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第2幕
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元弘三年五月八日。上野国で挙兵した新田義貞は、十八日に鎌倉を攻め、二十二日に陥落させた。
幕府の中枢である北条氏……その本家たる得宗家当主の北条高時は、一族郎党と共に東勝寺で果てたという。
照隠はそのことをまだ知らなかった。
「それが、得宗家の首だと」
声が震えている。
由茄は小さく頷いた。由茄とは娘の名である。
「ならば北条は……」
「滅びました」
「まさか」
にわかには信じられない。天下の要害と言われた鎌倉が、簡単に落ちるはずがない。
だが由茄の眼差しを見ていると、偽りを言っているようには見えなかった。
「では、わたしはこれで」
「待たれよ」
背を向けて去ろうとした由茄を、照隠は再び呼び止めた。
まだ訊かねばならないことが山ほどある。
「仮にそれが得宗家の首だとして……それをどうするつもりだ。そもそも、何故そなたがそんなものを持っておるのだ」
「殿の無念が、わたしを死の淵から蘇らせたからにございましょう」
「無念とな」
「わたしも殿と共に死ぬはずでございましたのに」
「そなたは得宗家の縁者か?」
「いえ、お側にお仕えした者にございます」
由茄は、かぶりを振る。
「わたしの命は、すでに殿と共に尽きております。この体は、いわば仮初めのもの。身も心も、殿の無念によって生かされているのです」
「では、わしがその無念を払うてみせよう」
照隠は声を落とし、腹に力を込めた。
突然、重圧が体にのしかかった。
「なっ!?」
全身が空気の壁に押し潰されているようだった。
「おお……」
膝が音をたてて震えだし、立ってさえいられなくなる。念仏を唱えようとするが、声が出ない。
しだいに呼吸もままならなくなり、意識が遠のいていく。
このままでは本当に体ごと潰される。
「おやめください、殿」
由茄の声が遠くで聞こえた。
空気の壁が、不意に消滅した。
「あ…くっ……」
その場に膝を突きそうになるが、照隠は錫杖を支えにして何とか踏み留まった。
「なんと……」
脂汗が滴り落ちた。
「大事ありませんか、御坊」
情けないことに、呼吸が整うまで、返事ができなかった。
「殿がお目覚めになったのです。こちらが騒がねば、すぐお休みになるのですが」
「……凄まじい妖気であった」
荒い息の下から、照隠は途切れ途切れに言葉を漏らした。
「わしの法力ではとても及ばぬ」
よほど恨みを抱いたまま死んだのだろう。恐ろしいほどの怨念を感じる。
「得宗家の首と言われても、得心がいくな」
由茄の言葉の真偽を確かめるつもりが、逆に軽くいなされてしまった。
「これ以上、わたしどもに関わるのはおやめ下さい。御坊の身が危のうございます」
由茄は軽く会釈すると、背を向けて歩きだした。
照隠は両足に力を込めると、その背中に向かって声を張り上げた。
「そのような怨霊を見過ごす訳にはいかぬ」
「わたしどものことは、放っておいて下さいませ」
それが妙に捨て鉢な物言いに聞こえ、照隠は眉を寄せた。
「いったいそなたは、これからどうするつもりなのだ。得宗家の首となれば、新田の手の者が黙っておるまい」
「故郷に帰り、懇ろに供養いたしとうございます」
「そなたの故郷はどこぞ」
「上野の来餅という村です」
「新田の領地ではないか」
「はい」
「たった一人で帰るつもりなのか」
「はい」
そう言うと、由茄はまた歩きだす。
「待たれよ、と申しておる」
由茄は律儀に立ち止まり、照隠の言葉を待った。
「わしも同道させてもらえまいか」
「えっ?」
由茄が振り返った。僅かに困惑の表情が浮かんでいる。
「わしの力では、今すぐそなたを救ってやることはできぬ。だが時をかけて供養すれば、怨霊となった得宗家を成仏させられるやもしれん」
「ですが……」
「仮にも仏の道にある者として、見過ごす訳にはいかんのだ。だいいち、女子一人で行くには道中も心細かろう」
「…………」
由茄は口を閉ざした。
黙りながらも、照隠から目を逸らさない。見つめているのか、見つめられているのか、しだいに判らなくなる。
一陣の風が由茄の髪を掻き上げ、去っていった。
