虚構の影絵

笹森賢二

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#11 現在と幻

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   ──虚ろなる記憶と。


 人の記憶など曖昧なものだ。絶対と思っていても違っている事がある。大概の事は正せば良いし、曖昧だからといってそれ程困る事もない。
 それは今でもそう思っている。大事なのはそんな事じゃなくて。


 最近は休日になる度に来ている気がする。近所にある神社の一角、何本か太い木が生えている場所だ。そこに何があるのか俺は覚えていない。引っかかる事もない。けれど、俺が幼い頃にこの木を見た記憶も無い。例えば何かの店の位置が昔とちょっと違っているような気がする事はあるが、それでも記憶はある。成長して見え方が変わったとか、実際に地震や増築で変わったとかはあるかも知れない。けれど、何度も歩いた筈のその場所のその一角だけが全く記憶が無い。
「お兄ちゃん、また散歩?」
 視線を向けると三つだか四つ歳の離れた妹が立っていた。
「ああ。なぁ、瑞穂、お前さ、」
「ふふふっ、何回訊かれても同じだよ。ここは昔からこのまま。でも木は少し大きくなったかな?」
 頭を掻く俺の横にすり寄って瑞穂はいつもと同じ笑みを浮かべる。
「それよりお兄ちゃん、私はとってもお腹が空いたのです。」
「はいはい。コンビニで良いか?」
「うん。お兄ちゃんの奢りなら何でも良いよ。」
 苦笑いを顔に張り付ける間に腕を引かれて歩き出す。一度振り返ってみたがそこには同じ風景があるだけだった。


 夜になって雨が降り始めた。明日提出する宿題も授業の予習も済んでいる。時計の針はまだ午前八時に届いていないから後は遊んで寝るだけだと思うけれど、どうにも気が向かない。真っ暗なテレビの画面にも、本棚に並べた本にも、電源が落ちたままのパソコンにも手が伸びなかった。
 頭を掻きむしってみる。
 とりあえずそうさせている原因はあの神社のあの場所だ。しかし誰に訊いても答えは同じだし、俺の記憶は抜け落ちている。
 顎に手を当ててみて、思い当たった。
 父に頼んで、両親の部屋の押し入れの奥から大きなプラスチックのケースを引きずり出した。中には幾つものアルバムがある。カメラに凝っていたらしい父が撮りためたものだ。授業で使うとか適当な理由をつけて三冊程借りた。部屋に持って返り広げてみる。俺の知らない幼い俺が居た。微かに覚えのある面影の友人が居た。少し気にかかる子も居て、こんな顔だったのかと思った。山へ登った写真がある。打ち上げられた海草を広げる子供達が居る。妹も居るが、妙な感覚があった。
「お兄ちゃん?」
 不意に現実に引き戻された俺は危うく椅子から転げそうになった。
「瑞穂か、なんだよ、いきなり」
 妹は頬を膨らませて明らかに不満そうな顔になった。
「何回も呼んだもん。そんなに夢中になって何見てたの?」
「そうか? いや、昔の写真だよ」
 瑞穂はアルバムを覗き込み、今までに見た事のないような顔をした。
「何か、気になる所でもある?」
 ほんの少しだけ部屋の温度が下がったような気がした。
「お前、海に入らなかったんだっけ?」
 写真の中の妹は普段と同じ格好をしていた。
「さぁ? あんまり覚えてないけど、具合悪かったんじゃないかな?」
「ああ、そうだったかな。」
 ぱちんとアルバムを閉じる。それ以上開いている気分にならなかった。
「ふふふっ。変なお兄ちゃん。そんなのが気になるの?」
「うん? まぁ、お前はすぐ風邪ひくからな」
 瑞穂はくすくすと笑い、本棚から漫画本を取り出してベッドの端に座った。
「また風邪ひいたら看病してくれる?」
「いつものこったろ。今更嫌だなんて言わないよ。」
 アルバムを机の端によけてノートを広げる。いつの間にか日課になっていた日記帳だ。俺は何も考えず、ただペンを走らせる。何か強い視線があるような気がしたが、何も応えない事にした。


