死せる乙女のラブレター

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死せる乙女のラブレター

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 アレクサンドラ・ジェッテ・ブランシェス侯爵令嬢、通称レディ・アレクサンドラは、今日も侯爵家の有する美しく広大な庭園の一角にある、家族しか入る事を許されないプライベートエリアでお茶の時間を楽しんでいた。

「あら、このクッキーなかなか美味しいわね」

 アレクサンドラがパチリと目を瞬かせると、向かいにいた全身黒を纏った青年がパッと顔を上げてテーブルに身を乗り出す。

「どれどれ? 俺も食べたい」
「ほら、これよ」
「うわ何これうまーい!」

 嬉しそうにクッキーを咀嚼している青年は、光に透けると濡れたアメジストのように見える紫がかった黒髪と鮮やかな金の瞳をしていて、そして──背中に蝙蝠に似た大きな羽をゆったりと羽ばたかせながら宙に浮かんでいた。
 そう、浮かんでいた。何に支えられることもなく、ゆらゆらと宙を揺蕩っているのだ。
 そんな青年に驚く様子も見せず、アレクサンドラは優雅に紅茶を楽しんでいる。

「いつも思うけれど悪魔って魂以外も食べるのね」
「悪魔に対する偏見だぞ、それ」

 クッキーやカップケーキを美味しそうに平らげる悪魔と、平然とお茶を楽しむ侯爵令嬢。
 彼女が何故悪魔と茶飲み友達になっているのか。
 それはほんの些細なきっかけであった。

──古に剣と魔法の力によって創られたという大国で、類稀なる美貌と王家にも匹敵する権力と財産を有する侯爵家令嬢として生まれたアレクサンドラは退屈な日々にうんざりしていた。

 ほんの二ヶ月ほど前に自身が巻き込まれた婚約破棄騒動において、事前に入手していた情報をもとに相手側をコテンパンにやっつけて、その憐れな様をご覧なさいと高笑いしてスッキリしたまでは良かったのだが、その時に情け容赦無くコテンパンにし過ぎて社交界でほんのりと孤立してしまったのだ。
 元々はあちらがアレクサンドラを陥れようと仕掛けて来た婚約破棄であるというのに、終わってみれば何故か自分は冷酷無比かつ極悪非道の悪役令嬢呼ばわりである。
 全くもって納得がいかない。
 相手の有責で婚約を破棄したら、それまで婚約していた相手より良い条件の相手が颯爽と現れて、新たな婚約者と幸せな日々が!だなんて所詮は御伽噺でしかないのだ。
 現実にはアレクサンドラのもとに残ったものは虚無と婚約破棄の事実だけ。

 そういう訳で、社交活動も殆どせず暇を持て余したアレクサンドラが気分転換にと図書室を訪れると、一番奥まった廊下の突き当たりに設置された本棚、その向こうに何やら小部屋のようなものが隠されているのを偶然見つけたのである。
 埃っぽいその部屋には、やたら分厚くて古そうな本が沢山積まれていて、どの本も外国語や古代語で書かれていた。
 隠されているくらいなのだから、きっと禁書の類なのだろう。
 その中から、いかにも魔術書という本を見付けて興味本位で紐解くと、一瞬目の前に紫色の雷が走った。

「きゃっ!」

 驚いてアレクサンドラは持っていた本を取り落としたが、不思議な事に本は床には落ちずふわりとアレクサンドラの目の高さまで浮いて宙を漂った。
 本能的にこれはまずいと思ったが、その時には既に本は開かれ、床に出現した怪しい光を放つ魔法陣から何かが現れるところだった。



──そして。
 アレクサンドラは現在、魔法陣から現れた自称・上級悪魔とこうして茶飲み友達になっているという訳である。
 どうやら本に封じられていたようだが、寝ていた時間が長過ぎたのか寝惚けてなんともぽやぽやしていたので見かねて少々助けてやったら懐かれてしまったのだ。
 別に他に友人がいなくて仕方なく悪魔とお茶会をしている訳では、ない訳でもないが、そこはまだ認めたくない乙女心である。

「そう言えばさァ、さっきそこで聞いたんだけど、何とかって名前の貴族の息子が、恋人の後追い自殺したんだって?」

 そんな悪魔が天気の話のような気軽さで持ち出したのは、さくさくと軽い食感のクッキーとは対照的に、鉛のようにずどんと重い話題である。
 しかしアレクサンドラは、そのあまりにも不謹慎な世間話ですら大して気にもせず、そんな話もあったわねと紅茶のカップを持ち上げた。
 だって今のアレクサンドラには、そんな他愛もない世間話をする相手すらもいないのだ。

「あぁ、アルタウス伯爵のところのユミールの件ね。子供の頃以来顔を合わせてないけれど一応縁戚だわ」
「え、そうなの。何だっけ、『生者の世界で共に在れないのならば、死者の国でアイリスに永遠を誓おう』だっけ。そんな遺書が発見されたって噂になってたぜ」
「遺書の中身まで噂になるだなんて、これだから貴族界というのは嫌なのよ」

 ともすれば晩餐のメニューまで筒抜けになるのが貴族界だ。
 壁に耳でもついているのかとすら思ってしまう。
 アルタウス伯爵令息の事件は貴族の間のみならず、平民の間でも話題になっているらしいという事はアレクサンドラも耳にしていた。

「でも彼、一命を取り留めたと聞いたわ。まだ意識は戻らないようだけど、今はアルシェ子爵家が騒いでいるから、いっその事もうしばらく眠ったままの方が良いのではないかしら」
「アルシェ子爵家?」
「彼が後追いしたという、自殺した令嬢の家よ」

