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略取の世界
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――月夜見…月夜見…見て…綺麗でしょう…?
どうか、忘れないでね…
この月を、私のことを…
誰だ…?
――…そして、この子のことを…
誰だ?
「おい!いい加減に起きろ!」
鈴風か。しばらく寝かせておいてほしい。頭が、すごく痛むのだから。
「いつまで寝てんだよ!ったく、これだからお育ちの良いお嬢ちゃんは困るぜ!」
まだ、覚醒しきっていない頭で、ぼんやりと相手の顔を見つめる。
そして、今、自分のおかれている状況を把握した。
そうか、私は、攫われてしまったのだった。
では、私は、どうすれば良いのだろう。
今頃、鈴風はどうしているのだろう。
私を、探しているのだろうか。
「ったく、やっと起きやがったか!おい!お頭!娘が目ぇ覚ましましたぜ!」
目の前にあった顔が、そう言って遠ざかって行く。
お蔭で、今、自分がどこに居るのかが分かった。
いや、正確な位置などは、まるっきり分からなかったのだが。
小屋、もしくは荒屋と言うべきだろうか。壁板の隙間から夕日が射し込んでいるところを見ると、随分簡素な造りをしているようだ。
あたりに耳を澄ませても、何も、聞こえない。
恐らくここは、もう、先の町の中ではない。こう、大雑把に当たりをつけた。
私の思考があらかたまとまってきたところで、一人の男が入ってきた。
「よぉ、ようやくお目覚めか」
長い布のようなものを頭に巻き、そのせいで、目が少し隠れている。
色が少し浅黒いところを除けば、どこにでもいる、普通の青年だ。
「あいつら、随分手荒な方法で連れてきちまったらしいな。頭はまだ痛むか?」
この男は、一体何者なのだろう。
お頭と呼ばれていたということは、あの男達をまとめているということだろうか。
まぁ、考えても詮無きことか。
私は、少しだけ、頷いた。
「そうか、お前喋れねぇんだってな。生憎、俺らみてぇな身分じゃあ、紙やら筆やら、んな大層なもん持てねぇからな…まぁ、言いたいことがあんなら、何とかして伝えてくれ」
男はそう言うと、ざっざと大股で私の目の前までやって来て、すっとしゃがんだかと思えば、不躾にも私の顔を覗き込んできた。
「へぇ、やっぱ育ちのいいお嬢ちゃんは違うなぁ」
そうして私の顎をくいっと持ち上げると、まるで一つ一つの部位を点検するかのように、私の顔を眺め回している。
「肌は真っ白、傷跡一つねぇ。髪も目も真っ黒。俺らとはまるで人種から違うみてぇだな」
私の肌が白く、髪が黒く、全身傷んだ箇所が見当たらないのは、ただ単に、今まで一度も満足に日に当たったことがないからだ。
風に吹かれたことがないからだ。
私は不自由な体勢のまま、彼の目を睨んだ。
こんな人攫い風情にまでお嬢ちゃん呼ばわりをされるのか。
否、別に気にしているわけではないけれど。
「おー、怒ったのか?睨むなって、何もしねぇよ。お前は大事な商売品だからな」
そう言って、彼は漸く私の顎から手を離した。
急に手を離され、重力に従って頭が下がる。
ぱらぱらと髪が零れるのが自分でも分かった。
重力に逆らうことすら困難とは、ほとほと自分の体力には呆れてしまう。
「何だ?どうした?」
どうやら彼は状況を掴めていないようだ。
突然頭を下げた私を訝しげに見つめている。
よもや、体力切れだなんて、夢にも思っていないのだろう。
…ということは、彼は私の身元については何も知らないということか。
そう言えば、先に商売品と言っていたか。
ということは、私は、何処ぞの遊郭にでも売り飛ばされるのか。
成る程、しかし、遊郭か。追手でなかっただけましなのだろうか。
「おい、大丈夫か?」
騒がしい。
相手の思考の邪魔をするなど、礼儀知らずにも程がある。いや、そもそも人攫いである時点で礼儀からは程遠いのか。
何にしても、ここから逃げ出さなくてはならない。とは言うものの、どうすれば良いのだろう。
仮に火事場の馬鹿力とやらで縄を引きちぎることが出来たとしよう。
しかし、その後は、どうする。
この体力で、走れるのか。
何処にいるとも知れない、鈴風の元まで。
そもそも、鈴風の元に戻る必要があるのか…?
反射的に鈴風の元へ戻る算段を立ててしまっていたが、鈴風の主がどのような人物であるかわからない以上、どちらにせよこの旅は私にとって好ましい状況ではないのだ。
鈴風と旅をしようと、この男と旅をしようと、同じことではないか。
それならば、無駄にあがく必要もない。
また、同じようにこの男に大人しく従っておけば良いのだ。
私は、垂れ下がっていた頭を、なんとか男の方へと向けた。
頭が、重い。
「お、なんだ、大丈夫そうだな」
しかし、この男は、気づかない。
鈴風なら。
何故、鈴風のことを思い出してしまうのだろう。
今となっては、再び会える保証もない人間なのに。
…私は鈴風に会いたいのだろうか。
素性も、名すら明かしていない、あの男に。
「おい、聞いてんのか!!」
突然、目の前にあった樽が蹴り飛ばされた。
破片が、周囲に飛び散る。
ただでさえ痛んでいたその樽は、彼の八つ当たりを受け、哀れにもばらばらになってしまった。
なんて気の短い。
何度も言うようだが、人が考え事をしている間は、話しかけないでもらいたい。
そんなもの、聞いているわけがないだろう。
そうか鈴風と同じなわけがない。
主の元へ連れて行きたいなら、脅してでも引きずってでも連れて行けるのだ。
私に逆らう術はない。
だが、彼はそうしなかった。
どころか、最も面倒だと思われる方法で、私を導いてくれている。
彼が、私をいかに大切にしてくれていたか、漸く分かった。
目の前の、この男とは、違う。
あぁ、鈴風の元へ、帰りたい。
「…すまねぇ、何分育ちが悪くてな」
謝罪の言葉なんて、無意味だ。
私を、鈴風の元へ、帰してくれ。
「まぁ、そういうわけだから、次の町までおとなしく付いて来ることだ。自分の身が、可愛いならな」
そうか、また、私に抗う術はないのか。
「短い道中だろうが、仲良くやろうや」
白々しい。
腹が立つ。
目の奥が、熱い。
「お、漸くさらわれたって実感が出てきたか?」
生まれて初めて、悔し涙が零れた。
砂埃をかぶった床に、丸い染みが幾重にも重なっていく。
「んじゃあ、定石通り、俺も悪役じみたことしてみっかな」
戸惑う私を尻目に、楽しげにそう言った彼は、私の肩に、手をかけた。
そのまま、ゆっくりと顔が近づいてくる。
肩への圧力が強まり、後ろへ倒されてしまいそうだ。
嫌だ。
だが、私のあってないような力では、加減をしているこの男にすら敵わない。
唇が触れるかと思われたその瞬間。
私は、一度頭を引き、そのまま、彼の頭へ一撃を食らわせた。
要するに、頭突きだ。
自分に、ここまでする気力があったのか。
無理な動きをしたおかげで、腹筋がつりそうになっているが、まだ、油断ならない。
逆上されたら、どうしよう。
そのときは、そのときか。
私は、出来うる限りの威圧的な表情で、男を睨んだ。
男は、額を抑えて、下を向いている。
「お前…普通女があの状況で相手に頭突きなんてかますか…?ありえねぇだろ…!」
予想に反し、男は腹を抱えて笑い出した。
次は拳が飛んでくると身構えていた私まで、拍子抜けしてしまう。
「悪かったって、んな睨むな。お前みたいなちんちくりんに手ぇ出す程飢えてねぇから、安心しな」
ちんちくりんだと…?
そのちんちくりんの肩に手をかけていたのはどこのどいつだ。何て失礼な奴。
「じゃあまぁ、出発すっか。逃げようなんて思うなよ」
男は短刀のようなものを懐から出すと、私の縄を切った。
縄を切られたところで、私の体力は既に限界値を超えている。
逃げられるはずもない。どころか、立ち上がることすら出来ない。
「ほら、何やってんだ、行くぞ?」
そのようなことを言われても、私にどうしろと言うのだ。
「なんだ?体力切れかよ…これだから…」
漸く、私の現状を把握したようだ。
さて、どうするのだろう。
「…しゃあねぇか」
男は、いとも簡単に、私を肩に担いだ。
…もっとましな運び方があるはずだ。
「歩けるようになったら言えよ…ったく」
不機嫌そうな男は、そう言うと、今にも朽ちそうな扉に手をかけた。
そうして、日の沈みかけた世界へ、一歩、踏み出した。
どうか、忘れないでね…
この月を、私のことを…
誰だ…?
