雨降って地固まる

江馬 百合子

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番外編

誓い―四―

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 そんなある日、義久の元に急ぎの報せが入った。

「南方に不穏な動き有り!殿!戦で御座ります!」

 今まさに笹野へ向かおうとしていた義久は、小さく息を飲むと、側に控えていた秀之に目を向ける。

「…秀之、戦の用意を。これより南方へ向かう」
「はっ」

 秀之は迷いなく太刀を掴み、退出した。

「…皆に告げよ。何人たりともこの国を侵すことはできぬ、と」

 葵へ贈ろうと用意した花霞の扇子を、机の上に置く。
 代わりに、幼い体には不釣り合いなほど凶悪な大太刀を、腰に刷いた。

「…行くぞ。付いて来い」

 伝令の男は、背筋に冷たい汗が伝うのを感じ、震えを押し留めるために、何度も生唾を飲み込んだ。


――――……


 義久が戦さ場で恐れられる理由は二つある。
 一つ目は、その圧倒的強さ。
 そして二つ目は、幼子とは思えぬその非情さにあった。

「言え。何故この地に攻め入った」

 大将首に刀を沿わせ、義久は問うた。
 跪いた敵将はくつくつと笑う。

「いい気になるなよお坊ちゃん。俺の後ろには数多の軍勢が続いている。協力者も多い。ここで俺の首を取るのは得策じゃねぇだろう…何なら、仲介者にでもなってやろうか?」
「……断る」

 義久は、冴えた声で呟いた。
 その瞬間、敵将の首が落ちる。
 先程まで下品な笑い声を上げていた男は、一瞬で物言わぬ屍となった。
 辺りがしんと静まり返る。
 そこへ、秀之が落ち着いた歩調で歩み寄った。

「…幼い当主と侮りましたね。さて、義久様、如何致しましょう」

 義久は、顔色一つ変えずに刀の血を落とすと、鞘へとしまった。

「…考えるまでもない。南方へ向かう」

 危険因子をわざわざ野放しにしておく謂れはなかった。

「…根絶やしにするぞ」

 その冷たく光る瞳の深さに、秀之でさえ、底知れぬ恐れを感じた。


――――……


 その頃、笹野の城では、葵が所在無さげに空を見つめていた。

「お梅、あの方は今日もいらしてないの?」

 穏やかに晴れた空が、どこか虚しい。
 これまでは、こうしてお梅と共に過ごす日々こそが日常であったはずなのに。
 あの無口な少年と年相応に遊ぶのが、いつしか何よりの楽しみになっていた。
 お梅は困ったように苦笑する。

「お忙しいのでしょう。姫様、退屈でしたらお梅めと鬼事でも致しましょうか?」

 葵はぎこちなく笑み、ゆるゆると首を振る。

「いいわ、待っていましょう。いずれいらっしゃるはずだから」

 流れて行く薄雲に目を凝らし、背を伸ばした葵の隣で、お梅は悲しげに瞳を伏せる。

「…約束してくださったもの」

 そうでしょう?
 あの日見送った背中へと問いかける。
 名前も知らない少年は、葵の想像の中でさえ、振り向くことはなかった。


――――……


 どれだけの敵を屠ったのだろう。
 走り抜けてきた道には、一体どれだけの骸が、打ち捨てられていることだろう。
 義久には、もう分からなかった。

 腕に飛んだ返り血が、ぽたり、ぽたりと地に落ちる。
 体が重い。
 この身に染み込んだ血の重さだろうか。

 ぼんやりと、頭上の月を見上げる。
 冴えざえと冷たい月だった。

「…殿」

 義久は首だけで振り返ると、空気が抜けたような笑顔を浮かべた。

「…秀之、果たして俺は、まだ『人』なのだろうか」

 数多の人の命を奪い、血にまみれ、屍を踏み越え、ここまできた。
 手にはまだ、人を斬った感覚が残り、脳裏には鮮明にその光景が蘇ってくる。

「…否、俺はもう、本物の鬼だ」
「殿…!そのようなことはございません!此度の出陣で、殿はまた数え切れぬほどの咎なき命を救われました!」

 義久は静かに首を振る。
 疲れ切った動作だった。

「…この手を見ろ、秀之。この血の滴る両の手を」
「…殿」
「俺はこれから、更に多くの血を浴びねばならない。多くのものの息の根を、止めねばならない」
「…それは!」

 それは、義久の咎ではない。
 秀之はほとんど泣きそうだった。
 何故この子は、こんな壮絶な運命に立ち向かわねばならぬのか。
 この国の嫡男に生まれ、この国のために、小さな両手を血に濡らさねばならぬのか。

「貴方様は、何も悪くない」

 涙声の秀之に、義久は微笑んだ。

「…悪い、心配させた」
「…殿」
「俺は大事ない」

 そう言って、義久はまた頭上の月へ顔を向けた。
 もはや表情は、見えなかった。
 背後から、秀之はおずおずと声を掛ける。
 探るように。
 これ以上、傷つけることのないように。

「…殿、城に帰りましたら、すぐ笹野の城へ向かいましょう。葵姫もきっとお待ちですよ」

 義久は、振り返らなかった。
 ただ、静かに首を振った。
 秀之は目を剥く。

(いけない。これだけはいけない。今葵姫を失えば殿は…)

 柄にもなく、感情的に声が荒げられた。

「殿、約束されたのでしょう!?次に会う約束を!何故…」
「…っ!お前は…!」

 かつて聞いたことのない声だった。
 胸が引き絞られるような、悲鳴のような、叫び声。
 義久がここまで激情を露わにしたことなど、これまでただの一度もなかった。

 言葉を失った秀之は、茫然とその小さな背中を見つめる。
 悲痛なその背は、夜の暗闇に溶け出しそうに見えた。

「会えと言うのか…この俺に…死臭の染み付いたこの俺に…!あの優しい少女に会えと…!!」

 行けるか。
 行けるはずがない。

 嗚咽を漏らす義久に、秀之は掛ける言葉を持たなかった。
 抱きしめる腕も、涙を拭う指も、何も無い。
 彼に殺戮(とうしゅとしてのやくわり)を強いている自分に、彼を慰める資格などない。
 ただ背後から、木偶のように見守ることしかできなかった。

「…義久様」

 口の中で呟く。
 秀之の目からも涙が溢れ出した。

 もし自分にもっと力があったなら。
 当主代理として、他国との戦を自力で平定し、この国を導いていくだけの武力と知恵、力量が備わっていたならば。
 こんな優しい幼子に、全てを背負わせることはなかった。
 こんな悲しい決断を、させる必要など、なかった。

 秀之の目に強い光が宿る。
 いつの日か、必ず、その力を手に入れる。
 これ以上、この心優しい当主が心を擦り減らすことのないように。

 どうかこの悲壮な運命の少年に、笑顔を。
 いつの日か、この世に生を受けたことを、喜んでくれますように。


 
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