 何でも、アルシェ子爵令嬢モニカはユミールと恋仲であったが、ユミールには親の決めた婚約者候補がいた為、二人の仲は誰にも明かされていなかった。
 そしていよいよユミールの婚約が成立するという時期に、モニカは『死者の国で一緒になりましょう。先に行ってお待ちしています』と遺書を残してバルコニーから飛び降りた。即死だったという。
 その遺書を発端にして、彼女の部屋からはユミールとの関係性を裏付けるような日記をはじめ、彼からの贈り物と思われるアクセサリーや本などが次々と見つかったらしい。
 その直後にユミールもまた遺書を書いて服毒自殺を図った。
 そんな話が平民にまで届いてしまうだなんて、アレクサンドラにはもはや当事者への冒涜のような気がするのだが、皆は興味津々にその話を聞いて喜んでいるのだ。
 皆、色恋に関する話が好きで、それが悲恋ならばもっと好ましいのだろう。
 その内に脚色されて恋愛小説や大衆演劇になりかねない。倫理観がまるで欠けていて実に頭の痛い事である。
 顔を顰めたアレクサンドラとは対照的に、悪魔はぽりぽりとクッキーを齧りながら、小鳥でも愛でるような眼差しで微笑んだ。

「あぁ、お前のところの息子のせいでうちの娘が死んだーって騒いでる訳ね。あはは、死人より生きてる人間の方が何倍も怖いのは昔から変わんねぇなぁ。俺、人間のそういうとこ好き」

 顔だけはひどく整っているのでそうして笑っていると宗教画の天使のようだが、実際のところ正真正銘の悪魔である。うっかり魂をとられないように気を引き締めねばならない。
 アレクサンドラは紅茶を一口飲んでからもう一度溜め息を吐き、そして小さくそういえばと呟いた。

「……でも、彼がよりにもよってあのアルシェ子爵令嬢の後を追うなんてね」
「何か不満があるのか?」
「不満というか、疑問があるわ」
「疑問」

 きょとんとした顔の悪魔に、アレクサンドラは遠い目をして記憶を辿った。

「アルシェ子爵令嬢は……」
「令嬢は?」

 アレクサンドラの脳裏を過ぎるのは、過去の茶会や夜会の光景だった。
 社交界で彼女と顔を合わせた事は一度や二度ではない。勿論言葉を交わしたことだってある。
 それらを思い出しながら、アレクサンドラは万感の思いを込めて口を開いた。

「……もう本っっっっっ当に陰険で、そう、執着心が強くて嫉妬深くていつでもどこでも自分が一番だと思っているタイプの……一言で表すのならば『性格の悪い令嬢』なのよ」
「結局のところ不満じゃねぇか。もしかしなくても、お前、その令嬢の事大嫌いだったろ」
「あの令嬢を好いている人間の方が少ないわよ! だから不思議なの。ユミールったら趣味悪いのね、って……」

 アレクサンドラはブランシェス侯爵令嬢であるので、当然国内で開催される夜会の殆どでは王族が参加しない限り最上位の貴族女性としての扱いを受ける事になる。
 けれどアルシェ子爵令嬢はそんなアレクサンドラに嫉妬し、子爵家の人間であるというのに侯爵家のアクレサンドラに度々張り合って来て、時には嫌味も言ってきた。
 全て返り討ちにしてやったが、面倒だしいつもうんざりしたものだ。
 そんな自尊心の塊のような令嬢が、愛する恋人と結ばれないのならと自ら命を絶った事にも疑問を感じるし、ユミールがそのアルシェ子爵令嬢を追って自殺(未遂に終わったが)に及んだ事も疑問だ。
 アレクサンドラの印象ではアルシェ子爵令嬢はそのようなしおらしい女性ではない。

「でもアルシェ子爵令嬢の部屋からはアルタウス伯爵令息が贈ったっていう、アイリスの花をモチーフにしたアクセサリーなんかが見つかってるし、二人の遺書の内容も対になってたろ。蓼食う虫も好き好きっていうくらいだ。そのユミールにとっては大切な恋人だったんじゃねぇの?」
「そう、なのかしらね……」

 見つかった遺書はアルシェ子爵令嬢が『死者の国で一緒になりましょう』というもので、アルタウス伯爵子息が『死者の国でアイリスに永遠を誓いたい』という内容だった。
 自分以外と結ばれるユミールを見たくないと、彼の婚約が成立する前に命を絶つというのはアルシェ子爵令嬢の心情を慮れば当然の帰結のように思えるし、愛しい恋人が命を絶ってしまった事で彼女を追って自分も命を絶とうとしたユミールの行動も筋が通っている。
 けれどアレクサンドラはどこか気に食わなかった。

 アレクサンドラの記憶するユミールは、乗馬や狩りよりも読書や花を愛でる事を好む穏やかな気質の少年だった。
 むしろ乗馬なんて怖い、狐を追い掛けるなんて狐が可哀想だと、他の貴族の子息に聞かれでもしたら腰抜け呼ばわりは避けられないような、気の弱いところのある少年であったのだ。
 それが成長したからとはいえ、あの苛烈とすら言えるモニカに入れ込むなんて事があるのだろうか。
 性格が違うからこそうまくいくこともあるだろうが、この二人に関しては性格の不一致が過ぎる。
 他者の不幸をお茶会のクッキー程度にしか感じないモニカを、あのユミールが後追い自殺する程に深く愛するだなんて信じられない。

「やっぱり疑問だわ」
「どこが」
「アルシェ子爵令嬢は絶対にユミールの好みではないわ。何だか考えれば考える程モヤモヤするのよ」
「……じゃあ納得するまで調べてみれば良いじゃないか。情報は俺が集めてきてやるよ」

 にやりと笑う悪魔に、アレクサンドラは少々の迷いを感じながらも幾つか調べてほしい事があると伝えたのだった。



 それから一週間が経過して、アレクサンドラはいつものように侯爵家のプライベートな庭園で悪魔とお茶会をしていた。
 まだユミールは目覚めてはおらず、アルタウス伯爵家とアルシェ子爵家は今回の事件について互いに互いを責め合っている。

「お願いしたものは揃ったの?」
「あぁ、勿論」

 悪魔がふよふよと宙に浮きながら右手の人差し指をくるりと回すと、テーブルの上には二冊の本と手紙が現れた。
 それらはアレクサンドラが悪魔に集めてくるように頼んだ二人の日記と遺書であった。
 アレクサンドラはまず真っ赤な表紙の日記を手に取った。派手な装丁からしてアルシェ子爵令嬢の日記だろう。
 ペラペラとページを捲って中身を斜め読みしていく。
 他人への愚痴や茶会で一緒になった令嬢の悪口が多くて、実にアルシェ子爵令嬢らしい。
 その中に時々混じるユミールへの想いを綴った文章はいっそ異質ですらあった。

『今日はさる伯爵家のガーデンパーティーに参加した。同じくパーティーに参加されていたユミール様が私に微笑んで下さった。お互いに社交活動が忙しくてなかなかお会いする事が出来なかったから、きっと彼も私の姿を見る事が出来て嬉しかったのだと思う』
『ユミール様の一番お好きなアイリスの花のブローチ。これは愛の証。アイリスの花はあの方の愛そのものだもの』
『ユミール様がご自身の婚約について悩んでおられる。私も辛い。だって私という恋人がいるのに別の令嬢と婚約しなければならないのだもの』
『私は永遠がほしい。あの方との永遠が』

 日記は令嬢がバルコニーから飛び降りる前日まで書かれていた。
 アレクサンドラは僅かに眉を寄せて最期のページに目を通す。

『ついにあの日がやってくる。
 私の愛するユミール様はきっと約束を果たされるだろう。
 私は死者の国であの方との永遠を手に入れる。
 だってもう、それしか方法がないんだもの……』

 そして最後まで読み終えると今度はユミールの日記も同じように確認した。
 ユミールの日記は社交活動で会った人物の名前と印象、会話の内容など、どちらかといえば日記というより日誌のようだった。
 けれどこちらも時折自身の抱える愛について書かれていた。

『何をしていてもふと彼女の笑顔が過ぎる。愛しのアイリス。早く君に会いたい』
『彼女の為にアイリスを植えた。彼女は喜んでくれるだろうか』
『引き出しの中に渡しそびれたプレゼントを見つけた。もう長い事会えていないからかその存在を忘れていた。そんな自分が恐ろしかった。愛する彼女を忘れるだなんてあってはならないのに』

 そして日記には次第に父親から告げられた婚約についての記述が目立つようになった。

『婚約はしたくない。けれど父上はそれを解っては下さらない。私は私の愛に嘘などつけない』
『この婚約は誰も幸せにならない。婚約相手にも不誠実だ。私の愛は別に在る』
『最期に、君にアイリスの花束を贈ろう』
『私は彼女との約束を果たす。彼女と、死者の国で永遠を手に入れるのだ』

 ぱたんと音を立てて日記を閉じると、アレクサンドラは深く深く息を吐いた。
 そして眉根を寄せたまま続けて遺書を確認し、おおよその内容が噂通りである事を確かめる。
 全てを終えたアレクサンドラは、彼女にしては珍しく椅子の背もたれに身を預けてくたりと身体の力を抜いた。

「どうだ。納得のいく答えは出たか」
「……そうね、一見すれば噂通り二人は恋仲で、結ばれない未来を嘆いて自殺したのだと思うでしょうね」
「とするとお前の見解は違うのか」

 興味津々といった表情でアレクサンドラの顔を覗き込む悪魔から鬱陶しそうに顔を背け、頭痛でも感じているのか指先でこめかみを揉みほぐしながら彼女は言った。

「証拠は二人が恋仲であると示しているけれど、まだ違和感が残るわ。どうして私はこの事件がこんなにも気になるのかしら」
「もしかしてお前もユミールに懸想してたとか?」
「子供の頃以来会ってもいないのよ。そんな事ある訳ないでしょう」

 背もたれに体重を預けたまま目を閉じて、アレクサンドラは両目をマッサージする。
 何だか酷く疲れた気分だった。

(そうよ。ユミールとは子供の頃以来会ってない。だから大人になったユミールが何かの切っ掛けでモニカに好意を抱く事はないとは言えないわ。でも彼の好みは清楚で大人しいタイプだし……)

 しかし、そこでアレクサンドラはふと思った。

(あら? そういえば、どうして親戚なのに私は子供の頃以来ずっと彼と顔を合わせなかったのかしら。最後にあったのはいつだった……?)

 そしてアレクサンドラはカッと目を見開いて身体を起こした。

「……アイリス!」

 突然そう叫んだアレクサンドラに悪魔がぎょっとして声を掛ける。

「え、何、怖……。え、ほんとに何?」
「ねぇ! 追加で確認してきてほしい事があるのだけれど」
「何々? 俺は何を確認すればいい」

 アレクサンドラからの指示を聞いた悪魔はそんな事かと鼻で笑った。

「そんなのお安い御用だぜ。待ってな。すぐ確認してくる」

 そう言って庭園から飛び立った悪魔を見送ったアレクサンドラのもとに、ユミールが目を覚ましたという報せが飛び込んできたのは、それから程なくしてからの事だった。
 然程時間をおかず悪魔もすぐに戻って来る。

「言われた件、確認してきた。その時にちらっと聞いたんだけど、あいつ目を覚ましたんだってな。アルシェ子爵が伯爵家に突撃したらしくて、なんかすげぇ騒ぎになってたぜ!」
「ユミールの件ならさっき聞いたわ。でもアルシェ子爵がそんな事をしただなんて話は聞いていないわよ。子爵家の分際で伯爵家に乗り込むだなんて……。それで? 例の件は?」
「あぁ、それなら……」

 悪魔に調べさせた件の報告を庭園で聞いたアレクサンドラは、一気に苦虫を噛み潰したような顔になった。
 ユミールが目覚めた今、アルシェ子爵家はアルタウス伯爵家に娘・モニカを誑かして死に至らしめたと賠償を迫る事は必至であった。
 アルタウス伯爵家も全力で抗議するだろうが、いかんせん証拠の品が多過ぎる。
 ユミールが生きている以上、このままでは伯爵家が示談金として金銭を渡す事になるだろう。
 アレクサンドラは重苦しい溜め息を吐いて、呆れたようにゆるりと首を振った。

「……よくやるものだわ」
「よくやるって何のことだ」
「失礼。その前に少し良いかしら」

 重ねて問い掛ける悪魔を手で制し、アレクサンドラは優雅に席から立ち上がるとすうと大きく息を吸い込んだ。
 そして。

「あの女! やっぱり陰険で嫌な女だわ!!」

 と、思い切り叫んだのだった。



 アレクサンドラが胸の内をすっかり叫び切った後、二人は改めて庭園で向かい合っていた。
 陽射しは少し傾いたが夕方には遠い。
 庭園はまだ明るく、初夏の訪れを感じさせる鮮やかな緑が美しかった。

