ事実として受け入れる。


「価値があるのは、『支配できるもの』だけだ。咲かない花に意味などない」


 グラスの底で最後の滴が揺れる。月が雲に隠れ、闇が室内を満たす。


 ーー椅子は、ひとつしかない。


 深夜の向こうの玉座をまっすぐに見据える。闇に沈む部屋で、グラスがひとつ、音を立てた。

しおりを挟む
感想 9

あなたにおすすめの小説

陰日向から愛を馳せるだけで

麻田
BL
 あなたに、愛されたい人生だった…――  政略結婚で旦那様になったのは、幼い頃、王都で一目惚れした美しい銀髪の青年・ローレンだった。  結婚式の日、はじめて知った事実に心躍らせたが、ローレンは望んだ結婚ではなかった。  ローレンには、愛する幼馴染のアルファがいた。  自分は、ローレンの子孫を残すためにたまたま選ばれただけのオメガに過ぎない。 「好きになってもらいたい。」  …そんな願いは、僕の夢でしかなくて、現実には成り得ない。  それでも、一抹の期待が拭えない、哀れなセリ。  いつ、ローレンに捨てられてもいいように、準備はしてある。  結婚後、二年経っても子を成さない夫婦に、新しいオメガが宛がわれることが決まったその日から、ローレンとセリの間に変化が起こり始める…  ―――例え叶わなくても、ずっと傍にいたかった…  陰日向から愛を馳せるだけで、よかった。  よかったはずなのに…  呼ぶことを許されない愛しい人の名前を心の中で何度も囁いて、今夜も僕は一人で眠る。 ◇◇◇  片思いのすれ違い夫婦の話。ふんわり貴族設定。  二人が幸せに愛を伝えあえる日が来る日を願って…。 セリ  (18) 南方育ち・黒髪・はしばみの瞳・オメガ・伯爵 ローレン(24) 北方育ち・銀髪・碧眼・アルファ・侯爵 ◇◇◇  50話で完結となります。  お付き合いありがとうございました!  ♡やエール、ご感想のおかげで最後まではしりきれました。  おまけエピソードをちょっぴり書いてますので、もう少しのんびりお付き合いいただけたら、嬉しいです◎  また次回作のオメガバースでお会いできる日を願っております…!

魔王を倒した勇者の凱旋に、親友の俺だけが行かなかった理由

スノウマン(ユッキー)
BL
スラム育ちの少年二人は、15歳になり神の祝福でスキルを得た事で道をたがえる。彼らはやがて青年となり、片方は魔王討伐に旅立つ勇者として華々しい活躍をし、もう片方はただ彼の帰還を待つ相変わらずスラム暮らしの存在となる。 これは何も持たない青年がただ勇者の帰りを待つ日常を描いた作品です。 無自覚両片想いの勇者×親友。 読了後、もう一度だけ読み直して頂けると何か見える世界が変わるかもしれません。

婚約破棄されてヤケになって戦に乱入したら、英雄にされた上に美人で可愛い嫁ができました。

零壱
BL
自己肯定感ゼロ×圧倒的王太子───美形スパダリ同士の成長と恋のファンタジーBL。 鎖国国家クルシュの第三王子アースィムは、結婚式目前にして長年の婚約を一方的に破棄される。 ヤケになり、賑やかな幼馴染み達を引き連れ無関係の戦場に乗り込んだ結果───何故か英雄に祭り上げられ、なぜか嫁(男)まで手に入れてしまう。 「自分なんかがこんなどちゃくそ美人(男)を……」と悩むアースィム(攻)と、 「この私に不満があるのか」と詰め寄る王太子セオドア(受)。 互いを想い合う二人が紡ぐ、恋と成長の物語。 ※諸事情により、本編、番外編「嫁溺愛大将と幼馴染み達」「イザームさんとルーカスくん」のみ再掲します。 「羽化」 「案外、短気」 「飴と鞭」 は未公開のままで失礼いたします。

溺愛極道と逃げたがりのウサギ

イワキヒロチカ
BL
完全会員制クラブでキャストとして働く湊には、忘れられない人がいた。 想い合いながら、…想っているからこそ逃げ出すしかなかった初恋の相手が。 悲しい別れから五年経ち、少しずつ悲しみも癒えてきていたある日、オーナーが客人としてクラブに連れてきた男はまさかの初恋の相手、松平竜次郎その人で……。 ※本編完結済。アフター&サイドストーリー更新中。 二人のその後の話は【極道とウサギの甘いその後+ナンバリング】、サイドストーリー的なものは【タイトル(メインになるキャラ)】で表記しています。

【完結】「奥さまは旦那さまに恋をしました」〜紫瞠柳(♂)。学生と奥さまやってます

天白
BL
誰もが想像できるような典型的な日本庭園。 広大なそれを見渡せるどこか古めかしいお座敷内で、僕は誰もが想像できないような命令を、ある日突然下された。 「は?」 「嫁に行って来い」 そうして嫁いだ先は高級マンションの最上階だった。 現役高校生の僕と旦那さまとの、ちょっぴり不思議で、ちょっぴり甘く、時々はちゃめちゃな新婚生活が今始まる! ……って、言ったら大袈裟かな? ※他サイト(フジョッシーさん、ムーンライトノベルズさん他)にて公開中。

大嫌いなアルファと結婚しまして

リミル
BL
面倒見のいい隠れSなα×アルファから転化したΩ 久世優生と神崎基城はアルファの幼馴染みで、互いのスペックを競い合うライバル同士でもあった。 パーティーの最中、基城は原因不明の体調不良に襲われ、第二性がアルファからオメガに転化したと告げられる。 オメガになったことで、優生に馬鹿にされるかと思えば、何故かプロポーズを申し込まれてしまい──!?

異世界オークションで売られた俺、落札したのは昔助けた狼でした

うんとこどっこいしょ
BL
異世界の闇オークションで商品として目覚めた青年・アキラ。 獣人族たちに値踏みされ、競りにかけられる恐怖の中、彼を千枚の金貨で落札したのは、銀灰色の髪を持つ狼の獣人・ロウだった。 怯えるアキラに、ロウは思いがけない言葉を告げる。 「やっと会えた。お前は俺の命の恩人だ」 戸惑うアキラの脳裏に蘇るのは、かつて雨の日に助けた一匹の子狼との記憶。 獣人世界を舞台に、命の恩人であるアキラと、一途に想い続けた狼獣人が紡ぐ、執着と溺愛の異世界BLロマンス。 第一章 完結 第二章 完結

【完結】幸せしかないオメガバース

回路メグル
BL
オメガバースが当たり前に存在する現代で、 アルファらしいアルファのアキヤさんと、オメガらしいオメガのミチくんが、 「運命の相手」として出会った瞬間に大好きになって、めちゃくちゃハッピーな番になる話です。 お互いがお互いを好きすぎて、ただただずっとハッピーでラブラブなオメガバースです。 ※性描写は予告なくちょこちょこ入ります。

処理中です...