雨降って地固まる

江馬 百合子

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番外編

誓い―伍―

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 それから、秀之は影に日陰に動き回った。
 戦での功績もさることながら、周到な根回し、巧みな弁舌、情勢の把握。
 あらゆる面で、彼の右に出るものはいなくなった。

 また、秀之は、義久の心を読む能力にも優れていた。
 誰もが東雲の城主には心がないと嘯いたが、秀之だけは違った。
 彼の行動から、辿ってきた道筋から、適切な考えを読み取る。
 そして、厄介な他国を一通り平らげたとき、秀之はとある可能性に思い至ってしまった。

(……笹野の地へ侵略を目論んでいた国ばかり)

 義久は、葵を忘れてはいなかったのだ。

 それからの秀之は早かった。
 これまでも途切れさせることのなかった笹野との文。その中に、正式な婚姻を申し込む旨の書状を認める。
 それから、城中への根回しを着実に行っていった。
 義久が気付いたときにはもう、手遅れだった。
 外堀は、完全に埋められていた。


――――……


 婚姻の儀に際し、義久は完全にすくみ上がっていた。
 あれほど焦がれた少女が今、隣に座しているのだ。
 あまりに現実味の無い事実に、意識さえ定かでない。

「――それでは、盃を」

 この婚姻は止めねばならない。
 止めねば、彼女は不幸になってしまう。
 そう焦る気持ちとは裏腹に、体は金縛りのように動かない。
 からくり人形のように式を進行させてしまう。

(…俺は、愚かだ)

 来賓が席に着いても、義久の表情は晴れなかった。
 一人の男が、その表情を、花嫁への不満と解釈したのか、擦り寄るように言葉を掛ける。

「義久殿、どうです。もし花嫁がご不満であられるなら、我が娘を側室に…」

 義久は、低く咳払いをすると、すぐさまその男を追いやった。

(…聞かれていただろうか)

 ちらりと隣の様子を確認するも、俯いた彼女の顔は衣に隠れ、顔色さえ、読み取ることができない。
 しかし、その指先は、微かに震えていた。

(緊張、しているのだろうか…)

 無理もない。そう思う。
 他国へただ一人旅立ち、その日のうちに祝言。
 そして、その相手は、修羅か羅刹かと謳われる鬼神なのだから。
 義久は、その姿を、愛しげに眺めた。

(…それでも、彼女は逃げなかった)

 恐ろしいはずなのに。不安であったはずなのに。
 彼女は、これを自らの運命と受け入れ、隣に座している。
 
(…あぁ、彼女は変わらない)

 あの日、家のためならどこへでも嫁ぐと言った彼女は、正にその自分の言を全うしたのである。


――――……


 共に部屋に下がると、ようやく彼女と顔を合わせることができた。
 それが、この五年間、どれほど恐ろしいことであったか。
 彼女の優しい瞳の中に、鬼を映す。それを、どれほど恐れていたことか。
 だが、葵を目にした今、そんな恐ろしさは、まるで霞のように何処かへ霧消してしまった。

 五年前よりずっと、力強い光をたたえた瞳。
 真っ直ぐに伸ばされた背。
 そして、聡明な表情。
 全てが彼女の積み重ねてきた月日を物語っていた。

 しかし、纏う空気の柔らかさは変わらない。
 穏やかな口元も、優しさの滲む目元も、全て。

 途端に、苦しくなった。
 あの楽しかった日々が、鮮明に蘇ってくる。
 彼女がいるのだ。今、目の前に。
 会いたかった。
 積年の思いが溢れ出す。
 もう二度と会うことはないと思っていた。
 殺し続けた心だった。
 それが今、一時(いちどき)に蘇る。
 かつて失った痛みと、未来への不安を伴って。

 そう、こうなってしまえば、もう後には引けない。
 彼女はもう、幸せにはなれない。
 義久の心は、急速に冷えていった。

(…せめて、厭う男に抱かれる苦行だけは強いるまい)

 そう決意し、彼女へ伸ばしたかった手のひらを、血が滲むほどに握りしめる。
 そして、性急に退出した。
 自らの気が変わらぬうちに。

 廊下に控えていた鶴に告げる。

「奥を頼む。長旅で疲れているだろう。ゆるりと休めるよう、万全の手配を」
「は、はい…かしこまりまして、ございます」

 この城一気立ての良い女中の返事を聞き、義久は安心した。

 彼女はもう、好いた相手との婚姻は望めない。
 少なくとも今は。
 それならば、それ以外、全ての幸福を与えてやりたい。
 食も、調度も、衣も、安らぎも、その全てを。
 そして自由に笑っていてほしい。
 この目の届かぬところで、恙無く、平和に。