「……えぇと、説明して貰っていいか?」

 悪魔も悪魔で一応彼なりに多少気を遣ったのか、宙に浮かず羽を畳んで神妙な面持ちできちんと椅子に座っている。
 変なところで律儀な悪魔だなと思いながら、アレクサンドラは小さく頷いて了承を示した。

「まず、アルシェ子爵令嬢の自殺とアルタウス伯爵子息の自殺。これはね、私の見立てでは全くの無関係よ」
「は!?」

 その言葉に悪魔が声を上げて目を丸くする。

「でも遺書だってあったし、贈り物や日記だって……」
「そう、それよ。そこがもう本当に陰険で陰湿でとても気持ちが悪いところなのだけれど、結論から言えば二人は恋仲ではないわ」
「何だって!?」

 驚いた顔の悪魔に対して、アレクサンドラはふんと鼻を鳴らして腕組みをした。

「とにかく、その話は後でしましょう。私達も行くわよ」
「行くって、まさかアルタウス伯爵家か?」
「そうよ。あの女の思い通りにさせてなるものですか!」

 立ち上がったアレクサンドラを追って慌てて悪魔も椅子から立ち上がる。
 そうして二人は侯爵家の馬車でアルタウス伯爵家に乗り付けて、アポが無いにもかかわらず強引にその門を開かせたのだった。



「──ご機嫌よう!」

 従者の姿を装った悪魔を伴ってアレクサンドラが勢い良く応接室のドアを開けると、そこでは今まさにアルタウス伯爵とアルシェ子爵が、お互いに胸倉を掴み合う一歩手前であった。
 突然のアレクサンドラの登場にアルタウス伯爵がギョッとして声を上げた。

「ブランシェス侯爵令嬢!? どうして此処に……」
「ご挨拶もなしにごめん遊ばせ。必要だと思ったから馳せ参じましたのよ、おじ様」
「何が必要だと言うのだ! 侯爵令嬢といえど今はただの部外者だろう! 部外者は出ていって貰おう!」

 続けて捲し立てたのはアルシェ子爵で、相手が侯爵家の人間であるというのにこうも高慢な態度に出られるだなんてとアレクサンドラは心から呆れ、そして蔑みを含んだ冷たい視線をアルシェ子爵に返した。

「部外者? 部外者というのならそちらの方では? 部外者は出て行けと主張されるのでしたら、さっさとお帰り願おうかしら」
「何を訳のわからない事を……!」
「まぁ、しらをきるおつもり? では申し上げますけれど、アルシェ子爵令嬢とアルタウス伯爵令息には何の関係もございませんのよ。勝手に押し掛けて来てあれこれと捲し立てるだなんて、的外れも良いところですわ」
「何……? ブランシェス侯爵令嬢、それは一体どういう事だね」

 アルタウス伯爵はアレクサンドラの言葉に反応を示して説明を求めて問い掛けたが、アルシェ子爵はがなり立てるばかりだった。

「小娘の言うことなどに、どれだけの価値があるというのだ! 私は娘を失っているのだぞ!」

 けれどアレクサンドラを小娘と称したアルシェ子爵の言動に不快を表したのが悪魔だった。

「──黙れ、豚」

 金の瞳でアルシェ子爵を睨みつけ、地の底を這うような冷たい声で悪魔が吐き捨てる。
 人ではないモノの異質な雰囲気を感じ取ったのか流石のアルシェ子爵もびくりと肩を跳ねさせてソファの上で身体を縮こめた。
 ようやくアルシェ子爵が大人しくなったので、アレクサンドラはこほんと咳払いをしてから口を開いた。

「今回の件、アルタウス伯爵令息の自殺未遂事件があったからこそアルシェ子爵令嬢が自殺したのです。事件の順番がそもそも異なるのです」
「どういう事だ。現に私の娘の方が先に死んだではないか」
「そうだ。遺書もあるのだし、私の息子の自殺未遂が先であるというのなら、時系列がおかしいのでは?」

 怪訝な顔の伯爵らの問いに、ふるりとアレクサンドラが首を振って否を返す。

「いいえ。この事件、一見すると結ばれない運命を悲観したアルシェ子爵令嬢が自殺し、アルタウス伯爵令息がその後を追ったとされていますが、この二人は恋人関係ではありません。そしてアルシェ子爵令嬢がアルタウス伯爵令息より先に自殺した事についても簡単に説明がつきます。……だって、アルタウス伯爵令息が自殺する日は、もう何年も前から決まっていたのですから」

 アルタウス伯爵とアルシェ子爵が目を見開き、何か言おうとするのを遮ってアレクサンドラは続けた。

「アルタウス伯爵令息の『アイリスの君』はアルシェ子爵令嬢ではなく……五年前に病で亡くなったシャリエール伯爵令嬢、シエル・シャリエールの事です」

 その言葉に否を唱えたのは当然ながらアルシェ子爵だった。
 ソファから立ち上がり、アレクサンドラに詰め寄りそうな勢いで叫ぶ。

「そんなはずはない! うちの娘の日記には確かにアルタウス伯爵令息と恋仲であると書いてあった! それに部屋に贈り物もあったのだ。でたらめを言うと侯爵家の人間といえど容赦はせんぞ!」
「あなたの娘の妄想日記と自分で買ったアクセサリーの事かしら? 全く、実の親だというのにあの日記の違和感にもお気付きにならないなんてね」
「な……っ」

 毅然とした態度で言い返すアレクサンドラは、たじろぐアルシェ子爵にそのまま畳みかける勢いで言葉を続けた。

「あの日記は私も確認したけれど、二人の関係を匂わせる事は書いてあっても二人の出会いそのものについての記述が一切なかったわ。それにアイリスのブローチやら何やらの記述はあっても、それをいつどこで貰ったかも書かれていない。あれはアルシェ子爵令嬢がアルタウス伯爵令息から貰ったという『設定』で自分で購入した物よ。少し調べればそれらを用意した商人の調べもつくでしょう。きっと秘密裏に購入したのでしょうけどね。……大体、アクセサリーは彼女の死後に部屋から見つかっている。つまり彼女、自殺した際にそれらのアクセサリーを一つも身に付けていなかったの。自己顕示欲の塊みたいなあの女よ。本当にユミールから貰ったものならこれ見よがしに付けるに決まっている。それに、彼女の部屋には一番大切なものが無かった」
「大切なもの?」
「アイリスの花束よ」

 その言葉にアルタウス伯爵がハッと息を呑んだ。
 そして唇を震わせながら言った。

「ユミールが手ずから育てていたあのアイリスか……」
「えぇ。アルタウス伯爵令息……面倒だわ、ユミールで良いわね。ユミールの日記にはアイリスの花束を贈るとあったわ。アルタウス伯爵家の庭園のアイリスは見頃の花がごっそり切られていた。これはユミールの日記の記述通り、彼がアイリスを花束にして贈った事を示すわ。けれどモニカの部屋にそれはなかった。もし二人が恋仲であるのなら絶対にあるべきはずの花束がね」

 アレクサンドラが一気にそこまでを説明すると、ならばとアルシェ子爵が声を上げた。

「ならばそのアイリスの花束とやらは一体どこにあるというのだ」
「察しの悪い事。シエルの墓前に供えられているに決まっているじゃない」
「ちなみにそれを確認したのが俺な。伯爵家の墓っていうからそれなりに目立つところにあるかと思ったら、隅っこの、あるだけマシくらいの粗末な墓石だから見付けるの時間掛かったわ~」
「貴様、従僕の癖に生意気な口をききおって…。大体そのシエルとかいう娘の名前など聞いた事がない。シャリエール伯爵家の令嬢であれば私が知らぬはずも……」
「シエルはシャリエール伯爵の妾の娘で、本妻から疎まれて使用人同然の扱いを受けていたわ。デビュタントすらさせて貰えなかったし、病に罹ってもろくに看病もされなかった。公表されてないのだから知らなくても当然よ。私が彼女を知っているのは、私とユミールが伯爵家で行われたガーデンパーティーで偶然彼女と話をしたからよ」

 アレクサンドラがシエルと出会ったのは、まだ十歳の頃だった。
 夜会には出られないがデイ・パーティーは子供の参加が許されており、アレクサンドラは侯爵家の娘として早い時期から親に同行してそういった社交の場に参加していた。
 アルタウス伯爵家の男子であるユミールも男子の義務として社交の場に参加しており、歳の近い自分達は自然と話をするようになったのだった。
 そこで給仕の使用人として働いていたのがシエルだ。
 大人ばかりのパーティーに退屈していたアレクサンドラがユミールと一緒に庭園を散歩すると言って、その供として指名したのがシエルだった。

──シエルは美しい少女だった。
 日々の仕事で少々やつれ、指先は荒れていたけれど、淡い色の金髪と春の空のような穏やかさを湛える青い瞳が誰よりも美しかった。
 妾腹のシエルは正式に家門の人間として認められておらず、辛い境遇に耐えながらも真っ直ぐに生きていた。
 そんなシエルにユミールが恋心を抱くようになったのは、初めて出会ってから半年ほど経った頃だろうか。
 アレクサンドラは侯爵令嬢という立場上、彼女に会いに行く事も手紙を送る事も出来なかったが、ユミールは使用人に頼んでシエルと秘密裏に手紙の遣り取りをしていたらしい。
 だが、シエルは病に倒れ、手紙は途絶えた。
 アレクサンドラとユミールが何とかシャリエール伯爵邸の使用人から話を聞き出した時には、既にシエルはこの世を去った後だったのである。

(私は彼女を助けられなかった罪悪感から、次第にその記憶を胸の奥底にしまい込んでしまっていた。ユミールにも、君と会う度に僕はシエルが生きていたら君と同じ歳なのだと思ってしまうのだろうと言われて、そこから会わないようになったのだわ)

 シエルの享年は十二歳。あまりに早すぎる別れだった。
 そしてアレクサンドラもまた、十二歳という多感な時期に受けるにはあまりに大きな衝撃に、防衛本能が働いたのか記憶を封じ込めてしまっていたのだ。
 シエルが大好きだったアイリスの花。
 虹を意味する女神の名がついたその花は、空という意味の名前を授かったシエルに似合いの花だとユミールが言っていたのを、アレクサンドラは知っていたはずなのに、どうして今まで気付けなかったのか。
 アレクサンドラは不甲斐なさからキュッと唇を噛んだ。

「……アルシェ子爵令嬢がどのタイミングでシエルの事を知ったのかは知らないけれど、ユミールが自殺した日はシエルの十七歳の誕生日。ユミールは彼女と十七歳の誕生日に婚約を申し込むと約束していた。だから、彼は……」

 目を伏せたアレクサンドラは全てを言わなかったが、伯爵達にはそれで充分に伝わったらしい。
 応接間にはしばらく無言の時間が流れ、その沈黙を破ったのは悪魔だった。

「ふぅん。ユミールは五年越しでシエルの後を追ったって訳だな。でもモニカの方は? ユミールが自殺するからって、先に自殺して何の得があった?」
「それは……。彼女の日記にあった通りだと思うわ」

 もしかしたらモニカは以前にユミールに恋仲になるよう迫ったのかもしれない。
 そこでユミールから直接愛する者がいる事を聞かされ、モニカはそれが誰なのか突き止めた。彼女の執着心は人より強い。そのくらいはするだろう。
 そしてモニカはユミールの言動から、彼が昔に交わしたシエルとの婚約の約束を果たそうとしている事に気が付いた。
 シエルの十七歳の誕生日に婚約する約束をしていたのならば、ユミールがその日に命を絶とうとする事はモニカからすれば想像に難くない。
 だからモニカはそれを逆に利用しようとしたのだ。

「彼女の日記の最後のページにあったでしょう。死者の国で永遠を手に入れるって。実際のところ、私がこうして介入しなければ上手くいっていたでしょう? 世間はすっかり二人が恋仲だと思わされていたのだもの」

