籠の狐は空を知らず

みや

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籠の狐は空を知らず

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籠の狐は空を知らず

【九尾 朧 視点】

この村ではぼくの名前を呼ぶ人がいない。
名前を呼ばれることがないだけで、名前はちゃんとある。
 
九尾朧

家にいても、村を歩いても、誰もぼくを見ない。見ない、というより見てはいけないものらしい。

障子の向こうで家族の声がする。湯気の立つ味噌汁の匂いがして、箸が触れ合う音がして笑い声が落ちる。
でもそこに、ぼくの居場所はない。

母はぼくを産んだ人だけれど、目を合わせてくれたことも、暖かいご飯をくれたことも、抱きしめられたこともない。
父はぼくが視界に入ると眉をひそめる。
祖父も祖母も、まるで最初から存在しなかったかのように、ぼくの横を通り過ぎる。

 ――九尾家に伝わる狐の呪い。

白に近い髪色、光の加減で金色に見える瞳。
狐憑きの声を聞くと、人は魅了されて人の道を外してしまう。
狐憑きの体に触れると、二度と正気には戻れない。
魅入られると、不幸になる。

だから九尾朧には近づいてはいけない。
情をかけてはいけない。

そう言われていることは小さいころから知っていた。兄からも耳が痛くなるほど教えられた。でも、兄が真実を教えてくれた。

この名家、九尾家には跡継ぎが1人でもいればもう子どもは不要だということを。
本来なら生まれて直ぐに、間引かれる存在だったのだと。男児なら尚更、2人もいらないのだと。跡継ぎを巡って争わないためにも男は2人もいらないのだと。

だけど、九尾家の言い伝えである狐憑きの特徴がそのまま見た目に出ていた不幸な赤子は、狐憑きを殺すと呪われるという言い伝えのお陰で命を救われたという真実を。

   間引かれなかったのが幸か不幸か、
今では分からない。

そして、更に不幸なことは
 ぼくは人が好きだった。

誰かが落とした手袋を拾って追いかけたことがある。
重そうな桶を運ぶおばあさんを手伝おうとしたこともある。
でも、声をかけると皆、視線を逸らした。

そのうち、学んだ。
 ぼくが話しかけるとみんな困るのだと。
村のルールを守るために頑張っている人たちの邪魔をしてしまうのだと

だから、ぼくは今日も一人で村を歩く。
誰にも触れないように、誰の邪魔にもならないように。死人が着るような白い着物は、汚れが目立っても誰も気にしない。

ぼくは、上手に“いないふり”ができる。

でも、兄の九尾 宗珠だけが、唯一ぼくを呼んでくれる。

 「朧」

その声を聞くと、胸が少しだけ軽くなる。
兄は、ぼくに触れる。頭を撫でて、顎を持ち上げて、じっと顔を覗き込む。

 「今日も綺麗やな」

それは褒め言葉のはずなのに、まるでコレクションしている物を見て褒めるような軽い口調だった。それでも、名前を呼ばれるだけで嬉しかった。要らないと言われたぼくを、「俺がもらってやる」と言ってくれた人だから。

たとえそれが、籠で飼うという意味だったとしても。

学校へは行かせてもらえない。
理由を聞いたことはないけれど、きっと呪いのせいだ。

同じ年頃の子どもたちが、制服を着て歩くのを遠くから眺める。笑い声が風に乗って、胸の奥に刺さる。

羨ましい、なんて言ってはいけない。
欲しい、なんて思ってはいけない。

ぼくは、普通の幸せを持ってはいけない穢い人間だから。

それでも、ときどき思う。
もし、ぼくが普通の色をしていたら。
もし、金色の瞳じゃなかったら。
もし、九尾の子じゃなかったら。

でも、その「もし」は、いつも途中で消える
夢見ても、結局ぼくは学校には通えないし、
友達と遊ぶこともできないし、家族にも愛されない。夢見ても、無駄なだけ。
 
学校も家もないぼくは、村をフラフラ歩いて、たまに蝶々を捕まえてみたり、落ちている石をひらってみたり、
早くその日が終わることを願いながら時間を潰していた。

村の外れに、駐在所がある。
どうやら最近、新しい人が来たらしい。

大人たちがひそひそと話す声を聞いた。
 「若い男」都会の人」「すぐいなくなるだろう」と。

でもぼくには関係ない。
どうせ、ぼくを見ない人がまた一人増えるだけだ。何も変わらない。

そう思っていた。

その人と、目が合うまでは。

道の角で、偶然。
ほんの一瞬、視線が交わった。

逃げなきゃ、と思った。
いつものように、見えないふりをされる前に。

でも、その人は目を逸らさなかった。
それは確実にぼくへの視線だった

 胸が、きゅっと痛んだ。

 期待してはいけない。
 信じてはいけない。

 それでも心が勝手に、あの人に
 名前を呼ばれる未来を想像してしまう。

『朧くん』

そう呼んで、ぼくのはなしを聞いてくれて
一緒に、幸せな時間を過ごしちゃったりして。

 ――ああ。でも、ぼくが関わると
前の駐在さんみたいにいなくなっちゃうかもしれないから。

幸せになんてなれないよ

いつだって、人の幸せを奪うのはぼくの方なんだから。


-------

【三上 悠真視点】


この村に着いた瞬間、空気が止まっていると思った。山に囲まれた小さな集落。道は狭く、家々は古い。懐かしい、と言えば聞こえはいいが、どこか閉鎖的で息苦しい。

 ――三上悠真、二十六歳。新米警察官。
こんな辺鄙な村の駐在所への転勤が決まった。理由は「人手不足」とだけ聞かされた。
前任者がなぜ辞めたのか、詳しくは知らされていない。ただ、前の署の先輩が苦笑いしながら言った。

 「あそこは長く居る場所じゃない。あんまり深入りするなよ。」

その言葉が、頭の片隅に引っかかっていた。

村人たちは礼儀正しい。
挨拶もするし、表情も柔らかい。
なのに、会話の端々に、微妙な“間”がある。

何かを言いかけて、飲み込む。
視線が合っても、すぐに逸らされる。

 ――何かを隠している。

それが、この村の第一印象だった。

そして、引っ越してきた初日。荷物を移し終えて、駐在所の裏を歩いていたときだった。
人の気配がする。

振り向いて、思わず足が止まった。

驚くほど白い
まるでオバケのような人がいた

道の脇に立っていたのは、10代半ばの年若い少年だった。死装束のような真っ白な着物。
血の気のない肌。灰色の髪が風に揺れて、陽に透ける。

生きているのか、死んでいるのか
一瞬、分からなかった。

けれど、次の瞬間少年がこちらを見た。

不思議な金色の瞳
その目を見だけでぎゅ、と胸を掴まれた気がした。色気とか、そういうものなのかわからない。ただ、見てはいけないものを見たような感覚。見たら最後、この人を二度と忘れられないだろう。それくらいインパクトがあった。不思議な引力が働いているかのように目を逸らせない。

少年の方も気づいたようだった。
びくり、と華奢な肩を揺らし逃げるように視線を落とす。

その仕草が、妙に痛々しかった。

 「あ……」

 声をかけようとして、止まる。

村人たちが、遠巻きにこちらを見ていた。
いや、正確には――少年のことは見ていない。視線は、俺の貫いてた。

《余計なことをするな》

まるで、そう言ってるように聞こえた。
その時、やっと村の違和感がはっきりと形を持った。
少年は、何も言わずに歩き出した。
追いかけるほどの仲でもないのに、なぜか焦りが込み上げる。

