女優 -ACTRESS-

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第3話:巨匠

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高級住宅街の重苦しい静寂の中、一台の黒塗りの送迎車が滑るように停車した。
眼前にそびえる御子柴監督の私邸は、コンクリートの塊に無数の蔦が絡まり、まるで迷い込んだ者を二度と返さない怪物の顎(あぎと)のように見えた。

「……美沙姫さん、到着しました」

細田がバックミラー越しに声をかけると、美沙姫は膝の上で白く細い指をきつく絡ませ、窓の外をじっと見つめていた。

「……プロデューサーの方もいらっしゃっているの?」

「はい。昨夜、社長から伺いました。プロデューサーは……曽我さんです」

その名を聞いた瞬間、美沙姫の顔にわずかな希望の光が差した。

「……曽我さん? 本当に?」

「はい。面識があるんですか?」

「ええ! 私が小学生の頃から、現場で困った時はいつも助けてくれた人よ。お母さんとも長い付き合いだし。……よかったぁ、曽我さんがいるなら心強いわ。きっと、あんな過激なシーンも『美沙姫にはさせない』って、監督を説得してくれるはず」

美沙姫は自分を安心させるように何度もうなずき、それまでの沈鬱な表情を拭い去って、期待を抱きながら車を降りた。

その後ろ姿を見送りながら、細田は激しいめまいに襲われた。 
(……何、を言っているんだ、美沙姫さんは)
 彼女が語る「優しくて頼れる曽我さん」と、あの日、ホテルの前で勝ち誇ったように「極上だった」と吐き捨てたあの下劣な男の姿。
その二つがどうしても結びつかない。
美沙姫の無垢な信頼が、細田には恐ろしい怪談のように聞こえた。
細田は自身の胸の内に広がる形容しがたい困惑と、得体の知れない恐怖を飲み込み、重い足取りで彼女の後を追った。


玄関先には、すでに曽我が立っていた。

「おお、来たか。待ってたよ、美沙姫ちゃん!」

「曽我さん! お久しぶりです。今回、曽我さんが担当だって聞いて、本当に安心しました」

美沙姫は再会を喜び、いつもの輝くような笑顔を向けた。

「ははは、僕もだよ。……いやぁ、それにしても本当に大きくなったね」

曽我は人当たりの良い笑みを浮かべながら、視線は隠しきれない卑俗さで、美沙姫の黒いニットを押し上げる胸の膨らみを一瞬だけ見た。
美沙姫はその不躾な視線には全く気づかず、親愛の情を込めて言葉を続ける。
親しげに肩を抱き寄せようと伸びてきた曽我の手を、彼女は無邪気に、それでいて軽やかに身を翻して避けた。

「曽我さん。私だって、もう大人なんですから。そういうのはダメですよ」

「おっと、失礼。……ははは、でも少し寂しいな。あんなに懐いてくれていたのに」

曽我は残念そうに肩をすくめたが、その瞳の奥には、美しく咲き誇った彼女がこの映画の成功に導くと、静かな確信が宿っていた。

「……お疲れ様です、曽我さん。下田のマネージャーを務めます、細田です。よろしくお願いいたします」

細田は二人の間に割って入るように、深く頭を下げて挨拶をした。 
しかし、曽我は細田の方を向きもしなかった。
まるでそこに人間など存在せず、ただの空気の塊があるかのように完全に無視し、美沙姫の横を通り過ぎて屋敷の中へと歩き出す。

「さあ、美沙姫ちゃん。監督が中で待ってる。行こうか」

細田は深々と頭を下げた姿勢のまま、固まった。
自分という存在が、曽我にとっては歯牙にもかけない「雑音」に過ぎないことを突きつけられ、指先が屈辱で冷たくなった。


通された応接室には、日本映画界の頂点、御子柴がいた。
その存在感は、もはや人間というより、冷徹な神殿の石像に近い。
深いシワに刻まれた厳しさが、美沙姫の精神を削り取っていく。
彼は役者を人間ではなく「動く小道具」としか見ていない。
その澄んだ老いた瞳に見据えられ、美沙姫の頬から急速に赤みが引いていった。