 義久は再び祈るように目を閉じた。

――どうか、彼女が終生、その笑顔を失うことのないように。

 その願いは奇しくも、五年前のあの日の祈りと同じものだった。


――――……


「義久様?」

 ひょいと葵が顔を覗かせると、文机に向かっていた義久は、慌てて何かを隠した。

「葵か。どうした?」
「いえ、幸久(ゆきひさ)が寝付きましたので、ご様子を伺いに」

 にこりと笑うと、湯気の立った湯のみと茶菓子を掲げた。

「休憩に致しましょう?」

 義久はため息をつくと、慌てて立ち上がり、葵の手から盆を奪う。

「お前と言う奴は…安静にせよと言われているだろう。ほら、ここへ座れ」

 そう言って、分厚い座布団を何重にも敷いて、そっと座らせる。

「心配しすぎでごさいます。もう二人目なのですから、産後の体調は自分でもよく分かっております故」

 むくれる葵に、義久は微かに眉を下げる。

「聞き分けろ、葵。万が一お前に何かあれば、俺は正気ではいられぬ」

 葵の頬が微かに赤く染まった。
 義久の物言いは年々率直になっていく。
 当初の、あの朴訥とした表現が嘘のようだ。
 今では瞳さえ逸らさずに、真っ直ぐに愛情を伝えてくれる。
 それは恥ずかしくもあったが、同時に、確かな幸せを運んでくれた。
 
 葵は赤くなった頬を隠すように、義久の肩にもたれた。
 窓からの風が、葵の髪を優しく揺らす。
 何枚か吹き込んだ桜の花弁が、ひらり、ひらり、と畳に落ちた。

「義久様?」
「何だ」
「先程は、結局何を隠されたのですか?」

 はっとして顔を合わせると、その慌てぶりに、葵はくすくすと笑った。
 どうやら怒っているわけでも、疑念があるわけでもないらしい。
 単純に気になったのだろう。
 義久はどこか言いづらそうに口ごもった。

「…隠したわけではないのだが…」

 そう言って、文机の引き出しをそっと開ける。
 そこには、古ぼけた一輪の扇子が入っていた。

「…扇子でございますか?随分古いものでございますね」

 不思議そうに首を傾げる葵に、義久は笑みをこぼす。

「お前のものだ、葵」
「…私の?」

 義久の手元をじっと見つめる。
 元は淡い桜色をしていたであろうその扇子は、木製の部分が日に焼けて白くけぶり、紙の部分は灰色に煤けて見えた。
 どこかで見たことがあっただろうか。
 必死に記憶を手繰り寄せてみる。しかし、やはりどうしても覚えがなかった。

 その様子を見て、義久は笑みを深める。

「あの日」

 遠い日を見つめ、懐かしげに、愛おしげに、瞳を閉じる。脳裏には今尚、あの笑顔が咲いていた。

「葵に、これを渡すつもりだった」

 葵の瞳が、じわじわと見開かれていく。
 思い至った可能性に、驚きと、信じられない気持ちが入り混じる。

――また次に、礼を持ってくる。

 あんな口約束を、彼はずっと覚えていたのか。
 渡しそびれた贈り物を、大切に取っておいてくれたのか。

「…こんなものを後生大事に取っているなど、情けない。それは当時から分かっていたのだが」
 
 義久は決まり悪そうに視線を落とす。
 あのとき、戦から帰り、義久はすぐにこの贈り物を捨てるつもりでいた。
 しかし、できなかった。
 もう二度と会うことはない。渡すことはない。
 不要のものだ。
 そう、分かっていたのに、これだけは、手放すことができなかった。
 思えばこれだけが、義久に残された、葵との最後の接点だったのだ。

「お前に会えぬ間、よくこうして手に取って眺めていた。今でもなかなかその習慣が抜けぬ」

 苦笑する義久を、葵は複雑な表情で見つめた。
 空白の五年間を、自分は知らない。
 彼も話そうとはしない。それを無理に聞き出すつもりもなかった。
 ただ切なさだけが、葵の心をそっと撫でる。

「…貴方様は、ずっとそうして、私を見守ってくださっていたのですね」

 二人の視線が合わさる。
 義久は、笑った。
 何のしがらみもない、少年のように。
 そして、その扇子を、不器用に差し出した。

「…やる。礼だ」
 
 葵は涙で揺れる視界の中、その扇子を受け取った。
 そっと瞳を閉じる。
 あの日の二人がすんなりと瞼に浮かんだ。

 扇子を差し出す少年。
 そして、それを受け取る幼い少女。
 花霞の扇子は鮮やかに、少女の手の中に握り込まれる。
 全てが鮮明だ。

 葵は、満開の桜のような笑顔で、かつての少年に告げた。

「…ありがとう」
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