 ――待ってくれ

 そう言いかけて喉が詰まった

知らない土地、知らない風習、
駐在官として、軽率に踏み込むべきじゃない。頭では分かっていた。

 でも。

 振り返った少年と、もう一度目が合った。
怯えている。それなのに、どこか、期待しているような目。

 ……ああ。

 辞めた前任者は、
 これに狂わされたのかもしれない。

 少年は、角を曲がって消えた。
 白い影だけが、視界に焼きつく。

周囲の空気が何事もなかったように動き出す。誰も、何も言わない。

まるで最初から存在しなかったかのように。

その日、駐在所の記録を読み返した。
村人の家族構成、住民名簿、年齢の一覧。
1人だけ赤ペンで書かれた名前が気になった。その横にはメモ書きで、{家庭の都合により学校へ行っていない}という一言を添えられて。

九尾 朧

年齢は、現場十七。

九尾家。
村一番の名家。狐に呪われている、と噂される家系。

名前を見た瞬間、昼間の金色の瞳が脳裏に浮かんだ。

九尾 朧。

 胸の奥が、嫌な音を立てた。

彼のことを何も知らないのに、助けたい、なんて言葉はまだ使えない。そしてこの駆り立てられる焦りを、正義感だと決めつけるのも違う。でも、ただ一つ、確かなのは。

――俺は、彼を見なかったことができない。

この村は、何かを意図的に切り捨てている。

そしてその“何か”は、あまりにも、静かで、綺麗だった。



夜の駐在所は静かだ。虫の声と、古い時計の針が進む音だけ。机の上に積まれた書類は、前任者が残したものだ。

形式ばった報告書の束に混じって、
一冊だけ、表紙の擦り切れた手帳があった。

開いた瞬間、空気が変わる。

ひどい走り書きで日付も揃っていない。
几帳面な公文書とは、明らかに違う。

 ――個人的な記録だ。

最初の数ページは、村の様子や巡回のメモ。
だが、途中から文字が荒れ始める。
> この村はおかしい
> 住民が一人分、存在しないみたいだ

ページをめくる指が、自然と早くなる。

> 九尾家
> 村の名家
> だが、近づくな。

その下に、強くペンを押し付けた跡。

> 九尾には気をつけろ
> 逆らうな
> 関わるな

胸の奥がひやりと冷えた
でもページを捲る指は止まらない。
さらに読み進める

> 末の子
> 学校に行っていない
> みんな見えないフリをしている
> だが、確かに彼はいる。

最後のページは、ほとんど殴り書きだった。

> 助けようとした
> 無理だった

そこまで読んで、手帳を閉じた。
気分が酷く落ち込んだ

(こんな所で…やってけるのかな…)

その日はモヤモヤした気分を押さえつけて
なんとか眠りについた。

翌日、村の巡回に出た。昨日よりもやたら視線を感じる。そして大きな畑の前で、年配の男に声をかけられた。

「新しい駐在さんやな」

「はい。三上と申します、これからどうぞよろしくお願いいたします。」

帽子を外して例示正しく頭を下げると、
男は少し周囲を気にするように視線を走らせてから、小さな声で話しだした。

「………あんたは若くて未来のある人やから言うけどな……、あんまり…九尾の家に関わらんほうがええで。」

心臓が跳ねる
 

「どういう意味ですか?」

男は困ったように眉を下げ、それでも、笑おうとした。

「意味なんてもんないわ。そういうもんや。
昔から、決まっとる。」

すると、別の年配の女性が、会話に割って入る。
「駐在さん、他所からきたで知らんのやろけどな……九尾は、特別やねん。」

「特別、って?」

女は少し声を低くした
 
「近づいたらあかん。情かけたって、ろくなことにならん。」

「でも……白い着物の……、」

彼のことを言いかけた瞬間、男と女の表情が固まった。

「……あぁ、…あの子の話か」

 女がため息混じりに言う

「可哀想やとは思うで……せやけどな」

男が続けた

「情かけてもうて……助けようとした人、みんな居らんようなった。」

 「居なくなる?」

問い返すと、二人は顔を見合わせた。

女が、ぽつりと言う。

「九尾家の坊ちゃんに潰されてもうたわ」

ぞくり、と背中に寒気が走る。

「まぁ、……決まりを破ると罰が下るでな。」

その一言で会話は終わった
それ以上、誰も説明しない。
村の中に、見えない線が引かれている。
そして、その線の向こうにいるのが――

九尾朧

白い着物の少年の姿が、脳裏に浮かぶ。

怯えつつ、僅かな期待を抱く瞳。

駐在所に戻る道すがら、誰かの声が耳に残る。「決まりやから」という声が。

でもそれは、彼の人権を奪っていい理由にはなっていない。イジメ、村八分、差別、
決してあってはならない行為だ。

前任者は、これを壊そうとした。

そして――いなくなった。

恐怖に足が震える、でも、それでも、
それでも思ってしまった。

あの少年を、このまま見なかったことにしたら。俺もこの歪んだ村の一部になる。

それが何より、一番怖かった。

そしてその日の午後、村の権力である九尾家に挨拶をしに行った。
九尾家の屋敷は村の奥にあった。
門構えだけで、この家が“別格”だと分かる。
古いのに手入れが行き届いていて、威圧感がある。ここだけ、時間の流れが違う。

玄関に立った瞬間、何故か背筋が伸びた。
呼び鈴を押すと、間を置かずに足音がする。
まるで、俺が来ることが分かっていて、ずっと待っていたかのように。そして、立派な戸が開いて現れた男を見て、息を呑んだ。

俳優みたいな、オーラのある美形だった。

背が高く、高級な着物越しでも分かるほど
均整の取れた体つき。艶のある黒髪はきっちり整えられ、灰色の瞳が静かにこちらを見る。俺より歳下な上、背もあまり変わらないのに、何故か思わず緊張してしまう。
オーラが違うんだ。言葉にし難い圧のようなものを感じる。

 「新しい駐在さんですね」

 低く、落ち着いた声。
 敵意はないが、歓迎でもない声色。

「駐在の三上です。着任のご挨拶に参りました。」

一瞬、男の視線が鋭くなった。

 「……ああ、そうですか。」

口元に作ったような笑みが浮かぶ。

「俺は九尾宗珠といいます。
わざわざ御足労いただきありがとうございます。」

宗珠

村人たちが口を揃えて名前を出す、
九尾家の跡取り。

話し方は酷く丁寧だ。
一つ一つの所作も、非の打ち所がない。

それなのに

(――この人、危険だ。)

理由は言葉にできない。
ただ、視線が合った瞬間、
喉の奥がきゅっと縮んだ。
体が拒否反応を起こしている、

形式的な挨拶を交わした後は、世間話をした。宗珠は終始、穏やかだった。

「この村はとにかく静かなんですわ。
何も悪いことが起きへんのが自慢です。」

その言い方が、妙に平和を強調されて聞こえる。ははっと愛想笑いを浮かべていると、
ふと、視界の端で動くものがあった。

屋敷の奥の部屋、障子の隙間。
 ――白が見えた。

 一瞬だけ見えた

白い着物、灰色の髪、金色の瞳。
九尾朧だ。
息を吸うのも忘れて、そちらを見た瞬間。
宗珠の視線が刃物みたいに突き刺さった。

笑っている、なのに目だけが笑っていない。

 「………どこ、見とるんです?」

声は柔らかい。
 けれど、完全な警告だった。

 ――見るな。

 そう、はっきり言われた気がした。
俺は慌てて、視線を戻した。

 「 あ、いえいえ。立派なお屋敷だなと。
つい、見とれちゃいました。」

「…そう言うてもらえると嬉しいです。」

 もう一度、宗珠の背後を見たい衝動を、必死に抑える。

 「駐在さん」

 宗珠が、にこやかに言う。

「この村には、この村のルールっちゅうもんがあります。余計なことせんと静かにしとってくれたら……有難いです。」

――前任者のメモが、脳裏をよぎる。

 逆らうな。関わるな。

 「……分かりました」

 そう答えた自分の声が少し掠れていた。

 挨拶を終えて屋敷を後にする
 背中に、縋るような視線を感じる。
振り返らなかった。振り返れなかった。
さっきの金色の瞳を、もう一度見たら――
きっと、戻れなくなる。

