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第二十三話 若草の花嫁
しおりを挟む一点の曇りもない白い廊下を、一人の紳士がゆっくりと進む。その度に、居合わせた看護師らは慌てふためきながら端に寄るものの、視線はその男に釘付けだった。
その堂々たる佇まいは、成熟した壮年のそれを思わせる。しかし、皺一つない透き通るような肌や、漆黒の髪はあまりに作りものめいていて、年齢を推し量ることすらできない。
生まれてこの方一度も表情を浮かべたことがないかのような、氷のような面差しは、浮世の人間ではないことを示しているかのようだった。
そのとき、その男、藤泉院清宗の前に、一人の青年が立ち塞がった。
清宗は静かに足を止め、その青年を見やる。
「春乃宮のか」
ガラス細工のような瞳にひたと見つめられ、日向は背筋がぞっとするのを感じた。この男を前にすると、否が応でも体が強張る。幼い頃には、それが悔しくてたまらなかった。
しかし、と日向は己を奮い立たせる。自分はもう、子供ではないのだ。何の力も持たない春乃宮家のお荷物でもない。
この男と対峙するためだけに、日向は、自らを世間へ売り出してきたのだから。
そして、機はもう、熟している。
日向は、まっすぐに清宗を見返した。
「どこへ行くつもりです」
清宗は、その問いには答えず、「久しいな」と呟いた。
久しいどころか、記憶している限りでは、正面から一対一でこの男と向き合ったのは、恐らくこれが初めてだった。
日向の父は、母が祖国へ帰ってしまってからは、自室に閉じこもり、公の場にもほとんど姿を現していない。よって、父と共に挨拶を交わしたのは、日向が中等部に上がる前までだった。
更に、日向の生まれのためか、周囲も、日向を藤泉院家の当主には近づけまいとしていた。表面上は次期跡取りだと認めておきながら、そんな高貴な方に会わせるのは恐れ多いと蔑む周囲には、正直反吐が出た。
そんな地位などいらない。自由にさせてくれと、これまでどれだけ叫んできただろう。
日向はその場所で、胸を張り、戦い続けてきた。どんなことでもしてきた。思い出すだけで足がすくむようなことも、罪悪感に押しつぶされそうになることも、全部。
一寸先も見えないような闇の中、手探りで進む泥沼は、昏くて、寒くて、恐ろしかった。
それでも進み続けることができたのは、その先に、幼い少女が蹲っていたからだ。
同じ闇の中で、月を探し彷徨う少女を、救い出したかったのだ。
月など、無くてもいいじゃないか。地上に出ればいい。緑の広がる草原で、自由に太陽を探せばいい。
彼女に陽の光を見せることができたなら、自分はどうなってしまっても構わない。
全てを背負った日向の目には、揺れることのない覚悟が秘められていた。
だが、その視線に射抜かれてもなお、清宗の表情はまるで仮面のように固まったまま、静かに日向を見据えている。そこからは、何の感情も読み取れなかった。
「時成は息災か?」
突然出された父の名に、日向はどきりとする。しかし、その動揺を見せるほど愚かではなかった。
「ご存知の通りです」
清宗は「そうか」と僅かに頷く。
「では、ジュリア夫人は未だ回復されていないのか。連絡は取っているのか?」
日向の顔に、さっと血が上った。これほど平坦な声で母の話をされることに、耐えられるはずがない。
「……貴方には関係ない」
清宗は、一瞬黙った。しかし、この話を終わらせるつもりはないようだ。
「国へ見舞いには行かないのか」
日向は、拳を上げるのを既で止まった。
代わりに、熱い息を吐き出す。
「……行けるはずがない」
日々追い詰められ、神経をすり減らし、逃げるようにこの国を去った母にとって、自分は過去の忌まわしき遺物でしかないのだから。
清宗は、そっと外へ目をやった。
「それでは、時成に、『話すべきことがある』と言伝を頼めるか」
日向は、はっと鼻で笑った。
「父とはもう、何年もまともに顔を合わせていません」
「何故」
「家には滅多に帰っていないので」
「それでは、あやつはあの家に、ずっと一人で暮らしているのか」
そのとき日向は、初めて清宗の顔に、人間らしい表情が浮かんだのを見た。
「今あやつには其方しかおらぬ。実の父であろう。何とも思わないのか」
その言葉に、日向はふつふつと怒りが湧いてくるのを感じた。そして今度は、その怒りを抑えることなどできなかった。
「あんたがそれを言うのか」
周囲の空気に稲妻が走っているかのように、清宗の肌を見えない怒りがぴりぴりと刺激する。
「実の娘の幸せを奪ったのはあんただろう! 衰弱して痩せていく娘を見て、何とも思わなかったのか! 今だってそうだろ! 無月があんな風に絶望している姿を見て、何とも思わないのか!」
日向の燃えるような視線を受けて、清宗は僅かに目線を落とした。
「思えばこそ、伊勢の奴に、其方があやつに面会する許可を与えたのだ」
「あんたは他に何をしてやった!」
「……私のことは何と言われても仕方がない」
「逃げるなよ!!」
日向は怒りのままに清宗に近づき、その胸元を握った。
「何故彼女を引き取ったんだ! 何故解放しない!」
清宗は、再び日向の目を見つめた。
幼い頃は、母親に似て、危ういほどに純真な眼をしていた少年も、今やこれほど強い光を放つようになったのか。
「……放せ。春乃宮の」
清宗は、日向の手をそっと降ろさせた。
闇夜のような深い瞳に、本能的な恐怖を感じ、日向は思わず、一歩後ずさる。すると清宗は、元来た道を引き返すかのように、日向に背を向けた。
藤泉院家の当主と一対一で対決できる、こんな好機は、恐らくもう、二度とは来ない。
この機会を逃すわけにはいかない。
「待て。……逃げるのか」
逃げ出したいのは自分の方だったが、日向は何とか、掠れた声を絞り出す。
すると、清宗は、振り返りもせずにこう告げた。
「長い話になる。ついて来い」
そして、日向の返事も待たず、規則正しい歩速で歩き出した。
――――……
院内のラウンジに降りてくると、給仕の男がぎょっとした顔をして駆け寄ってきた。
それを清宗は、必要ないと戻らせる。
そして、午後の光が燦々と振り込む窓際の席に腰掛けた。日向も彼の正面に席を取り、適当に飲み物を頼む。
慌てふためく給仕を見ながら、何と酷な奴だと、日向は清宗を睨んだ。
「あんたをこんな目立つところに座らせて、あの男はどんな罰を受けることになるか」
「成宮の者は私が静まり返った個室を厭うことを承知しておる」
日向が再び何かを言う前に、飲み物が運ばれてきた。それから、数人の男たちが衝立を立て、その席を周囲から申し訳程度に隠す。
日向はそれを見て、ため息をついた。
「いつもこんなわがままを通しているのか」
「昔から、成宮には世話になってきた」
そう言って、清宗は再び、僅かに表情を動かした。
その違和感に、日向は口を開く。
「あんたは俺の親父や成宮の親父と、家同士の付き合い以上の面識があるのか?」
「父から聞かなかったのか」
清宗は、当然だとでもいうように首肯した。
「時成や国和とは親しくしていた。ちょうど、其方らもそうであろう」
日向は、無月、蜜華、そして透を思い浮かべた。
「……それなら、父は、無月の母親のことを知っているのか。彼女の死も、その後に起こったことも」
先程まで、まるで透明な人形のように座っていた清宗の肩が、僅かに動いた。
「……勿論だ。誰もが、彼女の死を悼んだ。私も、国和も、時成も、それから、薫も」
薫。薫だと。日向の顔が強張る。
「……どういうことだ。何故あんたの後妻が先妻の死を悲しむ」
清宗の読めない瞳が、とうとう日向にまっすぐ据えられる。
「……説明する。全て」
日向は、ようやく彼の瞳に宿った悲しい熱に気づいた。
――――……
「陽子、結婚おめでとう」
古い小さな教会の裏庭。若草と淡い花々に囲まれた、煉瓦造りの建物の影で、二人の少女が手を取り合っていた。
「薫――」
陽子と呼ばれた少女は、真白のドレスを身に纏い、一目で今日が晴れの日なのだと分かる。まだ幼さの抜けきらない顔は、それほど美しいとは言い難い。しかし、陽子という名に相応しい温かさの滲み出た、どこか印象的な少女だった。
皆の声が遠くに聞こえる。恐らくは、式の直前に消えた花嫁を探しているのだろう。
それでも陽子は、式を挙げる前に、どうしても薫に謝りたかったのだ。
「薫、怒っていないの?――将来は、きっと、お互い結婚しないで、一緒に暮らしましょうと約束したのに」
薫と呼ばれた小柄な少女は、少しだけ寂しげに笑った。
「怒れないわ。怒れるはずないじゃない。藤泉院家の御子息に求婚されて、断れるはずがないことくらい、私にだって分かるわ。何とかしてあげたいけれど、私たち程度の家柄じゃあ、進言することすらできないし……」
陽子はため息をついた。
「何故私なのかしら。一度何かの会でご挨拶したことがあるだけで、言葉を交わしたことなんてほとんどないのよ。家柄だって、あなたの言う通り、彼の家から見ればあってないようなものなのに」
「それに、全然美人じゃないのにね」
「ちょっと!」
陽子はむくれると、そっぽを向いた。
「確かに私は美人じゃないわ。だから、貴女の艶々した髪と大きな目がいつも羨ましかったのよ」
「初めて会ったときから?」
「そう。だから多分、生まれたときからね」
「生まれたときって、貴女、両親には拾われたんだって言ってたじゃない」
「そうよ。私の人生は、父と母に拾われたその日に始まったの」
「屁理屈だわ」
陽子は、「またそんな言葉を使って」と笑った。
彼女は美しくはない。
しかし、その髪が日の光を受けると、何色とも言い難い綺麗な光を放つことを、薫だけは知っていた。
輝かんばかりの笑顔も、はっとするような声音も、美しいものを見るとばら色に染まる頬も、恐らくは誰も気づいていない。
「陽子」
急に真剣な表情を浮かべる親友を、花嫁は吸い寄せられるように見つめた。
「約束は駄目になってしまったけれど、それでも、私は誰とも結婚しないわ。だから、もし少しでも辛いと思ったらすぐに言うのよ。一緒に逃げてあげるから」
途方もない話だった。藤泉院家から逃げ切れるだなんて、到底思えなかった。
親友の幸せを願いたい気持ちもあった。彼女には、いつか幸せな結婚をしてほしいと心から願っている。
それでも、陽子は湧き上がる嬉しさを抑えることができなかった。
涙の膜が張った瞳から、次々と雫がこぼれ落ち、いつしかそれが激しい嗚咽へと変わった。
風が吹き、長く伸びた草花を揺らした。葉の擦れる音と、花の瑞々しい甘い香りが、まだ幼かった頃、二人で駆け回った野原を思い出させる。
思えば、模範的な子どもたちばかりのこの世界で、二人が惹かれ合ったのは必定だった。息の詰まりそうな規則の中で、自由に羽ばたいてこられたのは、共に並び立つ親友がいたからだ。
二人は毎日のように、共に叱られた。しかし両親らは叱り終えると、いつも呆れたように笑いながら、「これからもこの子を宜しく」と言い合った。
子ども時代も、娘時代も、そうして二人はまるで姉妹のように同じ時間を生きてきたのだ。
「……ありがとう、薫。貴女がついてると思うだけで、きっと私は強くなれるわ」
涙の止まらない少女の背を叩きながら、薫は、ドレスの滑らかな生地を感じた。花婿よりも先に花嫁に触れていることに、僅かながら心が慰められる。
顔もほとんど見たことがないその男には、いつか一矢報いてやりたいと半ば本気で思っていた。
「さぁ、早く泣き止みなさい。式の前に余計に不細工になってどうするの」
「不細工って、ちょっと薫! 花嫁に向かって何てことを言うの!」
泣き笑いながら追いかけてくる陽子。本当は、なんて綺麗な涙を流すのだろうかと見惚れていたのだ。
勿論そのことは、自分だけの秘密にした。当人にすら教えてあげなかった。彼女の死の間際にさえ、「不細工だなんて心にもなかったのだ」と伝えることはできなかった。
自分のために流してくれたあの涙は、誰のものにもしたくなかった。ひっそりと胸の一番奥の、暖かい光が当たる場所にしまっておくために。
今でも薫は、あの最後の追いかけっこを思い出し、ひっそりと微笑むことがある。
あれこそが、二人の苦しくも美しい青春の、最後の一ページだったのだ。
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