彼岸の王と首斬り姫

KaoLi

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第四章

第三十七話 『妖百絵巻』

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 それから、というもの。一向に桔梗院有政は奥老院に顔を出さない。何を警戒されているのか、はたまた、ただ単に来る用事が無いのか。乃花は不審に思った。
 そうして平穏な日々を過ごして三月みつき経った頃、有政が奥老院に足を踏み入れた。

「有政様」
「やーやーやー! これはこれは妹殿。珍しいですね、何か私にご用でも?」
「……兄から聞いたのですが、有政様は世にも珍しい妖が描かれた百もの絵巻を有していると。その絵巻に興味がありまして……。この乃花にお見せ願えませんか?」

 嘘だった。そんなもの、見たくもない。けれどそう言わなければこの男は絵巻を表に出さない。奪い、破ることが乃花の使命だ。有政は不思議な顔をして乃花の話を聞いていた。

「……ほぉ? ほうほう。妹殿はこういうたぐいのものに興味が無いかと思っておりましたがー……。そうですか。よいでしょう!」

 有政はにっこりと微笑むと「何がいいですかね~」と言いながら羽織を広げた。浅乃助の言っていたことは正しかった。羽織の内側には百もの絵巻物が並んで吊るされていた。題目が表面に貼られており、それは妖怪の名前ではなく番号で記されていた。中には空いている場所も見られたが基本は全て埋まっていた。

「この九番の『くだん』もいいが、こちらの七十番の『犬神』も捨て難いですね~」

 ここで仕掛けよう。乃花は覚悟を決め、有政に提案する。

「……兄上は、三十六番の『管狐』の絵巻がとても気に入っていると申しておりました。そちらを拝見させていただきたいのですが」
「おお! 三十六番! の……管狐」

 ピクリ、と有政の周りの空気が一瞬にして張り付いた。ぬるりと首を傾げ、視線を絵巻から乃花へと向ける。震えが、止まらなかった。

「……何故ぇ、、ご存知なので?」
「っ、それは、兄上から聞いた話だからで、」

 しまった、とは思わなかった。むしろ、これが狙いだった。
 普通に出せばいいものを、わざわざ確認する必要があるだろうか。これでは『三十六番の絵巻が管狐』であることを証明しているも同然である。自分では彼から絵巻を盗み出すことは九割の確率で不可能だ。だから不信感を抱かれても『兄から聞いた話』だと強調すれば差し出すのではないかと考えたのだ。

「ふーん。浅乃助殿から。まあ、いいでしょう。これが三十六番、管狐の巻物です」

 有政は羽織の内側からひとつの絵巻を手に取った。それは普段見ている巻物よりは若干小さいようにも見えた。乃花は彼から三十六番と書かれた絵巻を受け取るとゆっくりと手の上に広げた。

「――え」

 その絵巻の内容を見た時、乃花は絶句した。
 本来であれば『絵巻』というからには、その題名の動物が描かれているはずだ。しかしその絵巻には、紙の上にいるはずの狐らしき動物の絵が描かれていなかった。否、描かれてはいたのであろう痕跡はあった。しかし、そこから無理矢理狐だけが抜き取られているような形になっていた。ぼんやりとではあるが狐のいたであろう場所には墨が滲んでいた。

「ここにいた管狐はねぇ、逃げてしまったのですよ、四年前にね。これらの絵巻は生きている。だから管狐は逃げ出した。くくく、妖怪とは実に面白い道具ですな」

 道具――その言葉に乃花は怒りに震えた。今すぐにでもこの男を排除したい。乃花は腰に差した朝凪に手を掛ける。だが、寸でのところで思い留まる。ここで有政を斬り捨てれば奥老院が穢れ、浅乃助や浅、橋具に迷惑が掛かる。それだけは避けなければならない。ぐっと堪え、乃花は平然を保とうとした。

