彼岸の王と首斬り姫

KaoLi

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第四章

第三十話 『繋がり』

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 次に裏業が目を開いて認識したのは、見知らぬ天井だった。あの旅商人に付いて行っていた時はいつも知っている天井で、鶏や馬の臭いが絶えない場所であった。だからだろうか。臭いのしない部屋にいることが彼女にとって不思議な感覚だった。首を横に倒すと水の入った湯呑が置かれていた。ごくりと生唾を飲む。喉が渇いていたのだと気が付いた時、裏業はゆっくりと忍ぶようにその湯呑を手に取ろうとした。その時、手に違和感を覚える。白い布がぐるぐると右掌に巻かれていた。これはなんだ、と左手で引っ張ってみるも固く結ばれているのかなかなか解けない。段々苛ついてきて裏業はやけになり先ほどよりも強い力を込めて布を引っ張った。もうすぐで解けそうだ! と思った時、そこに浅が入室した。

「――駄目よ! 何をしているの!?」
「……!」

 浅は水の張った桶を畳の上に置き、そっと裏業の右手首を掴んだ。振り払おうとしたが何故かそれは叶わなかった。

「あらあら……。折角巻いたのに。……あなた怪我をしているのよ?」
「け、が」
「そう。三日間も寝込むくらい高熱があったわ。体もところどころに傷があって……。どう、気分は? もう大丈夫かしら?」

 浅が裏業の額に手を置こうとした。熱を測る行為だ。しかし裏業にはその行為が攻撃に見えた。旅商人にぶたれた記憶が呼び起こされたのだ。
 しっかり見ろ。でなければ痛くされるぞ。見なきゃ。死ぬかもしれない。あいつに殺されてしまったたちみたいに。私も――……。

「うん。もう下がっているみたいね。大丈夫だわ」

 しかし、思っていたことと違う行為をされて、裏業は脳内の情報を処理し切れず疑問符を頭上に浮かべるばかりだった。

「…………! 刀……!」

 物心ついた時からずっと手放さなかったもの。自分では理解してはいないが、それは命よりも大事なものと本能的に感じていた。裏業は朝凪が側にないことを感じ取ると布団の中から勢いよく飛び出て湯呑を割り、その破片を白い布――包帯の巻かれた右手で強く握りしめ浅に向けた。浅はただ裏業のことを見つめていた。

「刀を、返せ!」
「……あなた、言葉を話せたのね。……けれどもう、あなたには必要のないものでしょう?」
「私から、を、取るな!」
「繋がり? 誰との?」

 誰、と言われてハッとする。それは分からない。ただ、朝凪が自分にとってとても大事なもので、命よりも大事なもので、どうしても手放してはならないものだということしか、裏業は理解をしていなかった。もはや顔も覚えていない、彼女にとっては赤の他人同然の『母親』から聞かされていた話だ。『母親』の言葉は呪いとなって今も裏業を縛り続けている。

「……っ、返せ」
「……例の刀をここへ。持ってきて頂戴」

 浅は部屋の外に控えさせていた女中に指示を与え、再び裏業と対面する。

「興奮せずとも、あの刀は丁重に保管されています」
「……?」
「あれは、あなたにとってとても大事なものなのね。取り上げてしまってごめんなさい」

 失礼いたします、と先ほどの女中が声を掛ける。「どうぞ」と浅が入室を促す。女中は襖を開け一礼すると刀――朝凪を浅に渡した。その存在を確認した裏業は殺気立っていた雰囲気から一変、安心した空気を纏い始めた。彼女が安全だと確認すると、浅は朝凪を裏業に渡した。

「刀! ……良かった」
「……あなた、名前は何というの?」
「名前……? ない」
「ない?」

 裏業は朝凪を握りしめ、満足したのか再び布団に潜り眠りについた。

 ❀

 その夜、浅は橋具に相談をしに、前老院に会いに行っていた。

「名前?」
「ええ。あの子、自分の名前がわからないみたいで……。それに、体中にあった傷なんですけれど、痕になっているものがいくつか。きっと、あの旅商人に虐待を受けていたんですわ」

 浅は涙ぐみながら裏業の現在の様子を橋具へ伝える。橋具は浅の両手に触れ、強く握った。

「橋具様?」
「これからは、我々があの子を愛していく番だよ、お浅」
「……! はい」

 言葉は足りないが、それだけで今まで悩んでいたことがふっと軽くなっていくのを感じた。しかし、それは浅の心の問題であり、問題は彼女の名前であった。

「名前か……。難しい問題だな。言葉にすれば名も力を宿す。良い名というのもすぐには思いつかない」
「そうですわね。……では、またの機会にでも相談させてください」
「ああ。夜も深い。そろそろお戻り」
「はい。では」

 浅は橋具に一礼し、部屋の戸に手を掛け退室しようとした。

「お浅」
「……はい?」

 思わぬ声掛けに浅は目を見開いて振り向いた。

は、元気かい?」

 橋具は浅に問う。彼の言う『あの子』のことを浅は瞬時に理解した。しかし『あの子』は裏業のことではない。浅は、笑った。

「ええ、変わりなく。元気でしたわ。では」

 浅はそう橋具に伝えると再度一礼し今度こそ退室していった。橋具はゆっくりとその場から立ち上がり部屋の戸を開け廊下から夜空の月を一人眺めた。
「……変わりなく、か」と、小さく呟くと橋具は戸を閉め奥の寝室へと向かった。
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