黒豹陛下の溺愛生活

月城雪華

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五章

交わる気持ち 3

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「っ……!」

 ばしゃ、と顔に冷たい何かを掛けられ、アレンはかっと目を見開いた。

 けれどすぐに追撃がやってきて、大きな飛沫を上げてアレンの顔だけでなく身体を濡らしていく。

 どうやら顔から冷水を浴びせられたようで、自分を中心に周辺が濡れているのが視界に入った。

「ひ、っ」

 しかし水を浴びたと理解したのも束の間、今度ははっきりと身体の奥まで冷たさを感じて、反射で悲鳴を上げそうになる。

 ただ、それが声になることはなかった。

(なんだ、これ……!?)

「うゔ……! ぐぅ……っ!」

 話せないように縄を噛ませられているらしく、唇からはくぐもった声しか出ない。

 加えて手足もきつく縛り付けられ、どんなに力を込めても余程強く縛っているのか、一向に解ける気配はなかった。

「──ああ、これはすみません。起きるとは思わなくて」

 謝罪してくる口調とは裏腹に、水よりも冷たい声が頭上から響く。

 アレンはぼんやりとした視界の中、声のした方へ目を向ける。

 そこにはアレンの頭から爪先までじっと睥睨へいげいする、大柄な獣人が長い脚を組んで椅子に座っていた。

 こちらを汚いものでも見るかのような瞳は、目が覚めるほど青い。

 青みのかった銀髪を一つに纏め、異国の地を思わせる襟の詰まった赤い衣服には、金糸銀糸の刺繍がこれでもかと施されていた。

 耳には小さな切れ込みがあり、何より右目からその頬にかけて大きな切り傷があるのが印象的だ。

(このひと……!)

 目の前の男が誰なのか理解した瞬間、アレンは驚愕で大きく目を瞠った。

 つい先日、アレンが部屋から逃げ出した時に偶然会った獣人なのだ。

 子どもの背後に控えていた、五人の獣人の中でも年若い──アルフェルという男だった。

 その時は逃げようとするアレンの手助けをしてくれたかに見えたが、これはどういうことなのだろうか。

「何があったのか分からない、という顔ですね。他の者よりも実に分かりやすくて助かります」

 城には偏屈な方々が多いですから、とアルフェルはさも楽しげに続ける。

 その声音とは裏腹に、瞳の奥は少しも笑っていなかった。

 むしろ視界にも入れたくないというように、時折目を逸らす仕草をするのは鈍感なアレンでも分かる。

 自身がスラムから来た獣人だと知っているから、侮蔑するような態度を取るのだ。

 あの日、初めて会った時もそうだった。

 口では優しい言葉を吐いていても、腹の底ではこちらを軽蔑している。

 それが表に出ないだけありがたいと思っていたが、こうも真っ向から嫌悪感を露わにしてくるとは予想していなかったのだが。

 同時に時々スラムにやってくる、美しい装飾に身を包んだ獣人とは訳が違うと理解した。

 その男はボロ布を纏うアレンや子ども達にも快活に接してくれ、またおさである年嵩の獣人に対しても同じ態度を取った。

 あまり話さず無口だと言われている長は、都から来たらしい獣人にだけは淡い笑みを見せる。

 そうでなくともアレンを含めたスラムの者全員が、獣人のことを好きだった。

 アルフェルのように嫌悪する素振りも、また語気を強めることもなかったように思う。

「……ここまで言っても、どうやらご自分の立場が分かっておられないようだ。今の貴方は、笑ってしまうほど滑稽な姿をしているというのに」

 静かで落ち着いた声が部屋に響く。

 その言葉通りアルフェルの口角は上がっており、しかし縄を解いてくれる気はないようだ。

「んー! ゔぅ……!」

(なんでこんなことをするんだ。俺が何をしたっていうんだよ!)

 自分はただ、母を殺した獣人を見つけ出すために都へ来ただけだ。

 それが今やこの国の王に半ば連れ去られ、こうして一ヶ月ほど城に居る。

 一人は都へ来てすぐの頃に気を許した相手から、もう一人は初対面も同然の相手から、二度も監禁のような事をされているのだ。

 加えて今回は何が何やら分からず、レオ以外の獣人に手酷い事をされると誰が思うのだろうか。

「縄を解いて欲しいですか?」

 アルフェルはにっこりと笑みを浮かべ、椅子から立ち上がると横たわっているアレンの傍に腰を下ろした。

 間近で見た青い瞳は感情がなく、なのに言葉の節々は先程とは違って軽蔑している口調で、その声音はどこまでも冷たい。

 最早侮蔑を微塵も隠す気がないようで、いっそ清々しかった。

「──私が今から言う条件を呑んでくれたら、貴方を無事に解放しましょう」

 不意にアルフェルがやや声高に言い、反射的にアレンは獣人を見上げた。

 青い瞳は細められているが、依然として瞳の奥は笑っていないため、得も言われぬ不気味さがあった。

「貴方にとっても良い事ですよ。……きっと、ね」

 アルフェルはわざと耳にこびり付くような、甘い声を吐く。

「っ……?」

 その怖気を感じこそすれ、まともに男の顔を見れず、ふっと瞼を下げる。

(いい、こと……?)