「確かに、御坊がいっしょなら心強うございますなあ」
掻き上げられた髪が、夕日を受けて、再び黒と橙の紋様を織りなしていた。
幕府の中枢である北条氏……その本家たる得宗家当主の北条高時は、一族郎党と共に東勝寺で果てたという。
照隠はそのことをまだ知らなかった。
「それが、得宗家の首だと」
声が震えている。
由茄は小さく頷いた。由茄とは娘の名である。
「ならば北条は……」
「滅びました」
「まさか」
にわかには信じられない。天下の要害と言われた鎌倉が、簡単に落ちるはずがない。
だが由茄の眼差しを見ていると、偽りを言っているようには見えなかった。
「では、わたしはこれで」
「待たれよ」
背を向けて去ろうとした由茄を、照隠は再び呼び止めた。
まだ訊かねばならないことが山ほどある。
「仮にそれが得宗家の首だとして……それをどうするつもりだ。そもそも、何故そなたがそんなものを持っておるのだ」
「殿の無念が、わたしを死の淵から蘇らせたからにございましょう」
「無念とな」
「わたしも殿と共に死ぬはずでございましたのに」
「そなたは得宗家の縁者か?」
「いえ、お側にお仕えした者にございます」
由茄は、かぶりを振る。
「わたしの命は、すでに殿と共に尽きております。この体は、いわば仮初めのもの。身も心も、殿の無念によって生かされているのです」
「では、わしがその無念を払うてみせよう」
照隠は声を落とし、腹に力を込めた。
突然、重圧が体にのしかかった。
「なっ!?」
全身が空気の壁に押し潰されているようだった。
「おお……」
膝が音をたてて震えだし、立ってさえいられなくなる。念仏を唱えようとするが、声が出ない。
しだいに呼吸もままならなくなり、意識が遠のいていく。
このままでは本当に体ごと潰される。
「おやめください、殿」
由茄の声が遠くで聞こえた。
空気の壁が、不意に消滅した。
「あ…くっ……」
その場に膝を突きそうになるが、照隠は錫杖を支えにして何とか踏み留まった。
「なんと……」
脂汗が滴り落ちた。
「大事ありませんか、御坊」
情けないことに、呼吸が整うまで、返事ができなかった。
「殿がお目覚めになったのです。こちらが騒がねば、すぐお休みになるのですが」
「……凄まじい妖気であった」
荒い息の下から、照隠は途切れ途切れに言葉を漏らした。
「わしの法力ではとても及ばぬ」
よほど恨みを抱いたまま死んだのだろう。恐ろしいほどの怨念を感じる。
「得宗家の首と言われても、得心がいくな」
由茄の言葉の真偽を確かめるつもりが、逆に軽くいなされてしまった。
「これ以上、わたしどもに関わるのはおやめ下さい。御坊の身が危のうございます」
由茄は軽く会釈すると、背を向けて歩きだした。
照隠は両足に力を込めると、その背中に向かって声を張り上げた。
「そのような怨霊を見過ごす訳にはいかぬ」
「わたしどものことは、放っておいて下さいませ」
それが妙に捨て鉢な物言いに聞こえ、照隠は眉を寄せた。
「いったいそなたは、これからどうするつもりなのだ。得宗家の首となれば、新田の手の者が黙っておるまい」
「故郷に帰り、懇ろに供養いたしとうございます」
「そなたの故郷はどこぞ」
「上野の来餅という村です」
「新田の領地ではないか」
「はい」
「たった一人で帰るつもりなのか」
「はい」
そう言うと、由茄はまた歩きだす。
「待たれよ、と申しておる」
由茄は律儀に立ち止まり、照隠の言葉を待った。
「わしも同道させてもらえまいか」
「えっ?」
由茄が振り返った。僅かに困惑の表情が浮かんでいる。
「わしの力では、今すぐそなたを救ってやることはできぬ。だが時をかけて供養すれば、怨霊となった得宗家を成仏させられるやもしれん」
「ですが……」
「仮にも仏の道にある者として、見過ごす訳にはいかんのだ。だいいち、女子一人で行くには道中も心細かろう」
「…………」
由茄は口を閉ざした。
黙りながらも、照隠から目を逸らさない。見つめているのか、見つめられているのか、しだいに判らなくなる。
一陣の風が由茄の髪を掻き上げ、去っていった。
「確かに、御坊がいっしょなら心強うございますなあ」
掻き上げられた髪が、夕日を受けて、再び黒と橙の紋様を織りなしていた。
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