 ユミールの気持ちは何をどうしたところでシエルにあり、自分に向くことはない。
 でも自分が先に命を絶って、そのすぐ後で彼が自殺したならば?
 ユミールの好きな本も、詩も調べ尽くしてある。
 彼が書きそうな遺書は想像出来る。
 あとは世間の目を誘導する『何か』があれば良い。
 そうしてモニカはやってのけた。

「貴族の好みそうな言い回しと、彼の愛読書からそれらしい言葉を参考にして書き上げた遺書の効果は予想以上だった。皆、ユミールが彼女の後を追ったと思い込んだわ。こうしてモニカは死後、『アルタウス伯爵令息とアルシェ子爵令嬢は秘密の恋仲であった』という虚構を現実のものとしようとした。死人に口はないけれど、生きてる人間は好き勝手言うのだもの。それらしい物さえ残しておけばあとは勝手に想像を膨らませてくれる。あぁ、なんて陰険なのかしら!」
「え、じゃあそのモニカって、まさか……」

 悪魔がひくりと口元を引き攣らせたのを見て、アレクサンドラは溜め息を吐いた。
 彼女の実父が同席しているので遠慮したのかもしれない。
 けれど散々失礼な物言いをされたので、アレクサンドラはその遠慮をかなぐり捨てて言った。

「モニカはただのユミールのストーカーよ。自分と恋人だったと周りに思わせたくてあれこれ自分で用意して死んだだけ。そうね、例えバレたとしても、ユミールが死んでいたらモニカの愛に応えなかったユミールが悪いとか言い出す馬鹿も沸いたでしょうね」
「人間怖ぁ……」
「とことん周りに迷惑をかけていくその性根が気に入らないわ。……でも、きっと彼女は彼女なりに本気でユミールを愛していたのでしょう。本当に気に入らないけれど」
「そんな……」

 足元をよろめかせ、どさりと倒れ込むようにしてソファに身体を預けたアルシェ子爵は、呆然としたまましばらく口をぱくぱくさせるだけだった。

「私がもっと息子の話に耳を傾けていれば、こんな事には……」

 アルタウス伯爵も沈痛な面持ちでソファに腰を降ろして項垂れている。
 一気に重苦しい雰囲気になってしまった応接間の空気に、悪魔がげんなりした顔をした。その隣でアレクサンドラもやれやれと首を振る。

「アルシェ子爵におかれましては、この件、どう処理されるおつもりかしら」
「処理……?」
「モニカはユミールに懸想した挙句、彼との関係性をほのめかして死んだでしょう。それって伯爵家の評判にも関わってしまうのではないかしら」

 アレクサンドラの指摘にアルシェ子爵は顔を青褪めさせた。
 娘のモニカはユミールに誑かされて死を選んだのだと賠償金まで迫っていたが、蓋を開けてみればモニカがユミールとの関係性を騙っていただけだった。
 貴族間でこれからどのような噂が流れるのか、世間が自分の家門をどのような目で見るのか、そしてアルタウス伯爵家からどれだけの賠償金を請求されるのか。
 子爵はやはりぱくぱくと口を動かすだけで、何も答える事は出来なかった。

「お話にならないようね。おじ様。アルタウス伯爵家はどうなさるおつもりなの」
「……そうだな。この件、我が息子ユミールは自分の意志で行動したまで。他家に一切の責任も負わせるつもりはない」
「懸命な判断ですわね。私が証人となりますわ。アルシェ子爵はモニカの事件によってユミールに害が及ばないよう、アルタウス伯爵家に話をしに来ただけ、という事で手打ちに致しましょう」
「良いだろう。証書にまとめさせる」
「アルシェ子爵もそれでよろしいわね?」
「ああ、申し訳ない……」

 すっかり気を落とした様子のアルシェ子爵を見て、彼のことを娘の死で賠償金をせしめようとする守銭奴とばかり思っていたが、純粋に娘の死に戸惑い、他者に怒りを向ける事でやり過ごそうとしていたのかもしれないとアレクサンドラは思った。

「それから、遅くなりましたけれど……。アルシェ子爵令嬢のこと、心からお悔やみ申し上げますわ」

 そう言って頭を下げたアレクサンドラにアルシェ子爵は答えなかった。
 ただ、どこか寂しげな表情で目を伏せただけだった。
 けれどそんなアルシェ子爵にアレクサンドラも悪魔も何も言わなかった。
 人は何かとてつもなく大きなショックを受けた時、アレクサンドラのように記憶を封じ込めてしまったり、ユミールのようにずっと思い詰めてしまったり、そしてアルシェ子爵のように他者にぶつけてしまったりと、自分の心を守る為の方法は良くも悪くも三者三様なのだろう。

「私の話はこれでおしまいです。突然の訪問、大変失礼致しました。お暇の前にユミールを見舞ってもよろしいかしら」
「あぁ、短時間であれば構わないだろう」
「有り難う存じます。では、ご機嫌よう」

 来た時とは打って変わり、アレクサンドラはアルタウス伯爵とアルシェ子爵に丁寧なカーテシーをしてから部屋を辞した。
 部屋の外に控えていた家令にユミールの部屋までの案内を頼み、悪魔を伴って屋敷の廊下を進む。

「今更あいつに会って何話すんだよ」
「さぁ、何を話せば良いのかしら」

 悪魔に問われて苦笑する。
 アルシェ子爵令嬢の思惑に気がついて衝動的にアルタウス伯爵家に乗り込んでしまっただけで、アレクサンドラにはユミールと対面する心構えなど全く出来てはいなかった。
 会って、そしてあの時のようにもう会いたくないと言われたら?
 記憶の蓋を開けてしまったアレクサンドラは、あの日のユミールの目を思い出してしまっている。
 指先が氷のように冷たくなったあの日の記憶がじわりと滲み出してくるのを感じ、アレクサンドラは強く拳を握った。
 自分はもう子供ではない。きっとあの日とは違う答えを出せるはずだ。

(会いたくないと言われたら、だったら面倒を掛けるなと横っ面引っ叩いてやれば良いのだわ)

