8 / 15
第8幕
しおりを挟む
一夜明けて、五月二十六日。
早朝の霧が晴れた頃を見計らい、照隠と由茄は舟で入間川を渡った。
去る十一日、新田勢はこの付近一帯に陣を張ったという。だがそう言われても信じられないほど、辺りは草の匂いと静けさに包まれていた。
この戦場での勝利を皮切りに、新田勢は日の出の如き勢いで南下していったのだ。
向こう岸に着いても、由茄は川べりに立ち尽くしていた。声を掛けようとして、照隠は言葉を詰まらせた。
由茄の背が震えていた。
「殿が、泣いておられます」
由茄の声には、嗚咽が混ざっていた。
「起きたのか」
由茄に抱かれた首桶から、それらしい気配や妖気は漂ってこない。
「どんどん鎌倉から離れていくと、泣いておられます」
細い嗚咽の声が、川風に乗って武蔵野の原野に流れていった。
どんな死骸を前にしても悲鳴ひとつあげなかった彼女が、高時が悲しんでいるというだけで泣いている。
「そこまでして……」
昨日、由茄が宗治丸に連れ去られようとしたときに、首は彼女を守るどころか目覚めもしなかったというのに。
気が付くと、嗚咽の声はやみ、由茄は照隠の目の前に立っていた。
「先へ参りましょう」
毅然とした眼差しが、照隠を促す。涙の跡はもうどこにもない。
二人は歩きだした。
「あの……昨日は危ないところを助けていただいて、誠にありがとうございました」
空耳かと思って、照隠は周囲を見回してしまった。
台地へ上る切り通しの道を、二人は歩いている。
「あのときは気が動転して、すぐにお礼も申し上げられず、ご無礼いたしまして」
由茄が横に並んだ。微笑みを浮かべている。
霧が出ていた訳でもないのに、照隠にはその笑みが、おぼろげにしか見えなかった。手を伸ばしかけて、慌てて我に返った。
「不思議な女子だのう」
知らずに口をついて出た言葉だった。
「不思議でございますか」
「気を悪うされたか」
「いえ」
由茄は胸に抱えた首桶に視線を落とした。
「わたしは鬼でございますから」
「そういうつもりで言ったのではない」
「これはまた……重ね重ねご無礼を」
休養が充分だったので、野山を散策しているように足取りは軽かった。
「御坊は、なぜわたしどもに、ここまで親切にしてくださるのですか」
今日の由茄は、いつになく饒舌である。
「なぜ、と言われても困るのだが」
照隠は喉の奥で唸った。
「苦しんでいる者を救うのは、仏道を歩む者の務めだ」
「ですが我が主は、もはや神仏にも見離されておりましょう」
「そんなことはない。少なくとも、そなただけは救わねばならぬ」
「しかしわたしは……」
「わしが救おう」
照隠はきっぱりと言った。
「わたしの身は、常に殿と共にあります」
由茄の声は穏やかで、揺るぎなかった。照隠は錫杖を握る手に、少しだけ力を込めた。
「なぜそうまでして、得宗家に尽くす。寵愛を受けたという恩もあるだろう。だが何故、得宗家はそなたに取り憑いたのだ」
「……あの日の明け方、鎌倉は新田の放った火に包まれておりました」
幾分間を置いて、由茄はぽつりと語りだした。
「火はすぐに北条の御館にも回ってきました。殿は出陣の支度をなされると、東勝寺へと移られました。側に仕えていた女たちは皆逃がされましたが、わたしはこっそりと殿の跡を追ったのです」
外に出ると鎌倉は火の海だった。
暁の空に紅蓮の炎が舞い上がり、荘厳な鎌倉の町を呑み込んでいた。逃げ惑う人々の声や子供の泣き声、馬蹄や弓の音が飛び交っていた。
「この世のものとは思われぬほど、美しい景色でございましたなあ」
由茄は遠くを見るように目を細め、うっすらと笑みを浮かべた。
その目は紅よりも赤く輝いていた。
照隠は吸い寄せられた。意識が絡み取られていくようだった。
「……ではそなたは、得宗家の最期を見取ったのか」
「それは」
一族郎党の死骸と血の海に囲まれ、高時は座していた。
誰かが火を放ったらしく、きな臭い匂いと火の粉が爆ぜる音が、堂内に弾けていた。
「それは」
高時の首が軽々と飛び、由茄の目の前にころりと転がってきて……。
由茄は言い淀み、目を伏せた。赤い輝きは失せていた。
「詮ないことを聞いた。許してくれ」
「いえ」
由茄はそれきり口を噤んだ。
照隠も何も言わず歩いた。
台地に差しかかる頃から、少しずつ曇り始めていた。鎌倉が落ちたという日も、こんな天気だったような気がする。
早朝の霧が晴れた頃を見計らい、照隠と由茄は舟で入間川を渡った。
