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第二十七話 家族に―後編―
しおりを挟むその瞳に、涙の粒がせり上がってくる。彼女がこの結婚にどれほどの思いを抱いていたのか、容赦なく教えられた。
聡い彼女は、知っていたはずだ。この結婚に安息を求められないことも、味方のいない苦痛も、全て。全てを覚悟の上で、たった一人で、嫁いできたのだ。
この家の当主の妻となるために。清宗と、夫婦となるために。そして、この家で、温かな家庭を築くために。
その決意は、果たして十六歳の娘に成し得るものなのだろうか。それほどの高潔な決意を、彼女はどれほどの涙の上に固めたのだろう。
彼女は、両親と血が繋がっていない。所謂、捨て子だったらしい。
その事実を知る者は、この家の関係者と、親友である薫嬢だけだ。そして、彼女が藤泉院家に嫁いだ以上、その事実は永遠に闇の中に葬り去られる。
だが、身辺調査を行うまで、清宗でさえ、彼女が里子であることには気がつかなかった。彼らは、誰の目から見ても、間違いなく、本物の家族だった。
潤んだ瞳に、氷のような男の表情が映っている。自分のことながら、その薄ら寒さにぞっとした。
彼女は確かに血の繋がりを求めている。しかし、何故彼女がそんなものを求めているのか、全く理解できない。
血の繋がった両親とともに生きてきた自分の瞳は、これほど空虚なのだから。
「子を得るために、好いてもいない男に身を任せられるのか」
それは、確認だった。彼女が望むなら、夫として、それを叶えなければならない。
決して皮肉を言おうとしたわけではなかった。しかし、その言葉には言いようのない苛立ちが確かに滲んでいた。
陽子は少しだけ目を伏せた。
「確かに、私も、貴方のことを愛していると断言することはできないわ。こんな気持ちを、私は今まで知らなかったの。それに、清宗様が私に対して、何のお気持ちも抱いておられないことも分かっているわ」
清宗は、その決して大きいとは言えない瞳の中に、戸惑いと確かな決意を見て、心が震えるのを感じた。
「それでも、私は、この先も、ずっと貴方の隣で生きていたい。何があっても、強く乗り越えていきたい。昨晩お会いしたときに、私の心は決まったの。だから……」
なおも言い募ろうとする陽子を、清宗は手で制した。その雪のような頬には、僅かに赤みが差している。
これほど率直な想いに、自分は一体どう応えれば良いのだろう。これほどひたむきな目を向けられたことなど、これまで一度もなかったのだ。
喉の奥が、やけに渇く。唇の感覚が、まるで自分のものではないようだった。
しかし、慎重に言葉を選ばなければ。
彼女は何か勘違いをしている。恐らく自身を、この家に新しい風を吹き入れるためだけに雇われた仮初めの花嫁だと思っているのだろう。
そして、そう思わせた原因は自分にあった。昨晩、この家のために娶ったのだと伝えたのは、他でもない自分自身なのだから。
「陽子、悪かった。私は確かに、この家には其方が必要だと思った……何より、私の隣で笑ってほしかったのだ。それがこの家の未来のためだと御託を並べながら、実際のところ、この家に縛られ生きる私に、気付いてほしかった」
それは、思いもよらない独白だった。
「初めて其方を見たとき、其方は大の男を蹴り飛ばしていた。そのときは、純粋に驚いただけだったが、それからは自然と、其方を目で追うようになっていた。会の途中であっても、外から其方と薫嬢の笑い声が聞こえてくる度、私もそこへ行き、共に駆け回りたいと、そのような馬鹿げたことを半ば本気で思っていたのだ」
陽子は、自分たちの声は会場の中にまで響いていたのかとどうでも良いことを考えながら、清宗の顔を食い入るように見つめた。
回し蹴りは、不可抗力だったのだが、人目につかないところだったので、完全に油断していたとしか言いようがない。遠目の人影までは確認していなかった。
社交の場でそんな姿を晒してしまっていたことに、今更ながらいたたまれなくなる。末席の令嬢に淫らに手を出そうとする輩が悪いのだが、素直に令嬢らしく助けを求めておけばよかった。
しかし、もしそうしていたら、この眼前の彼との線は、永遠に交わらなかったのかもしれない。
「其方と初めて挨拶を交わした日。其方は覚えておらぬであろうが、私は、あの日のことは、恐らく一生忘れられない」
日々を生きる楽しさと、好奇心と無邪気さを存分に輝かせた瞳に、確かな知性を感じさせる控え目な装い。心地良い声。話しすぎず、かといって内気であるとも言い難い振る舞い。静かな動作。全てが印象的だった。
一瞬で悟った。自分は、恋に落ちていたのだと。
「陽子、私は当主として、この家を一番に考えなければならない。他のどんなものより、優先させねばならない。だから、何より其方が大切だと、誓うことはできない。しかし、信じてほしい」
全身から、その強い想いが伝わってくる。氷のようだった声音から、確かな熱が溢れている。
「私は其方を、妻として、大切にしたい。ずっと愛しく思っていたのだ。この家に巻き込むことに、迷いもあった。それでも、其方と共に生きたいと、願わずにはいられなかった」
その言葉を疑うことはできなかった。何の証拠も、何の根拠もないけれど、陽子には分かった。彼がどんな思いで彼女を求めたのかを。
