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0枚目 生まれ変わっても

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 大正七年 三月某日

 ──来世こそ一緒に生きよう……必ず見つけ出すから待っていて、愛しい人。

 そう言って、その人は息を引き取った。庭に植えてある桜の樹が咲き誇る日にふさわしい、 安らかな寝顔だった。

 もう二度と言葉を紡がない唇は、もう開くことが無い瞳は、心なしかうっすらと白くなっている。
 引き結ばれた唇は、時に甘い言葉をささやき、思うままに口付けてくれた。
 愛を誓い合ったそのかいなは、もう動くことはない。

 死はその人から全てを奪ってしまった。
 動かぬ人などむくろと同じだ、と誰かが言っていた。
 今思えば、あながち間違っていなかったのかもしれない。

 その人の魂が抜けてしまえば、身体は空っぽになってしまう。
 それと同じくして、遺された人間の心にぽっかりと穴が空いてしまったような、そんなうつろな考えにおちいるのだ。
 女の心情は、正しくそれと同じだった。

 ──私は貴方が居ないと駄目だというのに。
 ──狂おしい程愛した人は、貴方だけだというのに。もう、私の隣りに立つその人は居ない。

 「大丈夫だ」とたしなめる声さえもなく、優しく包み込んでくれる温もりもない。
 あの日「共に生きよう」と言ってくれた言葉は、「お前を置いていかない」と言ってくれた言葉は、嘘でしかなかったのだろうか。

 「──さま」

 ──どうして先にいなくなるのですか。
 ──どうして私を置いて逝ってしまうのですか。

 答えが無い問い掛けをしても無意味だろう。何故ならその人は、もうこの世にいないのだから。

 「私は……ずっと貴方を」

 そこから先は言葉にならなかった。
 言ってしまうと、元の自分に戻らない気がしてしまうから。受け入れるしか無くなってしまうから。

 はらはらと溢れる涙もそのままに、その人の伏せっている枕元に倒れ伏す。
 もう耐えられない、というように。

 「かずさま、貴方をお慕いしております……!」

 この世の誰よりも最愛の夫に、いるかも分からない神に、心から祈る。
 来世があるのなら離れていた分だけ共に生きて、幸せな日々を過ごせますように、と。


 「和さま、私はこの先どうやって生きていけばいいのですか」

 落ち着いた頃、女──美和みわは静かに呟いた。
 先の戦争で兄を亡くし、最愛の夫までも亡くし、今の美和には頼るよすがも無いに等しかった。

 (いっその事、このまま野垂れ死ぬしか道はないのかもしれない)

 暗く重い感情が、美和の中でゆっくりと膨らんでいく。
 美和はそっと『和さま』の手を取り、額に押し付ける。
 その手はまだほんのりと温かく、もういない人間だとは思えなかった。

 「もしも神がいるのならば、私も一緒に」

 連れて行って、という言葉は声になるはずもない。

 「いえ……私にはさくらが居るのだから」

 ふるりと一度首を振る。緩く編み込まれた黒髪に挿している椿つばきかんざしが、しゃらりと揺れ動いた。
 未だ視界のぼやける瞳で、隣の間にいる愛娘に思いをせる。

 小さな頃にいつくしまれた記憶のない父を、桜はどう思うのだろう。
 病におかされて亡くなった、と話せば桜は何を思うのだろう。

 (今はそんなに先の事を考えてもいられない。私は……私は、和さまの妻である前に母なのよ。ここで悩んでいては駄目)

 美和は音もなく立ち上がる。その瞳には、涙の膜も何もなかった。

 「貴方の分まで私が桜を守ります。だからどうか」

 ──来世、また会いましょう。

 その小さな呟きを聞いた者は誰もいない。
 しかし、庭に見える桜の樹がそのさまを静かに見守っていた。
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