去る十一日、新田勢はこの付近一帯に陣を張ったという。だがそう言われても信じられないほど、辺りは草の匂いと静けさに包まれていた。
この戦場での勝利を皮切りに、新田勢は日の出の如き勢いで南下していったのだ。
向こう岸に着いても、由茄は川べりに立ち尽くしていた。声を掛けようとして、照隠は言葉を詰まらせた。
由茄の背が震えていた。
「殿が、泣いておられます」
由茄の声には、嗚咽が混ざっていた。
「起きたのか」
由茄に抱かれた首桶から、それらしい気配や妖気は漂ってこない。
「どんどん鎌倉から離れていくと、泣いておられます」
細い嗚咽の声が、川風に乗って武蔵野の原野に流れていった。
どんな死骸を前にしても悲鳴ひとつあげなかった彼女が、高時が悲しんでいるというだけで泣いている。
「そこまでして……」
昨日、由茄が宗治丸に連れ去られようとしたときに、首は彼女を守るどころか目覚めもしなかったというのに。
気が付くと、嗚咽の声はやみ、由茄は照隠の目の前に立っていた。
「先へ参りましょう」
毅然とした眼差しが、照隠を促す。涙の跡はもうどこにもない。
二人は歩きだした。
「あの……昨日は危ないところを助けていただいて、誠にありがとうございました」
空耳かと思って、照隠は周囲を見回してしまった。
台地へ上る切り通しの道を、二人は歩いている。
「あのときは気が動転して、すぐにお礼も申し上げられず、ご無礼いたしまして」
由茄が横に並んだ。微笑みを浮かべている。
霧が出ていた訳でもないのに、照隠にはその笑みが、おぼろげにしか見えなかった。手を伸ばしかけて、慌てて我に返った。
「不思議な女子だのう」
知らずに口をついて出た言葉だった。
「不思議でございますか」
「気を悪うされたか」
「いえ」
由茄は胸に抱えた首桶に視線を落とした。
「わたしは鬼でございますから」
「そういうつもりで言ったのではない」
「これはまた……重ね重ねご無礼を」
休養が充分だったので、野山を散策しているように足取りは軽かった。
「御坊は、なぜわたしどもに、ここまで親切にしてくださるのですか」
今日の由茄は、いつになく饒舌である。
「なぜ、と言われても困るのだが」
照隠は喉の奥で唸った。
「苦しんでいる者を救うのは、仏道を歩む者の務めだ」
「ですが我が主は、もはや神仏にも見離されておりましょう」
「そんなことはない。少なくとも、そなただけは救わねばならぬ」
「しかしわたしは……」
「わしが救おう」
照隠はきっぱりと言った。
「わたしの身は、常に殿と共にあります」
由茄の声は穏やかで、揺るぎなかった。照隠は錫杖を握る手に、少しだけ力を込めた。
「なぜそうまでして、得宗家に尽くす。寵愛を受けたという恩もあるだろう。だが何故、得宗家はそなたに取り憑いたのだ」
「……あの日の明け方、鎌倉は新田の放った火に包まれておりました」
幾分間を置いて、由茄はぽつりと語りだした。
「火はすぐに北条の御館にも回ってきました。殿は出陣の支度をなされると、東勝寺へと移られました。側に仕えていた女たちは皆逃がされましたが、わたしはこっそりと殿の跡を追ったのです」
外に出ると鎌倉は火の海だった。
暁の空に紅蓮の炎が舞い上がり、荘厳な鎌倉の町を呑み込んでいた。逃げ惑う人々の声や子供の泣き声、馬蹄や弓の音が飛び交っていた。
「この世のものとは思われぬほど、美しい景色でございましたなあ」
由茄は遠くを見るように目を細め、うっすらと笑みを浮かべた。
その目は紅よりも赤く輝いていた。
照隠は吸い寄せられた。意識が絡み取られていくようだった。
「……ではそなたは、得宗家の最期を見取ったのか」
「それは」
一族郎党の死骸と血の海に囲まれ、高時は座していた。
誰かが火を放ったらしく、きな臭い匂いと火の粉が爆ぜる音が、堂内に弾けていた。
「それは」
高時の首が軽々と飛び、由茄の目の前にころりと転がってきて……。
由茄は言い淀み、目を伏せた。赤い輝きは失せていた。
「詮ないことを聞いた。許してくれ」
「いえ」
由茄はそれきり口を噤んだ。
照隠も何も言わず歩いた。
台地に差しかかる頃から、少しずつ曇り始めていた。鎌倉が落ちたという日も、こんな天気だったような気がする。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
0
1 / 4
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる