彼岸の王と首斬り姫

KaoLi

文字の大きさ
上 下
16 / 75
第二章

第十六話 『彼』のこと

しおりを挟む
 翌日、目が覚めると何だか体が軽く感じた。あの時の温もりのおかげかよく眠れたようだ。なんとも不思議な感覚だった。
 着替えを終え身支度を済ませる。奥老院を出て前老院へと向かう廊下で、その少しの時間に不思議なものを見つけた。見つけたというより、これは自然と目に入ってしまったという方が正しいのかもしれない。

「……奴良野殿?」

 奥老院のすぐ隣には奴良野山と併設した村が存在する。声のする方へ足を進めてみれば、件の水埜辺が村民に何かをお願いされている光景が映った。彼は話を聞き終わると、水埜辺は大木の前に一人立った。何をするのだろう。そう言えば以前、あの男は木を一人でなぎ倒すことができるのだと聞いた気がする。いやまさか。ありえないだろう。いくらあの男が仮に人間でなかったとしても、あの大木は倒せまい。そう、この時は思っていた。

「よいしょぉお!」
「――なっ!?」

 軽快な掛け声とは裏腹に、自身よりも五倍はあるであろうその大木を、いとも簡単に水埜辺は倒した。裏業は目の前で起こった現象を理解するのに少し時間を有した。

「ふぅ。これで薪作りには当分苦労しないね」
「ありがとや~、水埜辺様~」
「いいえ~。じゃあ俺、そろそろ行かないと」
「少しお待ちな水埜辺様」

 近くにいた老婆が何やら麻袋を持ってきて、それを水埜辺に渡した。中身はいったい何なのだろう。裏業は端目に見ていて少しだけ気になった。

「何これ。わー! 立派なみかんだね」
「ここらで採れたものの中で大きく実ったものをあげるでねぇ。またよろしく頼みます」
「別に俺はいつでも来るよ。でもありがとう、

 お鈴、と彼に呼ばれた老婆はにこりと微笑んだ。何故彼が、彼女に対して敬称を外していたのか。その答えはなんとなく分かっていた。
 水埜辺が前老院に向かって歩いてくる。それに気付くのが遅れてしまい、裏業は水埜辺と鉢合わせてしまった。裏業は昨日のこともあり、気持ちがざわついていたので不意に出た挨拶がぎこちなくなった。

「やあ、裏業ちゃん。おはよう」
「お、おはよう水埜辺殿。…………村民に随分と慕われているようだな」
「ん? ああ、そうなのかな。人は好きだけれど、何年も姿の変わらない者を気味悪がる子もいるから、それは正解とは言えないな」
「それは、そうだろうな」

 姿が変わらないというのは、つまり自分がと公言しているのも同じ。裏業の中でひとつ、合点がいく。
『奴良野水埜辺は人間ではない』と。
 その考えが浮かんでは消えていた。しかし先程の言葉で確信に変わった。その時、裏業の心は不思議と静かだった。まるでそうでなければしっくりこないと言わんばかりに。

「断言してくるなんてひどいなあ。あ、そーだ。これ、もらいものなんだけど」

 食べるかい? と水埜辺は先ほど、お鈴という老婆に渡されていた麻袋の中身を裏業の目の前に差し出した。

「……みかん?」
「家の庭で採れたものらしい。嫌いでなければもらってくれないか?」

 ひとりでは食べきれないからと苦笑する。確かに、麻袋の中は大量のみかんで埋まっていた。これはひとりではとてもではないが食べきれないだろう。

「あ、ああ。ありがとう」

 実のところ、朝食を食べる暇がなくそのまま直行で部屋を出てきていた。さほどお腹が空いていたわけではないが、そのみかんは妙に美味しそうに見えた。彼からみかんを受け取ると皮をむき中身を取り出す。橙色の実が輝いて見えた。ひと口を手に取り口に頬張ると、中から果汁がぶわぁと広がり、それは甘酸っぱくとても美味しかった。