「あの、監督……撮影に先立ちまして、事務的な確認を」

細田が震える声で切り出した。
美沙姫を姉のように慕う彼にとって、ここが踏ん張りどころだった。

「昨今の状況も鑑み、インティマシーコーディネーターの導入をお願いしたく……」

曽我が、汚いものでも見たかのような鼻で笑った。

「君、冗談はやめてくれよ。御子柴監督の現場だよ? 監督の演出がすべてだ。余計な人間を挟むなんて、作品を汚すだけだよ」

細田を冷たく突き放した後、曽我は美沙姫に向き直り、かつてのような温和な眼差しを向けた。

「インティマシーコーディネーターなんていなくても、おじさんがしっかり守るから。大丈夫、いらないよね? ……それとも、おじさんじゃ頼りないかな?」

美沙姫は困惑しながらも、彼の中に「救い」を見出そうとすがった。

「……本当ですか? 本当に、私を守ってくれますか?」

「当たり前じゃないか。昔みたいに、困った時は何でも助けるよ。僕を信じて」

「……ありがとうございます」

安堵の吐息を漏らす美沙姫に、曽我は勝ち誇ったように細田を指差した。

「ほら、この頭の固いマネージャーにも教えてあげてよ」

「細田くん、もう大丈夫。曽我さんに任せよう」

「……美沙姫さん、本当にいいの?」

「うん……」

だが、細田が食い下がったことで、空気は再び氷点下へと叩き落とされる。

「ですが……彼女のイメージを守るためにも、濡れ場では必ずニプレスを着用し、細心の注意を払うという点だけは譲れません」

「君、御子柴監督の作品を見てきた? まさか、一本も観ずにここへ来たわけじゃないよね」

曽我の声から温度が消えた。

「監督の現場に『嘘』はないんだよ。これまでの出演作で、ニプレスはおろか前張りを付けた女優は一人もいない。それどころか、監督の熱意に打たれて、自分から前張りなしを志願してきた大女優だっている。本当の表現者ってのは、そういうものなんだ」

美沙姫の顔から血の気が引いていく。曽我はとどめを刺すように、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。

「美沙姫ちゃん、わかってくれるよね? ……正直に言うと、おじさんだって美沙姫ちゃんの裸を撮るのは辛いんだ。僕にも同い年の娘がいる。だから、現場のスタッフは最低限にする。もちろん、大事なところは映らないように、おじさんが責任を持って守るから」

「……」

守るという言葉とは裏腹に、突きつけられたのは「オールヌードで、しかも前張りすら許されない」という、これまで積み上げてきた「清純」を根底から破壊する過酷な条件だった。
美沙姫はあまりの衝撃に言葉を失い、ただ唇を震わせる。

その沈黙を、巨匠は許さなかった。 

「やかましい」 

御子柴のしわがれた声が響いた。

「演出に指図をする不届き者がいるとは。やる気がないなら帰れ。この小娘は使わん」

監督は苛立ちを露わにし、椅子を蹴るようにして立ち上がると、足早に部屋を出て行ってしまった。

「あ、監督! 待ってください!」

曽我が慌てて取り繕うように後を追い、扉が閉まると同時に、彼は恐ろしい形相で細田を睨みつけた。

「おい、どうしてくれるんだ。今さら降板なんてしてみろ。美沙姫ちゃんのキャリアは終わり、下田さんの会社も一発で倒産だぞ」

曽我の怒声が、静まり返った廊下に響き渡った。
先ほどまでの「優しいおじさん」の面影はどこにもなく、その顔には冷酷な計算高さが剥き出しになっている。

「しかし……まだ正式な出演契約は交わして……」 

細田が食い下がるが、曽我は鼻で笑ってそれを遮った。

「出演契約を交わしていないのは、当たり前だろ。選ぶ権利があるのはそっちじゃない、監督なんだよ。だがな、事態はもっと深刻なんだ」

曽我は懐から一通の書類を取り出し、美沙姫の目の前に突きつけた。
そこには、下田プロモーションが多額の負債を抱えていること、そしてそれを個人が肩代わりしたことを証明する、生々しい署名が記されていた。

「美沙姫ちゃんが出てくれないと、お母さんが一番困ることになるんだよ。……知ってるかな? 君が大手事務所を辞めるために発生した膨大なCMの降板料。お母さんの代わりに、この僕が全額、5億円も払ってあげたんだ」

「5、億……?」

美沙姫の脳裏に、凄まじい衝撃が走った。
想像もつかない巨額の数字。
そして、それを母親が他人に、それもこの男に依存して工面したという事実。

「そうだよ。だから、この映画を成功させなければ、お母さんは一生かかっても返せない借金を背負って、路頭に迷うことになる。……ねえ、わかるだろう? 美沙姫ちゃん。君のわがままで、お母さんを地獄に突き落とすつもりかい?」

