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第1幕
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鎌倉街道を南へ。
小手指まで来た。
日は山端へ入りつつも、旅の山伏の姿を、武蔵野の原野を、呑み込まれるほどの高い空を橙色に染め上げていた。
旅の山伏……照隠は、街道に漂う臓腑をえぐるような死臭に、眉を寄せた。その眉も橙に染まっていた。
元弘三年五月二十四日が暮れようとしている。
その暮れゆく時代を、照隠は歩いていた。
敵も味方も死骸になれば同じだった。
顎の力を失くし、口を開けたまま事切れたもの。
矢を浴び、虚空を見つめたまま、死を受け入れる術もなく息絶えたもの。
具足も太刀も奪い取られ、乱れた髪を風に散らしているもの。
槍に串刺しにされ、首を落とされ、それでもあがくように手を差し伸べているもの。
照隠は小声で念仏を唱えた。唱えているうちに、数珠の玉が滑り、数が判らなくなってしまった。
落日は照隠の横顔を容赦なく照らす。丈の高い草が広がる原野のなかで、一人の山伏の細長い影は、もの言わぬ無数の骸に取り囲まれていた。
正面に女の影があった。
女の顔は、かつぎの被り物に覆われ判然としない。わずかに橙に染まった唇が見え隠れしている。
胸に太い筒状の箱を抱えていた。
首桶。
文字通り、人の首を入れる容器である。
女は立ち止まると、面差しを上げた。それでも顔はかつぎに覆われていて、形の良い鼻梁が見えるだけ。
自然と視線が唇に吸い込まれた。
その唇が微かに動いた。
「ここはもう、小手指の辺りでしょうか」
武蔵野に吹く風と違い、瑞々しい透明な声だった。
日暮れの、その武蔵野の乾いた風が、二人の間を梳き通る。
「如何にも」
「たくさんの人が死んでおりますなあ」
たくさんの草が伸びておりますなあ。
女の口調はそういうものだった。
照隠より頭ひとつ低い。
五十前にして、照隠は長身であり、体つきは若い男と比べても見劣らず逞しい。俯き加減の女と比べると、ひときわ偉丈夫に見える。
「十二、三日ほど前になるか。ここで合戦があってな。死者は何百とも何千とも言われておる」
「ここにいる皆は、どちらの家の方々にございましょうか」
女は二、三の骸に目を転じながら、照隠に問いかけた。物見でもしているように、何気のない口調だった。
この無数の骸を前にして。この漂う腐臭を前にして。
「ほとんどが北条の兵であろうな」
「旗もないのに、よくお判りになられますこと」
「何?」
「新田の兵が混ざっているやもしれませんなあ」
女は顎をやや上に向かせて、唄うように言った。ここで起きた戦のことを、まったく知らない訳ではないらしい。
「来る途中、たくさんの亡骸を見て参りました」
「どちらから来られた」
「鎌倉から」
「何と、鎌倉から」
照隠は目を見張った。
ここから南……この死骸の群れの行き着く先に、鎌倉がある。
鎌倉には幕府があって、それを牛耳る北条氏がある。
新田義貞が上野国で倒幕の兵を挙げたのは、五月八日のことだった。西国では、幕府の命で内乱討伐に出陣したはずの足利高氏が、すでに反旗を翻している。
十一日、ここで新田勢は幕府軍と激突した。
激しい連戦の末に幕府軍は敗走。それを追って新田勢は南下していった。その後に続くように鎌倉に向かっているのだから、ここから先のことは照隠も知らない。
そしてこの女は、鎌倉から来たという。
たった一人で、共も連れず。首桶ひとつ抱えて。
「鎌倉は……戦はどうなった?」
「もう終わりました」
「何と。今、終わったと申されたか」
「はい」
女の返答は簡潔だった。照隠は石を踏みしめた。
「して、結果は?」
女は答えず、無言で照隠の脇を通り過ぎていこうとする。
擦れ違う瞬間、女から香の甘い香りが漂ってきた。照隠はそのなかに含まれた、死者特有の暗い匂いに顔をしかめた。
「待たれよ」
振り向いた拍子に、踏みつけていた石が転がった。
照隠は右手の錫杖で地面を強く突いた。
「そなた、人ではないな」