運命というものがあるのなら、きっとこういうことを言うのだろう。前世からの因縁を信じているわけではないけれど、惹かれ合う何かがあったのだと考えざるを得ない。
美しくも豊かでもない、一見何の美点もない陽子に想いを寄せる人物など、これまで一人もいなかった。
人間離れした存在である清宗に、人として何らかの感情を向ける人物も、恐らくいない。
全くの対極にいるようで、二人は惹かれるべくして惹かれ合ったのかもしれない。
「……それなら、今から私を床に呼んでくれる?」
その明け透けな物言いに、茶化しているのかと咎めるような視線を送るも、瞳は真剣そのもので、とてもふざけているようには見えない。
彼女とて、恥じらいがないわけではないのだろう。それなのに、ここまで言わせているのは、はっきりしない自分の態度だ。
「……もう少し、大人になってからにしよう」
その返答に、陽子はさっと赤くなった。それは間違いなく、怒りによるものだった。
「娶っておきながら、私を子供扱いするの?」
「いや……そうではないが……」
しどろもどろになる口調に、何を逃げているのかと張り手をかましたくなる自分がいる。この態度が、彼女を混乱させているというのに。
「……其方はまだ若い。もし契りを結んでしまえば、後戻りはできなくなる」
「私のこと、いつか他所へ嫁がせるつもりなの?」
端的に言えば、そういうことだった。彼女がこの地で生きられないと感じれば、また、他に想う人ができたと告げられたときは、離縁し、そこへ嫁がせる手筈を整えるつもりだった。
しかし、彼女を手放し、あまつさえ、他所の男へ託すことなど。想像した途端、頭を、殴られたかのような衝撃が走った。
「……そういうことではない。しかし、万が一ということもある。それに、其方も私のような年増と床を共にするのは抵抗があるだろう。せめて其方の成人を待つべきだと」
「あと四年もあるわ!」
四年も待たなければならないとは。その上、自惚れでなければ、彼はきっとまた、自分の心を犠牲にしようとしている。陽子は、さらに詰め寄った。
「他の方のところへ行けなんて、そんなこと、二度と言わないで。貴方なら、八十歳のおじいちゃんだって構わないわ。逃げないでよ、この意気地なし……」
いつの間にか、陽子の目からぽろぽろと涙が溢れていた。
清宗は、目を見開いた。とうとう、泣かせてしまった。自分の決しきれない心が原因で。
泣きじゃくる彼女を、この手に収めるべきなのだろう。しかし、両手を広げることはできても、その手を伸ばすことができない。触れてしまえば、必死で保っていた理性は簡単に崩れてしまうだろう。
しかし、そんな逡巡は、全くもって無意味だった。
彼女自ら、その両手に飛び込んできたからである。
「……どうすれば、私の心は伝わるの」
そう言って、しがみつく彼女を、清宗はそっと抱き返した。なるべく優しく、撫でる。手つきに欲が出ないように。ずっと想ってきた女性に、ここまで言われて嬉しくないはずがない。今すぐにでも、応えてしまいたい。しかし、彼女のことを思えば、そんなふうに衝動的にかき抱くことなどできない。
陽子は、その腕の中で顔を上げた。涙に濡れた瞳に、赤くなった唇。白い首筋、乱れた髪。それらがどうしようもなく清宗の理性を揺さぶる。
「私が美人だったら、清宗様も私に触れたくなった……?」
その瞬間、清宗は箍が外れるのを感じた。細い肩に手をかけ、そっと自身から離し、立ち上がらせる。
「……明日、私たちの部屋を作らせる。だから今夜は」
「……今夜がいいわ」
「……今夜は、私が其方の部屋へ行こう。先に、戻って準備をしておいてくれ」
そう言うと、清宗は問答無用で部屋の外へと導いた。
「え、ほ、本当に……?」
「……あぁ、すぐに行く」
彼女の背を優しく押して、部屋へ戻らせる。そして、静かになった部屋で、扉に背を預けて座り込んだ。頭に手を当て、床を見つめる。
愚にもつかない愚か者だ。鉄の決意を固めたつもりでいながら、結局、たったの一言で、理性を手放してしまった。
彼女を自分のものにすることが、果たして正しい判断なのか、今でもわからない。しかし、ひたむきな、彼女の瞳が頭から離れない。
結ばれたい。その肌、その髪に触れ、その吐息に触れたい。その声で、何度も名を呼んでほしい。
そう思ってしまえば、もう、自身を止めることなどできなかった。
そして、何より、彼女との子がほしい。
透が生まれたときの国和の姿が頭に浮かび、思わず微笑む。当時は、何をそれほど浮かれているのかと揶揄したものだったが、今、初めて分かった。
彼女との間に子が生まれれば、きっと、恐れるものなど何もなくなる。その子のためならば、自分は何にだってなれるだろう。
その子も、遅かれ早かれこの世界で生きていかなければならない。そのことに罪悪感を抱かないわけではない。しかし、どんな手段を講じても、妻と子だけは守りきるのだ。
そう覚悟を決めてしまえば、世界は、ずっと整然として見えた。
悩むことなど、何もなかった。ただ強くあればいい。彼女と、まだ見ぬ子を守るためだけに。
そして、これからは、その笑顔とともに生きていくのだ。
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