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#03 雪女
しおりを挟む──あの日からの。
闇夜に真っ白な雪が降って居た。風は殆ど無い。街灯の中を小さな白が落ちて行く。年が明けて暫く経つ。春は遠いように思えるが、そうでもない。寒さの底は抜けたらしい。二ヶ月もすれば暖かい日も増えるだろう。そうして居るうちにまた夏になる。それも終わればまた冬が。
足を止めた。溜め息を吐く。真っ白に濁ったそれは暫くその場に留まって、けれど気が付けば消えていた。後何度、こんな溜め息を吐くのだろう。冬は、夏は、何度巡って来るだろう。少し笑った。季節は延々と、そりゃ限りはあるだろうが、終わるのは近い未来じゃない。
終わるのは、俺だ。
意味が無いな。煙草を咥えて火を灯す。雪はそれ程多くない。火を消す程では無いだろう。己の馬鹿馬鹿しさと煙を一緒に吐き出す。溜め息と煙は弱くそよいだ風に消えた。いつからだろう。いつまでだろう。俺はどこまでこんな事を繰り返すのだろう。
煙草を用水路に放りながらいつの間にか積もって居た雪を踏んだ。音が鳴った。顔を上げると、街灯が落す光が見える。一人、女が立って居た。長い黒髪に白い和服だった。見知った顔ではない。正月の名残か、平静からそうなのか、不思議な程気にならなかった。簪が足りないな。そう思った位だった。女は光を見上げていた。そういう趣向なんだろう。隣を過ぎて、あばら屋に戻る。水はペットボトル二本に詰めてある。買って来たアルコールをろくに洗っていないグラスに放る。水で薄めて喉、食道と胃まで焼いてやる。
いつから、いつまで。どこまで?
溜め息を吐きながら煙草を咥える。ストーブが室温を一気に上げてくれたから、もう息は白く濁らない。煙だけが漂う。憂鬱なんだろう。退屈なんだろう。妙にあの女の横顔が頭を過ぎった。こんな時間に立っている位だから、近所の娘なんだろう。どうでもいいか。どうでも、良いだろう。
翌日は晴天だった。温度は低い。外は凍り付いて居るのだろう。音が聞こえない。風も弱いようだ。簡単に朝食を作り、今日を確認する。大した用も無い。ゴミは昨日出したし、家族やペットの類もない。食材も足りて居る。仕事も生活も問題は無いようだ。短い時間で支度を済ませ、外に出る。夜に降った所為だろう。雪は柔らかく、足を引き摺れば飛び散った雪にやや乱れた後が残る。いつもなら自転車で向かう職場へ徒歩で向かう事にした。これでは自転車を漕ぐ方が辛い。深く積もれば雪質は関係ないだろうが。そう思いながら光を落した街灯を見上げた。あの娘は、一体何を見て居たのだろう? 関係ないか。
午前の業務は順調に終わった。昼は会社にある食堂で済ます。天引きして貰えるから楽なもんだ。
「ほぉ、この平地に?」
皆川が箸で宙に円を描いた。少し年下だった筈だが、落ち付いた、頼れる女性だ。短く切った髪を茶色に染めて居る。
「ああ。まぁ、偏屈な奴が居た、ってオチだろうがな。」
「ふむ。でも、妖怪、ってのはね、そう云うモノなのだよ。」
皆川は妖怪の類に明るい。進んで話す事は無いし、他の趣味もあるから孤立してる風ではないが、口調と鋭い目つきも相まってややとっつき難い雰囲気はある。
「まぁ、在るもの、在ったもの、在って欲しいもの。それが妖怪の正体さね。」
「ざっくりだな。」
皆川の箸が格安のトンカツを挟んだ。
「そうだね。でも、外れではないよ。しかし、雪女と言えば山や、少なくとも山村だねぇ?」
意味のある事では無いのだ。
「貴方がそう言うなら良いけれど、ねぇ?」
俺にも少しぐらいは知識がある。雪女と言えば、雪山、或いは寂れた、暮らす事さえ苦労しそうな山村。吹雪けば明かりさえ見えないような夜に、真っ白な着物姿で立つ、色白の女性、だろうな。
「うん。まぁ、妖怪なんてのは古めかしい所に出るイメージだがね。意味はあるのサ。」
さくり、さくり、トンカツが咀嚼されて行く。
「見間違い、聞き間違い、本物、或いはそう信じられる状況そのもの。」