駐在所への帰り道、胸の奥がずっと痛んでいた。関わらない。そう決めた。
そう決めたはずなのに。

あの障子の向こうで、名前を呼ばれない少年が今も、息を潜めている気がして。

その存在を、
 見なかったことにするのは

 あまりにも、残酷だった。


【九尾 朧視点】

屋敷の奥は昼でも薄暗い
障子の隙間から、外が少しだけ見える。
あそこに立っている人が、新しい駐在さん。
背が高くて、肩幅が広い。
服の上からでも分かるくらい、体がしっかりしている。

 ――すごい。

思わず、息を止めた。

「…ああいう人を…強い人って言うんだろうな」

自分の細い腕を見る
骨ばかりで、力なんてない。
羨ましい、かっこいい。

胸の奥が、ちくっと痛んだ。
ぼくにも小さい頃夢があった。

実は、警察官になりたかったんだ。

悪いことをする人を捕まえて、困っている人を助ける。かっこいい制服を着て、胸を張って歩く。

 ――ここから、外へ。

 でも、夢は夢のまま終わった。

 『お前は村の外には出られへん』

そう言われ続けてきたから
 それでも、駐在さんの姿を見ていると、
 胸の奥で、消えきらなかった何かが、微かに疼いた。

 ――あの人なら。

 あの人なら、この村のこと、おかしいって思うんじゃないか。

早々に立ち去ってしまった駐在さんが立っていた場所を見つめながら、そんな淡い期待を抱いた瞬間、空気が、凍った。

 「何しとるんや。」

 低く、冷たい声。

 宗珠兄さんだ。

振り返ると、いつもニコニコしている兄さんはもう、笑っていなかった。
灰色の瞳が、真っ直ぐこちらを射抜く。

 「……ご、ごめん、なさい…」

 これは、兄さんが怒ってる時の目だ。
怖い、声が震える

 「新しい駐在みとったんやろ」

一歩、近づいてくる。
逃げ場はない

「誰が、見てええ言うたんや?」

「っ……」

次の瞬間

 ―― パシっ

乾いた音が鳴り響くと
頬に、衝撃が走った。

床に倒れそうになるのを、必死でこらえる。

「また媚び売って助けてもらおうと思ってるんか?前の駐在みたいに。」

1発、2発、3発 頬を叩かれて
ついに床に崩れ落ちる。
兄さんは大して力を入れていないのに、平手打ち1発1発がひどく重かった。

 「お前はな、 俺のもんやねん。」

 耳鳴りがする

 「村のもんでもない、家族でもない。」

 息がうまくできない
 頬が痛い、耳鳴りがひどい。

 「お前は、俺が死ぬまでの暇つぶしや。」

ぐっと、顎を掴まれる。
視界が無理やり上を向く。

「それ以上でも、それ以下でもあらへん。」

自分の瞳に涙が滲んだのが分かった。
ぽろぽろと頬を伝って流れる涙はもう止まらない。

宗珠兄さんはそれを見て満足そうに微笑む。

 「分かったら、ええ子にしとき。」

手が離れると体の力が抜けて、その場に崩れ落ちた。畳のシミを見つめながら、ただただ涙を流していた。涙が畳に染み込んでいくのをただ見ている時間。この畳の無数のシミは、自身の涙が原因なのだ。
この部屋で、この場所で何度泣いたかもう分からない。しばらくして、夕餉の時間になった、けれど、いつもなら廊下に置かれるなけなしのご飯が来なかった。

居間からは食器の音、楽しそうな笑い声。
お味噌のいい香り。

 ――あ、今日は兄さんを怒らせたから…
ご飯をもらえないんだ。

胃がきゅっと縮む。お腹が空いた。
でも、それを口にする勇気はない。
自分の部屋に戻って、シミの増えた畳の上で、膝を抱える。
さっき見た、駐在さんの背中を思い出す。
強そうで、まっすぐで。

 遠い

自分とは、違う世界の人。

それでも、あの人が、一瞬でもこちらを見てくれた気がして。胸の奥で、消えかけた夢が、また小さく息をした。

 ――駐在さんを見てしまった。

 それが今日の罰。

ご飯も、
 機嫌のいい兄さんに頭を撫でてもらえるのも、全部、取り上げられた夜。

それでも、駐在さんの姿だけが、頭から離れなかった。そして朝になった。
障子の向こうが、少し明るくなって、
鳥の声が聞こえた。そしてまたお味噌や出汁の匂いがしてお腹がきゅるると音を立てる。
胃が、空っぽできりきり痛む。
喉も乾いている、耳鳴りがする。

立ち上がろうとして、ふらついた。

 ――だめだ。

ここにいたら、死んじゃうかもしれない。
そう思って、ふらふらと屋敷を出た。
誰にも声をかけられない、止められもしない。だってぼくはもともといないものだから。
村で唯一の綺麗な川までの道は、覚えている。何度も、何度も、ひとりで歩いた。
水の音が近づくにつれて、少しだけ、楽になる気がした。川辺は静かだった。
水を飲もうと腰を下ろそうとして、そのまま、崩れ落ちた。

視界が、ぐらりと揺れる。
空が、遠い。寒い。

「お腹……すいたな。」

そんなことを考える自分が、少しだけおかしく思えた。昔はごはんをもらえなくてお腹がすいたら、泣いていた。でも今はただ、力が抜けるだけ。

川の水が視界の端できらきら光っている。
手を伸ばせば、飲めるのに、腕が動かない。

まぶたが重い。このまま寝てしまったら、死んだりするんだろうか。
でもまあ、ここで死んだところで…誰も気づかないんだろうな。

そう他人事のように思ったとき

耳元で足音がした
規則正しい、しっかりした音。

 「……え?」

影が視界に落ちる。
逆光の中に、昨日見た顔があった。
駐在さんだ

 「……えっ!お、朧くん!?」

慌てた声も と地面に膝をつく気配。
肩に、手が触れる。

 「大丈夫か? しっかりして!」

 「……」

 声を出そうとしたけど、
 唇が、震えただけだった。

 駐在さんの顔が近づく

眉をひそめて泣きそうな顔で、必死そう。

 「あ……」

 やっと、音が出た。

 「……た、すけて……」

それだけ言ったら、涙が勝手にこぼれた。
恥ずかしいのに、止まらない。

 「……っ」

 駐在さんが、息を呑むのが分かった。

「……頬がこけてるし、叩かれた跡がある。
暴力を振るわれているのか?
ごはんも、食べさせてもらってないのか?」

首を、ほんの少し縦に動かす。
それだけで、精一杯。

するとひょいっと抱き上げられる。
地面が遠ざかってビックリする。

「大丈夫、もう…大丈夫だから。」

やさしい声

 ――ああこの人は、ちゃんとぼくを、
人を人として見てくれる。

安心したからなのか意識がふっと遠のく。
最後に見えたのは、青い空と、
必死に自分を抱えている、 駐在さんの顔。

 ――この人に、会えてよかった。

そう思えたことが、もう奇跡みたいだった。



【三上 悠真視点】

ふらふらと歩く朧くんを見かけたと、以前畑で色々と教えてくれたおじいさんがこっそり教えてくれて、川に向かった。
そして案の定川で倒れていた朧くんを抱えて、駐在所に戻る。

小さく震える体、白い着物は泥で汚れて、乾いた血の跡もある。低体温低血糖で力の入っていない身体を温めるべくお風呂に入れようと着物を脱がせると、細くて白い身体のあちこちに痣がいくつも散りばめられていた。
頬も少し赤くて腫れているし、叩かれたのだろう。そして、ガリガリに痩せた体を見て満足にごはんをもらっていないのがわかる。

 ――これは……虐待だ。
 
お風呂に入れる前にごはんを食べさそうと
とりあえず暖かいブランケットで体を包む。
台所で簡単に温かいお粥を作り、口元に運ぶ。最初は一口も食べようとしなかったが、空腹には勝てず、少しずつ口に運ぶ。