 アレクサンドラは真っ直ぐに顔を上げ、歩きながら深く呼吸する。
 そう、己はアレクサンドラ・ジェッテ・ブランシェス。
 例え幼馴染の前だとて、ブランシェス侯爵令嬢としてみっともない姿など見せる訳にはいかないのだ。
 後ろを歩く悪魔がアレクサンドラに何か言いたげな表情を浮かべていたが、終ぞ彼女が気付く事はなかった。



「──こちらで御座います」

 家令に案内されて到着した部屋は、先程まで医者や使用人がいたらしく、人の気配が残っている。
 家令がユミールにアレクサンドラの来訪を告げる為に先に入室したので、その間アレクサンドラは悪魔と共に何ともなしに廊下を見回していた。
 記憶の中のユミールの部屋は子供部屋だったが、今のユミールの部屋は大人が暮らす棟に移っており、先程ちらりと見えた部屋の内装も落ち着いた雰囲気のものだった。

「侯爵令嬢、こちらへどうぞ」

 ユミールから了承を得たらしい家令に部屋の中へと通され、アレクサンドラの胸は緊張から僅かに鼓動を早める。

「……お加減はいかが」
「ブランシェス侯爵令嬢、このような姿で申し訳ない」
「どうぞ昔のようにサンディと呼んで下さいな。私もユミールお兄様と呼びたいわ」
「その呼び方は懐かしいね、サンディ」

 ベッドの中で上体を起こしただけのユミールは、顔色こそまだ回復していなかったものの僅かに笑みを浮かべていた。
 その事にアレクサンドラも内心ほっとする。
 とりあえず案内してくれた家令に人払いを命じてアレクサンドラはそうねと微笑みを返した。

「えぇ。私がまだデビュタントを迎える前の事ですもの」
「……君が来てくれるだなんて、僕は大分迷惑を掛けてしまったようだね。シエルにも怒られるはずだ」
「え?」

 ユミールは服毒自殺を図ったと聞いている。
 まだ毒の影響で意識や記憶が曖昧になっているのだろうか。
 一瞬だけ怪訝そうに目を細めたアレクサンドラに気が付いて、ユミールは肩を竦めて苦笑した。

「夢にね、シエルが出て来たんだよ」
「シエルが?」
「あぁ、最後に会った姿のままでね。それで僕は夢の中で、シエルからそれはもうしこたま怒られて説教されたのさ」
「シエルは春の妖精みたいな見掛けの割に芯のある子だったわ。それで、何を怒られたの?」
「……逃げるな、と」

 ユミールは穏やかな表情でアレクサンドラを見詰めた。

「私を逃げる理由にするなと。現実に向き合えと怒られたよ。……でも僕には彼女のいない世界で生きていく理由が見つからない。僕にとってシエルは、世界で一番大切な女の子だったんだ……」

 言いながらユミールの頬を静かに涙が伝っていく。
 どうやら、彼の夢の中でシエルはユミールに生きてほしいと願ったらしい。
 けれどユミールの心は、もう生きる事から離れかけている。

(今この場で私に言える事なんて……)

 何を言っても薄っぺらい言葉にしかなりそうにないとアレクサンドラは無力な己に歯噛みした。
 励ましも叱咤も、彼には不要のものに思えたのだ。
 何も出来ない自分が急に心細くなって無意識に悪魔の方を振り返れば、悪魔はいつものように飄々とした顔でアレクサンドラに目を細めて見せた。
 全く、人がこんなに言葉に悩んでいるというのに能天気な顔をして。
 アレクサンドラは一瞬だけムッとしたが、背後でガタンと窓が鳴った事で反射的に意識がそちらに向いた。

「あら、ちゃんと閉まっていなかったのかしら」

 視線の先にはバルコニーへと続くガラスの扉があるが、そこがほんの少しだけ開いていてレースカーテンが揺れている。
 そろそろ日も暮れて空気も冷えて来るから、開けっ放しのままではユミールが寒いだろう。
 そう思ってアレクサンドラがそちらに近付いてみると、床に一輪のアイリスが置かれていることに気が付いた。近くに花瓶がある訳でもなく、あまりに不自然な位置である。
 お前の仕業かと悪魔に視線で問い掛けるも、俺は知らないと首を振るばかりだった。
 だったらこのアイリスはどこから?
 花を拾い上げてふと揺れるレースカーテンの方へと視線を向けたアレクサンドラは、そこに見えたものに目を見開いて身体を硬直させた。
 レースカーテン越しに見えたのは、あの当時の記憶のままの、使用人のお仕着せを着たシエルだった。
 カーテンの向こうで、淡い金の髪が傾き始めた陽光に照らされてキラキラと輝いている。
 思わず駆け寄ろうとしたアレクサンドラの耳に、懐かしいシエルの声が優しく響いた。

『──ちゃんとお別れを言えなくてごめんなさい。短い間だったけれど、私、サンディと友達になれて良かった。ありがとう。……さよなら』

 その言葉を聞くや否や、アレクサンドラは弾かれるようにしてレースのカーテンを捲ってバルコニーに出たが、そこには何の影も残ってはおらず、空の端が夜の色に変わっていくのが見えただけだった。

「……シエル……」

 がくりとその場に膝をつくと、手に持ったままだったアイリスの花がかさりと音を立てる。
 その花をじっと見詰め、アレクサンドラは目に滲んだ涙を行儀悪く手の甲で擦ってユミールのもとへと戻った。

「サンディ? 何かあったのかい」
「えぇ。少しね。……これをお兄様に」

 言いながら、先程拾ったアイリスをユミールに渡す。
 ユミールは受け取った花を見て驚いた様子でアレクサンドラを見た。

「これは」
「バルコニーの手前にあったわ。私が思うに、これはシエルからのメッセージよ」
「どうしてそう思うのか聞いても?」

 その言葉にアレクサンドラはくしゃりと泣きそうな顔で、それでも笑った。

「ユミールお兄様は、シエルの好きな花の花言葉もご存知ないのかしら?」
「すまない。そういうのは疎くて……」
「アイリスの花言葉は『メッセージ』よ。令嬢の間では恋のメッセージという意味でも使われるわ。それから『希望』だとか『信じる心』なんていうのもあるわね」