曽我の声は、いつの間にか再び、粘りつくような「優しさ」を帯び始めていた。
それがかえって、美沙姫には毒蛇の這う音のように聞こえた。 

「さあ、監督に謝りに行こうか。僕も一緒に頭を下げるから。きっと監督も機嫌を直してくれる。お母さんのためだ。……ね、行こう?」

曽我は、獲物を追い詰めた達成感に目を細め、青ざめた美沙姫の肩を抱くようにして、御子柴の私室へと促した。


曽我に急かされるようにして、二人は御子柴の私室へと足を踏み入れた。 
部屋の中には、重苦しい静寂と、古い紙が焼けたような独特の匂いが充満している。
デスクの奥で、御子柴は背を向けたまま、窓の外の暗闇をじっと見つめていた。

「監督、先ほどは申し訳ございませんでした!」

入るなり、曽我はその場に膝をつき、冷たい床に額を擦り付けた。

「彼女の資質は、僕がこの命に代えても保証します。彼女が小学生の頃から、僕はその努力をずっと隣で見てきました。どんなに小さな仕事でも、彼女は決して手を抜かなかった。そのひたむきな姿に、僕は何度も胸を打たれ、感動してきたんです」

曽我の声は、震えていた。
その響きには、嘘偽りのない「慈しみ」さえ宿っているように聞こえる。

「彼女は、顔だけのモデルや、ちやほやされているだけのアイドルとは根本的に違います。誰よりもストイックで、誰よりも純粋に『表現』を愛している。僕は、彼女にどうしても、世界に通用する立派な女優になってほしいんです。監督、どうか……どうか今一度、彼女にチャンスをいただけませんか」

その必死な姿に、美沙姫の胸が痛んだ。

(曽我さん、私のためにあんなに……) 

だが、曽我の芝居はそこから牙を剥く。
彼は頭を下げたまま、隣で立ち尽くしていた細田の膝の裏を、容赦なく蹴り飛ばした。

「おい、 君も土下座だ。監督に無礼を働いたのは君なんだぞ、謝れ!」

「……っ」

不意を突かれた細田は、無様に膝を折った。

「……申し訳、ございませんでした」

「美沙姫ちゃんの未来を潰す気か! もっと大きな声で、心を込めて謝れ!」

「申し訳ございませんでした!!」

細田の絶叫が壁に跳ね返り、美沙姫の鼓膜を震わせていく。
自分を姉のように慕ってくれる彼が、目の前で蹂躙され、泥を這わされている。
その光景に、美沙姫は胸をかきむしられるような思いだった。

「……監督、この通りです。この若造も深く反省しています。どうか……」

曽我は一度言葉を切り、床に這いつくばる細田の頭を上から押さえつけながら、冷酷な声を放った。

「君からも監督にお願いするんだ。美沙姫さんに、この役をやらせてくださいと。……君がそれを言わない限り、監督の怒りは収まらないぞ」

美沙姫は息を呑んだ。
細田は唇を血が出るほど噛み締め、震えながらも、その言葉だけは口にしようとはしなかった。
彼にとって、美沙姫を他人に差し出す許可を与えることは、自身の魂を殺すことと同義だったからだ。

「言えないのか? 自分のプライドのせいで、彼女のキャリアを終わらせるのか?」

曽我の執拗な追い込み。
細田の、絞り出すような嗚咽。 
その無残な光景に、美沙姫の中で何かが音を立てて切れた。

「……監督」

美沙姫の声が、震えながらも室内の空気を切り裂いた。
彼女は床に伏せる細田の前に立ち、彼を庇うように御子柴へ向き直った。

「先程は失礼しました」

美沙姫は両手を揃えて、深く頭を下げた。

「わたしにやらせてください」

御子柴がゆっくりと振り返った。
その冷徹な瞳が、覚悟を決めた美沙姫を貫く。

「……すべて、私の演出に従うのが条件だ、できるか?」

「……はい」

その返事をした瞬間、美沙姫は、自分の中の「普通の少女」としての魂が、永遠に失われたような気がした。
背後で、細田が絶望に打ちひしがれて泣き崩れる気配を感じながら、彼女はただ、暗い深淵へと足を踏み出していた。


御子柴邸を辞し、事務所へ戻る車内は、葬列のような沈黙に包まれていた。 
レッスンスタジオに戻った瞬間、それまで必死に耐えていた細田の決壊が訪れた。

「……すみません、美沙姫さん」

細田は顔を覆い、子供のように肩を震わせて泣き出した。
自分の無力さゆえに、姉のように慕う彼女を、あの怪物の前へ差し出してしまった。
守ると誓ったはずの「清純」を、自分の土下座一つで守り切ることもできなかった。

