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10. 俺が歩む未来の先

76枚目 答え合わせの前に

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 郁はじっと押し黙ってしまった千秋を見上げ、やがて口角を上げた。

「あははっ! 千秋にぃ、何言ってるの? 猫さんなんかかぶってないよ!」
「……は?」

 手本のような満面の笑みで、郁はころころと笑う。
 千秋の言葉が分からない、なんてことはないはずだ。いや、仮に郁が言葉の意味を理解していても、ここまで白を切る理由があるのだろうか。

 前者だとすれば千秋の早とちりで終わる。
 しかし後者だとすれば、すべてが変わってくる。
 葵と麗から離れているとはいえ、二人に聞かれてはまずい事なのだろうか。

「それよりさ、お家入ろ? 葵ちゃんも麗くんも待ってるよ!」
「え、おい!」

 言うが早いか、郁は葵達の元へすぐさま走っていってしまった。

(なんだ……?)

 子供とはいえ、ここまで違和感を持つ自分がおかしいのだろうか。
 それとも郁は本当にただの小学生なのだろうか。

 千秋一人で考えていても、本人から正解を聞かない限り真相は分からない。
 上手くはぐらかされた気もするが、やはり郁は──

(俺と昔会ってると分かった)

 葵の件もあってか、人の仕草で過去の自分と関わりがあるのか、見分けられるようになっていた。
 千秋の感じる言葉に出来ない違和感は、郁の話す「間」だ。

 相手がなんとも思わない絶妙な間隔で、年頃の自分を演じている。
 それに気付いているのは、誰でもない千秋だけだろう。
 人の視線や態度に敏感だった前世が関係しているのかもしれないが、これだけは自信を持って言える。

 人は嘘を吐く時、目線が泳ぐ。
 そして、笑顔の仮面を貼り付ける。
 相手によく見られるよう、いつしか自分の考えも偽るようになる。

 千秋はそんな人間を、男女問わず何人も見てきたのだ。
 前世では人と接する職業に加え、それと並行して侯爵という地位だった事もあり、人の悪意や偽る心を見破ることに長けていた。

(まさか店をやってた事や家の環境が役立つ時が来るとは)

 人間、何事も経験だなと自分に関心さえ覚える。

(けど、どうしたもんかな)

 あの調子では何度言ってもはぐらかされるばかりだろう。
 先程のように、無邪気な微笑みで乗り切られる事は目に見えていた。
 しかし人は少しでも揺さぶられると、少しずつボロが出て来るのが世の常だ。
 ならば確信を突く事をそれとなく言えばいい。 

 郁には可哀想だが、それが千秋にとって有利に動くのならば使わない手はなかった。

(にしても郁のあの顔……)

 傍から見れば至って普通だと思うだけだが、その表情が一瞬、本当に一瞬だけ固まったように見えたのは千秋の見間違いではないだろう。

(何か隠してるよな)

 その隠し事を言ってくれないのは、ほんの少し寂しい。
 千秋とて無理に聞く気は無いが、気になってしまったものは仕方がなかった。

(ま、そこら辺はあいつらも居るし……しばらく大人しくしておくか)

 数十メートル先で千秋が来るのを待っている三人の所へ向け、ゆったりとした足取りで歩き出した。
 きっと郁は千秋と同じように、この世に生を受けた瞬間から前世の記憶を持っている。
 これだけは自信を持って言えることだった。


「お帰りなさい……って、まぁまぁまぁ! 郁くんがお友達を連れて帰って来るなんて! 今日はお赤飯ですね!」

 郁が家(という名の豪邸)の扉を開けると、開口一番に高く伸びやかな声音が降ってきた。

「あ、ははは……」

 千秋は勿論のこと、葵も苦笑するしかない。
 出迎えてくれた女性は大学生やそこらの外見だが、如何せん口調に癖があった。

(どこのマダムだよ!)

 突っ込んだら負けだと自分に思い込ませ、千秋はそれとなく後ろにいる葵と麗に小声で言った。

「いいか、失礼のないようにな。じゃないと俺らの家が飛ぶ」
「分かってるわよ。流石に粗相はできないもの」
「いや、うん。もう……来るんじゃなかった。帰りたい」
「和さま、しっかり!」

 早くも遠くを見つめ、一人現実逃避をしようとしている麗にすかさず葵が声を掛ける。
 麗がそう思うのも分からないでもないが、千秋も誘いに乗った事を後悔しそうになっていた。

 郁の家が至って普通であれば、少なくとも余計なことは考えず心置きなく話す事はできただろう。
 扉を開けた先が、外以上に別世界だと予想していたはずだった。
 しかし、その想像よりも遥か上を行ってしまっては放心しない方がおかしいというものだ。
 
「お赤飯? 歌月かづきちゃん、作れるの!?」
「はい、お任せください! 母のお墨付きを貰っているんです」
「わーい、やった~!」

 三人居るというお手伝いの一人であろう歌月と郁の会話が、どこか遠い出来事のように思える。
 ころころと高くほんの少し甘い声音が、今ばかりは心地よく右から左を通っていく。

「あ、皆さんもどうぞお上がりくださいな。少し散らかってますけれど」
「これで散らかってる……?」

 千秋とて感覚が庶民的とはいえ、「散らかっている」と言った玄関は塵一つなく、寧ろ反射してピカピカと輝いていた。
 傍には何処かの国の置物なのか、見たこともないお洒落な棚に所狭しと並べられている。

 何より郁以外の三人を驚愕させたのは、圧倒する広さだった。
 鷹司の家も侯爵でそれなりの屋敷に住んでいたが、それ以上に広い間取りであることは確かだ。

(よし、考えるのは止めよう)

 麗と同じく現実逃避しそうになったところで、軽く前に身体が引かれる。

「──でね、葵ちゃんと麗くんっていうの。ね、千秋にぃ。お部屋行くから着いてきて?」

 どうやら三人の紹介をしていたらしい郁が、ぐいぐいと千秋の手を引き、楽しそうに言う。

「あ、ああ」

 郁に連れて行かれるがまま、千秋は意識しないともつれそうになる足を叱咤して、家に入る。
 郁の部屋はエントランスを入り、まっすぐに伸びる廊下を歩いた奥まった部屋にあった。

 部屋からすぐそばには人二人は遊べる小さな庭があるからか、日当たりは最適だと言える。

「ここが僕の部屋だよ!」

 ドアノブに手を掛けながら、太陽のように明るい声で郁が言った。

「ではゆっくりとお寛ぎください。あ、何かあれば呼んでくださいよ! すぐに駆け付けますから!」

 声が届くか届かないかの場所で、歌月の慌ただしくも優しい声が響き渡る。
 すぐに駆け付ける、という言葉の違和感に気付かないふりをし、金城《かなしろ》家での長い一日が始まろうとしていた。
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