 自分にとって特になることと言えば、城から出ることと母を弑した獣人を見つけ出すことだ。

 アルフェルが何を言わんとしているかが分かる気がして、しかしこの考えが合っているかどうかすぐには信じられない。

 無理難題を吹っ掛けられ、後になってこの男に殺される事も十分にあり得たのだ。

 アレンの動揺を悟ったのか、アルフェルがくすりと小さく笑う。

「何も怖がることはありません。手荒なことはしないと約束しますから」

 そこで言葉を切ると、アルフェルは不気味なほど穏やかな声で言った。

「勝手で申し訳ありませんが、少し貴方のことを調べさせてもらいました。こちらへ来てからずっと探しているという、とある獣人についてです」

(まさか)

 どくん、と心臓が大きく高鳴る。

 予想が当たったということはもちろん、どれほど探しても件の獣人に関する情報がなく、聞き込みをしても有力なものはなかったのだ。

 それをアルフェルが知っているとなると、喉から手が出るほど欲しいものだった。

「本当は内密なのですが……我が王なのです」

「っ、う……?」

 何を言っているのか、すぐには理解が追いつかなかった。

 アルフェルの言う王というのは即ちレオを指す。

(レオが……?)

 それが顔に出ていたのだろう、アルフェルが殊更ゆっくりと続ける。

「貴方の母君を殺したのは、我が国の王──貴方を城に連れてきた、ベイナード様なのですよ」

(な、っ……!?)

 耳を疑う、とはこういうことを言うのか、と場違いなことを思う。

 その名はレオが臣下達から呼ばれていたもので、しかしアレンには『ベイナードと呼べ』とは一度も言わなかったのだが。

「ああ、でも民にはレオと名乗っているんだったか」

 忘れていたな、とアルフェルがひと事のようにくすくすと笑う。

 その表情は実に楽しげで、なのに瞳の奥は更に冷え切っていて空恐ろしさに拍車を掛けていた。

「……驚いたでしょう? だからどんなに探しても見つけられない訳だ、と」

「っ、う」

 そんな訳がない。

 レオは出会った時から心優しくて、最後に顔を合わせた日も『必ず母親を見つけ出す』と約束してくれたのだ。

 昏倒させられて城に連れてこられた時は酷い男だと思ったが、レオの言葉に嘘偽りは無いのだと今ならば分かる。

(レオはそんなことしない……!)

 けれど都へ着く前に聞いた話とレオの特徴は少なからず一致していて、レオを信じたくても本当の意味では信じられなかった。

 そもそもアルフェルの言葉に耳を貸さなければいいだけだが、塞ぎたくても手は縛られている。

 せめてもの抵抗をしたくて、アレンはぎゅうと強く瞼を閉じた。

 けれどアルフェルはそんなアレンを嘲笑あざわらうように、尚も楽しげに声を放つ。

「そこで貴方と取引をしたいのです」

「っ!」

 言いながらアルフェルはアレンの顎を強く摑み、強引にこちらを見つめさせると耳元へ唇を寄せる。

「貴方には陛下を殺して頂きたい」

「ぁ、っ……?」

 目の前が暗くかげっていくのを感じる。
 この男は、今なんと言ったのか。

 なぜそんなにも『楽しそうに』笑っているのか。

「ああ大丈夫、後のことは我らがなんとかしますから」

 アレンが黙っているのを、あまりの驚愕で何も言えなくなっていると捉えたのか、アルフェルが大きく手を広げて更に続ける。

「なので、貴方は心配せず陛下を殺すことだけを考えて頂きたい。……愛する母を殺した相手が、まさか国王などと夢にも思わなかったでしょう?」

 ふふ、と小さく笑うとアルフェルがすっと目を伏せた。

「っ、うぅ……!?」

 同時に今の今まで静観していたらしい大柄な獣人が、横たえられているアレンの背中に伸し掛かる。

 悲鳴が声になることはなく、背中を中心に鋭い痛みを感じて涙で視界がぼやけた。

「そうでなくとも貴方は陛下に監禁されていた身で、ひそかに殺そうと企んでいた。……うん、この筋書きでいいな」

 顎に手をあててぶつぶつと呟くアルフェルの表情は感情が見えず、笑みすら浮かべていない。

(嵌められたんだ……)

