彼岸の王と首斬り姫

KaoLi

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第四章

第三十六話 『契約』

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 浅乃助が暴走――狐の姿をしていた日――から一週間が経過した。当人の浅乃助は見違えるほどに回復した。乃花はとても嬉しく思っていた。依然変わらない彼の姿を見ることができて。彼の世話をすることができて。幸せだと思った。
 だが、あの時橋具と浅が口論していた『契約』という二文字がふとぎる。契約とは一体何なのだろう。あの有政のことだ。きっとろくでもない内容なのだろう。有政の顔を思い返すだけでも腹が立つ。

「一体、ここ三日ほど、どうしてそう怒っているんだい乃花?」
「え? いえ。何も怒っては……いないです」
「そう……? ……乃花、今日はいい天気のようだから、僕のことはいいから、気分転換にでも外に遊びに行ったらどうだい?」

 確かに、今日は晴天だ。雲一つない。こんな日は城下町に出掛けるのもいいかもしれない。けれど、今の乃花にその選択肢は無い。

「……いえ。私は、母上から兄上のことを任されて、」
「僕は大丈夫。ほら、行っておいで」

 トン、と背中を半ば強引に押される。どうしたのだろう。いつもであればそんなこと言わないのに。乃花は訳が分からなかった。しかし、乃花はあの日から片時も浅乃助から目を離すなと浅から言われている。ならば――乃花は浅乃助の手を引いた。

「? 乃花?」
「では兄上も一緒に。いい天気だから一緒に外に行きましょう」
「え、ちょっと、待ちなさい! 乃花!」

 外に出るなんて久し振りだ。その喜びを浅乃助にも共有してほしかった。彼の手を引き玄関先に着くと乃花は雪駄せったを履く。次に浅乃助を座らせ同じように雪駄を履かせる。履かせ終わると乃花は再び彼の手を引いた。

「さあ、行きましょう兄上! ――え?」

 浅乃助は、立ち止まったまま動かない。

「兄上……?」

 もしや体調でも悪いのだろうか。だとしたらどうして行こうとしている間に言わなかったんだ。舞い上がった自分が馬鹿みたいだと乃花は不安になる。その雰囲気を感じ取ったのか、黙ったままの浅乃助が口を開いた。

「……すまない乃花。僕は、ここからは出られないんだ」

 どくり、と心臓が嫌な音で鳴る。

「何を、言ってる……、外はすぐそこなのに」

 動揺して敬語が抜ける。そんなことなど気にも留めないで浅乃助は困ったように笑った。

「乃花、外へ出てみなさい」

 乃花は浅乃助に言われるがまま、まずは一人で玄関から外へ出る。次に、浅乃助が外へ出ようとする。その時、門の前で不自然に彼は足を止めた。何だ? と乃花は小さく首を傾げる。きっと、壁を伝って出るのに手間取っているのだと思い、彼が出てくるのを見守る。しかし彼は一向にその足を進めようとはしなかった。

「……僕はね、だから。この屋敷から一歩も出ることを許されていないんだ。こんな風にね」

 拒まれるんだよ、と浅乃助は玄関から外へ手を伸ばして実演して見せる。すると、目に見えない透明な壁が、浅乃助を出すまいと張っているのが

「なんで……」
「君も見ただろう? 僕が化け物になった姿を。……あれが有政殿と交わしただ」
「……契約とは、一体なんなのですか?」
「うん。ちゃんと話すべきだよね、これは。乃花は僕たちの家族だから。――おいで。お菓子でも食べながら話そう。僕の、この体についてね」

