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第七章 「ディストリビューション」
Intermission 12 「とある奴隷商の溜息」
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重苦しい沈黙が、部屋を支配していた。
厚いカーテンに閉ざされた応接間。夜気を遮るその空間の中央で、アンドレは重々しく椅子に腰を下ろしていた。分厚い指輪がはまった手で額を押さえ、深く、長い吐息を漏らす。
「……まったく、やってくれる」
あの任務。イオナ・セイランの確保。
それは灰牙の蛇から下された至上命令であり、奴隷商として多くの依頼をこなしてきたアンドレにとっても、成功すれば、さまざまな恩恵と組織内での昇格が約束されていた。
だが結果は――失敗。
しかも失敗だけでは済まなかった。
「半分、だぞ……」
使った手駒の半分を失った。捕まった者たちは、即座に魔道具が発動し、その命を絶った。口を割らせるリスクを残すわけにはいかない。
情報漏洩は防げた。だが、経済的損失は防げない。
奴隷を一人失えば、そこに投じた仕入れ資金と育成コストがすべて消える。今回はそれが一度に何十と消えたのだ。
「……莫大な赤字だ」
溜息をつく。
奴隷商として、アンドレは数多の取引をこなしてきた。裏でも表においても、決して無名ではない。いや、むしろ恐れられる存在だと自負していた。
「……畜生」
拳で机を叩く。だが叩いたところで数字が黒字に変わるわけではない。
しばらく沈黙が流れた。ランプの炎がちろちろと揺れ、時計の秒針がやけに耳につく。
そんな折。
空気がふっと冷えた。
「……来たか……」
アンドレの視線が扉に向く。
「大変でしたね、アンドレさん」
声に感情はほとんど含まれない。だが、その一言に込められたものをアンドレは感じ取っていた。
――次はないぞ。
そう告げられているのだ。
アンドレは無意識に背筋を伸ばした。
「……手駒を半分失った、だが情報漏洩はない」
「それは確認しています。あれは確かに発動。……だけど、失ったものは大きいですね」
「っ……」
「我々は、損失そのものを咎めはしませんよ」
影はゆっくりと、窓際に歩み寄った。
「問題は結果です。イオナ・セイランを捕らえること。それを果たせなかったのは、事実として残る。そして、少々厄介なところに逃げこまれた」
淡々とした言葉に、アンドレは歯を噛みしめた。
「わかっている」
影は微かに肩を揺らす。それが笑みなのか、侮蔑なのかは判別できなかった。
「それと――市場の話を一つ」
「市場?」
「ええ。小麦の相場です」
アンドレの眉がわずかに動いた。
「小麦など、農民や穀物商の領分だ。私には関係のない話だ」
「そうでしょうか? 帝国の影がちらついている。値は跳ね上がる一方でしょう。それに…」
影の声は、感情を帯びぬまま部屋に響いた。
「あなたは多額の損失を出した。その埋め合わせをするなら、投資は一つの手です」
「投資、だと……?」
アンドレは鼻で笑った。
「私は奴隷商だ。人を仕入れ、売り捌く。それが私の生業だ。投資だの相場だのに興味はない」
「しかし、失った金を取り戻す方法は限られている。奴隷の仕入れは今すぐには難しいでしょう。……ならば相場に賭けるしかない」
影は背を向け、窓に手をかけた。
「我らが牙は広く世界に伸びています。小麦が跳ね上がれば、得られる利益もまた莫大。……あなたが賭けるなら、好機はすぐそこにある」
その言葉を残し、影は消える。
静寂が戻る。
アンドレはしばらく動けなかった。
「……小麦相場に、賭けろと?」
呟きは苦笑のように漏れた。
だが、頭の中ではすでに数字が踊り始めていた。
失った手駒、穴の空いた裏帳簿。
それを埋めるには、従来のやり方だけでは足りない。
「相場……か」
グラスを掴み、酒を一気に飲み干す。喉を焼くような熱さが腹の底に沈んでいく。
「……悪くはない」
アンドレの口元に、初めて笑みが戻った。
