彼岸の王と首斬り姫

KaoLi

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第四章

第三十一話 『浅乃助』との邂逅

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 裏業が桔梗宮家に拾われてから今日で五日が経過した。彼女の傷や体力は二日間でほとんど回復した。三日目からは二人の暮らす前老院に移動し、食事や作法を浅を始め屋敷の女中から学んでいた。さらには生きていくために必要だと言われ文字の読み書きなどの訓練も始まった。仮にも現在裏業が住んでいる場所は貴族、桔梗宮家の屋敷である。養子として迎えられた手前、読み書きができないとなれば他の貴族に示しがつかない。初めのうちは嫌がっていた裏業だったが、徐々に学ぶことに対しての意欲が芽生えたのか何事も覚えることは早く、丁寧に取り組んだ。
 それから一週間が経過したある日の夜のこと。ふと夜中に目が覚めてしまい二度寝をする気にもなれなかった彼女は朝凪を持ち出し部屋を出た。夜風が心地よく、ふらふらと散歩感覚で廊下を歩いていた。

 ――涼しい……。

 しかし、散歩をしたのが間違いだった。この家に来てまだ一週間と少し。部屋から出たことなどまだ数回しかなかったため、彼女は気が済むまで歩いたはいいものの、元の部屋に戻ろうしたが無駄に広い屋敷のため迷ってしまったのである。
 さて、どうしたものか。裏業の思考は冷静であった。最悪戻れなくても、朝になれば誰かしらは彼女が部屋から消えたのだからきっと探してくれるはずだ。それにけるしかない。裏業はその場に座り込み、そのまま眠ろうとした。

「――そこに、誰かいるのかい?」

 ふと、座り込んだ場所の裏から声が聞こえた。聞いたことのない、男性の声だ。裏業は朝凪を握っている手に力を込めた。

「……? 人ではないのかな? 野良犬……?」

 ――という言葉が妙に頭に響いた。あの旅商人に呼ばれていた“名”だ。屈辱的な名だ。怒りが沸々と沸き上がった。

「私を野良犬と呼ぶな……!!」

 初めて、大声を出して叫んだ。喉が痛いし、何より恐い。その戸の先にいる男が何者なのかを知ることが。朝凪を持つ手が震えた。

「え、人だったのかい! ごめん! ……いやはや、何分なにぶん僕は、」

 戸がゆっくりと開く。月明かりに照らされて、声の主であろう人物が部屋から出てきた。その顔に、裏業は思わず息を呑んだ。

「目が、見えなくてね」

 口元がにこりと微笑む。

「……あ……」

 彼が目が見えないと言った理由はすぐに分かった。目元に火傷の痕のような痣があり、それによって目が潰れているのだと裏業は理解した。

「そこら辺にまだいるのかな? 驚かせて……いや、恐がらせてすまないね」
「い、いや。わ、私も、ごめんなさい」
「……。ああ! 君、もしかして母上が言っていた新しい子だね? 通りで知らない足音だと思ったんだ」

 クスクスと彼が笑う。

「僕は浅乃助あさのすけ。君を拾った浅姫の子供だよ」

 裏業は彼――浅乃助を、まるで幽霊でも見るかのような目で見る。何故ならば、浅と橋具夫妻には跡継ぎがいないと聞かされていたからである。それも女中たちの噂ではなく、本人たちの口から直接。それが真実だと思っていた。

「君の名前は?」

 また名前。この家の人間たちは皆名前にどうしてここまで執着するのだろう。

「……まだ分からない。多分、無いんだと思う……ます」
「名前が無いのは哀しいね。……よし! では僕が考えてあげよう!」

 浅乃助は左手を顎に置き真剣に悩む動作をした。
 先ほど彼は「浅姫の息子」だと言った。にわかには信じ難いが――というのも浅と彼は似ていないのである――、もしそうだとしたら裏業は浅に嘘を吐かれたことになる。やっと信じられる居場所を手に入れたと思っていたのに。裏業は再び心を閉ざそうとした。

