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第一章 「ヒンデンブルクオーメン」
Intermission 1 「深緑の魔女」
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17年前。サンクタム山脈。
アルカ大陸の東の果て、峰々が連なり、天空へと続く断崖が幾重にも重なり合う巨大山脈だ。その向こうの魔獣領域から群れをなし襲ってくる無数の魔獣から、人の世界を守る自然の要害。人類文明が到達できる最果ての境界であり、踏み越えることはできない線――それがこのサンクタム山脈だ。
常に風が吹き荒れるはずの大山脈の西麓。だがこの日、この瞬間、この場所には、不気味なほどの静寂が漂っていた。風はなく深い霧が、すべてを包み込んでいる。
パキッ、パキッ。
静かな森に、落ちた枝葉を踏む音がやけに遠くまで響く。霧の中を歩く一人の女性の姿があった。短く切り揃えられた緑色のボブヘアは小さく跳ねて、丸眼鏡の奥に宿る赤い瞳が、獣のような鋭さと母性を併せ持つ。
クロエ・アディス。
――深緑の魔女。
名を知らぬ者はいない、とまではいかない。だが彼女の名を知る者は、逸話を語る。
曰く、数百年前から姿を変えずに生き続けるハイエルフ。
曰く、かつて取引所にて、巨万の富を築いた才女。
曰く、世界を股に掛けた大冒険者。
そして、突如姿を消した流浪の魔女。
「……ふあ。ちょっと寝過ぎたか」
欠伸をかみ殺しながら、クロエ・アディスは小道もない急斜面を軽やかに下る。脚を滑らせれば谷底まで真っ逆さまだが、クロエの足取りには一分の揺らぎもない。
この地に棲まう魔獣たちは、通常の人間では対峙すら困難な存在である。だがクロエにとっては、獣の咆哮すら風のささやきほどにも満たない。
――グォオオォォォッ!!
絶叫が前方の茂みから飛び出す。現れたのは全身に甲殻を持つ魔獣。見上げるほどの巨体を持ち、突進力に優れた中型種の凶獣だ。
「はあ。……めんどくさいな」
クロエは手を振り上げることもなく、ただ軽く息を吐いた。瞬間、足元に小さな魔法陣が浮かび上がり、淡い緑光を灯した。
「開け、プロテクション」
基礎的な防御魔法――だが、クロエが使えば話は別だった。空間そのものが捻じ曲がるような魔力の奔流が、獣の前進を止め、魔法陣から放たれた衝撃波が巨体を跳ね返す。魔獣は苦悶の声をあげる間もなく、体ごと吹き飛ばされ、巨岩に叩きつけられて絶命した。
「……よし。これで十体目。もう文句は言わせないわよ、レイラ」
誰にともなくそう呟き、クロエはまた歩き出す。その視線の先にあるのは、古びた祠だった。石造りの小さな建造物は半ば崩れかけており、風雨に晒された表面は苔むしている。
ふと、静寂な中――小さな、かすかな声が届いた。
「……ん?」
最初は風の音かと思った。
しかし、それははっきりと――泣き声だった。
赤子の、喉が裂けるような――命を叫ぶ音。
――まさか?
クロエは杖を構え、慎重に霧を払うようにして祠の前に立った。魔獣の罠かもしれない。魔法の残滓や、結界の痕跡がないか細かく探る。
――何もない。
だが、泣き声は確かに中から聞こえていた。クロエはゆっくりと、扉を押し開けた。
中には――ひとりの赤子がいた。
わらで編まれた粗末なゆりかご。赤ん坊は薄い布に包まれて、小さく丸まりながら泣いている。髪は黒く、肌はうっすらと蒼白。泣いてはいるが、体に異常は見られない。
だが、
「……この子は…」
クロエは、震える手で赤子に手をかざす。魔力の流れを確認するためだ。だが、何も感じない。まるで、この子がこの世界に存在していないかのような、虚無。
完全なる無。
――これは、ありえない。
魔力因子は、すべての生物に存在する。たとえ微細であれど、必ず検出されるはず。だが、この子からは、まったく感知できない。
「……これは、確かにティグロニアじゃ忌み子だ」
クロエはしばらく黙っていた。視線の先で、赤子が泣きながら、ほんのわずかに手を伸ばす。
「……ふふっ」
クロエの唇が、ふっと笑みを浮かべた。その笑顔は、なぜか優しさと愉快さに満ちていた。
「まったく。こんな面白い子を捨てるなんてもったいない」
クロエは赤子を抱き上げる。
「今日からは君はうちの子だ」
クロエはそう言って、赤子の額に唇を寄せる。
「うーん……アルヴィオ。そうだね、それがいい。それが君の名前だ」