 浅乃助が手を差し伸べる。その手を取るか、この時の乃花は正直少しだけ躊躇った。本当に、その話を部外者であった自分が聞いてしまってもいいのか。

「さぁ、おいで。僕の話をしよう」

 けれど、彼が笑顔でそう言うものだから、乃花は躊躇いながらも彼の手を取った。

 ❀

 乃花は奥老院の中に戻ると浅乃助を部屋に連れた。浅乃助を部屋に座らせ、乃花は台所へ向かった。そしてお茶とお菓子を台所から出し、浅乃助の部屋に戻る。未だに乃花の心の覚悟は中途半端だった。部屋に入ると浅乃助が微笑みながら待っていた。
 お茶を入れ、彼の手元に置く。彼はお茶を一口啜ると「ほぅ……」と息を吐き落ち着いた。乃花は覚悟を決め、浅乃助を見つめた。

「……以前、母上に聞いたかもしれないけれど、僕のこの両目は、四年前に流行り病に罹った時に失ったんだ。三日三晩高熱に苦しんで死にかけた。父上も母上も、もうダメだと思ったそうだよ。……その時だった。あの男が――有政が話を持ち掛けてきたのは」

『自分の実験に付き合ってくれるなら、彼を生かす方法を教えてあげるよ』

 それは、悪魔の囁きにも似た、橋具たちにとっては神の御言と同義だった。

「僕は、ここが運命の分かれ道だと思ったんだ。死ぬことが定めだと。けれど母上はそれを許さなかった。だから、有政の条件を飲んだんだ」
「……。それは、それを受け入れたことで兄上は……?」
「人としてのせいを失った」

 その一言に、乃花は思わず絶句した。浅乃助の覚悟を、甘く見ていた。人として死ぬことができないという事実が、彼だけでなく浅や橋具の心を蝕み続けている。乃花は今自分がどういう感情を持ってこの話を聞いているのか分からなくなっていた。分からなかったが、体は正直なもので、彼女の感情を理解してか、いつの間にか涙が彼女の頬を伝っていた。

「僕の中には管狐という妖怪が憑いている。その妖怪のおかげで今もこうして生きている」
「くだ……ぎつね?」

 ふっと、柔らかく浅乃助が笑う。ゆっくりと浅乃助は乃花の手を探り取った。

「……乃花、お願いがあるんだ」
「え?」

 声が震えていたかもしれない。けれど、ちゃんと聞かなければならない。乃花は鼻を一回すすり、真剣な表情で浅乃助の言葉を食い入るように聞く。

「いいかい。今度有政がこの奥老院に訪れた時が勝負だ。これは、乃花にしかできないことだから」
「わ、私は何をすれば……?」
「有政には妖怪が描かれた巻物――妖百絵巻というものを懐に持っている。その中の一つに僕に憑いている管狐の名前が書いてある絵巻があるはずなんだ。三十六番と表に書いてある巻物だ。それを見つけて、君の持つその刀で切ってほしい。そうすれば管狐は死ぬ」
「…………切ったら、兄上はどうなるの……?」

 契約時、管狐と生きる他なかった浅乃助。もしもその命を繋ぎ留めている管狐が死んだなら、その契約主である浅乃助は一体どうなるのか。
 その答えは聞かずとも解っている。けれど、その推測を口にしてしまえば真実に変わってしまうかもしれない。いや、真実なのだ。乃花は認めることを拒みたくてぎゅっと口をつぐんだ。

「絵巻がなんらかの外部からの力を受けて破壊されれば、契約主である僕も死ぬ」

 何故、死ぬことを恐れていないような顔で平然と「死ぬ」と言うのだろう。

「なに、もともと四年前に死ぬ運命だったんだ。今更恐れることなんて……。うん。むしろこの力で大事な人を傷つける方がうんと怖い。大丈夫。乃花なら、必ずできる」

 それは呪いにも似た口約束。兄の願いを叶えたい。けれど、それは――。

「それは、兄上を手に掛けることと同意ではありませんか……!」

 浅乃助は、大粒の涙を流す乃花いもうとをただ静かに自身に抱き寄せた。

「……すまない、乃花。すまない」

 どうして、そんな悲しい声色で謝るのか。どうして、こんな時に限って貴方の掌は大きく温かいのか。乃花は声を出して泣き疲れて寝てしまうまで、気の済むまで泣いた。浅乃助は黙って彼女をあやしていた。
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