「そ、うですか。その管狐という妖怪は、今どこにいるのでしょう?」
「……知りたいですか?」

 寒気がした。

「本当はもう、知っているんだろう? 白々しいなあ。ほら」

 有政は乃花の後ろを指さした。しかし彼女は後ろを見ることができない。動けない。まるで金縛りにあったみたいだった。

「今、あんたの後ろに来てるぜ」
「!」

 やっとのことで金縛りに似た重圧から逃れ、乃花はその場から離れて朝凪を抜いた。三十六番の巻物が庭に落ちた。乃花は後ろにいた人物に目を疑った。

「どうして……」
「どうしてって。あんた知ってただろ。あれが管狐だよ。人間に憑いた姿だけどな、あそこまで意識を食われちゃ、完全な妖怪になるのも時間の問題かもな」

 信じたくなかった。妖怪憑きだと聞かされたあの日から、何も起こらなかったはずなのに。目の前に今立っているのは紛れもなくあの日暴走した時の浅乃助であり、あの日よりも獣のように姿を変えていた。黒い靄が炎となって浅乃助の身を包んでいる。四肢を地に置き、口が開かれ、唾液が廊下を汚していく。これでは人間とは言い難く、乃花は思わず動揺した。

「兄上に何をしたんだ!」
「何もしてないさ。少なくとも今日はな」
「……今日は……?」
「差し詰め、私を殺しに来たと言ったところだろうな……っと!」
「グギャゥ!」

 有政は半分妖怪と化した浅乃助の顔面を一蹴し、浅乃助は乃花のいる庭に飛んだ。黒い炎が具現化している所為で花や草に炎が燃え移って散っていく。誰よりも、何よりも、浅乃助が大切にしていたものが、浅乃助の手によって壊されていく。

「グガアアアア!」
「おーい、管狐ぇ。それが主に対する態度かァ?」
「ヴゥ……!」

 乃花には目もくれず、浅乃助は有政に殺気を放ち続けている。浅乃助は完全に意識を飛ばしていた。土を握る手の力の入り方が、人のそれではなかった。

「……まったくさぁ。お前が望んだ道だろう。どうしてそんなに私に立てつくんだ。……ああ! そうか、お前、人に戻りたいのか!」

 そんなことは、彼は一言も言っていなかった。ただ管狐を排除するべく、絵巻を破壊しろと。けれど、もしも今彼に憑いている管狐の意識が、主である有政に対して抗いの意を発しているのであれば、相当この桔梗院有政という男に恨みを抱いているということが窺えた。

「人に戻ったところでお前が死ぬことに変わりはない。分からない訳じゃないだろう、浅乃助」

 違う。乃花はこの時、どうして浅乃助は自分ではなく、管狐の絵巻を切れと言ったのか。その理由が分かった気がした。人間として死にたいのだ。死ぬにも、人として最期を迎えたいのだ。その理由に辿り着いた時、乃花の中で何かがすとんと落ちた。

「…………コセェ……」
「ん?」
「絵巻ヲ……寄越セェ……有政ァ!」

 管狐だと思われる声が不自然にも浅乃助の口から発せられる。どうして管狐自身が絵巻を取り戻そうとしているのかは乃花にも分からなかった。が、これは好機だ。乃花は抜いた朝凪を、敵と判断した有政に向ける。

「困ったなあ。いや~、本当に」

 まるで困った様子など一寸も見せていない有政に吐き気がする。有政は羽織の内から一つ、妖百絵巻を取り出した。

「二十六番、百絵巻の一つ『みずち』。こいつの作り出す流水はお前の黒炎を消すことが出来る。まさに天敵! 全ての黒炎が消されれば、自動的にお前も……浅乃助も死ぬ」
「そんなことさせるものか!」
?」

 有政は浅乃助――もとい管狐――から目を一切話さず、乃花に対し威圧的に声を掛けた。しゅるしゅると蛟の巻物が開かれ、指を噛み血を巻物に付着させた。

「何をふざけたことを言ってるんだ妹殿! どうせ、浅乃助に私の悪名でも聞かされていたのだろうけど、くくく。管狐との契約は馬鹿げていたのになぁ」

 乃花は朝凪をぐっと握る。実態を持ち、現れた蛟が舌を巻きながら有政の体に巻き付いていく。すると、有政の周りの黒炎が見る見るうちに消えていった。

「『人に戻ることはできない。それでも化け物として生きることになっても、生きたいか』……。まさか、妖怪と手を組んでいるとは知らずにあの女、私を信じるものだから可笑しかったなあ」
「お浅様を侮辱するな!!」
「まあまあ、そう怒るな妹殿。利点もあるぞ? 管狐は憑いた人間に尽くす妖怪だ。憑かれても生きたいと願ったから今もまだ管狐は彼に憑いている。化け物になったとしても生きたいと願ったのは、あそこにいる化け物だ」

 そんな話、認めるわけがない。そう、思っていたのに……。認めざるを得ない事実に乃花の頬に一筋の雨が伝う。
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