その瞬間、赤子の泣き声が止んだ。その顔は、まるで安心したように、クロエの胸のなかで眠りにつこうとしていた。
アルカ大陸の東の果て、峰々が連なり、天空へと続く断崖が幾重にも重なり合う巨大山脈だ。その向こうの魔獣領域から群れをなし襲ってくる無数の魔獣から、人の世界を守る自然の要害。人類文明が到達できる最果ての境界であり、踏み越えることはできない線――それがこのサンクタム山脈だ。
常に風が吹き荒れるはずの大山脈の西麓。だがこの日、この瞬間、この場所には、不気味なほどの静寂が漂っていた。風はなく深い霧が、すべてを包み込んでいる。
パキッ、パキッ。
静かな森に、落ちた枝葉を踏む音がやけに遠くまで響く。霧の中を歩く一人の女性の姿があった。短く切り揃えられた緑色のボブヘアは小さく跳ねて、丸眼鏡の奥に宿る赤い瞳が、獣のような鋭さと母性を併せ持つ。
クロエ・アディス。
――深緑の魔女。
名を知らぬ者はいない、とまではいかない。だが彼女の名を知る者は、逸話を語る。
曰く、数百年前から姿を変えずに生き続けるハイエルフ。
曰く、かつて取引所にて、巨万の富を築いた才女。
曰く、世界を股に掛けた大冒険者。
そして、突如姿を消した流浪の魔女。
「……ふあ。ちょっと寝過ぎたか」
欠伸をかみ殺しながら、クロエ・アディスは小道もない急斜面を軽やかに下る。脚を滑らせれば谷底まで真っ逆さまだが、クロエの足取りには一分の揺らぎもない。
この地に棲まう魔獣たちは、通常の人間では対峙すら困難な存在である。だがクロエにとっては、獣の咆哮すら風のささやきほどにも満たない。
――グォオオォォォッ!!
絶叫が前方の茂みから飛び出す。現れたのは全身に甲殻を持つ魔獣。見上げるほどの巨体を持ち、突進力に優れた中型種の凶獣だ。
「はあ。……めんどくさいな」
クロエは手を振り上げることもなく、ただ軽く息を吐いた。瞬間、足元に小さな魔法陣が浮かび上がり、淡い緑光を灯した。
「開け、プロテクション」
基礎的な防御魔法――だが、クロエが使えば話は別だった。空間そのものが捻じ曲がるような魔力の奔流が、獣の前進を止め、魔法陣から放たれた衝撃波が巨体を跳ね返す。魔獣は苦悶の声をあげる間もなく、体ごと吹き飛ばされ、巨岩に叩きつけられて絶命した。
「……よし。これで十体目。もう文句は言わせないわよ、レイラ」
誰にともなくそう呟き、クロエはまた歩き出す。その視線の先にあるのは、古びた祠だった。石造りの小さな建造物は半ば崩れかけており、風雨に晒された表面は苔むしている。
ふと、静寂な中――小さな、かすかな声が届いた。
「……ん?」
最初は風の音かと思った。
しかし、それははっきりと――泣き声だった。
赤子の、喉が裂けるような――命を叫ぶ音。
――まさか?
クロエは杖を構え、慎重に霧を払うようにして祠の前に立った。魔獣の罠かもしれない。魔法の残滓や、結界の痕跡がないか細かく探る。
――何もない。
だが、泣き声は確かに中から聞こえていた。クロエはゆっくりと、扉を押し開けた。
中には――ひとりの赤子がいた。
わらで編まれた粗末なゆりかご。赤ん坊は薄い布に包まれて、小さく丸まりながら泣いている。髪は黒く、肌はうっすらと蒼白。泣いてはいるが、体に異常は見られない。
だが、
「……この子は…」
クロエは、震える手で赤子に手をかざす。魔力の流れを確認するためだ。だが、何も感じない。まるで、この子がこの世界に存在していないかのような、虚無。
完全なる無。
――これは、ありえない。
魔力因子は、すべての生物に存在する。たとえ微細であれど、必ず検出されるはず。だが、この子からは、まったく感知できない。
「……これは、確かにティグロニアじゃ忌み子だ」
クロエはしばらく黙っていた。視線の先で、赤子が泣きながら、ほんのわずかに手を伸ばす。
「……ふふっ」
クロエの唇が、ふっと笑みを浮かべた。その笑顔は、なぜか優しさと愉快さに満ちていた。
「まったく。こんな面白い子を捨てるなんてもったいない」
クロエは赤子を抱き上げる。
「今日からは君はうちの子だ」
クロエはそう言って、赤子の額に唇を寄せる。
「うーん……アルヴィオ。そうだね、それがいい。それが君の名前だ」
その瞬間、赤子の泣き声が止んだ。その顔は、まるで安心したように、クロエの胸のなかで眠りにつこうとしていた。
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