「そんなに美味しいの、このみかん?」

 ずいっと水埜辺が裏業の目の前に近付いた。急なことで驚いた裏業は目を大きく見開き息をすることを忘れた。

「お鈴のみかんってさ、酸っぱいから美味しくないと思ってたんだけど……。人によって感じ方はそれぞれなのか。それとも今回の分が当たりなのかな、って裏業ちゃん?」
「えっ」
「どうしたの急に固まって。はっ、さてはこのみかん、美味しくなかったんじゃ!」
「そ、そんなことはない! というか、急に目の前にくるな! 怖いだろ……」
「あ……。ごめん」

 何を彼は謝る必要があっただろう。いや、そう考えてはいけない。謝らせたのは自分だ。申し訳なさそうに笑う彼に、こちらが申し訳なくなる。
 自分の知らない間に、裏業はこの男のことをどこかで許していると気付いた。その事実に驚きつつも、裏業は平然を装いひとつ深呼吸をする。

「いや、みかん、ありがとう」
「……いいえ~。俺も食べようかなぁ」

 別に食べればいい。何をしぶるのか。裏業は不思議に思ったがその理由が次の瞬間には明らかになった。水埜辺はひとつみかんを麻袋から取り出し、何を思ったのか皮ごと丸まる一個を齧り始めた。その行動に驚いたのも束の間、酸っぱかったのか彼の顔はみるみる中心に集まり、口をすぼませてふるふると震えだした。

「うぅう~っ」
「ぷ、ぷふっ」

 その顔が妙におかしかったので、裏業は思わず噴き出した。

「? 楽しそうだね、裏業」
「あ、や、すまない。人の顔を見て笑うのは失礼だったな」
「ばっさり言ってくれるのね……ああ、そうだ!」
「なんだ」
「昨日のあの後、大丈夫だったかい?」
「え……。あ、ああ。別に、普通に帰ったが……?」
「良かった~! 本当は俺が家まで送ろうと思っていたのだけど、酔っぱらってしまって……。面目ない!」
「いや……」

 この男は、もしかして何も覚えていないのだろうか。あの後、見知らぬ男におぶられて帰宅していったことを。まあ、何も覚えていないのなら詮索することもないか。裏業は思ったことを心の中にしまった。

「奴良野殿こそ、大丈夫だったのか?」
「うん? 俺は大丈夫さ。弟が迎えに来ていただろう?」
「! あの方は弟だったか! てっきり、付き人かと……」
「はは、一回じゃ分からないだろうね。だって俺とあの双子は父親が違うからねぇ」

 その瞬間、彼が悲しそうな顔をした。地雷を踏んでしまったのかもしれない。裏業は申し訳なさからすぐに謝った。

「すまない。軽率な発言だった」
「いやいや! いつも言われていることだし、今更気にも留めないさ」

 彼は笑った。考えるだけ無駄なのだと言わんばかりの笑顔で。

「……そういえば。裏業ちゃんはこれからどこ行くの?」
「私は……前老院へ。橋具様への報告があって。そういう奴良野殿は? こちら方面に用事でもあるのか?」
「奇遇だね。俺も橋具くんに用があるのさ。ここで会ったのも縁だし、一緒に行こう」
「さっきから一緒の道を歩いているがな」と突っ込みたくなったが、そこはぐっと我慢する。ふと、裏業は気になった。
「どうして、橋具様のもとへ行くんだ?」

 水埜辺の仕事はあまり知らない。きっと先ほど見た力仕事が主な内容なのだろう。以前、政の相談がどうのとも言っていた。特になんら難しい内容ではない。では何故? 仕事に不満がありそうな顔でもないところを見ると、その理由が分からなかった。

「明日一日、お休みしますって言いに行くだけだよ。毎月言っているんだけど、毎月忘れられてね。だからその連絡をしに行くのさ、念のために」
「休む……?」
「ああ! そうか。裏業ちゃんは俺と知り合ったのつい最近だから知らなくて当然だね」
「ど、どなたか具合の悪い方でも見えるのか?」

 裏業は水埜辺の休む理由が彼の家族にあるのではないかと思った。理由もなしにこの男は休むはずがない。……と、不思議な話、裏業は心底この男のことを短期間で信用に至る人物だと感じていた。

「ん? いないよ。強いて言うならば……
「?」

 その言葉の意味は、今の時点では裏業には理解できなかった。
しおりを挟む

処理中です...