「だね。だから、火の無い所に煙は立たないのだよ。」
真夏の南国に雪女は出ないだろう。
「心当たりは?」
意味は、多分俺がつけるべきなんだろう。
「色恋には疎かったし、居るとすれば。」
「すれば?」
雪の降る季節に死んだ奴が居る。俺は名前さえ知らない。姿なんか、ある筈も無い。そいつは、母の腹の中で死んだ。
「貴方が在ると言うなら、きっと在ると思う。勿論、他の可能性も在るんだけれど。」
皆川はどんな状況でも可能性を捨てない。だから嫌われて居ない。新入社員の簡単な疑問にさえ真面目に可能性の全てを精査する。
「っつってもなぁ。」
「まぁ、未だ一度だろう? 何かあるならまた出るだろう。出なければ有り触れたオチでもつけてやれば良い。」
味噌汁で流す。珍しくインスタントでは無い。
「しかし、ここの社食は良いな。弁当を作る気が無くなる。」
「確かに。元取れてるのか?」
「さぁね。」
その後、残りの業務も簡単に終わった。皆川に絡まれて少し酒を呑んだ。あの娘も話題に上がったが、結局情報量が少な過ぎて何も進展しなかった。
「何かあったら連絡してくれ。」
「ああ、気を付けて帰れな。」
皆川と別れた後、煙草と珈琲を買い足した。酒は、今夜はもう要らないだろう。雪は降って居なかったが昼の陽に融け残った雪は凍って居た。子供の頃、よく転んで居たな。自転車に乗る様になっても、下が凍ってしまえば変わらない。苦笑しながら空を見上げた。見事な星空が広がって居た。
「そうそう。そうやってよく転んでたもんね。」
視線を向ける。この前の女が立って居た。
「ああ、どうも、今晩は。」
「今晩は。気を付けなさいね。貴方は、自分の事は気にしないんだから。」
長い袖を口元に寄せて笑って居た。
「あの、すみません、貴方は?」
「ああ、あれ? 分からない? そっか。寂しいなぁ。」
何を確認して居るのか、白い和服を動かしながら視線を動かして居る。
「お姉ちゃんだよ?」
「は?」
俺の顔が怖かったのか、それは少し身を引いた。
「そうだねぇ、私は慣れたけど、タツは慣れてないもんねぇ?」
竜彦。俺の名前だ。
「貴方は。」
「あ、そうだ。名前名前。タツがつけて? 今じゃなくても良いけど。」
「ユキ、雪美、かな。」
いつまでも、どこまでも、俺はその影を負って行く。
「おおぅ、良いじゃない。ふふっ、今は、そうね、そこまでは困ってないみたいね?」
「じゃあユキが出る意味もねぇだろ。」
まるで少女のようにそれは笑った。
「幸せになってねー。あの子、皆川ちゃん? 良い子よ。他に理由がなければ、」
言いかけた唇を抓んでやった。
「うるせー。」
「……ひっどい。です。」
手を離す。熱は無かった。そういうものなんだろう。
「あんまり心配するな、盆になったら会いに行くから。」
「危ういからねぇ? タツは。まぁ、とりあえずは、かな。」
雪が降り始めた。何時の間に寄って来た雲だろう。
「ふふっ、気紛れなのサ。じゃ、私は行くね。でも、ずーっと、見てて上げる。」
「うっさい。要らん。とっとと行け。」
「はいはい。じゃね。折角何だから、死んじゃダメよ?」
何か。頬に触れた気がした。溜め息を吐く。白く濁った。雪が落ちて行く。まぁ、こんなもんか。
「ほぉ、成程、意味、と言うか、成分はそれだね。」
皆川は悠々と食後の珈琲を飲んでいる。
「成分?」
俺も悠々と食後の珈琲を飲んでいる。
「語弊はあるだろうが、まぁ、成分だよ。」
「そんなもんかねぇ?」
「そんなもんだよ。特に、妖怪と言うならね。」
「霊なら?」
「さて? どうだろうね? 在るとは言えないけれど、無いと証明する事もできない。」
皆川がくるり、スプーンを動かした。
「どっちなんだ?」
「貴方が決めれば良い。私には、恐れ多いよ。」
窓の外へ視線を向ける。春に少し近付いたか。強い風の中、青い空が広がって居た。
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