 「……美味しいか?」

そう聞くと、朧くんは小さな声で頷く。
言葉はほとんど出ない。
それでも、頬が少し健康的に赤くなるのを見て、胸がぎゅっと痛む。
食べ終わると、次はお風呂だ。少し熱めの湯に手を入れて温かさを確かめる。
少年は戸惑ったように肩をすくめ、しかしおとなしく湯船に浸かる。
肌の白さは、文字通り透き通っていた。
しかしよく見ると、古い痣や傷がそこかしこにある。誰かに叩かれ、カッターナイフのようなもので切られ、腹を蹴られた跡もある。

この子は、ずっと痛みに耐えてきたんだ。

胸がぎゅっと締め付けられる
警察官になりたかった理由が、頭の中で蘇る。悪いことをする人を捕まえて、弱い人を守りたかった。

 「……助けたい」

小さな声で呟くと、少年の金色の瞳が一瞬こちらを見た。怯えながらも、どこか安堵しているように見える。
怖がらせてしまうかもしれないから、まだ、抱きしめることはできない。
でも、守ってやれる距離に、今はいる。
この子を、こんな村から出してやらなきゃ。

村全体が、この子を“見ないことにしている”
それでも、少年の骨ばった肩と青白い肌を見た瞬間、俺の決意は揺るがなかった。

絶対に、この子を守る。

【九尾 朧視点】

湯上がりの体は、まだ少し震えていた。
濡れた髪が肩に貼りつき、気持ち悪い。
駐在所の暖かさが、妙に居心地よくて、もっとここに居たいと不思議な感覚に襲われる。
ソファの端に座って、膝を抱える。
手にした湯呑みから、温かいお茶の湯気が立つ。この緑茶はほんのり甘くて美味しい。

俺の横には、駐在さんが座っている。
優しい目でこちらを見ている。

(この人は、怖い人じゃない。悪い人でもない。いい人だ。)
 
そう安心したけど、でも、言葉は出せない。
この人を信じていいのかまだ分からない。

「ゆっくり飲んでくれ。体が暖まる。」

柔らかい声が耳に届く。それだけで、心の奥の硬い殻が少し割れる。

不意に頭をそっと撫でられた。
その力加減は、痛くもなく、強くもなく、絶妙に優しい。

―なんで、こんなに落ち着くんだろう。

今まで、家族も、兄さんも、村人も、
自分の存在を否定してきた。
でも、この人だけは存在を認めてくれている気がした。

ほんの一瞬、頬が熱くなる。
涙が、少しだけこぼれた。

 「……ありがとう、ございます…」
 
小さく、声にならない声で呟く。

駐在さんは、にっこり笑って、何も言わない。ただ、そっと頭を撫でてくれる。

それだけで、ぼくの胸の奥で、かすかな希望が芽生えた。

 ――この人なら、
 もしかしたら、守ってくれるかもしれない。

 怖い。でも、少しだけ、嬉しい。

 初めて、自分から人を信じてもいい気がした瞬間だった

「俺は三上悠真。悠真ってよんでくれていいから。」

「………ゆ、悠真…さん。」

幸せな時間だ。でも、じっとしていると、この時間が終わってしまう気がした。

だからつい、いつもの癖が出た。

 「……あの」

勇気を振り絞って声を出すと、悠真さんがこちらを見る。
その目が、やさしいから、胸が、きゅっと締まる。

「このご恩は、わすれません。」

そう言って、自然に膝が床についた。畳じゃない、冷たい床。
でも、それは慣れている。

背中を丸めて視線を落とす。

 「……なんでも、します」

声は震えていなかった。
何度も言ってきた言葉だから。

少しでも役に立てるなら、
お礼ができるなら。
 
「ぼくのからだ、好きにつかってください。」

それが、ぼくにとっての「お礼」だった。兄に教えられた、お礼。
でも一瞬、空気が止まった。

 「……は?」

 悠真さんの声が、低くなる。

顔を上げると、信じられないものを見るような目をしていた。

「……なんで、そんなこと言うんだ」

困惑、怒りじゃない。
それが、逆に怖かった。

 「……だって」

 言葉を探す

 「……ごはん、もらって」
 「お風呂も、入れてもらって」

 「……それで、何もしないのは……」

 だめでしょう?

そう言いたかった

 でも
 最後まで言えなかった。
悠真さんが、床に跪くぼくを強く抱き締めたから。

 「……それ、誰に教えられた」

 声が震えている。

 「……九尾家で、ずっと?」

 答えられなかった

 でも、答えなくても、伝わってしまった。悠真さんは顔を歪めて、しばらく黙り込んだ。

 「……違う」

 絞り出すような声

 「そんなこと、しなくていい」

 「君は――」

 言葉が詰まる

 「……君は、物じゃない。」

その瞬間、頭が真っ白になった。

物じゃ、ない?
役に立たなくても、何も差し出さなくても生きてていいの?

 「……じゃあ」

 小さく尋ねる

 「……ぼくは、何ですか?」

悠真さんは、一瞬、言葉を失ったあとはっきり言った。

「……みんなと同じ、人間だよ。」

胸の奥が、ずきん、と痛んだ。 
知らない言葉、知らない立場。
怖いけど、なぜか涙が止まらなくなった。

 「……ごめんな、ごめん、悪い大人ばっかりで、ごめんな。」

何故か泣きながら謝る悠真さん
その姿を見て初めて、思った。

 ――あ。
この人は、ぼくを人としてみとめてくれるんだ。それが、こんなにも怖くてこんなにも苦しいなんて知らなかった。

---------

【九尾 宗珠視点】

朧の部屋が、静かすぎた。
障子を開けた瞬間違和感だけが先に来る。

 ―― いない。

いつもなら躾の後は隅で膝を抱えているか、
畳に伏せるように眠っているのに。
息を潜めて、こちらの機嫌をうかがう気配があるはず。

 それが、ない。

 「……朧?」

 返事はない。

 部屋に足を踏み入れる。
 布団はそのまま。畳まれていない。

 逃げた?

 いや

 朧は逃げへん

 逃げ方を知らん

 胸の奥が、ひくりと動いた。

  廊下を進む。
 庭
 蔵
 裏口

 どこにもいない

 「……チッ」

 思わず舌打ちが漏れる

村人に聞く?いや、あいつらは役に立たん。
 朧の存在は「見えないもの」なんやから。
俺に場所を伝えるということは、見てることになる。だから俺には教えへんはずや。

頭の中に昨日の光景が浮かぶ。

 駐在
 あの男

 ――よそ者や。

 「……ほんま前回も、今回も…、警察ってのは正義感ばっかり強くてあかんなぁ。」

 腹の底がじわじわと熱くなる。

あれは俺のもんや。
誰が世話しとる思とる。
誰が生かしとる思とる。

村も、親もいらん言うたガラクタを
俺が拾った。

暇つぶしに、玩具として。
それやのに

 「……駐在所か」

 口に出した瞬間確信した

 あの男は、余計なことをする目をしとったから。

 正義感?笑わせるな

 この村で、正義なんて通らへん。

 「……返してもらわなな」

怒鳴る必要もない。
 焦る必要もない。

 朧はどうせ、遠くへ行けへん。

外の世界を知らなすぎる。

 それに。

 ――あいつは、俺を捨てられへん。

 捨てられる側やから。

 

【三上 悠真視点】

 駐在所の中は、昼過ぎでも静かだった。
朧は、ソファの端に座っている。
毛布を肩まで引き上げて、膝を抱えて。
少しだけ落ち着いてきた。駐在所にあるテレビを食い入るように見るから、つけてあげたら動く映像に目をキラキラさせながらずっと見つめていた。そしてタイミングよく子ども向けアニメがやっていて、かれこれ1時間、
朧くんは瞬きすら忘れてテレビに釘付けだ。
湯呑みを両手で持ったままで。まるで子どものようだ。
そんな光景に思わず笑ってしまう
しかし、突然朧の体が、びくっと跳ねた。