女が振り向くと同時に風が吹いた。乾いた風に乗って、被り物がめくれ、その顔が露わになった。
十八、九の、艶やかな黒髪の娘だった。
左の頬が蝋のように白かった。滑らかで、触れれば溶けてしまいそうだ。
右の頬は夕日を浴びて、燃え盛る火炎のように、原野景色のなかに浮かび上がっていた。
照隠の口から思わず息が漏れた。見惚れてしまったのだ。
風が吹き、娘の髪が揺れ、顔に無数の綾を作った。夕日と、黒髪の綾を。
「人の美しさではない」
錫杖を握り、その質感で己が理性を保った。そうでもしないと、魂ごと吸い取られそうだった。
「そなたは、鬼の類いか。如何なる用あって現世に参った」
「わたしが鬼に見えるのですか」
娘は照隠の鋭い眼光にも動じることなく、やんわりと言葉を返す。
「死者の匂いがするぞ」
「それは、周りの方々の匂いが移ったのでございます」
「わしも未熟ながら山伏のはしくれ。ごまかされやせぬ」
すると娘は、照隠の目をすっと見返した。
「わたしが鬼としたら、御坊はどうされます?」
「知れたことを」
「わたしを殺めますか」
淡々とした物言いに、返す言葉を忘れてしまう。
殺されるはずがないと思っているのか、それとも死を恐れぬのか。
「…………」
娘の胸中に抱かれた首桶に目をやる。
「誰の首が入っておる?」
「我が主の首が」
「ほう。そなたの主とな」
「はい」
娘の唇が、初めて薄笑みを浮かべた。
「確かに御坊がおっしゃる通り、わたしは人ではないのかもしれませんなあ」
「何?」
「我が主に魂を奪われ、鬼と化してしまったのでございましょう」
「主とは、何者なのだ」
「…………」
娘は不意に目を伏せる。その仕草は黄昏に消え入りそうなほど心細く、照隠はにわかに身につまされた。
「子細を話してみよ。困っている者を救うのも、わしらの務めだ」
悪しき鬼ではないのかもしれない。少なくとも、人を取って喰らう類いの邪鬼ではない。
口調が、自然と穏やかになっていく。
だがその心情も、娘の次の言葉で一変してしまう。
「我が主は」
娘は顔を上げ、答えた。
「北条高時殿でございます」
小手指まで来た。
日は山端へ入りつつも、旅の山伏の姿を、武蔵野の原野を、呑み込まれるほどの高い空を橙色に染め上げていた。
旅の山伏……照隠は、街道に漂う臓腑をえぐるような死臭に、眉を寄せた。その眉も橙に染まっていた。
元弘三年五月二十四日が暮れようとしている。
その暮れゆく時代を、照隠は歩いていた。
敵も味方も死骸になれば同じだった。
顎の力を失くし、口を開けたまま事切れたもの。
矢を浴び、虚空を見つめたまま、死を受け入れる術もなく息絶えたもの。
具足も太刀も奪い取られ、乱れた髪を風に散らしているもの。
槍に串刺しにされ、首を落とされ、それでもあがくように手を差し伸べているもの。
照隠は小声で念仏を唱えた。唱えているうちに、数珠の玉が滑り、数が判らなくなってしまった。
落日は照隠の横顔を容赦なく照らす。丈の高い草が広がる原野のなかで、一人の山伏の細長い影は、もの言わぬ無数の骸に取り囲まれていた。
正面に女の影があった。
女の顔は、かつぎの被り物に覆われ判然としない。わずかに橙に染まった唇が見え隠れしている。
胸に太い筒状の箱を抱えていた。
首桶。
文字通り、人の首を入れる容器である。
女は立ち止まると、面差しを上げた。それでも顔はかつぎに覆われていて、形の良い鼻梁が見えるだけ。
自然と視線が唇に吸い込まれた。
その唇が微かに動いた。
「ここはもう、小手指の辺りでしょうか」
武蔵野に吹く風と違い、瑞々しい透明な声だった。
日暮れの、その武蔵野の乾いた風が、二人の間を梳き通る。
「如何にも」
「たくさんの人が死んでおりますなあ」
たくさんの草が伸びておりますなあ。
女の口調はそういうものだった。
照隠より頭ひとつ低い。
五十前にして、照隠は長身であり、体つきは若い男と比べても見劣らず逞しい。俯き加減の女と比べると、ひときわ偉丈夫に見える。
「十二、三日ほど前になるか。ここで合戦があってな。死者は何百とも何千とも言われておる」
