薄幸の佳人

江馬 百合子

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第二十九話 愛しい我が子

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「陽子、調子はどう?」

 枕元のジュリアの声で静かに目が覚める。朝ぼらけの中、少しだけ冷たい空気の中、彼女はとても神聖で、まるで一児の母には見えない。
 遠くで、薫が湯を沸かす音が聞こえる。
 もう、身を起こすことすら満足にはできないけれど、それでも、微かな音や気配から、誰が何をしているのかすぐに分かる。
 ジュリアが椅子の上で身じろぎをする音、薫が窓を開ける音、伊勢が食事を運ぶ音、清宗が扉をノックする音、そして、あの子たちが窓の外から、そっと花を差し出す気配。
 まさか、これほど体調が急変するなんて、思いもよらなかった。誰もが予想していなかったに違いない。
 現に、清宗の取り乱し様は尋常ではなかった。時成でさえ、どうにもならないと匙を投げたほどだ。今度こそ、人生に絶望してしまう。そう、陽子は直感した。
 だから、彼女は優しい嘘をついた。
 出産で、少し調子を崩してしまっただけだ。またすぐ良くなる。自分の体のことだから、自分が一番よく分かっているのだ、と。
 確かに、陽子にはよく分かっていた。自分の命が、もう長くはないのだということが。
 だからこそ、彼にはあの子を守ってもらわなければならない。本来なら、自分が、どんな災いからも守り抜くつもりだった。けれど、もはやあの子の盾として生きることすら許されない。
 全てを彼に委ねて先に逝くのだ。心残りと罪悪感で、胸が千々にちぎれんばかりに痛む。
 自分の残酷な嘘に、恐らく彼はもう気づいている。そして、それに気づいていながら、気づかぬふりをしている彼は、思っていたよりずっと優しく、ずっと臆病だ。
 彼は、何を恐れているのだろう。あの世界に、また一人取り残されることだろうか。
 あの子の希望が、いつか失われはしないかと案じているのかもしれない。
 この三年間、彼は、誰よりもあの子の親だった。
 免疫が下がり、何とは無しに病気がちだった母に、あの子はほとんど会えなかった。それは、当然だった。藤泉院家の後継に、病原菌を近づけるわけにはいかない。週に一度、下手をすれば数週間に一度しか会えないこともあった。そして、こうして床に伏せてからは、満足に顔を見ることさえできない。
 あの子に寂しい思いをさせてはいないか。そればかりが気が気でなく、夜は一晩中泣き続けることもあった。
 しかし、それは杞憂だった。陽子が体調を崩してのち、強張ったように厳しい顔をするようになった薫が、まるで我が子に接するように、厳しくも優しく親友の子に寄り添った。そして、薫が陽子に付き添っている間は、ジュリアが、長子日向とともに、母の姿を探し泣く子を、慈しみ、育ててくれた。
 そして誰より、寝る間もないほど働き詰めているはずの彼こそが、最も長い時間、あの子のそばにいた。そして疲労の色など露ほどにも見せず、その様子をこまめに妻へと伝えた。
 あの子は、夫の最後の生きる糧になる。陽子はそう直感した。
 彼だけではない。あの子が生まれた瞬間、二人はどんなものにも負けない強さと勇気を得た。
 陽子は死の淵にいる今でもなお、思い出す。二人、月明かりの下、生まれたばかりの我が子を見つめながら、未来に思いを馳せたあの夜を。
 

――――……


 古めかしい椅子に腰掛けて、清宗は、出産を終えたばかりの妻の横顔を盗み見た。窓枠から差し込む月光に照らされ、血色の良い頬がぼんやりと映し出されている。
 その視線に気づいたのか、陽子は寝台の上で目を細めた。

「清宗様、いつまでそうしているつもり?」

 陽子は面白そうにくすくすと笑ったが、清宗は至極真面目な顔で妻を見つめた。

「……其方が無事で、本当に良かった」

 こうして、彼女が眼前で微笑んでいることが、まるで夢のようだった。一瞬でも目を離した隙に、幻のように消えてしまいそうで、恐ろしい。清宗は、その存在を確かめるかのように、薄く温かい手の平を、冷たい両手で包んだ。

「……陽子、ありがとう」

 何も、持たない人生だった。このまま、一人暗闇の中に座し、現世を治め、そして誰の目にも触れることなく静かに朽ちていくつもりだった。それが課せられた運命なのだと思っていた。
 そんな自分が、まるで血の通った人の子のように、恋をした。渦潮のように激しく、制御の利かない感情に、嬉しさよりもまず恐れが先立った。そして結局、その想いに抗えず、彼女を暗闇に引きずり込んでしまった。
 今でも、後悔している。しかし始末に負えないのは、例え何度過去を繰り返そうとも、彼女を諦めることなどできないと分かっていることだ。
 それなのに、彼女は、そんな化け物を、愛してくれた。心からの愛をもって、向き合ってくれた。初めは、哀れみだったのかもしれない。同情から、優しく接してくれていたのかもしれない。しかし、それでもいい。彼女は確かに、自分を愛してくれた。
 世界に、少しずつ、色が灯り始めた。
 そして、彼女と自分の間に、子が生まれた。化け物だった自分は、一人の娘の父となった。
 一寸先も見えない程の闇に、たった一人で蹲っていたはずなのに、いつの間にか、傍らには愛する人が、そして二人の両腕には、守るべき、小さな命が抱かれている。その周囲にはたくさんの人々が集い、世界は、太陽に照らされ始めた。
 これほどの幸せを、何と表せばいいのか。これは、現実なのか。目が覚めたら消えてしまうのではないかと恐れてしまうほどに、世界は光で溢れている。
 幼い娘が、この先、不自由な世界で雁字搦めに縛られ、悲しむことはないか。それだけが、今清宗の抱える不安の全てだった。

「……何て顔をするの、清宗様」

 そう言って、陽子は白銀に輝く頬を撫でた。

「……あの日、私がここへ嫁いで来た日も、清宗様は泣いているように見えたの」

 月が、雲に覆われたのか。申し訳程度に燭台の灯った部屋の中で、清宗の表情は見えなくなった。

「――あの日から、ずっと、私は後悔している。其方を、巻き込んでしまったことを」

 陽子は、「分かってるわ」と穏やかに頷いた。後悔も、罪悪感も、全て包み込むように。

「清宗様は、優しいから。私が何を言っても、きっと自分を責めるのよ。困った人だわ」

 そう言うと、からからと笑った。
 清宗は、暗闇の中で苦しげに眉を寄せた。

「あの子が、其方と同じように苦しい思いをしまいか……」

 そこまで言うと、清宗はかぶりを振った。言うても詮無きことだと気づいたのだろう。
 そのとき、再び月光が差し込み、寝台を照らした。その光の中で、陽子は強く微笑んだ。

無月むつき

 そう、静かに口が開かれる。

「あの子の名前は無月。ずっと、決めていたの」
「無月」

 清宗は口の中で呟くと、窓枠の外の月を見つめた。

「月を、雲が覆っているとき、地上は暗いでしょう?そのときは、人の目を気にせず好きなことができるわ。日の光の下でも、月の光の下でも、あの子はきっと、心から自由には振る舞えない。でも、月が隠れているときは、何をしても、誰の目にも映らないわ」

 だから、無月。
 自由に生きていけるように。
 好きなように、振る舞えるように。
 あの子は大丈夫。情けない母とは違う。
 強く、自分を保って、生きていける。

「私、女の子が生まれるって分かってたの。清宗様が、子煩悩になることもね。この子の名前は清宗様につけてほしかったんだけど、どうしてもこの名前がいいと思って。だから、この名前は、清宗様が付けたことにしてね」

 清宗は、深く頷いた。そしてまた「無月」と呟くと、「可愛らしい名だ」と笑った。


――――……


 産後、数日もしないうちに、陽子の状態は悪化した。まるで、自身の生気を、全て子に注いでしまったかのようだった。
 しかし、当初は誰もそれほど深刻には考えていなかった。彼女の幸せな笑顔から死を連想することはとてもできなかったからだ。
 医師が軽い運動を勧めたこともあり、毎朝、朝食前に、陽子とジュリアはそれぞれ腕に子を抱いて、庭を散策した。
 夜明けの空を眼前に、くるぶしほどの長さの裾をはためかせながら、冷たい、清廉な空気を胸いっぱいに味わう。こうしていると、自分の中の悪い病が浄化されるのではないか、そんな考えがしごく真っ当に思えるほど、暁の空気は特別だった。
 隣に並び立つジュリアは、いつも朝日が紺色を照らし出す様を静かに見つめていた。何を、思っているのだろう。そう考えずにはいられないほど、静かな横顔だった。彼女がその表情をするとき、その手はきつく赤子を抱きしめていた。
 あるとき、登り始めた朝日に目を据えながら、とうとう、ジュリアが口を開いた。

「ここから見える夜明けは、国の朝焼けとよく似ているの」

 陽子は、彼女の言葉を途切れさせないように、頷いた。

「朝、まだ暗いうちに起きて、森の中に水を汲みに行くの。それから、家に帰る途中の丘で、ちょうど日が昇り始めて……私、いつも足を止めて見惚れてた。草原の香りも木々の香りも、この庭ととてもよく似ているの。でも、あの国には、隣で朝日を眺めてくれる人はいなかった」

 陽子は驚いてジュリアを振り返った。ジュリアは、悲しげに微笑むと、僅かに頷いた。

「国に、家族はいないの。両親も、兄弟も、親戚も。私は田舎町のはずれの小さな小屋で、たった一人で暮らしていたわ」

 陽子は、言葉が見つからなかった。何故、とは聞くまい。自分も、両親に拾われなければ、天涯孤独の身だったのだから。
 彼女の動揺を見て取ったのか、ジュリアはくすくすと笑った。

「だから、今がとても幸せ。幸せすぎてどうにかなりそう。彼に出会って、この子を授かって、友達にも恵まれて。彼は籍を入れることにこだわっているけれど、私は本当はどちらでもいいの。ただ、今このときが、ずっと続けばいいのに」

 陽子は、ジュリアの肩に頭を乗せた。

「ずっと続くわ。時成さんが家の人たちを説得して、二人が結婚して、この子たちはどんどん大きくなって……」

 陽子の声が震えた。そんな未来に、果たして自分は生きられるのだろうか。子どもたちの成長を、そばで見守ることが、できるのだろうか。
 涙を押し戻しながら、腕の中の娘を見つめた。まっさらな肌に、綺麗な黒い瞳、花弁のような口。本当に、夫によく似ていると、陽子はその頬を撫でた。
 不思議な感覚だ。夫に、とてもよく似ているのに、存在そのものは、自分に、限りなく近く感じるのだ。まるで、自分の体の一部のようにも思える。

日向ひなた君の名前は、二人でつけたの?」

 暗い考えを打ち消すように、陽子は強いて明るい声を出した。
 ジュリアはそれに気づいていたのであろうが、あえて気づかぬふりをして応じた。

「私がつけたの。あなたの名前に因んで」
「私?」

 全く予想していなかった答えに、陽子は瞬いた。

「初めてあなたの名前を聞いたとき、すごく素敵だと思って。この子が生まれたとき、絶対にお日様に因んだ名前にしようって考えたの。日向と無月で、月と太陽ね」

 そう言ってはにかむジュリアは、いたずらがばれた子供のようだった。
 月と太陽。そうあればいいと陽子も思った。しかしそれは、二人に夫婦になってほしいということではない。恋人という関係でなくてもいい。ただ、この不自由な世界で、互いに支え合っていける関係であればいい。
 太陽と月は、古来から番を連想させる。それは、本意ではなかった。二人には、自分の意思で愛する人を見つけてほしい。
 無月という名には、確かに月という字が入っている。しかし、陽子にとって、無月は星を意味していた。
 月が無い夜に、いっそう眩しく瞬く夜空の星々を。
 そう、ジュリアに話すと、彼女は夢見るように目を閉じた。

「……この子たちは太陽と星なのね」

 同じときは生きられない。それでも、太陽は昼に、星は夜に輝く。夕暮れと朝焼けの一瞬間交わり、そしてまた、それぞれのときの中で、静かに光を放つのだ。



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