薄幸の佳人

江馬 百合子

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第二十六話 家族に―前編―

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 開け放した窓から、夜気とももに眠る草木の香りが吹き込んでくる。陽子は少し身震いした。そっと肩を抱く。すると、その感触が、否が応でも清宗を思い起こさせ、また頬が熱くなった。
 会を終え、逃げるように自室に戻ってより、彼女はずっとこの調子だった。
 こうして夜風に当たっているのに、思い出すのは、先ほどまでずっと腰に添えられていた、見た目よりずっと温かい彼の手のことばかり。いや、それだけではない。会の間中、ずっと向けられていた気遣わしげな笑顔、慈しむような声、それらが今もなお、陽子の頭の中をぼんやりと支配し、心音を高まらせる。
 彼の行為に他意はなかった。彼の、優しい言葉にも。そんなことは、勿論よく分かっていた。
 藤泉院家の磐石な未来を知らしめるために、彼は伴侶との睦まじさを見せつけねばならなかったのだ。
 彼は、優しい。
 そうすることで、新妻への風当たりが弱まることも知っていたのだろう。今後彼らは、少なくとも清宗の眼前では、陽子を藤泉院家の女主人として扱わねばならない。
 彼は、心を持ち合わせていないと言っていた。しかし、そんなはずはない。

「……彼は、私を守ってくれたわ」

 無意識にそんな乾いた声が漏れた。
 それは一瞬のうちに夜半の空気に掻き消えたが、壁際に控えていた薫は、そっと顔を上げた。

「……本当にお優しい方」

 ほとんど独り言のような囁きに、薫はただ静かに頷く。

 そう、彼はこの家で生きていくには優しすぎる。誰より非情であらねばならないこの家で、これまでどれほどの者たちを裁き、見殺しにしてきたのだろう。その度に、自身の心が少しずつ擦り切れていたことにも気づかずに。
 心がないのではない。彼は、ずっと心を殺して生きてきたのだ。この家のため、そして、数多の人の穏やかな日々のために。
 それが、この家に生まれた者の宿命だったのだろう。頂に立つ者として、背負わなければならない責務だったに違いない。
 しかし、それは、陽子の瞳にとても空しく映った。彼が心を捨てて守っているものと、彼との間には、どんな細い糸も繋がってはいないのだから。
 どれほどのものを賭して守っても、誰かが彼の存在に気づくことはない。
 そんな一方通行の関係は、薄ら寒く、見るに堪えないもののように感じられた。
 しかし、それは、自分の言えた義理ではない。
 自分もまた、彼に守られている者の一人なのだから。

 深く思い悩む陽子を見つめながら、薫もまた、静かに考えていた。
 陽子は、あの藤泉院清宗を優しいと言う。
 しかし薫には、とてもそうは思えなかった。
 確かに、彼が医師の制止を振り切り、陽子の元へと駆けて行ったときは、心底安堵を感じたものだった。少なくとも、彼女を妻として大切にしようとしているのだということが、分かったからだ。
 しかし、並々ならぬ苦労をさせることを知りながら、末席の家の娘を娶り、こうして新婦を独り寝させる男を、果たして優しい人物だと言えるだろうか。
 おおよそ、陽子を娶ったのも、何らかの思惑あってのことなのだろうが、とても血の通った人間のするべきこととは思えなかった。
 それだけではない。
 石膏のような肌に、黒真珠のような瞳。そこに人としての熱量は微塵も感じられず、目つきや雰囲気の中にも、およそ人間らしい感情を見出すことはできない。
 しかし、陽子が彼を「優しい」と評するならば、きっとそれは真実なのだ。
 彼女は、快活で明るく物怖じしない性格だが、どこか繊細で感受性の豊かなところがあった。
 彼女は、昔から、周囲の感情の機微や小さな言葉の棘にも、敏感に気がつくようだった。
 それは、間違いなく彼女の美点だ。しかしそれ以上に、それは薫の心配の種でもあった。
 気づかなければ気にもならないようなことを、彼女は思い悩んでしまうのだ。
 ちょうど今、このときのように。

「それなら、陽子があの方を支えてあげないとね」

 あえて明るく言い放った薫に、陽子は笑った。

「えぇ、私はあの方の妻なんだから」
「それだけじゃないんでしょう?」

 薫は意味深い視線を親友へと送る。その視線の意味を解した陽子は、さっと頬を染めた。
 してやったり、と薫は笑う。その顔は、仮にも令嬢の浮かべるべき表情ではなかった。

「あの方のことを慕っているんだって、顔に書いてあるわよ」

 その瞬間、陽子は両手で顔を覆った。その指と指の間から「もう……嘘でしょ……」と、羞恥の涙声が漏れ聞こえてくる。
 薫はからからと笑うと、蹲ってしまった陽子の背を叩いた。

「いいじゃない。自分の夫を愛して何が悪いのよ。大体、そんなに顔を赤くしてため息をつくくらいなら、『一緒に寝てください』って誘えばいいのに」
「か、薫!」

 もはや、陽子の顔は真っ赤だった。口元が少しだけ震えている。
 薫は、それでも追及をやめなかった。

「何よ、私、何もおかしいことは言っていないもの。だって、夫婦なのよ? それも、新婚で、陽子は彼のことが好きなんでしょう? 何の問題もないじゃない。彼の子供がほしくないの?」

 子供。その言葉を聞いた瞬間、陽子の胸に、柔らかい風が吹いた。彼との間にできる、自分の子供。それは、なんて幸せな未来なのだろう。
 陽子は、まだ見ぬその子を思った。そして、そんな自分が信じられなかった。
 出会ったその日に恋をして、その次の日に彼との子供を望むなんて、そんなこと、あってはならない。この屋敷にあるまじき、とんだ軽薄な女だ。
 しかし、一番の親友が、それは何の問題もないことだと言っている。
 そして確かに、子を成すことは自身に課せられた一番の責務だった。

「薫、貴女私の心配をしてくれているんでしょう?」
「……そうよ、子供を産んでしまえば、周りも納得せざるを得ないわ」

 陽子は、目を閉じた。その瞼の奥に、まだ見ぬ愛しい我が子を思い浮かべて。

「でも、薫、私は、そんなこと、どうでも良くなってしまったみたい」

 その穏やかな表情に、薫は訝しげに眉を顰める。

「どうでも良くはないでしょう。もし男の子が産めなければ……」

 そこまで言って、薫ははっと言葉を切った。それから気まずげに顔を伏せる。

「それは、分かっているわ」

 それでも陽子は、一切の動揺を見せずに薫に微笑みかけた。

「でも、私は、それでもいいと思うの。きっと、清宗様も分かってくださるわ。男の子でも、女の子でも、私はその子を死ぬまで守り続ける」

 そう言うと、陽子は扉に手をかけた。

「薫、私、夜這いに行ってくるわ」

 そして、ぽかんと口を開けたまま固まる薫の肩をぽんぽんと叩き、陽子は廊下へ踏み出した。


――――……


 扉を開けた清宗は、一言、「何事か」と尋ねた。
 そんな清宗を、陽子はぐいぐいと部屋へ押し込む。「お、おい」と非難の声を上げながらも、十近く年の離れた娘を突き飛ばすこともできずに、清宗は成されるがまま、部屋の最奥のベッドに腰掛けた。
 それを見届けて、一つ満足げに頷くと、陽子は急いで扉を閉め、再び清宗の元へと駆け寄った。
 漆黒の瞳に見上げられる。「奇特な娘だ、どういうつもりだ」そう訝しがられているに違いなかった。
 目線を合わせるため、陽子は彼の前に膝立ちになった。今度は多少見下ろされる位置になってしまったが、許容範囲だろうと陽子は口を開いた。

「こんばんは、清宗様。怪我はどう?」

 読めない会話に若干眉を寄せながらも、清宗は頷く。

「問題ない。痛みもほとんどない」
「……それでは、同衾していただけませんか?」

 一瞬、清宗は、「暖房をつけていただけませんか」そう言ったのかと思った。しかし、考えれば考えるほど、その言葉は「同衾」に他ならず、正面の妻は静かにその答えを待っている。
 永遠とも感じられるほどの間、口を開くことができなかった。
 この少女は、確かに同衾と言った。そして、この状況で同衾と言えば、つまりはそういうこと。しかし、果たして彼女は、その言葉が暗に示すところの意味を、知っているのだろうか。いや、この歳ならば、そのくらいの教育は受けているはずだ。しかしそれにしてはやけにあっさりと言い放った。
 そんな考えが、頭の中をぐるぐると巡る。その思考の果てに、彼が導き出したのは、結局、たったの一言だった。

「眠れないのか?」

 それに対して、陽子は少しむっとした表情をする。

「いいえ、そういう意味じゃないわ。私、子供がほしいの」
「な……」

 何を、とも続けられなかった。目を剥いて、ただただ冷静な少女を見つめることしかできない。
 しかしそのとき、ある一点に思い至った。即ち、今日の立食会である。
 そういうことか、と納得し、清宗は幾分落ち着きを取り戻す。

「……其方の言いたいことは分かった。確かに、子を産めば皆も其方を世継ぎの母として認めるであろう。しかし」
「違うわ、そうじゃないの」

 再び訂正され、清宗はまた内心惑った。彼女の真意を探ろうと、その印象的な瞳を覗き込む。
 すると少女は、そっと清宗の手を取った。

「家族がほしいの……いいえ、貴方と、家族になりたいの」

 その瞬間、清宗の頭は真っ白になってしまった。彼女は、今、何と言った。
 家族になりたい。それも、出会って間も無い一回り歳の離れた特殊な男と。
 一体何故、と決して愚鈍ではない頭を働かせる。誰かに何かを吹き込まれたのか。例えば、あのふざけた時成や、親友である薫嬢から。それならば、まだ良い。しかし、もし、それ以外の人物からありもしないことを嘯かれたのだとしたら、その不安は取り除いてやらねばならない。

「それは、純粋な其方の意思なのか」

 この意思の強い、身持ちの堅そうな少女が、何の理由もなく出会って二日目の男を床へ誘うなど、考えられなかった。
 しかし、そんな清宗の戸惑いを知ってか知らずか、陽子はただ真摯に頷いた。

「私は、貴方と、本当の夫婦になりたい。そして、貴方との子供がほしい。私にとっては、初めての、血の繋がった家族になるの」

 

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