 「……っ」

 顔色が、さっと変わる。

金色の瞳が見開かれて、視線が、入口のほうに釘付けになる。確かに人の足音が聞こえる

 「どうした?」

声をかけた瞬間、朧は首を横に振った。

 「……くる」

 かすれた声。

 「……にい、……さんが……」

 呼吸が急に浅くなる。
 肩が小刻みに震え始めた。

 「大丈夫だ。ここは――」

言い終わる前に、朧はソファからずり落ちて、床にしゃがみ込んだ。
震えながら頭を抱え、長い髪をわしゃわしゃとかき乱す。

「……いやだ……殴らないで…蹴らないで……
くるしいこと、しないで……」

――その言葉で、背中に冷たいものが走った。この言葉は経験だ。

扉の外で、足音が止まる。

ノックが部屋に響く

朧が、息を呑んだ。

 「……っ」

床に額がつくほど、体を丸める。

 「……ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめん……」

扉ががらっとあちらから開かれる
そこに立っていたのは予想通り

九尾宗珠だった

「御免ください。」

丁寧な口調、穏やかな笑顔。

その視線が一瞬、室内を走る。
床にうずくまる朧を見た瞬間、
ほんの一瞬だけ、口元が歪んだ。
 
「……うちの者が、随分とお世話になったようで。」

 “うちの者”。

 その言い方に、ぞっとする。

「川で倒れていましたので、保護したまでです。」

宗珠は、軽く頭を下げる。
「それは…ご迷惑をおかけしました。
この通り迎えに来ましたんで、それを引き取ります。」

その声を聞いた瞬間
朧が、声にならない悲鳴を上げた。

 「……っ、……や……」

 床を這うようにして後ずさる。

 「……やだ………かえりたくない……」

その必死さに宗珠の表情がすうう氷点下までと冷えた。

 「朧」

 名前を呼ぶ声は、静かだ。
だがそれだけで、朧の体が強張る。

 「駐在さんに迷惑かけんなや。」

 その一言で朧の呼吸が完全に乱れた。

 ――もう、十分だ。
 俺は一歩前に出た。

 「この子は今、パニック状態です」

宗珠が初めてちゃんと俺に視線を向ける
ゾッとするほどの無表情だ。

「……はぁ…、これはうちの問題です。」

低く、呆れたような声。
だが俺は引かなかった

「それなら尚更です。身体中の痣と栄養状態、そしてこの様子を見て、何もないとは言えません。これは立派な虐待ですよ。」

沈黙後、宗珠はゆっくりと笑った。

「…駐在さん…正義感が強くてご立派やけども、余計なことには首を突っ込まんほうがええですよ。朧は普通の子とちゃうんです。
呪われた狐憑きなんですわ。」

村人たちの声が頭をよぎる

逆らうな、関わるな。

そして、いつの間にか朧が必死に俺の袖を掴んでいた。ブルブルと震える指で。

膠着状態が続いていると、宗珠の背後に気配が増えた。ひとり、またひとりと。
気づけば、駐在所の外に村人たちが、ずらりと並んでいた。

村中の老人から子どもまで、
誰も声を出さずにただ、睨んでいる。
その複数の視線は、余所者の俺と
そして、その足元で震える朧に向けられている。ゾッとした。集団圧力を感じる。

宗珠は振り返らない。
その視線は当然だと言わんばかりに

「……駐在さん…、ほら、この通り村の人らも心配しとるんですわ。」

嘘だ、心配じゃない、これは同調圧力だ。

空気が、重くなる。
朧が、俺の足元で息を荒くする。

 「……っ、……ごめんなさい…………ぼくが、わるいから……」

その言葉に歯を食いしばる
違う、悪いのはお前じゃない。

宗珠が一歩前に出る。

 「朧、帰るぞ。」

宗珠の視線が朧へ真っ直ぐ刺さる。

前任者のメモが、脳裏に蘇る。

九尾に逆らうな、関わるな。

もしもここで抵抗したら
この場で何が起きる?

俺一人で、この村全体を敵に回してこの子を守りきれるか?

 (……無理だ。)

 今はまだ、材料が足りない。

拳が震える。
だが、このまま感情で突っ込んでしまったらこの子を最悪な形で傷つけるかもしれない。

一度、引くべきだ。
心が裂かれる思いで、朧を引き渡そうとした。その瞬間、朧は自分で前に出た。

それを見て宗珠の口元がわずかに緩んだ。
 

 「………迷惑、かけて、…ごめんなさい。」

顔が涙でぐちゃぐちゃだ

 「……かえります……」

胸が裂けそうになる
 俺は、宗珠にも村人にも聞こないように朧の耳元で囁いた。
 
 「すぐ迎えに行くから。」

震える耳元で、誰にも聞こえないように囁く。朧の金色の瞳が、揺れる。

宗珠が、無言で朧の腕を掴む。
その瞬間朧の体がびくりと跳ねた。

俺は、その光景から目を逸らさなかった。

宗珠と真正面から視線を交わす

 ――絶対に許さない。

この村も、この男も。
そんな憎悪に燃えた視線を宗珠に送る。
宗珠はそれを受け取ってくすっと微笑む

扉が閉まると村人たちが何事もなかったように散っていく。
静かになった駐在所で俺は深く息を吐いた。

 ――絶対に、絶対に、こんな村から助け出す。今回は敗北じゃない、準備のための一歩後退だ。冷静になって、考えるんだ。
あの子1人も救えないようなら、俺はこの制服を着ている意味がない。

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【九尾  朧  視点】

家までの道中、兄さんに静かに手を引かれるだけだった。何も言われず怒鳴られもしない。経験上、それがいちばん怖い。

家に着いて、いつもとは違う離れた部屋に連れて行かれる途中、兄さんの足音だけが、やけに大きく聞こえた。

こわい、兄さんは怒ってる。
でも、あの時間は無駄じゃない。
確かに幸せな時間だったんだ。

  
 「……こ、ここは…」

押し込まれた先は、物置になっている部屋。
酷く寒くて、酷くホコリ臭い。
そしてその部屋にドンと置かれた木製の大きな箱が目に入る。ちょうどぼくなら入れるサイズの。でも、入れるけど、体を丸めてやっとだろう。
 
「朧は悪い子やなぁ。」

淡々とした声で体を引き摺られ、
箱に近付く。そして、無理矢理箱の中に押し込まれた。


「っ!!やぁっ!!」

閉じ込められる!!
そう察して暴れるが宗珠兄さんの前では
非力で無力だ。簡単に押し込められ重い蓋がぱたんと閉められた。
内側から押してもビクともしない
きっと重い物で蓋を塞がれてるんだ。

「鳥には鳥籠がお似合いや」

そう言って宗珠兄さんは、去っていった。

 闇

 完全な、闇。

膝を抱えようとしても、狭くて、うまくできない。寒さに体が震える。
駐在所で着せてもらった暖かい服がなければ、いつものペラペラの白い着物だったら低体温で死んでいたかもしれない。

(全裸にされなくて…よかった。)

兄もさすがに殺す気ではないのだと思うと
ホッとした。


そして、どれくらい時間が経ったか分からない。お腹が鳴っても、喉が渇いても、誰も来ない。

 頭の中が少しずつ壊れていく

 ――ぼくが、悪い。

 ――悠真さんを誑かしたのはぼく

 ――期待したから、悪い子だから。

 いつもそうだ

 でも

闇の中で、ひとつだけ浮かぶものがあった。

 「すぐに迎えに行く」

囁かれた低い声と真剣な目。
あれは、嘘?信じてもいいの?
分からない、でも、この僅かな希望を手放したら、ここで、本当に終わってしまう気がした。

箱の中でぎゅっと、胸元を握る。

何もないのに。
そこに、希望がある気がして。

 ――信じるって、
 こんなに、苦しいんだ。

 頭がぼんやりしてくる。

それでも、最後の力で心の中で、何度も繰り返す。

迎えに来る、 迎えに来る、迎えに来る。

   でも、もし来なかったら?
大丈夫、あの人は前回の駐在さんとは少し違う。大丈夫、絶対。
箱の中で壊れかけた心が一つの言葉にしがみついていた。
心が壊れないように、目を瞑って耐え忍ぶ。