「小麦に賭ける……そうか、これしかない」
アンドレは帳簿を開く。
「次こそは……」
その呟きは、酒気にまみれた部屋の中に、沈んでいった。
厚いカーテンに閉ざされた応接間。夜気を遮るその空間の中央で、アンドレは重々しく椅子に腰を下ろしていた。分厚い指輪がはまった手で額を押さえ、深く、長い吐息を漏らす。
「……まったく、やってくれる」
あの任務。イオナ・セイランの確保。
それは灰牙の蛇から下された至上命令であり、奴隷商として多くの依頼をこなしてきたアンドレにとっても、成功すれば、さまざまな恩恵と組織内での昇格が約束されていた。
だが結果は――失敗。
しかも失敗だけでは済まなかった。
「半分、だぞ……」
使った手駒の半分を失った。捕まった者たちは、即座に魔道具が発動し、その命を絶った。口を割らせるリスクを残すわけにはいかない。
情報漏洩は防げた。だが、経済的損失は防げない。
奴隷を一人失えば、そこに投じた仕入れ資金と育成コストがすべて消える。今回はそれが一度に何十と消えたのだ。
「……莫大な赤字だ」
溜息をつく。
奴隷商として、アンドレは数多の取引をこなしてきた。裏でも表においても、決して無名ではない。いや、むしろ恐れられる存在だと自負していた。
「……畜生」
拳で机を叩く。だが叩いたところで数字が黒字に変わるわけではない。
しばらく沈黙が流れた。ランプの炎がちろちろと揺れ、時計の秒針がやけに耳につく。
そんな折。
空気がふっと冷えた。
「……来たか……」
アンドレの視線が扉に向く。
「大変でしたね、アンドレさん」
声に感情はほとんど含まれない。だが、その一言に込められたものをアンドレは感じ取っていた。
――次はないぞ。
そう告げられているのだ。
アンドレは無意識に背筋を伸ばした。
「……手駒を半分失った、だが情報漏洩はない」
「それは確認しています。あれは確かに発動。……だけど、失ったものは大きいですね」
「っ……」
「我々は、損失そのものを咎めはしませんよ」
影はゆっくりと、窓際に歩み寄った。
「問題は結果です。イオナ・セイランを捕らえること。それを果たせなかったのは、事実として残る。そして、少々厄介なところに逃げこまれた」
淡々とした言葉に、アンドレは歯を噛みしめた。
「わかっている」
影は微かに肩を揺らす。それが笑みなのか、侮蔑なのかは判別できなかった。
「それと――市場の話を一つ」
「市場?」
「ええ。小麦の相場です」
アンドレの眉がわずかに動いた。
「小麦など、農民や穀物商の領分だ。私には関係のない話だ」
「そうでしょうか? 帝国の影がちらついている。値は跳ね上がる一方でしょう。それに…」
影の声は、感情を帯びぬまま部屋に響いた。
「あなたは多額の損失を出した。その埋め合わせをするなら、投資は一つの手です」
「投資、だと……?」
アンドレは鼻で笑った。
「私は奴隷商だ。人を仕入れ、売り捌く。それが私の生業だ。投資だの相場だのに興味はない」
「しかし、失った金を取り戻す方法は限られている。奴隷の仕入れは今すぐには難しいでしょう。……ならば相場に賭けるしかない」
影は背を向け、窓に手をかけた。
「我らが牙は広く世界に伸びています。小麦が跳ね上がれば、得られる利益もまた莫大。……あなたが賭けるなら、好機はすぐそこにある」
その言葉を残し、影は消える。
静寂が戻る。
アンドレはしばらく動けなかった。
「……小麦相場に、賭けろと?」
呟きは苦笑のように漏れた。
だが、頭の中ではすでに数字が踊り始めていた。
失った手駒、穴の空いた裏帳簿。
それを埋めるには、従来のやり方だけでは足りない。
「相場……か」
グラスを掴み、酒を一気に飲み干す。喉を焼くような熱さが腹の底に沈んでいく。
「……悪くはない」
アンドレの口元に、初めて笑みが戻った。
「小麦に賭ける……そうか、これしかない」
アンドレは帳簿を開く。
「次こそは……」
その呟きは、酒気にまみれた部屋の中に、沈んでいった。
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