15 / 24
第十五話
しおりを挟む
二人での演奏会当日、事件は起きた。
デュオ曲に選んだのは雫が好きな『パッサカリア』。二重奏で奏でるこの曲は私たちにぴったりだと思っていた。曲も中盤に差し掛かった頃、曲が止まったような気がした。
……え、と思わず隣で佇む雫を息を止めて見つめると、またあの悲しい顔をして「ごめんね、茜」と呟いた。私にだけ聞こえるくらいの、か細い声で。
「僕は、僕のために。僕が生きるために、演奏する」
その瞬間、雫の目に光が宿った。
この時、私はやっとあの日の違和感の正体に気付いたんだ。
これは、お母さんへの復讐なんだと。
その後の演奏会はグダグダと進み、それはもう酷いものだった。終わったあと、私は顔から熱が冷めていくのが分かった。そこにいるはずなのに、そこにはいない。雫が遠い。
楽屋に戻ると、雫は何事も無かったような顔をしてヴァイオリンをケースに仕舞っていた。私はゆっくり近付き、声を掛けた。きっと、その時の声は震えていただろう。
「どうして? どうして曲を途中で変えたの雫! お母さん、凄く……怒ってた」
「別にいいじゃない」
どうして雫がこんなにもお母さんに反抗するのか。その理由はなんとなく分かっていた。過剰なまでの愛とも言うべきだろうか。お母さんが雫に取る態度はいつも過ぎていた。私にもそこそこ過剰だったと言えるが、雫の方が出来るからか当たりが強かった。別の理由があると雫は言っていたけれど、その理由を教えてはくれなかった。
「反抗したい気持ちは分かるけど、でもそれは今日じゃないでしょ?」
「……茜まで僕を否定するの?」
「否定だなんて、そんな……。そうじゃない、でも! 雫は私と違って全部持ってるじゃない……」
初めて、こんなことを言った気がする。どこかで雫に嫉妬していたことを。心の奥底に眠っていた気持ちを吐き出してしまった。ハッとして、俯いた顔を勢いよく上げ雫を見た。雫は絶望した顔をして一歩、二歩と後ずさった。
「……茜がそれを言うの?」
「え……」
「僕に無いもの、全部持ってるくせに‼」
その心の叫びが、スイッチだった。
雫が叫んだのと同時に、楽屋のドアが勢いよく開けられる。開けたのは、お母さんだった。
「――雫!」
その勢いに、これは止めなければと思った。「お母さん!」と必死に手を伸ばしたが、それはあと一歩のところで届かなかった。お母さんは容赦なく雫の頬を叩いた。
「痛っ……」
雫の頬が赤くなっている。私まで痛くなる。
「誰があんな演奏をしろと言ったの?」
「誰も言ってないよ。僕が勝手にしただけ」
何が気に食わなかったのかお母さんはもう一度雫の頬を叩いた。
「その汚い一人称を直しなさい雫。ここは家の中ではない」
「……わたしが、勝手に曲を変更しました」
「どうしてそんなことをしたの」
「……どうして? 私は、自由に演奏しただけ。理由なんて無い」
「なんですって? デュオは個人競技じゃないのよ⁉」
「やめてよ、お母さん‼」
二人の争う姿なんて見たくなかった。だから、どうにかして止めようと仲裁に入る。
「茜……?」
「ね? もうやめよ?」
「茜、今日はびっくりしたわよね? 大丈夫だった?」
先ほどまでの怒りの矛先はどこへと消えたのか、お母さんは私の肩を撫でた。どうして私には優しくするのだろう。どうして雫には厳しくするのだろう。
「わ、私は大丈夫。だけど……」
私は雫を横目に見た。
「話は終わり? じゃあ帰るから」
「待ちなさい! 雫‼」
本当に帰ってしまった。どうやって帰るのだろう。いや、雫のことだから自力でどうにかしてしまうはずだ――実際どうにかしていた――。
この時、雫が何故私に「全部持ってるくせに」と八つ当たりしたのか、分かった気がした。
この日から雫はよく家出をするようになった。行き先は郁さんの家だと分かっていたので私はあまり心配はしていなかった。けれど、やはりお母さんも人の親。あんなことをしてしまったことをあの日からずっと悔いていた。思えばあの日から、壊れていたのかもしれない。愛ゆえの、暴力。才能を誰よりも大切にする人だったから、心を病んでしまった。