 ――夢を、見ている。

 明るい

 目を開けても、眩しくない光。

 白じゃなくて、
 ちゃんと色のある世界。

 学校の制服を着ている。少し大きくて、袖が余っているけどカッコ悪くない。

 「朧、遅いぞー!」
「こっちだよー!」

名前を呼ばれて振り返る。

そこには、同い年くらいの子たちが笑っている。ここはどこだろうと見回すと
学校という場所にいた。
教室の机、窓から入る風、黒板の字。

 「一緒に食べよ」

そう言われてお弁当を開く。
真っ白なご飯、甘い卵焼き、彩り鮮やかなお野菜、タコさんウインナー。

 「美味しいね」

 そう言うとみんなが頷く

 胸の奥がじんわり温かくなる。

そして外でみんなと遊ぶんだ。
走って、転んで、笑って。
息が切れて苦しくても楽しい。

 ふ、と顔を上げるとそこには
大人になった自分が立っていた。
今よりも背が伸びて、顔つきもちゃんとした大人の顔だ。髪も短い。
そして制服を着ている。紺色の警察官の制服。カッコイイ帽子をかぶって胸を張って敬礼している自分の姿に涙が出そうになる。

弱い人の前に立って、悪という理不尽なものから守る人に。

 ――なりたかった。

本当は、なりたかった。

 ――ああ。

こんな人生が、あってもよかったんだ。
そう思った瞬間遠くで、ぎし、と音がした。

黒くてドロドロしたものが明るい世界を塗りつぶしていく。光が、剥がれていく。
制服が消える。教室が溶ける。
代わりに、冷たい木の感触。
狭さ、息苦しさ。

目を開けるとそこは、籠の中。
夢の続きは、もうなかった。
でも、胸の奥にはまだ温かさが残っている。夢の中で聞いた言葉と見た景色。
それ全部を、ぎゅっと抱きしめる。
この暖かささえあれば、壊れかけの心は、
まだ、完全には折れることはない。

喉が、ひくりと動く。

 「……」

声を出そうとした。
でも、空気だけが漏れた。

もう一度、口を開く。

 「…………」

何も、出ない。

息はしているのに、声だけがどこかに落ちてしまったみたいだった。

胸がぎゅっと縮む。
怖い。

叫びたいのに音にならない。

 
遠くで誰かが歩く音が聞こえると、
体が勝手に震え出す。

来ないで
 お願いだから

声にならない懇願が胸の奥で渦を巻く。

でも、箱の蓋は開かない。
それが逆に怖かった。

放っておかれる恐怖
 忘れられる恐怖

 ――いないもの。

そう扱われるのには、慣れているはずなのに。喉に熱いものが込み上げて、涙が勝手に落ちた。

嗚咽すら音にならない。
ただ、肩が小さく揺れるだけ。

それでも頭の奥で、かすかに声がする。

 「すぐに迎えにいく」

 声を失っても、体が震えても、
 お腹がすいても、寒くても、

 ――まだ、壊れきっていない。

 

【三上 悠真 視点】

駐在所の窓から、外を見る。

 ――いる。

今日だけで、何人目だ。
畑仕事をしているふりの老人
井戸端で立ち話をしているふりの女性たち
遊んでいるように見える子供たち

全部が偽物だ。何故ならば体は別のことをしているのに、視線だけが確実にこっちを向いている。まるで見張られてるように。

 逃げ道は、ない。

前任者のメモが頭をよぎる。
逆らうな。関わるな。

ああ、そういうことか。
この村は、声を上げる者を外から静かに潰す。

 拳を、ぎゅっと握る。

 ――でも。
俺がここで負ける訳にはいかない。
 

 机に地図を広げる
 村の道
 隣町へ繋がる山道
 九尾家の敷地内

正面突破は無理だ。1人では何も出来ない。
ない」

今は、動くな。
今は、考えろ。
今は、耐えろ。

監視の目を逆に利用するんだ。
何もしていないふりをして、
何も考えていないふりをして。

その裏で牙を研ぐ
油断した頃にやるんだ。

 (必ず、連れ出す。)

時間がかかっても、警察を辞めることになっても。戦いは、もう始まっている。
 

そして夕方、朧が倒れていた川に行くと
背後から小さな影がひとつ伸びてきた。

 「……あの」

 驚いて振り返る

 朧と同じくらいの歳だろうか、
 控えめな女の子が立っていた。
 目は伏し目がちで、何かに怯えてる顔。

 「駐在さん、ですよね」

 「そうだけど、どうした?」

少女はキョロキョロと周囲を気にする素振りをみせた。どうやら内密にしたいことがある

 「わ、私は…九尾家側の人間や、ないです」

 その言葉に背筋が伸びる。

 「……朧ちゃんのこと、助けたいんです」

 その言葉に心臓が強く打った

彼女はぎゅっと服を握りしめて続ける。

 「昔……その……朧ちゃんのこと、好きやったんです。でも、話しかけたら、ママやパパに怒られて。村の人にも、あの子のことは“見ちゃあかん”って。」

 彼女は悔しそうに唇を噛む

「あの子は、本当に優しい子なんです……あんな目に遭っていい子やない。」

この村にも、ちゃんと人の心は残っている。
俺は、静かに声を落とす。

 「……宗珠の監視は、いつ緩む?」

彼女は、一瞬迷ってから小さく囁いた。

「そ、宗珠さん……朧ちゃんのこと、ずっと見張ってるわけやないです…仕事がありますから……祭りの時期は忙しい…はず。」

2週間後に開催される村の大きな祭り
そこが穴だ

「特に……夜は、家にいません……九尾家の人はほとんど、祭りの準備で忙しいです。
祭りの準備とか、村の集まりがある日は……
宗珠さんは家を空けます。」

頭の奥で何かがカチリと音を立てた。

 「……ありがとう」

 そう言うと、彼女は首を振った。

 「お礼なんて……あの子が、幸せに生きられるなら。こんな村から出て、幸せになってほしいんや。」

去り際、彼女は1度振り返った。

 「貴方が来てくれて、良かったです。」

それだけ言って夕暮れに溶けるように去っていった。
俺は、しばらくその場を動けなかった。

 ――油断。

 ――監視が、薄れる時期と時間。

 全部揃い始めている。

駐在所に戻りメモを取る

祭りの準備で1番忙しい日を考える
それはもちろん前日だ

 「……行ける」

 正面からは無理だ。
でも、九尾家の家の裏は山になっていて、
裏に人が通れない獣道がある。

足音を消し近付く、懐中電灯は使わない。
時間は、十分以内。

 ――あとは連れ出すだけ。

 手が、少し震える。

警察官としてやっていることは正しいとは思えない。単独行動で誘拐、不法侵入、その他諸々の罪を犯すんだ。

でも、たかが法。法なんかより先に守らなきゃいけない命がある。

 「……待ってろ」


そして、2週間後、今日は祭りの前日。
村人は準備と酒盛りで忙しい。
ゆっくり、決行の日に向かって動き出している。俺は、制服を丁寧に畳み私服に着替えた。

今日の作戦は警察官としてじゃない。

三上悠真ひとりの人間として、あの子を迎えに行く夜だ。

夜の22時
村は、異様に静かだった。
集会所の灯りが付いていて、そこに九尾家が集まっているのは情報通りだろう。

九尾家の裏山の獣道を進む。
足元の石を避け、枝を踏まないように、
一歩一歩、神経を削りながら進む。

屋敷は暗く、灯りは一つも点いていない。  息を止め塀を越える。

庭に降り立った。月明かりの下、白いものが、地面に横たわっている。

 「……っ」

慌てて駆け寄りたい衝動を、必死で抑える。
周囲を確認し、それから静かに近づく。

 ――朧。

白い着物は汚れて、体は、まるで力が抜けたみたいに地面に沈んでいる。
呼吸は浅い。肩がかすかに上下しているけど
瀕死の状態かもしれない。
顔色は前見た時より更に青白いうえに
頬はこけ、腕は骨ばって細い。

