薄幸の佳人

江馬 百合子

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第三十話 未来への祈り

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 医師の切羽詰まった声が途切れ途切れに聞こえる。
 きっと、この命は今日まで。そう思うと、悲しみを感じるより先に、双眸から涙が溢れ出した。
 視界の端に、小さな子どもの頭が見える。嗚呼、この子を残していかなければならないなんて。
 小さな頭に、そっと手を置いた。

「お母様?」

 そう、呼ばれた気がする。母がこの世を去るなんて、思いもよらないに違いない。
 意識が、少しだけはっきりしてきた。周りをぐるりと見渡す。そこには、医師と薫と無月と伊勢、それから、時成、ジュリア、日向がいた。
 清宗は、今日、朝一番に外出しなければならなかった。こんなことになるなら、引きとめればよかったと、陽子は夫に強く罪悪感を覚えた。
 もし、死に目に会うことができなければ、彼は生涯自分を責めるに違いないのに。

「……時成」

 自分でも驚くほど掠れた声が出た。彼も、驚いたに違いないが、そんなことはおくびにも出さず、明るく微笑む。

「何だい? 陽子ちゃん」
「……少しだけ、薫と二人で話がしたいの」
「あぁ、分かったよ」

 そう言うと、時成はそっと陽子の頭を撫でた。まるで、大切な妹を慈しむように。

「清宗も、もうすぐ戻るはずだよ。僕たちも部屋の外にいるから、何かあったら呼んでくれ」

 体に響かないような、静かな声音が身に染みて、陽子は泣きそうになった。よく見ると、時成の目にもうっすらと涙が浮かんでいる。

「ジュリア」

 陽子の呼びかけに、日向と無月を連れて、彼女はそっと近づいた。そして、口元に耳を寄せる。何も、聞き漏らさないように。しかし、聞き取れたのは、たったの一言だった。

「……ごめんね」

 驚愕に目を見開きながら、ジュリアは陽子の手を握る。

「どうして……謝るの?」

 絞り出すような問いに、陽子は困ったように微笑む。

「この世界に、置き去りにしてしまって。あなたの手を引いて歩いて行こうって、思っていたのに」

 ジュリアの瞳から、ぱたぱたと数滴の雫が落ちた。

「私なら大丈夫……謝らないで。無月ちゃんのことも、心配しないで。私が、必ず守ってみせるから」

 すると、陽子は首を振った。

「あなたには、逃げてほしいの」

 やっとジュリアの耳に入るほどの、低く、小さな声だった。

「死んでしまっては、どうにもならないって、私やっと分かったの。大切な人を置き去りにして……孤独にして、一生後悔させてしまう。生きてさえいれば、また会うこともできたのに。だから、お願い」
「……分かったわ」

 意地を張り、その地で神経をすり減らしながら生きることより、逃げて、遠い地を思いながら暮らすことの方が、ジュリアにとっては、辛いことのように思われた。
 しかし、これが、生まれて初めてできた友人の、最期の願いなのだ。

「無理はしない。もし、危険だと思ったら、逃げる勇気を持つわ」

 その答えに、陽子は淡く微笑んだ。
 そのとき、両脇で大人しくしていた二つの小さな頭が動いた。

「お母様、今日は元気?」

 すっかり口癖になってしまった「今日は元気?」に、陽子は涙がせり上がってくるのを抑えきれなかった。
 重くて仕方がなかったはずの腕で、その小さな頭を、力いっぱい抱きしめる。

「……無月……!」

 この子には、たくさんの味方がついている。自分がいなくなっても、きっと、皆が守ってくれる。そう信じているはずなのに。
 何も知らないこの子を置いていくことが、これほど心残りだとは。
 もう、自分には、この子を導くことも、守ることもできない。
 ならばせめて、空の上から、この子の歩む道を見守らせてほしい。この子の生きていく道を、守らせてほしい。
 陽子は、祈りを込めて、瞳を閉じた。
 どうか、この先、この子の人生が、楽しく実り多いものでありますように。
 支え合い、励まし合える仲間と、巡り会えますように。
 どんなときも、その心が、豊かで温かでありますように。
 そして、いつも笑顔でいられますように。
 どれだけ祈っても、心配で、心配で、仕方がない。
 この子が幸せになれるのなら、どんなことでもするのに。
 母を探して、泣くだろうか。それとも、すぐに忘れてしまうだろうか。きっと、暫くの間は泣くだろう。でも、できることなら、なるべく早く忘れてほしい。悲しみを心に留めてほしくはない。それはきっと、この子の毒になってしまうから。
 陽子は、両手を解くと、不思議そうにしている我が子の頭に軽く手を乗せた。

「……無月、皆の言うことを、よく聞くのよ。日向君と、仲良くね」

 そして、その隣の、黄金色の小さな頭を、そっと撫でた。
 その心配げな表情に、この子は無月よりずっと多くのことに気づいている、と陽子は察した。
 きっと、いつかは忘れてしまうに違いない。しかしそれでも、陽子は言わずにはいられなかった。

「日向君、どうか、無月の味方でいてあげて」

 それだけ言うと、目線を壁際に控えている伊勢へと移した。

「伊勢さん」
「……恐れながら、私に敬称をつけて呼ばれるのは、お控えください」

 陽子はくすりと笑うと、頷いた。

「……伊勢、この子たちを頼んだわ」

 彼は、深く、深く腰を折った。だからきっと、彼の頬が涙で濡れていたことには、誰も気付かなかったに違いない。
 時成が、そっと扉を開いた。その後ろを、ジュリアが、無月と日向の手を引いて続いていく。
 伊勢が最後に扉を閉めるまで、陽子はその後ろ姿を、静かに見つめていた。
 名残惜しいのが痛いほどに伝わってくる。まともに見ていられないほどだった。それでも、薫は絞られるように痛む胸を抑えて、陽子の傍に跪いた。

「陽子」

 静かな呼びかけだった。薫は、こんなときでも、強く冷静だ。だからこそ、他の誰でもなく、彼女に託したい。

「薫、今まで、ごめんなさい」

 気づいていたのだ。体調を崩してからずっと、実家に帰らせたがっていることにも、夫に反感を持っていることにも、ずっと。
 薫が何も言わないのをいいことに、それに気づかぬふりをして、その優しさにつけ込んできた。
 その上更に、残酷な頼みをしなければならない。

「私は、酷い親友だわ。薫、私は貴女を、この家に縛りつけようとしているの。どうか、私を許さないで」

 涙が、次から次へと溢れてくる。
 親友の幸せを願っていたつもりだった。しかし、蓋を開けてみれば、自分はこんなに利己的だ。

「薫、どうか、あの子を、無月をお願い。どんな手段を使ってもいい。どうか、あの子が生きていけるように、守ってあげて」

 それは、薫を生涯藤泉院家に留めることを意味していた。親友が死してもなお、あの世界で生きていくことを。

「それから、どうか、清宗様を支えて」

 その名を聞いた瞬間、薫の頭にかっと血が上った。何故、あの男を助けねばならないのか。あの、憎い男を。あいつさえいなければ、あいつが、愛する親友に目をつけなければ、こんなことにはならなかったのに。
 そんな薫の内心を見透かしたのか、陽子はゆるゆると首を振った。

「駄目、駄目よ薫。誰かを恨んではいけないわ」
「どうして! あの男は、貴女が床に伏してさえ、家に帰そうとしなかった! もし帰っていたら、助かったかもしれないのに!」
「……それは違うわ、薫」
「陽子!」
「違うの」

 その瞳が、死の淵にいるとは思えぬほどに澄んでいて、薫は言葉を失った。

「ここで生きると決めた私の意思を、清宗様は守ってくださったのよ」

 この地に生きる決意を固めたあの日、陽子の瞳にこもっていた空色の意志は、今なおそこにあった。

「薫、私、本当に幸せだったの。ここを離れるなんて、とてもできなかった」

 陽子の頬に、一筋涙が伝った。

「死んでしまうことすら、怖くなかった。でも、やっぱり今は、すごく怖い。残されたあの子が悲しまないか……あの人が、この世界に絶望してしまわないか、それだけが、怖くて怖くて仕方がないの」

 だから、と陽子は涙でぐしゃぐしゃになった顔で告げた。
 いつの間にか、薫の頬も、滝のような涙に濡れていた。

「どうか、この家に入って、あの子の母親になって。清宗様を支えて、お願い」

 薫の胸を千々に乱れた思いが吹き荒れた。冗談じゃないと叫び出しそうだった。いくらあの子のためだとはいえ、友の夫の後妻になるなど。親友を殺した男の奥に入るなど。考えるだけでうずくまりそうだった。

「――陽子、そんなこと、心配しなくていいの」

 それでも、はち切れんばかりに痛む胸を押さえつけ、ただ、友の安らかな眠りだけを祈り、薫は強いて穏やかな声を出した。

「言われなくてもあの子のことは、自分の娘のように思っているから。どんなことをしてでも、守ってみせるわ。清宗様のことも、心配しないで。あなたの言う通りにする。清宗様には、私からお伝えするわ」

 そう言って、にこりと微笑む。
 この瞬間、薫はこれから先の人生、自分の心を殺して生きることを決めた。


――――……


「旦那様がお戻りになられました……!」

 珍しく上ずった伊勢の声とともに、清宗が部屋に駆け込んで来た。

「陽子!」

 柔らかい微笑みを浮かべながら、陽子はその手を取った。

「清宗様、泣かないで」

 先ほどまで涙にくれていたのが嘘のように、穏やかな笑顔を浮かべる。

「笑って」

 それが清宗の心を乱した。

「……笑えぬ。其方を失えば、私はもはや明日さえいらないと……」
「清宗様、お願い」

 陽子は、祈るように瞳を閉じた。

「幸せな人生を歩んでほしいの。私は一足先にこの地を去るけれど、見守っているわ。私を忘れられないと言うなら、私が貴方の笑顔を願っていることを、どうか、忘れないで」

 清宗は、眉を寄せて俯き、絞り出すように声を発した。

「……其方は何故、笑っているのだ」

 その瞬間、彼女は花が綻ぶように笑った。

「……幸せだから。貴方の妻として生きられたことが。貴方の側にいられたことが。貴方に、こんなに愛されて……」

 浮かんできた涙を、瞬いて押し戻しながら、陽子は決して泣くまいと笑う。

「たくさん、苦労をかけてしまって、ごめんなさい。でも、私、何度人生をやり直すことになっても、必ず貴方の元へ現れるわ。貴方を知らないまま百年生きるなんて、きっと、耐えられない。できることなら、何度でも、貴方と巡り会いたいの」

 清宗は、ゆるゆると頭を振った。苦労をかけたのは自分の方だというのに、彼女は決してそれを認めようとはしない。

「清宗様、私を愛してくれて、ありがとう。私を、見つけてくれて、本当に、ありがとう」

 嗚呼、これは間違いなく、彼女の本心だ。
 そう、否が応でも認めさせられた。
 嗚咽が喉を震わせる。それでも、清宗は、精一杯微笑んだ。

「何度でも、見つけよう。陽子……一人で寂しいだろうが、少しの間、待っていてほしい。私もすぐに行くと言いたいが、まだ、其方の元へは行けぬのだ」

 陽子の表情が、より穏やかになった。

「ありがとう。無月を、お願いね。薫に、全て伝えてあるから――」
「陽子!」

 清宗の叫び声に、廊下から、時成、ジュリア、日向、伊勢、そして、無月を抱えた両親が駆け込んできた。
 最期に会えて良かった。最後の力を振り絞り、陽子は再び口を開いた。

「……お父様、お母様、ありがとう」

 視界が徐々に狭まっていく感覚に、自身の最期を悟った。苦しくも、悲しくもない。これまでの人生を思えば、あまりにあっけない。
 先ほどまでは、あれほど心残りだったのに、両手に夫の体温を感じている今、不安なことなど何もなかった。
 幸せな、人生だった。
 両親に愛され、友に恵まれ、唯一の人に出会えた。決して楽なことばかりではなかったけれど、苦しいことの百倍、千倍の幸せで、胸がはちきれそうだった。
 無月……愛しい愛娘。あの子を授かった奇跡に、どう報いればいいのだろう。成長した姿を側で見届けることができないのは、やはり少しだけ、心残りだけれど、いつの日も、空の上から見守ろう。
 どうか、皆が、健やかに、楽しく、暮らせますように。
 
 春もうららかなその日、満開の桜の元で拾われた少女は、まるで、妖精に連れられたかのように、ひっそりと息を引き取った。


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