 しかしアレンはそこではっきりと、自分の置かれている状況を理解した。

 アルフェルは国王であるレオが邪魔なのだ。

 漠然としか分からないが、目の前の獣人の主は幼い子ども──ルーカスで、レオを蹴落として幼い主を玉座に据えようとしている。

 けれど自分達が大々的に動いてはレオ側に着く獣人に怪しまれるため、アレンをていのいいおとりにしたいのだろう。

 すべての責任は王を殺した獣人にあり、その裏で操っていた自分達はなんら関係ない、とでもいうふうに。

 『後処理をする』と言っているがそれは形ばかりで、後になってアレンを殺して息の根を止めるも同義だ。

 スラムから出てきた田舎者だと舐められ、ここまで良いように使われたくはなかった。

 何より、レオが理由もなく罪の無い獣人を殺したりはしない。

 もしもレオがアンナを殺したというのならば、アレンの口から『ある獣人を探してる』と出た時点で、自分はもうこの世にはいないのだ。

 レオのことはまだほとんど知らないが、どうしてかそんな気がしてしまう。

(レオに……知らせ、ないと)

 この場から逃げようと、アレンは無意識に身体を浮かせた。

「っゔ……ぁ!」

 しかし手足の拘束に加えて、背後にはアレンの何倍もある獣人が伸し掛かっている。

 このままでは逃げたくても逃げられず、口を塞ぐ縄もいつの間にかきつく縛り直されていた。

 飲み切れなかった唾液が顎を伝い、べたべたとして気持ちが悪い。

 一度だけならず冷水を何度も浴びせられたのか、今になって寒さで身体が震えていく。

 爪先から段々と体温が奪われ、身体の中心までも冷え切っていく感覚があった。

 爪先から段々と体温が奪われ、身体の中心までも冷え切っていく感覚があった。

(ああ、そうか)

 寒さも加わって、次第に身体の力が抜けていく。

 今が夜なのか朝なのか、窓が無いためどれほど経っているのか分からないが、こうしている間にも体力はどんどん奪われているのだ。

 なのに頭は冴えていき、やがてある考えが頭をもたげた。

 ──ひとたび気絶したと同時に、自分は殺される。
 もしくは、レオが姿を現したと同時に己の生命は絶たれるのだ、と。

 先程アルフェルが言い聞かせてきたのはあくまで『筋書き』で、本当はレオがこの部屋に来るのを待っているのだ。

 アレンが了承しないことを見越して、あらかじめ抵抗できないように手足や口を利けないようにしたのも、レオが見たら激昂すると踏んだのだろう。

 未だにアルフェルはこちらに向けて何事かを言っているが、最早それは言葉を成しておらず、聞こえてくるのは雑音だけだ。

(おれは、ここで死ぬ……のかな)

 背中や手首が痛み、心も悲鳴を上げている。

 何が本当で嘘なのか考えたくても頭の中は霞がかっていき、次第に瞼が重くなる。

(……死んだら母さんに会える)

 会いたくて堪らなかった母に──優しい笑みを浮かべたアンナに会えるのであれば、死ぬのも悪くないのかもしれない。

(でもレオとは、もう二度と)

 けれどアレンが今一番会いたくて、誰よりも恋しいのはレオだった。

 たとえ自分と同じように殺される運命だったとしても、ひと目でもいいからレオに会いたかった。

 まっすぐに顔を見て、『俺も好き』と言いたい。

 絶対に断られる事はないだろうが、最後に会った時の悲しげな横顔を嫌でも思い出してしまうのだ。

 このまま後悔するくらいならば、最期にレオに自分の気持ちを伝えたい。

 いつでも余裕で、優しい笑みを浮かべては頭を撫でてくれるレオが恋しかった。

「うぅ……ぁあ……っ」

(ごめん)

 痛みとも悲しさともつかない涙が溢れ、床を濡らす。

 レオに対してもアンナに対しても、弱気になっては後悔してばかりで酷く惨めだった。

 何よりセオドアや凛晟りんせいと再会できないまま死ぬのは、どれほど泣いても足りないほどだ。

 短い間とはいえ良くしてくれ、なのにこうなるとは誰が予想出来ただろうか。

 発端であるレオが悪いとは言えないが、あまり責めたくはない。

 すべては肉食系獣人なのに弱い自分が、大柄の獣人に抵抗できない自分が悪いのだ。

 アルフェルのように頭が良ければ、もう少し考えて動いていれば、と思ってももう遅いことなど分かっている。

「──なぜ泣いているんですか、悲しいことなどないでしょうに」

 すると目の前に影が差し、アルフェルの声が響く。

 酸欠に加えて背中の痛みで満足に目も開けられず、しかしこちらに手を伸ばしてくる気配だけは分かった。

(ああ……死ぬんだ、俺は)

 そう思うと視界が暗く閉ざされ、強張っていた身体の力が自然と抜けていく。

「──そこまでにしておけ」
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