 「……おい」

声を、極限まで落とすが反応はない。
しゃがみ込みそっと肩に触れた瞬間――
びくり、と体が跳ねた。

金色の瞳が、恐怖に見開かれる。

 「……っ、……っ」

声にならない声。喉だけが必死に動く。

後ずさりしようとして力が入らず、そのまま崩れ落ちる。両手で頭を庇い、震えながら何かを訴えている。

 ――殴らないで。
 ――蹴らないで。

 言葉がなくても痛いほど伝わった

 「違う。俺だ」

両手を優しく解いてあげて、視線を合わせる。

 「迎えに来た」

一瞬、理解できないという顔をたしたが
すぐに縋るように、こちらを見た。
涙がポロポロ流れるが、声は出ない。
体は、震えたままで立ち上がる力も、残っていない。

 ――ここまで

 ここまで追い込まれていたんだ。

迷わず上着を脱ぎ、そっと朧の体を包む。
抱き上げた瞬間、あまりの軽さに息を飲む。

屋敷の中で誰かの足音がした。

時間がない

俺は朧を胸に抱き、
来た道とは逆の闇へと足を踏み出した。

 ――絶対に、離さない。

この夜を越えれば、もう自由だ。

そう信じて闇の中を走り、
停めてあった車に朧を乗せて走り出した。

車は、隣町を目指して山道に入った。
舗装されていない砂利道。
ライトの光はガタガタと揺れ、木々の影が車を追いかけてくるみたいに動く。
ただただ、アクセルを踏む。

 「…………」
 
不安そうに見つめてくる朧を安心させるように、にっ、と笑ってみせる。

車は急カーブを曲がるたびに砂利を跳ね、
小石がフロントガラスに当たる。

曲がりくねった山道を抜けると、月明かりが薄く開けた林道を照らした。
遠くに、隣町の灯りが見え隠れする。

 「もう少し……もう少しで……」

 「絶対に、ここから出す。」

 
そして、隣町の交番が見えて、車を乱暴に停め、朧を車内に置いて交番に駆け込んだ。
交番の扉を勢いよく力任せに押す。
中は薄暗く、机の上には書類とランプ。
外の山道の緊張から、ほんの少しだけ安堵した――はずだった。

 「えっ!?あれ、隣村の、三上か?」

隣町の駐在が突然現れた私服の俺を見て
驚愕する。安心したのも束の間、
駐在の横に誰か座っていることに気づく。



 ――宗珠だった。

駐在の隣に座っていた。微笑んで、悠然と。
しかし、目を逸らす間もなく駐在が慌てた様子で声をかけた。

 「えっと、この方は……
 家出した弟を探してるんですって…」

 宗珠が立ち上がり一歩前に出る。
 にっこりと笑いながら言った

 「ご協力ありがとうございました。
     もう大丈夫です…今、見つかりました。」

 言葉が、血のように俺の心に流れ込む。
 希望が瞬時に砕けた。

 「――っ……!」

 俺は、声を出そうとしたが、
 体が固まり頭が真っ白になる。
 宗珠の笑みは、ただの笑みではない。
 ――完全なる所有感、支配欲、そして俺の絶望を楽しむ冷酷さ。

 「……ほんまに逃げられると思ったん?」

 その声に、胸が潰れる。
 村の外に出れば安全と思っていた思考は、
 ――一瞬で消えた。

俺の作戦を予測して、すでにここで待ち構えていたのだ。あの少女がリークしたのかもしれない。どちらにしろゲームオーバーだ

絶望しながらポケットを探ると、そこには
銃が入っていた。念の為持ってきたんだ。

一般人を撃つのは犯罪だ。クビどころか逮捕される。

でも、今はもう、そんなことしるか。

パァン!!!!!!

「ぐっ!!!あぁ、っ!!!」

弾丸は宗珠の太ももに命中した
その場で崩れ落ちる宗珠と驚いて尻もちをつく駐在

「ひっ!な、なにを!!」

宗珠の足に銃を撃ち、交番を飛び出す。
車で山道を抜け、夜を裂いて逃げた。
遠く、うんと遠くへ。
日本の端まで。

大掛かりの逃亡劇になるとは思っていたが
全財産下ろして手持ちしていたお陰で日本の端まで逃亡することができた。
ニュースや新聞に取り上げられ、警察は俺を探している。
でも、逃げ込んだここは、辺鄙な山奥で限界集落だ。ニュースや新聞には疎い。
 

あの日から2年経った今も、まだその村で朧と小さな空き家で二人で暮らしている。
人目を避けながら、名前も身分も変えて、隠して、畑を耕し川の魚をとり、すぐ横にある山で山菜やキノコをとったり、鹿を罠で捕まえたりと、食料には困らない幸せな日々を送っていた。

朧は、以前より少し明るくなった。
震えていた骨ばった肩は、適度に肉がつき柔らかくなり、笑顔も少しずつ戻ってきた。

 「悠真……みて、今日、こんなに山菜が採れたよ!」

小さな手で差し出す大量の山菜に、思わず笑ってしまう。小さな朧の体を、自分の胸に引き寄せ抱きしめる。

「すごいな朧!今日は天ぷらだ!」

少ない村の人たちも、最初は俺たちを警戒していたけど少しずつ優しくなった。

特に朧は変わった見た目をしているが、人形のように美しいので、村の人たちはすぐに虜になって驚くほど可愛がってくれている。
俺は体力もあるし力もちだから、村の人たちの手伝いをしている内に信用してもらえるようになって、毎日野菜をもらったり、雑談に混ぜてもらっている。

ここには穏やかな日々が流れている。

自分も、警察を辞め新しい名前で、畑仕事も、村人との交流も、楽しくなってきた。

 夕方、畑仕事を終えて家に戻ると、朧が笑顔で迎えてくれる。

 「おかえり、悠真」

 その笑顔に胸がじんわりと温かくなる。
 あの村の恐怖はもうここには届かない。

 「ただいま、朧!」

ぎゅっと抱き寄せると、小さな体が安心したように己の体に沈み込む。
幸せな時間だ。でもまだ油断はできない。
宗珠は、朧を諦めないだろう。
 
でも、今は、ここに二人でいる。

 ――それだけで、充分だった。

 夕暮れの風が、畑の葉を揺らす。
 遠くで鶏が鳴き、朧が笑う声。
 胸の奥に静かな幸福が広がっていく。

 朧は、目を細めて笑った。
朧にとっては新しい幸せが始まったのだ。


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【九尾  朧視点】

朝日が畑の土を淡く照らす。 
朝露が朝日に反射してキラキラと輝いている。そんな、素敵な朝が毎日やってくる。

 「おはよう、悠真」

寝ている悠真を起こすために、耳元で名前を呼ぶと彼は目を覚まし、笑った。
その笑顔は、庭先で光を浴びる花のように柔らかく、暖かい。胸がじんとする。

畑仕事を手伝いながら、悠真と笑い合う日々は、夢のようだった。怖くて、声も出せなかったあの夜は幻だったのかと思えるほど。

 「今日も、いっぱい芋採れたな!」
 
悠真の嬉しそうな声に、つい笑顔になる。
手を握られると、胸が幸せでいっぱいになる。小さなことでも、嬉しくなる。
草を抜きながら、笑いながら、二人で泥だらけになって働く時間は、以前の自分では想像もできなかった幸せだった。