 アレクサンドラが告げた花言葉を、ユミールは何度も口の中で噛み締めるように繰り返していた。
 厳しい境遇を必死に耐えて生きてきたシエルがアイリスを好んだのは、アイリスの花言葉に励まされたからに違いない。
 いつだってシエルは希望を持ち、前を向いて精一杯生きていたから。

「シエルはね、ユミールお兄様を信じているのではないかしら。あなたは前を向いて未来に向かって進んでいけるって。だから逃げるなと怒ったのよ」
「でも、僕は……」
「忘れろとは言わないわ。でも、覚えている事と縛られる事はきっと違うの」
「……サンディは、シエルと同じ事を言うんだな……。シエルも縛られるなと言っていたんだ」

 いつしか二人の目からはぼろぼろと涙が溢れ、頬を濡らしていた。
 嗚咽混じりにユミールが呟く。

「……泣くのはこれで最後にするよ。だから、だから今だけは許してくれ」
「えぇ、えぇ、勿論よ」

 頷くアレクサンドラの目からも涙が止まる事はなかった。
 二人の零したそれは悲しくて、寂しくて、けれどどこか愛しい涙だった。



 同じ頃、アルタウス伯爵邸の一番高い屋根の上に悪魔はいた。
 辺りはすっかり夜に呑まれて屋敷から漏れる明かりだけが辺りを照らしていたが、その光は屋根の上までは届かない。
 夜の湿り気を帯びた冷たい風を頬に浴びながら、悪魔はほうと深く息を吐いて星空を見上げていた。

『あなた、サンディの側にいなくて良いの』

 ぽつりと軽やかな少女の声がして悪魔はついと視線を隣へ向けた。
 そこには使用人のお仕着せ姿の少女がちょこんと座っていて、悪魔をじっと見つめている。少女の爪先は銀色に透けて、まるで月夜に海を揺蕩うクラゲのようだった。
 悪魔はいいんだよと雑に返事をすると、自分もまた屋根に腰を降ろす。
 座ったままぐっと伸びをするのと同時に、この屋敷に来てからしまい込んでいた羽がばさりと広がり、呼吸をするように宙を打つ。

「今俺が側にいたら、あいつは変な見栄張って思い切り泣けないだろ」
『優しいのね』
「悪魔的配慮ってやつよ。俺、出来る悪魔だから」

 悪魔の言葉に少女、シエルはくつくつと楽しげに笑った。
 反対に悪魔は至極真面目な顔をしてシエルに問い掛ける。

「……行けそうか」
『えぇ。ずっとユミールから離れられなかったけれど、もう大丈夫』
「そうか。じゃあこれは俺からの餞別な」
『え?』

 勢いよく立ち上がった悪魔の手には一輪のアイリス。
 お前の墓から一本拝借してきたと笑う悪魔は、まるで魔法の杖を構えるかのようにシエルに向かってアイリスの花を振った。

『あっ!』

 すると一瞬にしてシエルの纏っていた着古したお仕着せはアイリス色のドレスに変わり、細い腕はシルクの長手袋に包まれる。
 鱗粉を塗したように動く度に輝くドレスに、シエルは頬を薔薇色に上気させて悪魔を見た。
 悪魔もふふんとイタズラっぽく笑って返す。

「女の子はとびきりめかし込んでデビュタントを迎えるもんだろ。大丈夫。死の国の女王はお前のように勤勉で真面目に生きてきた者に寛大だ。きっとお前に慈悲をお与え下さるだろうよ」
『あなたって本当に悪魔なの?』
「さぁ、どうだろうな」

 そろそろ行きな、と悪魔がシエルの手を取って空へと誘う。
 シエルは辿々しいカーテシーを悪魔に披露するとふわりと宙に浮かび、ドレスの裾を揺らしながら夜空の向こうへと旅立っていくのだった。





 アレクサンドラがアルタウス伯爵邸を訪れてから一ヶ月が経った。
 アルシェ子爵令嬢の自殺は、片思いの末、思い詰めての自殺というように修正されたし、アルタウス伯爵令息ユミールは少しずつ社交活動に復帰している。
 話によれば、彼は来月、当初の予定通りに婚約するらしい。
 婚約者候補となっている令嬢に婚約を断るつもりで全てを話したら、逆に気に入られて気持ちが落ち着くまで何年でも待つとまで言われたとか。
 相手が納得しているのならば断る理由もないので、とりあえず両家の取り決めとして婚約だけは進めておこうという事だろう。実に貴族らしい話である。
 そしてアルシェ子爵はあの一件の後、どんな心境の変化があったのか、馬車の事故で両親を失った男爵家の姉弟を養子として迎え入れ、今までよりもずっと慎ましやかに、けれど穏やかに暮らしていると聞いている。
 最後に、余計なお世話かとも思ったが、シャリエール伯爵にゴリ押ししてシエルの墓を建て直させて貰った。
 粗末な石が置いてあっただけの墓は立派な墓石に取り替え、そこには腕利きの職人によって美しいアイリスを彫り込んだ。
 全てが、少しずつ変わり始めていた。

──しかし、侯爵令嬢アレクサンドラ・ジェッテ・ブランシェスは今日も今日とても暇を持て余し、侯爵家の庭園でぼっち茶会を満喫していた。

「もう! もう! どうして私だけ全く環境が変わらないのよ!」
「えぇ~、社交活動とか面倒だし別に良くない?」
「あのねぇ、あなたのようなただの悪魔と違ってこちらは由緒正しき侯爵家の娘なのよ。そりゃあお母様とお茶会や夜会に出席してはいるけれど、いつもいつも令嬢達に遠巻きにされていたら流石に気まずく思うでしょう!」
「そりゃあお前怒らせたら怖いんだもん。遠巻きにもなるだろ」
「私は腹を空かせた猛獣ではなくてよ!」

 真昼の明るい空の下にアレクサンドラの抗議の声と悪魔の笑い声が響く。
 侯爵令嬢と悪魔の二人きりの優雅で愉快なお茶会は、まだしばらく継続されるようだった。
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