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第3章 ケットシー編

36 ジュリアンの秘めたる想い

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 翌朝。森の中をジュリアンは歩いていた。

 手には弓、背中には引き抜ける限界まで矢を詰め込んだ矢筒。
 敏捷さを損なわないよう急所のみを覆った革鎧。
 腰には、普段は獲物の血抜き作業にしか使わない短剣と、応急手当の為のアイテムを詰め込んだ皮袋。

 昨日、モンスターに襲われた地点はもっと東で、村に近いこの辺りにはなんの気配もない。
 ジュリアンは、それでも慎重に足音を殺して歩いていた。

 (どうしてマナトは神さまなんだろう)

 自分でも気づかない内に、マナトのことを考えていた。

 突然現れて、十五年間、次期族長候補として男として生きてきたジュリアンの決意を粉々に打ち砕いたマナト。
 
 せめて人間だったら、種族違いだとしても、まだチャンスがあったのに。
 それがどういう種類の感情なのか、今でははっきり認識している。
 最初は分からずに、それを不審者だからと勘違いして、突っかかったりしたけど。今にして思えば、あれは一目惚れだったのだ。

 マナトと話せば話すほど、彼に惹きつけられる。
 最初の自覚は、彼に耳元で笑顔で言えよと言われた時。マナトはアドバイスのつもりでそう言ったのだろうが、密着して耳に息を吹き込まれるようにそう言われて、電気が走るような鳥肌がぞくりと立った。

 自分の中に湧き上がったその感情に戸惑い、マナトが持っていた地図を奪うなんて、子どもみたいなイタズラをやってしまった。
 後悔する気持ちもあったけど、それよりこれでマナトが追いかけてきてくれると思うとドキドキした。
 だけど、いつまで経っても追いかけて来てくれなくて、怒ったのだろうかと気落ちしているところへマシューが来た。

 突然、『友達になって欲しい』なんて当たり前のことを言うから叩いてやって、事情を聞けば、マナトが今すぐ行けと背中を押してくれたと言う。
 マシューがジュリアンを遠ざけようとする行動は、ここ最近特に目立ってきていて、幼馴染として絶対にそんな見捨てるようなことはしないと思いつつも、なかなか気持ちが伝わらなくて悩んでいたのに。
 それを今日会った人間が解決してしまった。

 マナトに返すから地図を渡して欲しいと言われ、断ったのは自分で行って謝ろうと思ったからだ。
 それなのに朝方、マシューに間に入られるのが嫌で窓から忍び込んだジュリアンは、マナトが全然起きてくれなくて困り果てた。

 (人間って、どうやったら起きるの?)

 人間は一度寝たら起きないのかと、誤った認識を植えつけられつつ、マナトの顔を覗き込んで、男なのに美しいその顔に見惚れてしまう。

 ケットシー族の特徴として、男でもしなやかで線の細い華奢な身体をしている者は多いが、マナトのように顔が繊細なのはいない。
 街に滅多に行くことはないが、たまたまバーナードに連れていってもらったときに見た、美人画のようだ。

 (鼻高い。睫毛も長いし。唇も綺麗な形……)

 すうすうと寝息を立てるたび、その唇が微かに動く。ずっとその様子を観察していたら、変に胸がドキドキしてきた。

 (どうしちゃったんだろ、僕。なんかいけないことをしてる気がしてきた……)

 他のケットシーとは雑魚寝することもあるのに、マナトが相手だと調子が狂う。

 (仕方ない、出直すか)

 起きないとは分かっているが、物音を立てないようにそろっと離れようとした時、

「——ルキナ!!」

 ビクッとして思わず耳と尻尾がピンと立った。見れば、寝言のようで、悪夢にうなされてでもいるのか、マナトは酷く汗をかいていた。

 (……ルキナって女の人の名前だよね)

 自分のその考えに、びっくりするほどのショックを受けた。
 そういえば、旅の理由が人探しだったのを今さら思い出した。

 (恋人の名前なの?)

 マナトを叩き起こして、今すぐにでも確かめたい衝動に駆られた。だけど、それでそうだと肯定されてしまったらと考えると怖くて出来ない。

「何やってんだか……」

 ジュリアンは嘆息すると、今度こそ出て行こうとした。その前に大量に汗をかいてるのが気になり、ハンカチを持った手をマナトの額に置いた瞬間。

 ぎゅっとその腕を掴まれた。

「あっ!」

 マナトが起きて冗談でやっているのかと思ったが、目が開いていない。どうやら寝ぼけているようだ。

「ルキナ……つか、まえた……」

 そう寝言を呟いて、嬉しそうに笑うから。
 離してもらおうと奮闘した身体から力が抜けた。

 (もう。仕方なく、ちょっとの間、仕方なくだからね)