 夢を見た。俺は砂利を敷いた小道に立っていて、目の前には小さな赤い鳥居と社がある。扉は開いていて、中には狐の像が祭られている。俺は長い間そこに立っていた。


 ある夜、トイレへ行こうと廊下に出ると妹が居た。丁度窓から月明かりが差し込んでいる場所で、その小さな窓を見上げている。声をかけると瑞穂は何事もないかのように俺を見た。
「どうしたの? お兄ちゃんも眠れないの?」
「ああ、喉が渇いてな。」
「ふふふっ。何か作ってあげようか?」
「いいよ。冷蔵庫に何かあるだろうし、最悪水で良い。」
「レモンもハチミツもあるよ? お兄ちゃん、好きでしょ?」
 柔らかそうな笑顔のどこかに妙な感情がある。それを見付けた俺に、瑞穂も気付いたようだった。
「もう直ぐ魔法も解けちゃうね。」
 何故かその言葉が自然だと思えた。
「レモネード、作ってくれ。代わりに今度の休みはどこか連れてってやる。」
 瑞穂は何か不思議なものを見るような顔をした。それは殆ど一瞬で、いつもの柔らかそうな笑顔に戻ってくるりと背を向けた。
「部屋に戻ってて、直ぐに作ってくるから。」
 瑞穂は十分程度で俺の部屋に来た。二人でレモネードを飲みながら短い話をした。珍しくここで眠ると言った瑞穂を宥めながら部屋に帰すともう午前二時を回っていた。明日学校へ行けば次は連休だが、少しだけ眠る事にした。夢を見た。それは恐らく最初に瑞穂の手を引いて歩いた日だと思う。けれど、その瑞穂はもう小学校の高学年程度の背丈をしていた。抜け落ちた記憶と、俺の疑問に対する回答はそこにあるような気がする。けれど、今は未だそれに触れられない。朝の陽射しがもう降りてきている。


「おはよう、お兄ちゃん。」
 優しげな笑みと声とは裏腹にタオルケットは部屋の隅まで投げ飛ばされていた。週末の朝にしては乱暴な起こし方だ。
「また夜更かししてたの? 今日はどこかに連れてってくれるんでしょ?」
 瑞穂の仄かに白いような顔に青筋が浮いているようだった。時計を見るとまだ七時だった。
「ああ、少し考え事がな。先にシャワー浴びるから、少し待っててくれ。」
「うん。分かった。ソーセージはボイルの方が良い?」
「あー……今日は焼いて良いよ。塩コショウは要らないからマスタードを用意してくれ。」
「分かった。お湯は抜いてあるから、シャワーだけしかできないからね?」
 さっさと浴びて来いと言っている。昔少しだけ住んでいた借家ならお湯は沸かさなければないものだったが、今はもう蛇口を捻るだけでお湯が出る。少し何かを考えて止めた。さっさとシャワーを浴びてダイニングへ向かった。父は外出していて、母は洗い物をしていた。
「どうぞ、もう食事してないのお兄ちゃんだけだからね。」
 不満そうに言う瑞穂を見て、母がくすくすと笑った。
「瑞穂、お兄ちゃんだって疲れてるんだから、そんなに頬膨らませちゃダメよ?」
「だってー。」
「頂きます。」
 こんな時は余計な事を言わない方が良い。母も瑞穂も妙に鋭い所があって、言えば言う程俺の立場が悪くなる。
 それぐらいには分かっているのだなと思うと同時に、頭の中にあった何かが弾け飛んだ。
「どうぞ召し上がれ」
 瑞穂がほんの僅か沈んだような声で言った。
「瑞穂?」
 母が不思議そうに瑞穂を見たけれど、俺は何も言わずに味噌汁を啜った。瑞穂が作ってくれただろう俺の知っている味だった。やっぱり、それぐらい分かっていれば、知っていれば良いような気がした。視線を窓辺に外している瑞穂に声をかける。
「散歩してから買い物で良いか?」
 瑞穂は驚いたような顔で俺を見た。
「う、うん。できれば、お洋服。」
「良いよ。あんまり高いのは無理だけどな。」
 瑞穂が今度は少し困ったように微笑んだ。
「あらあら、随分と仲が良いのね。」
 母の声を聞いて瑞穂が俺の目を見た。余計な事を言うと延々と父に対する愚痴を聞かされる。
「そうだね。瑞穂、八時半な。」
「うん。遅れちゃダメだからね?」
 俺は淡々と朝食をかき込み、瑞穂はテレビに視線を向けながらお茶を啜った。母は呆れたようなため息を吐いて洗い物を続けた。手早く食事を済ませ洗面所へ向かい、歯を磨いて髪を整えた。部屋に戻って着替えをして、少し考え事をしていたら約束の時間になっていた。慌てて階段を下ると瑞穂が玄関で待っていた。
「また考え事でもしてた?」
 瑞穂は柔らかく笑いながらそう言った。俺は頭を掻きながら、瑞穂の服装でもう秋になっていた事を思い出した。
「もう秋なんだな。」
「うん。やっぱり季節感は曖昧になっちゃってたみたいだね。」
 その言葉には応えずに違う言葉を吐き出す。
「着物じゃなくて良いのか?」
 瑞穂は俺の目の奥をほんの少しだけ悲しそうに見つめていた。
「うん。始まりは春の、昔の私。終わりは秋の、貴方が好いて呉れる私が良かったから。」
 それ以上は何も言わずに玄関の扉を開けた。どちらともなく手を繋いで、見知った道を歩く。仄かに冷えたような風がそよいでいた。川沿いの道を歩いて、神社の裏手へ入っていく。そこには見覚えない色褪せた色の鳥居と社があった。
「ピンと来ないでしょ?」
 瑞穂が寂しげに言う。
「思い出して欲しくなかったから、一番鮮明な思い出に鍵をかけたの。貴方は色をよく見るから。」
「新緑が眩しくて、赤い鳥居が映えてて、その割に小さい社だと思ったんだ。」
 俯いた瑞穂の手を強く握る。
「毎日来て呉れて嬉しかった。やっぱり、それだけにしておけば良かった。」
 小さな涙の雫が幾つも零れた。
「後悔してるのか?」
 涙を拭いながら瑞穂は首を横に振った。
「記憶が戻り始めた時、すっごく怖かった。もう優しくして貰えない様な気がして。」
「そんな訳ないだろ。」
 そうするには、余りにも一緒にいた時間が長過ぎたのだろう。
「どうかな、お兄ちゃん、優しいから。」
 話しているうちにはっきりと思い出した。瑞穂の涙を拭ってやる。あの春の日、着物姿の少女は、これから七年間の歳月を下さいと言ったのだった。俺はその美しさに見惚れたまま首を縦に振った。
「さぁ、約束の時間です。」
「なぁ、瑞穂。」
 俺の目を見上げた瑞穂が何かを堪えるように顔を顰めた。また涙が零れる。俺はそれを拭う。
「如何してもお別れじゃなきゃダメなのか?」
「私は貴方を騙していました。それで勝手に幸せになっていたんです。それに、これ以上は神様が赦してくれません。」
「そうか。でも、騙してたって一緒に七年暮したのは嘘じゃないだろ?」
 瑞穂が俺のシャツを握り締めた。大切なのはその年数ですらなくて、事実瑞穂がそこに居た事だ。
「ダメです。ダメですよぉ、私、また戻りたくなっちゃう。」
「別に良いだろ。」
 握り締めていた手から力が抜けた。代わりに温かな熱が俺の胸の辺りに寄り添って来た。
「本当に優しい人ですね。でも、本当にそれはダメなので、別の方法を使いましょう。」
 頭を撫でてやる。
「本当にそう思って下さって居るのなら、また逢えます。けれど、もう私は貴方の妹ではありません。」
 それも寂しいように思えたが、他に方法はないらしかった。
「その、妹のままでは困る事も、あるので、」
「どれ位かかるんだ?」
 柔らかな熱が離れて、いつの間にか鮮明な色に戻っていた鳥居の下に少女が立っていた。
「一年後の今日、貴方が未だ私の事を覚えていたのならば、また此処にいらして下さい。」
「分かった。」
「それでは、七年間本当に有難う御座いました。ずっと、幸せでした。」
 瑞穂は丁寧に頭を下げた。
「ああ、俺も幸せだった。」
 涙を拭いて振り返った後姿が徐々に薄れてゆく。それが霞のように消え去った後には秋の風だけが残っていた。


