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第二章 セレスティアの伝承
第四十三話 『香りだけが、裏切らなかった夜』
しおりを挟むーー夜。
「べつに、特に持っていきたいものもないんだけど……」
旅の支度を始めていた。けれど、荷をまとめながらも、どこかそわそわして落ち着かない。ふと、机の上の図鑑に手を伸ばす。
大公文書室で借りてきた、花言葉や花の特性がまとめられた一冊。旅先で花を見つけたとき、役に立つかもしれないーーそんな軽い気持ちで、ページをめくった。
「花がいっぱい咲いているところなら……この図鑑、役に立つかな……?」
めくった先で、ある見覚えのある花の名前が目に入った。
「……『ノクティア』?」
思わず、声が漏れる。ページ中央には、紫紺の花のスケッチとともに、こう記されていた。
『夜に咲く花。別名“夜の誓花”ーー陶酔性の香気を持ち、過剰な吸引・摂取により幻覚・記憶混濁を引き起こす。調香への使用は王国法により禁じられている』
読み下ろすうちに、胸がきゅうっと縮こまる。
(ーーこの花、みたことがある)
いや、それどころか、ブランシェにいた頃、自分の手で育てていた。
命令されてやっていたことだったけれど、冷えた心が、あの、優しくて甘い香りに癒されるような気がして、ずっと、水をあげていた。
「……なんで……薬花じゃ、なかったの……?」
震える指で、何度も花の絵をなぞる。知らず知らずのうちに毒花を育てていた……? あれが、誰かに渡ってしまっている……?
ーー知らなかった。
でも、知らなかったでは、済まされない。もしかして、俺の育てた花の香りで……誰かを傷つけてしまった……?
胸がざわめく。冷たい何かが背中を這い、手のひらがじんわりと汗ばんだ。考えたくない思考が、頭で繰り返される。
(……俺の花が、枯れてしまうのは……毒を吸いすぎていたから?)
何も知らずに育ててきたのに。心臓の鼓動が、耳の奥でやけにうるさく響く。ページを閉じることもできず、ただその場に座り込んだまま、動けなかった。
ーーコン、コン。
「……ルイス、支度は順調か?」
扉の向こうから、優しい声が届く。その一言に、体がびくりと跳ねた。
「っ、……はいっ、たぶん!」
「ディナーの迎えに来たのだが」
「えっ、あっ、はいっ、今……行きますっ!」
慌てて声を返す。でも、口元がうまく動かなくて。震える声を悟られないよう、急いで図鑑を閉じ、机に戻した。
絶対に、殿下を不安にさせたくない。息を吸って、整え、何度かまばたきをする。
けれど、あのページに書かれていた言葉が、頭から離れなくて。楽しい旅路のはずの未来が、ほんの少しだけ遠ざかった気がした。
ーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーー
ーーーー
*
ーー王都、カミュ・アルヴァ邸。
夜の帳が静かに降りていた。分厚いカーテンが外界の光を遮り、蝋燭の灯だけが書類の山を照らす。
「……これが最後の一枚ですか?」
指先に手袋をはめたまま、羊皮紙の端を整える。王宮の印章を模した封蝋、見慣れた筆跡。王家の命令書と同じ書式で作られた精巧な偽造文書が、静かに並べられていく。
「『王太子・リアム=アッシュフォードは、毒花の調香に関与し、その使用を黙認していた』」
読み上げた言葉に、カミュは笑みも浮かべずワインを傾けた。グラスの中で深紅の液体が揺れ、月明かりを反射する。
「文書の差し替え場所は、どちらに?」
「王立植物調香研究局の予備文書庫がいい。半官の組織だ。『市民からの匿名提供』という名目で流しておけばいい」
僕は小さく頷き、封筒に文書を丁寧にしまう。証拠文書、署名控え、王族印の記録簿。カミュが用意した『王太子を貶める三点セット』は、どれも本物に限りなく近かった。
「ああ。そうだ、ランス。旅に出るらしいね、王太子殿下と『咲かない花嫁』が」
「……ええ、明日出発するとか」
「でも、どうせ偽りの立場だ。身代わりだろうが何だろうが、私にとって、あの花嫁は利用価値しかない」
カミュはグラスを机に置き、ゆっくりと立ち上がった。深い夜の中、カーテンの隙間からわずかに漏れた月光が、その頬の冷笑を照らす。
「香りと証拠で王太子を揺るがせば、あとは『婚約者に相応しくない』という空気を流せばいい。咲かない花に価値がないと信じている貴族たちの中で、『毒を宿した花嫁』という噂が広まれば、それだけで十分だ」
その横顔を見つめながら、ふと、胸に小さな違和感を覚える。
ーーこの人は、いったい、何を見ているのだろう、と。
「君はただ、その証明を置いてくれればいい」
「はい。……では、僕はこれで」
「ああ」
けれどそれを問いかけることはなく、ただ一礼し、静かに部屋を後にした。
*
部屋に残され、沈黙が落ちる。私はゆっくりと窓辺に歩を進め、冷えた硝子越しに月を仰いだ。
(王族など、所詮は花で酔わされる愚か者だ)
過去の幻影が、ふと脳裏に蘇る。少年だった頃、兄の影に隠され続けた日々。政略のためだけに生かされ、利用された名と血。
母の遺した香水の香りに、唯一、救われたこと。
ーー香りだけが、裏切らなかった。
ふっと笑い、赤紫のワインを手に取り、一口飲む。
「……感情も、記憶も、愛も。香りひとつで操作できるなら、王も、花嫁も、例外じゃない」
己の野心を否定も誤魔化しもせず、ただ事実として受け入れる。
「価値があるのは、『支配できるもの』だけだ。咲かない花に意味などない」
グラスの底で最後の滴が揺れる。月が雲に隠れ、闇が室内を満たす。
ーー椅子は、ひとつしかない。
深夜の向こうの玉座をまっすぐに見据える。闇に沈む部屋で、グラスがひとつ、音を立てた。
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