 苦しいような嬉しいような複雑な感情を抱えつつ、ここにいられる理由を得て、思わず微笑んだ。
 そして、気づけばマナトの隣で自分も眠ってしまっていたのだ。
 マナトが起きてそれから色々あって、もっともっと好きになっていった。

 昨日モンスターに襲われて、命からがら村に辿り着いたときなんか、マナトの顔を見て『もう死んでもいい』と思ったのは内緒だ。
 マナトの手によって死の淵から掬い上げられたときも、彼が本気で喜んでくれているのを見て嬉しかった。

 もっと一緒に話していたい。もっと身体に触れて欲しい。

 マナトのことを考えるだけで、幸福感が身体を包み込む自分がいる。
 ふわふわドキドキ、まるで熱に浮かされているようだ。

 そんな彼を最後は傷つけてしまった。
 あの怒った顔を思い出すだけで、幸福感が消え、泣きたい気持ちになる。

 (最期くらい、笑顔で別れたかったな)

 思い返せば幼い言動で、マナトを困らせてばかりだったような気がする。
 マナトが笑ってくれたのは、ほんの数えるほどだ。

 ジュリアンが大きなため息を吐くと、思いもつかない方向から声が飛んできた。

「後悔するくらいなら、最初から頼ってればいいのに」

「マナト……。どうしてここに?」

 もう会えないと思っていたマナトが、木の陰から現れて、一瞬泣きそうになった。
 ジュリアンに対して不敵に笑う、ちょっとした仕草にもドキンと心臓が跳ねる。

「地図を返してもらいに来たんだ」

「あぁ、地図……」

 けれど、会いに来た理由が地図だと知って、思わず落胆する。
 あんなにマナトを傷つけておきながら、『ジュリアンに会いに来た』という一言を求めている自分が汚くて嫌になる。

「……地図は狩りのとき族長に知られて取り上げられたんだ。だから、今は手元にない。ちゃんとマナトに返すから安心して待ってたらいい」

「じゃあ、返してもらいに行く」

「駄目だ、約束したじゃないか」

「勝手に行く分には構わないだろ」

「屁理屈だ。僕についてくるな」

 (こんな憎まれ口叩きたくないのに……)

 黙り込んでしまったマナトが、ゆっくりとジュリアンの方へ向かって歩いてくる。
 後ろは村の方向だ。

 (帰らないで! 本当はこんなことが言いたいんじゃない)

 心がジュリアンの言葉と正反対の感情で悲鳴を上げる。

 素直に「心配して来てくれたの?」と聞ければ、もしかしたら、ジュリアンが期待した通りの言葉がもらえるかもしれないのに。
 そこから、「昨日は酷いこと言ってごめん」と謝れるかもしれないのに。

 でも、余計なことを言って、マナトを危険な目に遭わせたくない。
 きっとそんなことを考えることもおこがましいほど、神であるマナトは強いのかもしれない。
 でも正直、神であることはジュリアンには関係ない。
 マナトだから、危険な目に遭って欲しくないのだ。

「…………」

 結局、ジュリアンは沈黙を選択した。
 喋れば何か言ってはいけないことを口走りそうで。

 だが、マナトは立ち去るのではなく、ジュリアンの目の前に立った。

「えっ、何…………ふぎゅっ!」

 無造作に鼻を摘まれて変な声が出る。
 驚いてマナトを見ると、最初に浮かべていたあの不敵な笑みをしていた。

「諦めろ、ジュリアン。
 俺は『ついていかない』なんて一言も言ってない。願い事は、これが終わったら聞く」

 (格好いい……)

 恋は盲目とはよくいったものだ。
 間近で強引に言い切られて、おかしいとは思うのに、頭がぼうっとして何も考えられなくなる。

 (ん? でも、これって鼻摘まれてるから苦しいだけ?)

 まだマナトはジュリアンの鼻を摘んだままなのだ。

「……もうっ、いい加減に放せよ!」

「ああ、悪ぃ」

 鼻声で怒ると、マナトが手を放し、言葉とは裏腹に悪びれもせず笑う。
 その目は赤かった。

 (寝ないで待っててくれたんだ)

 ほわんとジュリアンの胸が温かくなった。
 昨日一日で、マナトが朝に弱いことは分かっている。ジュリアンについていくために、寝ないで待ってくれていたのだろう。
 心配して来てくれたことは間違いない。
 嬉しくて胸がドキドキして止まらなかった。

「ふん。だったら思いっきり凄い願い事してやるからな。覚悟しとけよ」
 
 この気持ちを悟られないように、と思うとまた生意気な言い方をしてしまった。
 
 この件が片付いたら。
 叶わないと分かっていても、自分の本当の気持ちを告げてみようか。
 ジュリアンの気持ちを聞かされたマナトが慌てふためく様子を想像するだけで、幸せな気持ちになれる。

「……まあ、ほどほどで頼む」

 途端に弱気になるのだからおかしい。
 堪えきれずにジュリアンは笑い出すのだった。
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