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嘉永六年(1853)、春

土方歳三という人 肆

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 凛がよく知る蒼馬は何に対しても動じず、仮に理不尽な欲求をされようと、冷静に物事を見て行動する人間だった。

 一度懐に入れた仲間に対しても情が篤く、出自に関係なく金や食料に困っている人間は、共に京へ連れて行った。
 仕事はきついが生活に困らせはしない、という神のごとく言葉を投げ掛けて。

 しかし、今目の前に居る蒼馬は幼い。
 凛はこの世の酸いも甘いも、とっくに知ってしまった。
 心のどこかで、蒼馬は凛のよく知る『兄』だと思い込んでいたのだ。

(もっと、もっとしっかりしなければ)

 自分の心にも、相手の心にも、聡くあらなければ。
 それが過去を生きるすべになり、普通となんら変わりない『人』らしく生きていく事が出来る。

(兄上を、そして……これから出会う方達に、失礼を欠いてはいけないから)

 己の仕出かした失言も、相手をかえりみなかった事も認める。

「兄上、暴力は止めてください……! 全ては私が」

 悪かったんです、と続くはずだった言葉は、凛がひるんだ事で消えてしまった。

「止めるな、凛。もう我慢ならん」

 かつてないほど冷たい瞳に見下ろされ、蒼馬の怒りを否が応でも感じ取る。
 それでも着物のたもとを摑み、止めに入ろうとするも、その心意は蒼馬には届いていないようだった。

「あーあ、そんな熱くなっちゃって。ぽろっと言っただけでしょ、これくらいで怒らないでよ」

 今にも殴り掛かりそうな蒼馬に目もくれず、飄々とした口調で総司は言う。

「刃傷沙汰でも起こしたら、此処にいられなくなるのは君だよ? それを分かってないほど馬鹿じゃないと思ってるけど」

 ふっと口角を上げて蒼馬を見つめる表情は、鬼のそれに近い。
 少なくとも、総司は正論を言っている。
 その上で蒼馬に警告しているのだ。

 ──この場で何か問題を起こせば、二度と試衛館の敷居をまたげなくなる。

 試衛館には血の気の多い男達が多いが、刃傷沙汰にはすんでの所でなっていない。
 皆、周助から雷を落とされる事は勿論だが、それ以上に破門を恐れているのだ。

 その為、何があろうと決して私闘はしない、と各々の人間達の間で暗黙の了解となっている。

「っ、本当にそういうところが癪に障る」

 蒼馬は小さな舌打ちをし、未だ袂を摑んでいた凛の手を外させた。

「悪かったな、怖がらせて。……もう大丈夫だから、そんな顔はやめてくれ」

 視線を合わせるようにしゃがみ、そっと頬に手を添えられる。

「え」

 自分が今、どんな表情をしているのか凛には分かっていなかった。
 怖さからなのか、無意識の内に身体は小刻みに震えており、大きな紫紺の瞳は今にも涙が零れそうなほどだ。

「あれ、でもさ」

 総司の一声で、先程まで張り詰めていた空気が僅かに緩む。

「こう考えた方がいいんじゃない?」

 何かを閃いたのか、総司は声を弾ませた。

「ん?」
「三人で行けばいいんだよ。まぁ僕は乗り気じゃないけど」

 にっこりと笑った総司の表情に蒼馬は勿論、凛も目を見開いた。

「あの、確認ですけど何処に……?」

 今、総司の口から吐かれた言葉は、凛に都合のいい幻聴なのだろうか。

「凛ちゃんが会いたい人──土方さんの所にだよ」

 どくん、と心臓が知らずのうちに高鳴った。
 過去にこの時の勝太が土方と会っているのは知っているが、改めて総司に土方の名を紡がれると得も言われぬ感情がせめぎ合う。

「いつこっちに来るかは分からないけどね。あの人、薬売りだし」
「薬売り?」

 蒼馬が疑問を持った声音で訪ねた。

「そう。石田散薬いしださんやくっていう、本当に効くのか効かないのか分からないやつ。あれを売って歩いてるんだ」

 土方の生家である石田村で古来から作られる、骨身や打ち身、捻挫や切り傷に効くという粉薬だ。

 凛を含めた土方を知る人間達は、石田散薬にそう信頼を置いていない。
 というのも、石田散薬を愛用している人間に出会った事がなく、総司が言ったように効果が計り知れないからだ。

(お疲れ様です、土方さん……)

 きっと今頃も、重い薬箱を背負い各地を転々としている事だろう。
 未だ出会ってもいない土方に向け、凛は心の中で手を合わせる。

「近藤さんに聞いた話、道場破りもしてるみたいだし……今度会ったら、こてんぱんにする気だったから丁度良いや」

 だから連れて行ってあげる、と人好きのする笑みで総司は言った。

「また近藤さんに言ってみるから、その時は言うね」

 言いたい事を言い終わると、総司は入れ違うようにさっさと廊下を歩いていく。
 嵐のように去っていく総司の後ろ姿を、凛は蒼馬と共に暫く見つめていた。
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