「閃いた!」
「え。」
「のばな、というのはどうだろうか?」
「のばな?」

 急にこの人は何を言っているのだろう。裏業は彼の言葉を脳内で処理できていなかった。

「そう。君から花のいい香りがしたからね。野に咲く花で『野花』。……ああ、でもそれだと『野良犬』の野でもあるから……僕の一字を取って『乃花』にしよう!」

 目の見えないはずの彼が裏業の為に机の上にあった紙と筆で名前を綴り見せる。少し汚いが読めはするその文字は、呼ばれて初めて命が宿るのだと裏業はその身に感じていた。

「……気に入ってもらえたかな?」
「あ、ああ……。えと、ではなくて、はい、浅乃助様」

 今はともかく、嘘を吐かれていたかもしれないことはまた後日考えることにしよう。きっと、この浅乃助という人物が何故この奥老院に一人暮らしをしているのかも、そのうちに分かると確信していた。

「やめてよ、様、だなんて。普通に浅乃助でいいよ、
「!」

 むずむずとした感覚が裏業を襲う。しかし悪い気はしない。むしろいい気分だった。心が温かくなりなんとも言えない感覚に少しだけ戸惑った。

「? どうかしたのかい、急に黙ったりして……」
「なんでもない! もう寝る――」

 寝る、と言おうとしたとき、ふと何故今自分がここにいるのかを思い出した。

「……浅乃助」
「ん?」
「どうしたら寝る場所に戻れる?」
「……君のかい? いや……この奥老院は広いからね。さっきまでいたところの特徴が分かればいいんだろうけど、生憎目が見えないから正確には……」
「……。わかった。すまなかった。帰る」

 戻ろうにも元居た場所の特徴など分からない。浅乃助といると心が無性にざわつく。現在、裏業――以降、乃花――は若干の窮地に見舞われていた。

「じゃあ、もう僕の部屋で一緒に寝るかい?」
「え」
「朝になったら僕の世話係が来てくれる。それまでの辛抱だよ。それに、どこで寝ようと考えたのかなんとなく想像はつくけど、夜は冷えるよ。風邪をひいてしまうからね」

 そう言って浅乃助は乃花に手を差し伸べた。乃花はなんとも言えない感情に戸惑い悩まされつつも、彼のその手を取ることに決めた。

 ❀

 翌日「まぁ!」という声が一番最初に乃花の意識に届いた。何だろうか、と重い瞼をゆっくりと開ける。まだ意識は覚醒していない。

 ――ん? 体が動かない?

 体に力を入れようとしたとき、今、自分がどういう状況にいるのかをこの時初めて彼女は理解した。

「! おい、起きろ浅乃助!」

 乃花は何故か浅乃助にがっつりと抱擁されながら布団に眠っていた。彼のおかげで寒くはなかったが、しかしこの状況はあまりよろしくない。それに、眠っているのか起きているのか分からない彼の腕の力は強すぎて少し異常と思えた。

「浅乃助……~!!」

 ぐぐぐ、と体に巻かれた腕を必死に解こうとする。だがまだ緩む気がないのか、むしろ絶対に起きていると思う力の入れ方で巻き付いていた腕の力がさらに強くなる。乃花は早くこの状況から脱したいがために浅乃助の頭を軽く数回叩く。

「んん……? ……ああ、明るいね。もう朝か。ぽかぽかしているのは乃花だね、おはよう」
「何を呑気に……!」
「浅乃助、あなたはいつの間に彼女と夜這いをしあう仲になったのです?」

 その瞬間部屋の温度が瞬時に凍てつき、乃花は人生が終わったと思った。

「お浅様!?」
「母上?」

 親代わりである浅に、まさか本当の息子である浅乃助と一夜を共にしたと思われたのだ。気が気でない。死んでしまいたいとさえ思った。

「あ、母上。丁度良かった。実は昨日、乃花が迷っているところを僕が保護したのです。彼女のおかげでいつもよりうんとよく眠れたのですよ! 今度母上も――」
「誰が湯たんぽだ! 申し訳ございません、お浅様! わ、私はこういうことになるとはまったく思っていなかったんです!」

 乃花が必死に現状を弁明しようとすればするほど、浅はクツクツと笑い始めた。何がそこまで可笑しいのだろうか。乃花の脳内は慌てふためていた。ひとしきり笑うと浅は床に項垂うなだれている乃花の頭を撫でた。

「――ふふっ。大丈夫ですよ。……私は嬉しいのです」
「うれしい?」
「ええ。そうですか。あなたは『乃花』と名を云うのですね。良い名をつけてもらいましたね」
「はい母上。初めて声を聞いた時に思いついたのです。彼女から花の香りがして」
「そうですか、そうですか。ふふふっ」

 乃花はこの時、この親子が似ていないと感じたことを撤回した。
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