デュオ曲に選んだのは雫が好きな『パッサカリア』。二重奏で奏でるこの曲は私たちにぴったりだと思っていた。曲も中盤に差し掛かった頃、曲が止まったような気がした。
……え、と思わず隣で佇む雫を息を止めて見つめると、またあの悲しい顔をして「ごめんね、茜」と呟いた。私にだけ聞こえるくらいの、か細い声で。
「僕は、僕のために。僕が生きるために、演奏する」
その瞬間、雫の目に光が宿った。
この時、私はやっとあの日の違和感の正体に気付いたんだ。
これは、お母さんへの復讐なんだと。
その後の演奏会はグダグダと進み、それはもう酷いものだった。終わったあと、私は顔から熱が冷めていくのが分かった。そこにいるはずなのに、そこにはいない。雫が遠い。
楽屋に戻ると、雫は何事も無かったような顔をしてヴァイオリンをケースに仕舞っていた。私はゆっくり近付き、声を掛けた。きっと、その時の声は震えていただろう。
「どうして? どうして曲を途中で変えたの雫! お母さん、凄く……怒ってた」
「別にいいじゃない」
どうして雫がこんなにもお母さんに反抗するのか。その理由はなんとなく分かっていた。過剰なまでの愛とも言うべきだろうか。お母さんが雫に取る態度はいつも過ぎていた。私にもそこそこ過剰だったと言えるが、雫の方が出来るからか当たりが強かった。別の理由があると雫は言っていたけれど、その理由を教えてはくれなかった。
「反抗したい気持ちは分かるけど、でもそれは今日じゃないでしょ?」
「……茜まで僕を否定するの?」
「否定だなんて、そんな……。そうじゃない、でも! 雫は私と違って全部持ってるじゃない……」
初めて、こんなことを言った気がする。どこかで雫に嫉妬していたことを。心の奥底に眠っていた気持ちを吐き出してしまった。ハッとして、俯いた顔を勢いよく上げ雫を見た。雫は絶望した顔をして一歩、二歩と後ずさった。
「……茜がそれを言うの?」
「え……」
「僕に無いもの、全部持ってるくせに‼」
その心の叫びが、スイッチだった。
雫が叫んだのと同時に、楽屋のドアが勢いよく開けられる。開けたのは、お母さんだった。
「――雫!」
その勢いに、これは止めなければと思った。「お母さん!」と必死に手を伸ばしたが、それはあと一歩のところで届かなかった。お母さんは容赦なく雫の頬を叩いた。
「痛っ……」
雫の頬が赤くなっている。私まで痛くなる。
「誰があんな演奏をしろと言ったの?」
「誰も言ってないよ。僕が勝手にしただけ」
何が気に食わなかったのかお母さんはもう一度雫の頬を叩いた。
「その汚い一人称を直しなさい雫。ここは家の中ではない」
「……わたしが、勝手に曲を変更しました」
「どうしてそんなことをしたの」
「……どうして? 私は、自由に演奏しただけ。理由なんて無い」
「なんですって? デュオは個人競技じゃないのよ⁉」
「やめてよ、お母さん‼」
二人の争う姿なんて見たくなかった。だから、どうにかして止めようと仲裁に入る。
「茜……?」
「ね? もうやめよ?」
「茜、今日はびっくりしたわよね? 大丈夫だった?」
先ほどまでの怒りの矛先はどこへと消えたのか、お母さんは私の肩を撫でた。どうして私には優しくするのだろう。どうして雫には厳しくするのだろう。
「わ、私は大丈夫。だけど……」
私は雫を横目に見た。
「話は終わり? じゃあ帰るから」
「待ちなさい! 雫‼」
本当に帰ってしまった。どうやって帰るのだろう。いや、雫のことだから自力でどうにかしてしまうはずだ――実際どうにかしていた――。
この時、雫が何故私に「全部持ってるくせに」と八つ当たりしたのか、分かった気がした。
この日から雫はよく家出をするようになった。行き先は郁さんの家だと分かっていたので私はあまり心配はしていなかった。けれど、やはりお母さんも人の親。あんなことをしてしまったことをあの日からずっと悔いていた。思えばあの日から、壊れていたのかもしれない。愛ゆえの、暴力。才能を誰よりも大切にする人だったから、心を病んでしまった。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
0
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる