35 / 36
番外編
誓い―四―
しおりを挟むそんなある日、義久の元に急ぎの報せが入った。
「南方に不穏な動き有り!殿!戦で御座ります!」
今まさに笹野へ向かおうとしていた義久は、小さく息を飲むと、側に控えていた秀之に目を向ける。
「…秀之、戦の用意を。これより南方へ向かう」
「はっ」
秀之は迷いなく太刀を掴み、退出した。
「…皆に告げよ。何人たりともこの国を侵すことはできぬ、と」
葵へ贈ろうと用意した花霞の扇子を、机の上に置く。
代わりに、幼い体には不釣り合いなほど凶悪な大太刀を、腰に刷いた。
「…行くぞ。付いて来い」
伝令の男は、背筋に冷たい汗が伝うのを感じ、震えを押し留めるために、何度も生唾を飲み込んだ。
――――……
義久が戦さ場で恐れられる理由は二つある。
一つ目は、その圧倒的強さ。
そして二つ目は、幼子とは思えぬその非情さにあった。
「言え。何故この地に攻め入った」
大将首に刀を沿わせ、義久は問うた。
跪いた敵将はくつくつと笑う。
「いい気になるなよお坊ちゃん。俺の後ろには数多の軍勢が続いている。協力者も多い。ここで俺の首を取るのは得策じゃねぇだろう…何なら、仲介者にでもなってやろうか?」
「……断る」
義久は、冴えた声で呟いた。
その瞬間、敵将の首が落ちる。
先程まで下品な笑い声を上げていた男は、一瞬で物言わぬ屍となった。
辺りがしんと静まり返る。
そこへ、秀之が落ち着いた歩調で歩み寄った。
「…幼い当主と侮りましたね。さて、義久様、如何致しましょう」
義久は、顔色一つ変えずに刀の血を落とすと、鞘へとしまった。
「…考えるまでもない。南方へ向かう」
危険因子をわざわざ野放しにしておく謂れはなかった。
「…根絶やしにするぞ」
その冷たく光る瞳の深さに、秀之でさえ、底知れぬ恐れを感じた。
――――……
その頃、笹野の城では、葵が所在無さげに空を見つめていた。
「お梅、あの方は今日もいらしてないの?」
穏やかに晴れた空が、どこか虚しい。
これまでは、こうしてお梅と共に過ごす日々こそが日常であったはずなのに。
あの無口な少年と年相応に遊ぶのが、いつしか何よりの楽しみになっていた。
お梅は困ったように苦笑する。
「お忙しいのでしょう。姫様、退屈でしたらお梅めと鬼事でも致しましょうか?」
葵はぎこちなく笑み、ゆるゆると首を振る。
「いいわ、待っていましょう。いずれいらっしゃるはずだから」
流れて行く薄雲に目を凝らし、背を伸ばした葵の隣で、お梅は悲しげに瞳を伏せる。
「…約束してくださったもの」
そうでしょう?
あの日見送った背中へと問いかける。
名前も知らない少年は、葵の想像の中でさえ、振り向くことはなかった。
――――……
どれだけの敵を屠ったのだろう。
走り抜けてきた道には、一体どれだけの骸が、打ち捨てられていることだろう。
義久には、もう分からなかった。
腕に飛んだ返り血が、ぽたり、ぽたりと地に落ちる。
体が重い。
この身に染み込んだ血の重さだろうか。
ぼんやりと、頭上の月を見上げる。
冴えざえと冷たい月だった。
「…殿」
義久は首だけで振り返ると、空気が抜けたような笑顔を浮かべた。
「…秀之、果たして俺は、まだ『人』なのだろうか」
数多の人の命を奪い、血にまみれ、屍を踏み越え、ここまできた。
手にはまだ、人を斬った感覚が残り、脳裏には鮮明にその光景が蘇ってくる。
「…否、俺はもう、本物の鬼だ」
「殿…!そのようなことはございません!此度の出陣で、殿はまた数え切れぬほどの咎なき命を救われました!」
義久は静かに首を振る。
疲れ切った動作だった。
「…この手を見ろ、秀之。この血の滴る両の手を」
「…殿」
「俺はこれから、更に多くの血を浴びねばならない。多くのものの息の根を、止めねばならない」
「…それは!」
それは、義久の咎ではない。
秀之はほとんど泣きそうだった。
何故この子は、こんな壮絶な運命に立ち向かわねばならぬのか。
この国の嫡男に生まれ、この国のために、小さな両手を血に濡らさねばならぬのか。
「貴方様は、何も悪くない」
涙声の秀之に、義久は微笑んだ。
「…悪い、心配させた」
「…殿」
「俺は大事ない」
そう言って、義久はまた頭上の月へ顔を向けた。
もはや表情は、見えなかった。
背後から、秀之はおずおずと声を掛ける。
探るように。
これ以上、傷つけることのないように。
「…殿、城に帰りましたら、すぐ笹野の城へ向かいましょう。葵姫もきっとお待ちですよ」
義久は、振り返らなかった。
ただ、静かに首を振った。
秀之は目を剥く。
(いけない。これだけはいけない。今葵姫を失えば殿は…)
柄にもなく、感情的に声が荒げられた。
「殿、約束されたのでしょう!?次に会う約束を!何故…」
「…っ!お前は…!」
かつて聞いたことのない声だった。
胸が引き絞られるような、悲鳴のような、叫び声。
義久がここまで激情を露わにしたことなど、これまでただの一度もなかった。
言葉を失った秀之は、茫然とその小さな背中を見つめる。
悲痛なその背は、夜の暗闇に溶け出しそうに見えた。
「会えと言うのか…この俺に…死臭の染み付いたこの俺に…!あの優しい少女に会えと…!!」
行けるか。
行けるはずがない。
嗚咽を漏らす義久に、秀之は掛ける言葉を持たなかった。
抱きしめる腕も、涙を拭う指も、何も無い。
彼に殺戮(とうしゅとしてのやくわり)を強いている自分に、彼を慰める資格などない。
ただ背後から、木偶のように見守ることしかできなかった。
「…義久様」
口の中で呟く。
秀之の目からも涙が溢れ出した。
もし自分にもっと力があったなら。
当主代理として、他国との戦を自力で平定し、この国を導いていくだけの武力と知恵、力量が備わっていたならば。
こんな優しい幼子に、全てを背負わせることはなかった。
こんな悲しい決断を、させる必要など、なかった。
秀之の目に強い光が宿る。
いつの日か、必ず、その力を手に入れる。
これ以上、この心優しい当主が心を擦り減らすことのないように。
どうかこの悲壮な運命の少年に、笑顔を。
いつの日か、この世に生を受けたことを、喜んでくれますように。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末
松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰
第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜
上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■
おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。
母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。
今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。
そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。
母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。
とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください!
※フィクションです。
※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。
皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです!
今後も精進してまいります!
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
旧校舎の地下室
守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる