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9章
温室 ③
しおりを挟む「さ、着いたぞ。降りよう。」
合図もせずに馬車の扉が開く。
御者が恭しく頭を垂れて待っていた。
「では、私はここでお待ちしております。お帰りになられる時は合図をしていただければお迎えに上がりますので。」
そう言って御者は馬の方へ歩いていく。
アンセルは馬にも興味を引かれたが、今は歩き始めたイスカンダーが目指す場所に、より一層の興味を持った。
「あの……ここは?」
迷いなく歩くイスカンダーはすぐに目の前の大きな建物の前で脚を止めた。
巨大なガラス張りの建物は中の様子が透けて見える。
中は沢山の緑で溢れているように見えた。
「ここは温室だ。アンセルの一番馴染みのある場所かもしれないな。」
そう言って大きな扉を開けると中からむわっとした熱気が流れてくる。
「わっ、あったかい。」
驚いたように声を上げたアンセルを抱え直して横抱きをキープするとイスカンダーはゆっくりと建物の中へ入って行った。
「あれ、これキョウセンソウじゃないですか?僕、こっちに来てから初めて見ました。」
「あ、あれは紅色紅葉の木ですね。時期的に葉はこれから育つものなんですけど、不思議ですね、ここではもう緑でいっぱいです。」
目に付いたものにいちいち歓声を上げてイスカンダーに話しかける。
アンセルはまさに命を吹き返したように見えた。
「はは、そんなに一気に話されても覚えられない。アンセル、ちょっと待ちなさい。」
温室の奥へ奥へと進んでいくとそこには更にガラスで囲まれた綺麗な部屋が現れた。
中にはアンセルだけじゃなくイスカンダーさえゴロリと横になれそうな大きな背もたれ付きのベッドが置かれている。
品の良い調度品はテーブルに2脚の椅子。チェスト一つ、と少なかったがその全てが最高級品であろうことは素人のアンセルにも分かった。
イスカンダーはアンセルをベッドに降ろすと、扉を閉めに戻った。
その後ろ姿を見つめながら、肩越しにガラスから見える植物の数々に目を奪われた。
ああ、本当にすごい。
見た事のある植物もあれば、名前も知らない木や草なんかも沢山ある。
あれは果物かな?鮮やかな黄色の実が見える。
夢中で外を眺めているアンセルの隣に腰を下ろしイスカンダーはジッとアンセルの気が済むまで待ち続けた。
興奮冷めやらぬアンセルがハッと意識を戻したのは既に20分ほど過ぎた頃だった。
流石にこれ以上は、と思った矢先のことでイスカンダーは意思を持って見つめ返されてかえってドキッとした。
「あ、すみませんっ。僕見たことのない草や花がたくさん見えて、興奮してしまって……。」
だからと言ってイスカンダーを蔑ろにしていいことにはならないが、アンセルの顔はどんなに眺め続けても飽きる事はない。イスカンダーは問題ない、と手を軽く左右に振った。
「ここ、素晴らしいですね。気温も一定に保たれているみたいだし、花たちがすくすく育つ環境が整っているみたいです。」
そう言って笑う。
本当に花や木の自然が好きなのだ。
「ここは主に温かい地域で育つ樹木や花を植えている。他にも寒さに強い植物を育てている温室もある。今度はそちらにも連れて行こう。」
聞けば聞くほど未知な話だ。
だって、この温室だけでも大層大きな建物なのに、まだ他にも1棟あるのだという。
そして、この温室はイスカンダーの敷地の中に建てられた物だと気付いて驚いた。
一体どれ程の土地がイスカンダーの土地なのだろうか。
今さらながら目の前のイスカンダーという男が高い地位を持つ男なのだと気付かされる。
「素晴らしですね。」
そう言って微笑めばイスカンダーもまた微笑み返してくれた。
「実はアンセルに頼みたいと思っていた仕事はこの温室の事なんだ。アンセルにはここで花を咲かせてほしい。」
「花ですか?」
そんな簡単な事、と言おうとして思いとどまる。
イスカンダーが頼むぐらいだ、きっと珍しい花なんだろう。
「そう、とても珍しい花らしくてね。咲かせるのがとても難しいと言われているんだ。」
やっぱり……。アンセルは思いとどまった事は正解だったな、と胸を撫でおろす。
「かなり貴重で、そして世話も難しいから私の心から信頼できる人物にしか頼めないと思っていたんだ。アンセルなら大丈夫だと思う。願いを聞き入れてくれるだろうか?」
不安そうに願いを口にするイスカンダーにアンセルは力強く頷いた。
自分が出来る事は花を育てる事だけだ。
それ以外は何も出来ないに等しい。
自分の得意な事でイスカンダーの願いが叶えられるならこんな嬉しい事はない。
「わかりました。精一杯お世話させていただきます。うわっ。」
願いを受け入れた途端イスカンダーの激しい抱擁がアンセルを襲う。
抱きしめられた腕の強さにまたしてもドキドキしながら、アンセルはイスカンダーから花の種を受け取ったのだった。
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