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第一章 花開くクレマチス

(1)花開くクレマチス その1

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第一章 花開くクレマチス

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 おだやかな時間が過ぎていく。

 浴室の灯りが真っ暗なリビングに淡い光を差し込んでいる。

 寝室のドアも完全には閉まっておらず、リビングに細長い光が洩れている。

 耳を澄ますと寝室から、すーっ、すーっ、と、奏でるようにゆっくりした呼吸音が聞こえる。

「良く寝てる。今日一日、いろんなことあったからね。」

 真野克也は、妻が寝ている横で腕枕をしながら頬に手をあてる。

「んんっ……、克也さぁん……」

 くすぐったように、妻の愛子が目を閉じたまま、克也のあてた手に頬を寄せる。

「幸せだよ。愛子」



『本当、一時期はどうなるかと思ったけど』

 真野克也は、愛子の安らかな寝顔を見ながら、ここ数日の出来事を振り返る。

 会社の良き先輩であり、愛子の元同僚、そして親友でもある山野優菜と過ごした金曜日のアフターファイブ。始まりはそこだった。

 八年間、ずっと隠し続けていた自分自身から放出される強烈な匂い。妻である愛子にさえ隠していたのに。最初に入ったトレーニングジムで一緒に汗をかくことで、いとも簡単にさらけ出すことになり、覚悟を決めた。その後連れて行かれた焼肉店で空腹を満たし、制限していた肉食を思う存分に食べ、酒を飲む。三十代前半なら誰でもやっていることを、自分自身の匂いを消すために、ずっと我慢してきた。その時、優菜に気づかれないように克也は食事中、焼肉の煙のせいにして泣いた。

 そしてその後、優菜の通っている雰囲気の良いジャズバーで、愛子の特別な秘密を聞くことになる。男性の匂い、とりわけ、男女の交わる匂いに敏感に反応し、収集する性癖があるとは……。克也もさすがに驚愕した。

 その時、優菜は言った。

『ふたりは、結ばれるべくして結ばれたのだ』

 しかし、そんな愛子を圧倒的に経験値に差がある自分が満足させることができるのか。それまでの夜の愛子は演技だったのか。克也は自信がなくなり、いま一つ踏み込めなかった。その時優菜が言う。

『この後、試してみる?』

 克也は優菜の発した言葉に乗る形で、愛子が学生時代通っていたとされるラブホテルに入った。そこで克也は優菜の、自分に対する思いを告白される。克也は、
  
  『今日一晩だけでいい』
  
  その言葉に応え、優菜を抱く。優菜は克也から発せられる牡の強烈な匂いに酔いながら意外にも巧みなテクニックで何度も絶頂に導かれ、結果として、一夜を共にすることになる。

 一方で愛子は、その一週間ほど前に隣人の竹屋真奈美、孝夫妻に寝室での自慰行為を聞かれ、それがきっかけとなってうまくいっていなかった夫婦生活についての悩みを打ち明けていた。
  
 愛子の悩みを受けて真奈美と孝は三日後、アダルトグッズのセールスマン、若野雄哉を愛子のもとに訪問させ、欲望のはけ口を作る。愛子は若野の今まで嗅いだことのない匂いに発情し、溜まりに溜まっていた欲望を思い切り解放する。そのことは若野自身から優菜の耳に入ることになり、克也もジャズバーで愛子の性癖を聞かされた時に一緒に知った。このことに関しては、隣人である真奈美が間に入っていることで克也も察しがつき、理解をしていた。

 翌朝、結果的に優菜と一夜を共にした克也は、愛子への言い訳をどうしようと悩みながら、さらけ出された匂いを隠せないまま自宅へ戻る。愛子は帰宅した瞬間、克也自身からする強烈な匂いに驚く。その匂いの秘密については、優菜に散々搾り取られ、疲労した克也が眠りについている間に、隣家の真奈美から詳細に語られた。それを聞いた愛子は、克也が起きて何を話すかを待つことにする。

 夕刻、食事をとりながら愛子は克也の話を聞き、そして愛子も自分のことを話す。お互いに悩んでいたことは、実は障害ではなかったことに、ふたりは心から安堵し、信頼と愛情を取り戻した。

 それまで一度も一緒に入ったことのなかった浴室でお互いの身体を洗い流し、寝室でベッドに横になって、ひと言目に愛子は、

『幸せだよ』

 と、克也に向かって微笑みながら言った。それからふたりは幸せをかみしめるように、愛を確かめるように、何度も、何度も求め合った。

 共に昇りつめて、改めて克也は思う。

 愛子を一生かけて愛し、一生かけて守っていこうと。



 克也は、腕枕を外して愛子を起こさないようにベッドからゆっくりと降りる。愛子が器用に脚で床に落とした布団を掛け直してから、顔を覗き込んで微笑し、頬に軽くキスをする。そして、視線を別の方向に向けると、入口とは反対側の、鏡台等が置いてある壁の方へと音を立てないように静かに歩み寄る。

「さて……、どうしたものかね」

 克也はそう呟いてから白い壁を二、三回、強めにこぶしでコンっ、コンっ、と叩く。しばらくすると、壁の向こうからコン、コンっ、と、ノックを返す音が聞こえた。

「やっぱり、聞いてた……」

 がっくりと肩を落としながら克也はベッドに戻り、愛子に寄り添って布団に入る。
  
 既に夢の中にいる愛子の頭を撫でながら、自宅でするときは、声には気を付けようと、克也は深く心に刻むのであった。
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