――…そして、この子のことを…
誰だ?
「おい!いい加減に起きろ!」
鈴風か。しばらく寝かせておいてほしい。頭が、すごく痛むのだから。
「いつまで寝てんだよ!ったく、これだからお育ちの良いお嬢ちゃんは困るぜ!」
まだ、覚醒しきっていない頭で、ぼんやりと相手の顔を見つめる。
そして、今、自分のおかれている状況を把握した。
そうか、私は、攫われてしまったのだった。
では、私は、どうすれば良いのだろう。
今頃、鈴風はどうしているのだろう。
私を、探しているのだろうか。
「ったく、やっと起きやがったか!おい!お頭!娘が目ぇ覚ましましたぜ!」
目の前にあった顔が、そう言って遠ざかって行く。
お蔭で、今、自分がどこに居るのかが分かった。
いや、正確な位置などは、まるっきり分からなかったのだが。
小屋、もしくは荒屋と言うべきだろうか。壁板の隙間から夕日が射し込んでいるところを見ると、随分簡素な造りをしているようだ。
あたりに耳を澄ませても、何も、聞こえない。
恐らくここは、もう、先の町の中ではない。こう、大雑把に当たりをつけた。
私の思考があらかたまとまってきたところで、一人の男が入ってきた。
「よぉ、ようやくお目覚めか」
長い布のようなものを頭に巻き、そのせいで、目が少し隠れている。
色が少し浅黒いところを除けば、どこにでもいる、普通の青年だ。
「あいつら、随分手荒な方法で連れてきちまったらしいな。頭はまだ痛むか?」
この男は、一体何者なのだろう。
お頭と呼ばれていたということは、あの男達をまとめているということだろうか。
まぁ、考えても詮無きことか。
私は、少しだけ、頷いた。
「そうか、お前喋れねぇんだってな。生憎、俺らみてぇな身分じゃあ、紙やら筆やら、んな大層なもん持てねぇからな…まぁ、言いたいことがあんなら、何とかして伝えてくれ」
男はそう言うと、ざっざと大股で私の目の前までやって来て、すっとしゃがんだかと思えば、不躾にも私の顔を覗き込んできた。
「へぇ、やっぱ育ちのいいお嬢ちゃんは違うなぁ」
そうして私の顎をくいっと持ち上げると、まるで一つ一つの部位を点検するかのように、私の顔を眺め回している。
「肌は真っ白、傷跡一つねぇ。髪も目も真っ黒。俺らとはまるで人種から違うみてぇだな」
私の肌が白く、髪が黒く、全身傷んだ箇所が見当たらないのは、ただ単に、今まで一度も満足に日に当たったことがないからだ。
風に吹かれたことがないからだ。
私は不自由な体勢のまま、彼の目を睨んだ。
こんな人攫い風情にまでお嬢ちゃん呼ばわりをされるのか。
否、別に気にしているわけではないけれど。
「おー、怒ったのか?睨むなって、何もしねぇよ。お前は大事な商売品だからな」
そう言って、彼は漸く私の顎から手を離した。
急に手を離され、重力に従って頭が下がる。
ぱらぱらと髪が零れるのが自分でも分かった。
重力に逆らうことすら困難とは、ほとほと自分の体力には呆れてしまう。
「何だ?どうした?」
どうやら彼は状況を掴めていないようだ。
突然頭を下げた私を訝しげに見つめている。
よもや、体力切れだなんて、夢にも思っていないのだろう。
…ということは、彼は私の身元については何も知らないということか。
そう言えば、先に商売品と言っていたか。
ということは、私は、何処ぞの遊郭にでも売り飛ばされるのか。
成る程、しかし、遊郭か。追手でなかっただけましなのだろうか。
「おい、大丈夫か?」
騒がしい。
相手の思考の邪魔をするなど、礼儀知らずにも程がある。いや、そもそも人攫いである時点で礼儀からは程遠いのか。
何にしても、ここから逃げ出さなくてはならない。とは言うものの、どうすれば良いのだろう。
仮に火事場の馬鹿力とやらで縄を引きちぎることが出来たとしよう。
しかし、その後は、どうする。
この体力で、走れるのか。
何処にいるとも知れない、鈴風の元まで。
そもそも、鈴風の元に戻る必要があるのか…?
反射的に鈴風の元へ戻る算段を立ててしまっていたが、鈴風の主がどのような人物であるかわからない以上、どちらにせよこの旅は私にとって好ましい状況ではないのだ。
鈴風と旅をしようと、この男と旅をしようと、同じことではないか。
それならば、無駄にあがく必要もない。
また、同じようにこの男に大人しく従っておけば良いのだ。
私は、垂れ下がっていた頭を、なんとか男の方へと向けた。
頭が、重い。
「お、なんだ、大丈夫そうだな」
しかし、この男は、気づかない。
鈴風なら。
何故、鈴風のことを思い出してしまうのだろう。
今となっては、再び会える保証もない人間なのに。
…私は鈴風に会いたいのだろうか。
素性も、名すら明かしていない、あの男に。
「おい、聞いてんのか!!」
突然、目の前にあった樽が蹴り飛ばされた。
破片が、周囲に飛び散る。
ただでさえ痛んでいたその樽は、彼の八つ当たりを受け、哀れにもばらばらになってしまった。
なんて気の短い。
何度も言うようだが、人が考え事をしている間は、話しかけないでもらいたい。
そんなもの、聞いているわけがないだろう。
そうか鈴風と同じなわけがない。
主の元へ連れて行きたいなら、脅してでも引きずってでも連れて行けるのだ。
私に逆らう術はない。
だが、彼はそうしなかった。
どころか、最も面倒だと思われる方法で、私を導いてくれている。
彼が、私をいかに大切にしてくれていたか、漸く分かった。
目の前の、この男とは、違う。
あぁ、鈴風の元へ、帰りたい。
「…すまねぇ、何分育ちが悪くてな」
謝罪の言葉なんて、無意味だ。
私を、鈴風の元へ、帰してくれ。
「まぁ、そういうわけだから、次の町までおとなしく付いて来ることだ。自分の身が、可愛いならな」
そうか、また、私に抗う術はないのか。
「短い道中だろうが、仲良くやろうや」
白々しい。
腹が立つ。
目の奥が、熱い。
「お、漸くさらわれたって実感が出てきたか?」
生まれて初めて、悔し涙が零れた。
砂埃をかぶった床に、丸い染みが幾重にも重なっていく。
「んじゃあ、定石通り、俺も悪役じみたことしてみっかな」
戸惑う私を尻目に、楽しげにそう言った彼は、私の肩に、手をかけた。
そのまま、ゆっくりと顔が近づいてくる。
肩への圧力が強まり、後ろへ倒されてしまいそうだ。
嫌だ。
だが、私のあってないような力では、加減をしているこの男にすら敵わない。
唇が触れるかと思われたその瞬間。
私は、一度頭を引き、そのまま、彼の頭へ一撃を食らわせた。
要するに、頭突きだ。
自分に、ここまでする気力があったのか。
無理な動きをしたおかげで、腹筋がつりそうになっているが、まだ、油断ならない。
逆上されたら、どうしよう。
そのときは、そのときか。
私は、出来うる限りの威圧的な表情で、男を睨んだ。
男は、額を抑えて、下を向いている。
「お前…普通女があの状況で相手に頭突きなんてかますか…?ありえねぇだろ…!」
予想に反し、男は腹を抱えて笑い出した。
次は拳が飛んでくると身構えていた私まで、拍子抜けしてしまう。
「悪かったって、んな睨むな。お前みたいなちんちくりんに手ぇ出す程飢えてねぇから、安心しな」
ちんちくりんだと…?
そのちんちくりんの肩に手をかけていたのはどこのどいつだ。何て失礼な奴。
「じゃあまぁ、出発すっか。逃げようなんて思うなよ」
男は短刀のようなものを懐から出すと、私の縄を切った。
縄を切られたところで、私の体力は既に限界値を超えている。
逃げられるはずもない。どころか、立ち上がることすら出来ない。
「ほら、何やってんだ、行くぞ?」
そのようなことを言われても、私にどうしろと言うのだ。
「なんだ?体力切れかよ…これだから…」
漸く、私の現状を把握したようだ。
さて、どうするのだろう。
「…しゃあねぇか」
男は、いとも簡単に、私を肩に担いだ。
…もっとましな運び方があるはずだ。
「歩けるようになったら言えよ…ったく」
不機嫌そうな男は、そう言うと、今にも朽ちそうな扉に手をかけた。
そうして、日の沈みかけた世界へ、一歩、踏み出した。
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