「ここにいる皆は、どちらの家の方々にございましょうか」
女は二、三の骸に目を転じながら、照隠に問いかけた。物見でもしているように、何気のない口調だった。
この無数の骸を前にして。この漂う腐臭を前にして。
「ほとんどが北条の兵であろうな」
「旗もないのに、よくお判りになられますこと」
「何?」
「新田の兵が混ざっているやもしれませんなあ」
女は顎をやや上に向かせて、唄うように言った。ここで起きた戦のことを、まったく知らない訳ではないらしい。
「来る途中、たくさんの亡骸を見て参りました」
「どちらから来られた」
「鎌倉から」
「何と、鎌倉から」
照隠は目を見張った。
ここから南……この死骸の群れの行き着く先に、鎌倉がある。
鎌倉には幕府があって、それを牛耳る北条氏がある。
新田義貞が上野国で倒幕の兵を挙げたのは、五月八日のことだった。西国では、幕府の命で内乱討伐に出陣したはずの足利高氏が、すでに反旗を翻している。
十一日、ここで新田勢は幕府軍と激突した。
激しい連戦の末に幕府軍は敗走。それを追って新田勢は南下していった。その後に続くように鎌倉に向かっているのだから、ここから先のことは照隠も知らない。
そしてこの女は、鎌倉から来たという。
たった一人で、共も連れず。首桶ひとつ抱えて。
「鎌倉は……戦はどうなった?」
「もう終わりました」
「何と。今、終わったと申されたか」
「はい」
女の返答は簡潔だった。照隠は石を踏みしめた。
「して、結果は?」
女は答えず、無言で照隠の脇を通り過ぎていこうとする。
擦れ違う瞬間、女から香の甘い香りが漂ってきた。照隠はそのなかに含まれた、死者特有の暗い匂いに顔をしかめた。
「待たれよ」
振り向いた拍子に、踏みつけていた石が転がった。
照隠は右手の錫杖で地面を強く突いた。
「そなた、人ではないな」
女が振り向くと同時に風が吹いた。乾いた風に乗って、被り物がめくれ、その顔が露わになった。
十八、九の、艶やかな黒髪の娘だった。
左の頬が蝋のように白かった。滑らかで、触れれば溶けてしまいそうだ。
右の頬は夕日を浴びて、燃え盛る火炎のように、原野景色のなかに浮かび上がっていた。
照隠の口から思わず息が漏れた。見惚れてしまったのだ。
風が吹き、娘の髪が揺れ、顔に無数の綾を作った。夕日と、黒髪の綾を。
「人の美しさではない」
錫杖を握り、その質感で己が理性を保った。そうでもしないと、魂ごと吸い取られそうだった。
「そなたは、鬼の類いか。如何なる用あって現世に参った」
「わたしが鬼に見えるのですか」
娘は照隠の鋭い眼光にも動じることなく、やんわりと言葉を返す。
「死者の匂いがするぞ」
「それは、周りの方々の匂いが移ったのでございます」
「わしも未熟ながら山伏のはしくれ。ごまかされやせぬ」
すると娘は、照隠の目をすっと見返した。
「わたしが鬼としたら、御坊はどうされます?」
「知れたことを」
「わたしを殺めますか」
淡々とした物言いに、返す言葉を忘れてしまう。
殺されるはずがないと思っているのか、それとも死を恐れぬのか。
「…………」
娘の胸中に抱かれた首桶に目をやる。
「誰の首が入っておる?」
「我が主の首が」
「ほう。そなたの主とな」
「はい」
娘の唇が、初めて薄笑みを浮かべた。
「確かに御坊がおっしゃる通り、わたしは人ではないのかもしれませんなあ」
「何?」
「我が主に魂を奪われ、鬼と化してしまったのでございましょう」
「主とは、何者なのだ」
「…………」
娘は不意に目を伏せる。その仕草は黄昏に消え入りそうなほど心細く、照隠はにわかに身につまされた。
「子細を話してみよ。困っている者を救うのも、わしらの務めだ」
悪しき鬼ではないのかもしれない。少なくとも、人を取って喰らう類いの邪鬼ではない。
口調が、自然と穏やかになっていく。
だがその心情も、娘の次の言葉で一変してしまう。
「我が主は」
娘は顔を上げ、答えた。
「北条高時殿でございます」
応援ありがとうございます!
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