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ほだされた

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朝のバスの中での一件で俺のメンタルは壊滅的な損傷を受けた。
「はぁ・・・」
「どうした、ハルカ。具合悪いのか?」
隣に立つ大柄な男を見て、俺は再度ため息を吐いた。
「はぁ~。」

結局、バスでの痴漢を撃退できなかった事で、タイガはこの先の俺の送り迎えを止めるつもりはない、という結論に達したらしい。
俺もその件では自分の正当性を立証できなかったという負い目もあるし、反論しようとは思わなかった。

その点については、だけど。

「あのな、タイガ。バスとか周りに人がいる所で抱き着くのはやめてくれ。」
俺がそう言うと、タイガは目を輝かせた。

「ハルカ、ハルカッ、もう一回言ってくれっ」
「だから、周りに人がいる時には・・・。」
「それじゃない!名前っ、俺の名前呼んでくれっ」
「タ、タイガ?」
「やっったー。」

タイガの名前を呼んだだけじゃないか。
何をそんなに喜んでいるんだ?

俺は不思議に思っていたが、
「やった。ハルカが初めて俺の名前怒らないで呼んでくれたっ。」
って言われた時には驚いた。

そんなに俺怒ってたっけ?
タイガの名前呼んでなかった?

そんな記憶はなかったけど、涙を流さんばかりに喜んでいるタイガを見れば、ま、喜んでるからいいか、という気分になった。
大型犬にじゃれつかれる飼い主さまの心境だ。

そうか、わかった。タイガは犬だ。
俺の事が大好きな大型犬だと思えばいいんだ。

そう解釈すれば、毎日の送り迎えも。
顔中にするキスも。
俺の周りに威嚇する行為も。
全て、全て納得した。

ご主人さまを守ろうとしていたって事だ。
それなら理解できる。
ああ、理解できるって素晴らしい。

俺はタイガの事を微笑ましい顔で見れるようになった。
それはそれは劇的な変化だ。

「わかった。タイガ、俺は立派なお前のご主人さまになるからな!」

タイガに向けて宣言した言葉は、聞きようによっては危ない感じだったんだけど、俺の頭の中では「ご主人さま=大型犬の飼い主」という健全な公式が出来上がっていたので、周りのざわつきとタイガのキラリと光った獲物を狙う獰猛な目に気付く事はなかった。


そんな俺が早速その日に連れ込まれたのはタイガの家で。
実はご両親が医者でほぼ家にいないというだだっ広い家で存分にもてなされていた。
虎視眈々と、俺の事を堪能しようとした大型犬ならぬ狼が舌なめずりをしながら準備を進めているなんて気づかずに、俺はタイガが差し出すもの全てに全面の信頼をもって応えていた。
それがご主人さまの務めだと思っていたのは今考えれば馬鹿な話だったけど。

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