 瑞穂の居ない一年は当たり前のように過ぎた。かつて可愛らしい装飾で溢れていた部屋は殺風景な物置部屋になり、母は父と遅い二人目の子供について話していた。恐らく瑞穂が接した全ての人が同じように暮しているのだろう。俺は、瑞穂の居ない空白のある世界を過ごした。あの後直ぐ、ノートの切れ端に瑞穂の名前と別れた時の日付を書いて机の引き出しに仕舞った。そのお陰か如何かは判らないが、同じように秋風のそよぐ朝、同じ時間のその場所に俺は立っている。
「また考え事ですか?」
 待ち侘びた声と共に社の前に霞がかかり、それはゆっくりと俺に向かって歩いてくる瑞穂の姿になった。少し背が伸びたくらいで、あの日と殆ど変わりない。
「よぉ、久しぶり。」
 俺がそう応えると、瑞穂は助走をつけて飛び込んで来た。なんとか受け止めたものの、瑞穂を抱えたままくるりと一回転してから少しよろめいた。
「怖かったんです。」
 如何やらそれは賭けの様なものだったらしい。
「今日、此の時間に、貴方が此処に居る事が条件でした。」
 もしも瑞穂の事を忘れてしまったら、もしも他に好い人ができてしまえば、事故、寝坊、外せない用事。挙げていれば切りが無い。
「でも、貴方は来て呉れました。また、私に逢いたいと思って呉れました。有難う御座います。嬉しいです。」
 早口でそう言った瑞穂の目からまた涙が零れた。とりあえず拭ってやる。
「随分泣き虫になったな。」
「ええ。きっと貴方が居ないと私はそうなんでしょう。」
 それに、と瑞穂は続ける。
「それはきっと貴方が約束を果たして呉れて居ないからです。」
 少し考えて、直ぐに思い出した。
「ああ、んじゃ、買い物でも行くか?」
「はい。お洋服が良いです。」
 残っていた涙を拭ってやり、手を繋いで歩き出す。
「これからまた沢山一緒に居て下さいね? 秋彦さん。」
 初めて名前で呼ばれたむず痒さからか、それとも単に恥ずかしかったのかは判らないが、俺は只黙ったまま頷いてから足を速めた。

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