 村の人たちも優しく声をかけてくれる。

 「今日もべっぴんさんじゃなあ」
 「お手伝いありがとな」

ここには、笑顔で迎えてくれる人たちがいる。その優しさに、胸が暖かくなる。
そして何より、悠真が隣にいることが、一番安心だった。

 ――好き。

家族としても、一人の人としても。
悠真の笑顔を見るたび、次はぼくがこの人を守りたい、支えたい、と思う。
抱き寄せられると、喜んで身を委ねる。
もう、震える必要も、怯える必要もない。
安心して、笑って、泣いて、幸せだ。

夜、星空を見上げながら、手を繋ぐ。
この広い世界で、こんなにも平和な時間があることを、心から幸せだと思った。

 (悠真……大好き)

声に出すのは恥ずかしいけれど、胸の中で何度も繰り返す。そして、抱き合いながら、二人だけの静かな時間が流れていく。夜の空気は静かで、窓の外では虫の声がする。

同じ布団で寝転んで、ぎゅぅっと抱き合う。体温を分け合うと、いつの間にか眠ってしまうので基本的には毎日この姿勢で寝ている。

 「……朧」

名前を呼ばれて、顔を上げる。
悠真の目は、いつもの優しさのまま、少しだけ真剣で――揺れていた。

 「好きだ。愛してる。ずっと傍にいてくれるか?」
 
 「……ぼくも、同じ。」

声はまだ小さいけれど、ちゃんと返事ができて嬉しくなる。頭を撫でる悠真の手が、驚いたように止まった。でもすぐに抱き寄せられる。それだけで、涙が出そうになる。

唇が触れる前に、一度視線が絡む。
確かめるように、確信するように。

口づけは、静かで、温かい。
奪われる感覚はなくて、ただ愛おしさを分け合うみたいだった。気持ちよかった。

服越しに感じる体温。
呼吸が近くて、胸の鼓動が伝わる。

怖くない。むしろ、こんな体で良ければ
悠真に全部差し出したいと思える。
 
服の下から直接肌に触れる指先が、優しくて何度も立ち止まってくれる。
そのお陰で、過去の経験から無理矢理暴かれるという不安が薄れて、安心できた。

身体が重なった瞬間、胸の奥に溜まっていたものが、すっとほどける。

 「……っ、悠真」

 名前を呼ぶと抱きしめる腕に力がこもる。

 「大丈夫だ。ここにいる。ずっと」

 その言葉が、何より深く、身体に沁みた。

誰かの所有物でも、呪いの象徴でもない。
ただ、一人の人間として愛されている。
その事実が温もりと一緒に胸に広がっていく。

重なった身体の中で、朧は初めて幸せだと思いながら目を閉じた。
これが夢ではありませんようにと願いながら

目を覚ましたとき、最初に感じたのは温かさだった。行為の後2人とも素っ裸で眠っていたようで、全裸の悠真に抱きしめられていた。背中に回された逞しい腕、規則正しい呼吸、耳元で聞こえる悠真の寝息。

一瞬、夢かと思って動けずにいる。
でも、腰や下腹部の痛みが昨夜をはっきり思い出させた。

 「……あ。」

昨晩の出来事を自覚すると頬が一気に熱くなる。恥ずかしくて、掛け布団を少しだけ引き寄せるために少し身じろぎすると、腕の力がわずかに強くなった。

 「……起きた?」

まだ眠そうな声。
 喉が、きゅっと鳴る。

 「……うん」

短く答えると、悠真は目を開けて、少し驚いた顔をした。それから、ふっと微笑む。

 「おはよう」

 その一言が、どうしようもなく嬉しい。
 胸の奥が、じんわり温かくなる。

 視線を合わせるのが恥ずかしくて、少し俯くと、頬に悠真の指先が、そっと触れた。

 「……昨日は、大丈夫だったか?」

心配する声と昨夜と変わらない、優しい距離。

 こくん、と頷く。

 「……幸せ、だった」

小さな声だったけれど、ちゃんと届いたみたいで、悠真は少し照れたように笑った。

 「俺も」

 それだけで、十分だった。

布団の中で、ぎこちなく向き合う。
身体が触れるたび、思い出してしまって、また顔が熱くなる。

 でも、嫌じゃない。
 恥ずかしいけど、逃げたくない。

 窓の外では、朝の光が差し込んでいる。
 鳥の声がして、村が目を覚ましていく。

 「……朝ごはん、作ろうか」

悠真が言うと、思わず小さく笑ってしまった。

 「……一緒にね。」

そう言うと、彼は少し驚いて、すぐに頷いた。そして、布団を出る前、もう一度、軽く抱きしめられる。

 「幸せだな、俺たち。」

 その言葉に、胸がいっぱいになる。
幸せは、こんなふうに、愛しい人と静かに朝を迎えるものなのだと、ぼくは初めて知った。

泣いてばかり、傷付いてばかりの17年間だったけど、これから先はもう、悠真と二人で幸せに暮らしていけると、疑うことはなかった。


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【村人視点】

ある日、冬の寒い日にこんな山奥の限界集落に、二人の若者がやってきた。
最初は不思議だった。こんな山奥に、何故。
どうやら訳ありのようで、2人は兄弟で虐待されて家から逃げてきたとのことだった。
そんな複雑な事情であればと俺たちは受け入れた。

 「……まぁ、幸せそうだしいいかあ。」

 若くハンサムな美丈夫と、
 色素の薄い美しい少年は毎日仲良さそうに畑を耕し、笑い合い、村人の言葉にも自然に応じる。

 少年の方は特に可愛らしかった。
 でも、普通の可愛さではない。
 どこか、吸い込まれそうな色気がある。

 「あの子は……ほんま、不思議な子じゃ」

誰も手を出せない、守られるべき光のような存在だ。そして、男と一緒にいると、さらに輝く。

見守るしかない――そう思った。

畑仕事の合間、俺はふと後ろを振り返る。

 ――すると、誰かがいた。

 木陰に、ゆっくりと影が揺れる。
そして不規則な歩調で近寄ってくる気配。

 「………見かけない顔じゃ…」

男の一歩一歩が、不自然に重く響く。
片方の足を引きずっている。
怪我か病気の後遺症だろうか?


 「行方不明の弟を探しとるんですが、ご存知ありませんか?」

ここら辺では聞かない方言と発音、
180はゆうに超えるであろう高い背は
対面してる人に圧迫感を与える。

男はにっこり笑う。でも、その笑みは異様に歪んで、温かさなんて一切ない。
男の背後で、風が止まったように、木々も揺れない。

俺は、行方不明の弟と聞いて、脳内で浮かぶ2人の男を思い出した。脳内の記憶に映る2人は、毎日平和で――幸せそうに暮らしている。こんなに幸せそうな2人を引き剥がすなんて、酷なことをする訳にはいかない。
……だから俺は、首を横に振った。

 「……ワシは知りません。」

そう答えた瞬間、
男の笑みが、ほんの一瞬だけ――止まった。

止まった、というより顔に貼り付いていたものが、
不気味にずれたように見えた。

 「……そうですか」

声は低く、妙に柔らかい。
だがその奥で、何かがこちらを測っている。

男の視線が、俺の背後――
2人が住んでいる家の方向へゆっくりと流れた。

「ほなまた……、迎えに来ます。」

そう言って、男は踵を返す。
引きずる足が、土に奇妙な跡を残していく。

男の姿が、木立の向こうに溶けると同時に、
ふっと風が戻った。

鳥が、一斉に鳴き出す。


俺は幸せそうに笑う二人を見て思った、

誰かの幸せは、別の誰かの都合でいとも簡単に奪われてしまうものなのだと。

俺ができることは、そんな日が来ないように
祈ることだけだった。


【END】
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