黒豹陛下の溺愛生活

月城雪華

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五章

交わる気持ち 4

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「っ……?」

 不意に怒りを押し殺した声が部屋に響き、アレンだけでなくアルフェルも声のした方に視線を向ける。

 何度も荒い息を吐き、こちらを見つめる獣人は会いたくて堪らなかった男だ。

(レ、オ……?)

 目の前が霞んでいて誰なのか認識はできないが、しっとりとした低い声は間違えるはずもない。

 アレンがそこまで考えると同時に、背中や喉の圧迫感が急激に無くなり、わずかにだが身体が軽くなった気がした。

「大丈夫か、アレン」

 どこまでも優しい声が聞こえ、背中に温かな手の平が触れる。

 労るように撫で擦ってくれ、手早く口元を縛る縄を解いてくれる。

「は、ぁ……っ、はっ……」

 浅く、けれど胸いっぱいに空気を吸い込む。

 精一杯の抵抗で何度も声を張り上げていたからか喉はがらがらで、しばらくの間は満足に声を出せないだろう。

 けれど自分を助けてきてくれたことが嬉しくて、アレンはぼやけた視界の中その男を見ようと身体を起こそうとした。

「いいから動くな。全部してやるから」

 そう言いながら手足の縄を解かれ、やがて声の主──レオが顔をしかめた。

「……どういうことだ、アルフェル」

 聞いたことがないほど低く、しかし冷静な声だった。

 アレンにはぼんやりとしか分からないが、腰ほどまである黒髪は一つに結んでいるものの、その身体に纏う衣服は酷く乱れていた。

 胸元がはだけ、返り血なのかところどころが汚れている。

「おや、これは陛下。何をなさっていらっしゃるのですか」

 一部始終を黙って見守っていたアルフェルは、わざとらしく軽く片眉を跳ねさせた。

 けれどレオの質問には答えないまま、口を開く隙も与えないまま重ねて尋ねる。

「貴方は執務室で父の監視の下、溜まりに溜まった書類仕事をしていたはず。あの量がすべて終わったのですか?」

 一見小さな子どもに語り掛けるような言葉に見えて、その実声の節々には軽蔑が込められていた。

「……お前は俺の味方だと思ってたんだがな」

 レオがじっとアルフェルを見つめ、低く呟く。

 冷たい視線も、寒気がするほど冷静な声も、アレンの知らないものだ。

「さて、なんのことやら」

 アルフェルはくるくると喉の奥で楽しげに笑うと、ややあって耳を後ろに倒す。

 背後の尻尾は緩やかに揺れていたが、一瞬のうちにぶわりと逆立った。

「……我が父が貴方を目の敵にしているというのに、仲良くなどするはずがないでしょう」

 虫唾が走る、と威嚇するように低くうなる。

「やはり以前から街へ出てそこらの民と関わっているからか、変わり者だという噂は本当らしい」

 しかしアルフェルが目の色を変えたのも束の間、ちらりと浅い呼吸を繰り返すアレンを見つめる。

 背中に伸し掛かっていた屈強な獣人は、レオが部屋に入ったと同時に殴り飛ばされており、部屋の隅で気を失っていた。

 その力強さが予想通りだったのか、アルフェルが淡く口角を上げて楽しげに言う。

「ああ、どうかそんなに怖い顔をしないで。せっかくの美形が台無しですよ」

「よく言うよ。ちっとも思ってねぇくせに」

 レオが心の底から溜め息を吐き、きっとアルフェルを睨み付ける。

 黒曜石の瞳は怒りに震え、なのに襲い来る感情を堪えるように両手をきつく握り締めていた。

「……ばれてしまいましたか」

 くすりとアルフェルが口元に手をかざして笑う。

「あと一歩でも遅ければ、貴方の大切な方はもうこの世にはいなかったでしょう。本当に、よくぞあの数をさばいたものです」

「はっ、何言ってんだか。お前がやれって命令したんだろ。お陰でこっちは久しぶりに身体動かして、あちこちいてぇってのに」

 わざとらしく肩や首を動かしながら、レオが吐き捨てる。

 二人が何を言っているのか分からなかったが、すこぶる仲が悪いというのはあまり動いていない頭でも理解した。

「……ま、間に合って良かったよ」

 レオの安堵した声が聞こえると同時にアレンの身体が浮き、視界が格段に高くなる。

「っ、ぅ……?」

 涙やよだれで濡れた顔を向けると、レオはふっと片頬を上げて笑う。

「よく頑張ったな。いや、遅くなってごめんって言うべきか……けど、もうお前を傷付けさせやしねぇから」

 だから眠れ、と大きな手の平が目元にあてられる。

 「れ、お」

 どうしてこの場所が分かったのか、どうして優しい瞳を向けてくるのか、聞きたいことはたくさんある。

 しかし目元を中心にして全身にレオの体温が伝わっていき、それまで懸命に繋ぎ合わせていた意識がふつりと切れた。



 
 ◆◆◆




 マナが泣きながら『アレンが戻ってきた』と言いに来た時は驚き、半ば強制的に机に向かわされていた手を止めて部屋へ向かおうとしたものだ。

 しかしレオのすぐ側で控えていた老年の獣人──スティルが、眉間に皺を寄せて言ってきた。

『あのいやしい獣人よりも、書き物の方を早急に進めるべきです。貴方様が不在の間、ブライト殿がどれほど公務を変わってくれたか……よもや無下にするおつもりか』

(本当によく喋るジジイだ)

 レオは心の中で悪態を吐く。

 確かにスティルの言う通り、城にいない間は基本的にブライトを影武者にして街へ出向いていた。

 どうしても城を出られない場合を除き、ブライトは二つ返事で引き受けてくれている。

 それをありがたいと思いこそすれ、こうしている間にもアレンはあの部屋で一人で待っている。

 自分が部屋から勝手にいなくなってしまい、レオに怒られやしないか不安なはずなのだ。

 事実、アレンがどこに居るのか把握していたから、あまり大事にはしたくなくて周囲には黙っていた。

 スティルの小言なら後でいくらでも聞くつもりだが、何であれ今はこの執務室から離れることが最優先だった。

 アレンが無事に空き部屋に入ってからしばらくして、巡回をしていた衛兵に肩を貸されて執務室へ来たが、かれこれ五時間以上机に向かっている。

 否、後からやってきたスティルに無理矢理留めさせられている、と言うべきか。

『ブライトには感謝してるが、それとこれとは別だ。すぐ戻るから、その間はマナに相手してもらってろ』

 はぁ、と小さく息を吐くとマナの肩をぽんと叩いて執務室から出ようとする。

『え、陛下!?』

『ホゥッ!?』

 唐突に自身の名前を出され、マナだけでなく少女の肩に乗っていた白いフクロウも驚いた声を出す。

『陛下、いいのですか!? 貴方様はまた、別の者に押し付けようと──』

 スティルの金切り声を右から左へ聞き流しながら、扉を締めると同時にアレンの待つ部屋に走った。

『え、レオ……あの』

 果たしてアレンはベッドに横になっており、こちらの姿を認めると驚きで目を丸くしていた。

 その顔を見た途端、やや強引にベッドへ片膝を沈ませると、アレンの細い身体を抱き起こして抱き締めた。

 顔を見たのは実に五時間ぶりだが、年甲斐もなく泣きそうになってしまったのは言うまでもない。

 もしもあのまま部屋に戻って来なければ、偶然を装って迎えに行くつもりだった。

 しかしこうして戻ってきてくれ、まっすぐに顔を見てくれただけで声が震えるとは情けないと思う。

 それからどれほど経ったか、アレンを街へ帰すと伝えた。

 結果的にその時は了承が貰えておらず、しかし好きだと伝えるつもりはなかったのだ。

 何度か好意を伝えようとした時もあったが、あまり言ってはこれまでの信頼すらも無くなってしまうと思い、怖くて言えなかった。

 それ以前に何度も泣かせ、手酷い事もしてしまったから。

 だから慌てて自分が出来る精一杯の許しの言葉を唇に乗せ、一旦は部屋を出ようとした。

 憤怒の形相で待っているであろうスティルの待つ執務室へ、内心は嫌悪感でいっぱいだったが、マナとティアラが必死に相手をしてくれているから。

 そんな一人と一羽のためというのもあるが、これ以上ここに居てはアレンの身体を思うさま貪りたくなってしまう。

 けれど焦りもあってつい口が滑り、アレンを城から出すという言葉に続いて母を──否、『本当の』アレンの母親の姿を言おうとした時に遮られた。

 こちらとしては途中で止めてくれて幸いだったが、どうしてかアレンは聞きたくないように見えた。

 そもそもアレンは母親が殺された現場を見ていないようで、目撃者らしい獣人もいないという。

 アレンを部屋に閉じ込めている間、それとなく息の掛かった従者や衛兵達に街の聞き込みをさせたが、やはり有力な情報は得られなかった。

 ただ、母親の過去に関して驚くべき話を摑み、アレンに教えるには早い方がいい──そこまでを瞬時に考えて、口を開こうとした矢先のことだ。

 まだ何も言っていないのに、アレンは城から出たくないとも取れることを言ってきた。

 それだけでなく、こちらの好意に懸命に応えようとしてくれている。

 まっすぐに見つめる瞳が眩しくて、つい顔を背けてしまったがアレンは諦めなかった。

 むしろ『自分をどうしたいのか知りたい』と言ってくれ、言わせている気がして申し訳なく思ったものだ。

 曖昧な返事なのは、ほとんど自己防衛に過ぎない。

 それ以上にアレンの口から聞きたくなくて、言わせたくなくて、己の本能の赴くまま口付けた。

 言葉とは裏腹に身体は従順に官能を享受してくれ、このまま抱きたい衝動をありったけの理性を掻き集めて部屋を出た。

 執務室へ戻ると、スティルは文字通り怒り狂った。

 マナは小さなフクロウを抱えて早々に退散したため、それもあってかスティルの声は普段よりもよく響く。

 何を言っているのか一つも分からず、適当に聞き流すとまた声高に同じことを繰り返すのは慣れている。

 しかし他のことは許せても、アレンをけなす言葉だけはどうも駄目だった。

『──うるせぇ。俺のことはなんだって言ってくれて構わねぇ。だがアレンだけは悪く言うな』

 目の前の老臣に摑み掛かりたいのをぐっと堪え、ぐるると喉奥で威嚇する。

 身体にはまだアレンの温もりが残っており、それも手伝ってなんとか耐えている状態だ。

『……本当に哀れな。よもやここまで変わってしまわれるとは』

 ふぅ、とスティルが呆れたように溜め息を吐く。

『はぁ?』

 言葉の意図が見えず、レオは不機嫌な表情はそのままに眉間に皺を寄せる。

 喧嘩なら喜んで買うが、また刺激してスティルの話が長くなるのは避けたい。

 レオが苛立ちを隠さずむっつりと黙り込んでいると、やがてしわがれた声でスティルが言った。

『いいえ、こちらの話です。お話通り本日より書き物の量を増やしますが、構いませんね?』

『……おい待て、了承するなんて言ってねぇぞ』

 そのまま執務室を出ていこうとするスティルの背中に、慌てて声を掛ける。

 今ですら確認やサインをしていない書簡が多く、そう狭くない机を埋め尽くす勢いなのだ。

 むしろアレンの元に居る間に増えているのではと錯覚し、ここから少しでも追加されると自身がやるべき事は膨大だった。

 スティルのことだから、睡眠はもちろん食事の時間すら惜しいと言って少しも休ませてくれないだろう。

 ブライトに手伝ってもらいたくとも、スティルの息の掛かった部下が監視しているるのは明白だ。

 気のいい双子の弟のことだから、兄の下へ行こうとしてももっともらしい理由を付けて足止めをしてくるはずだ。

 そうでなくとも味方が数少ないことをこれほど呪った日はなく、なのに何も言い返せない自分が悔しい。

『貴方がしっかりと聞いておられないからです。まずはその性格を直した方が身のためかと』

 背中越しに振り返ったスティルは、細い目を更に細めて笑っていた。

 それに呼応して尻尾も楽しげに揺れており、レオはぎりりと奥歯を噛み締めて耐える。

 事実、ほとんど聞いていなかったからスティルの言葉に言い返せないのだ。

(アレンにしばらく来れないって言って正解だったな)

 可哀想なことを言った自覚はあるが、戸惑ったような瞳を向けてきたのはしくじったかもしれない。

 悲しい顔をさせたくも、また寂しい思いをさせたくもなかったのだ。

 しかし、すべては自身を玉座から引き摺り降ろそうとする脅威からアレンを守るためで、仕方ないことだ──そう、自身に何度も言い聞かせた。
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