「……泣かないで、細田くん」

美沙姫はそっと歩み寄り、細田の震える肩に手を置いた。
その瞳は、絶望の淵を通り抜けた後のような、静かな光を湛えている。

「守ってくれたじゃない。あなたは最後まで、私が嫌がることを監督にお願いしなかった。……自分の尊厳を捨ててまで私を庇ってくれた姿、本当にかっこよかったよ」

「でも……あんな撮影をさせるなんて、僕は、マネージャー失格だ……! 結局、何もできなかった……」

「そんなことない。細田くんが隣にいてくれなかったら、私、あの場で逃げ出していたかもしれない。あなたが一緒にいてくれたから、私は覚悟を決められたの。だから……もう自分を責めないで」

美沙姫は細田の頬に触れ、涙を拭った。
その指先の温かさが、細田にはあまりに切なかった。

 「濡れ場だって、映画という作品の中の一つに過ぎない。いい本なのは間違いないし。母のためにも、細田くんのためにも、私はしっかりやり遂げるから。……ね?」

美沙姫は無理に微笑んで見せた。
だがその健気な微笑みこそが、細田の胸に鋭い棘を突き立てる。

そこへ、社長室の重い扉が開き、下田綾子が現れた。
彼女は二人の湿っぽい空気など一瞥もせず、冷徹な声を響かせる。

「美沙姫、お疲れ様。……細田、美沙姫をタクシーで帰しなさい。あなたは後で私の部屋へ」

「……はい」


美沙姫を送り出し、細田は死罪を待つ囚人のような心持ちで社長室の扉を叩いた。
監督を怒らせ、現場を混乱させた自分は、きっと激しい叱責を受けるに違いない。

「……失礼します。社長、今日の件ですが……」

「よくやったわ、細田」

意外な言葉に、細田は言葉を失った。
デスクに寄りかかり、眼鏡を外した綾子の瞳には、どこか妖艶な熱が宿っている。

「顛末は曽我さんから聞いたわ。あなたが無様に這いつくばったおかげで、美沙姫の『覚悟』が決まった」

「ですが、僕は……」

責任を感じて説明を続けようとする細田の言葉を、綾子は音もなく歩み寄り、その唇で強引に塞いだ。

綾子の指先が細田のネクタイをゆっくりと解き、シャツのボタンを一か所ずつ、慈しむように外していく。
昼間、曽我に蹴り飛ばされ、床を這いつくばった惨めな記憶――その泥にまみれた屈辱を、彼女の柔らかな指先が丁寧に上書きしていった。

やがてベルトが外され、スラックスが床に滑り落ちる。
薄い下着一枚になった細田の身体は、すでに彼女への昂ぶりを隠しきれず、熱を帯びた中心が布地を濃く濡らして、その形をくっきりと浮かび上がらせていた。

その様子を、綾子は逃げ場のないほど真摯な瞳で見つめ返す。
彼女はそのまま、自身の身に纏っていたものもすべて、音もなく床へと落とした。

月の光が差し込む社長室の真ん中で、二人は裸で立ち尽くし、抱き合った。

綾子の熟れた果実のような肉体の重みと、吸い付くような熱い肌の感触が、細田の空っぽになった心を急速に埋めていく。

生理的な反応を抑えきれず、細田の股間が熱く脈打つ。
綾子はその硬くなった肉棒を迷いなく掌でしっかりと掴み、耳元で吐息を吹きかけるように囁いた。

「これからも、美沙姫のことを頼むわよ」

綾子はゆっくりと後退り、月光を背負いながら重厚なマホガニーのデスクに腰を掛けた。 
彼女は白く長い脚を左右に開き、湿った熱を帯びた自身の中へと、細田を無言で招き入れる。

細田は、もはや自らの意思で踏みとどまることはできなかった。
抗いようのない渇きを埋めるように、吸い寄せられるまま彼女の股間へと身を乗り出す。

自分がこの女の意向を遂行するためだけに動く「駒」であり、この快楽が逃げ場を失わせる「鎖」だと理解しながらも、彼は自らその鎖に首を差し出した。

導かれるまま、熱く脈打つ自身を彼女の奥深くへと突き立てる。
彼はただ、本能のままに、がむしゃらに腰を振った。
それは、理性をかなぐり捨て、与えられた悦びに縋り付く忠実な犬のそれであった。

美沙姫の魂が失われていく暗闇の入り口で、彼はただ、目の前の熱い肉体に溺れ、戻れない場所へと堕ちていった。
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